099.ネイアードとの邂逅
「そうか。留守じゃなくてほっとした」
サロメとは違い、トウマがミュリーシアの言葉を疑うことはあり得ない。
確認のため、険のある瞳をヴァレリアへと向けた。
「ここから先は、俺の……。いや、俺たちの仕事だ」
「……いいでしょう」
ほっとしたように息を吐くジルヴィオとは違い、静かに佇むヴァレリヤからはいかなる感情も伝わってこない。
ただ、二人ともその場から動かないのは同じ。トウマに任せることに、異存はないようだった。
「参ります」
「ああ、頼む」
ノインが巧みにオールを操り、地底湖の中心へとゆっくり移動する。
波も風もなく、音もない。
「話し合い前提ですけど、準備ぐらいしておいてもいいですよね?」
「そうだな。攻撃する気はないけど、俺たちにも身を守る権利はある」
ミュリーシアも、無言でうなずいた。
「それでは。魔力を20単位。加えて精神を20単位。理によって配合し、生命樹の現し身を招請す――かくあれかし」
「魔力を10単位。加えて精神を5単位、生命を5単位。理を以て配合し、排斥の鎖を編む――かくあれかし」
レイナとトウマが、同時にスキルの詠唱を始めた。
緑の聖女のスキルを補助するものと、負の生命力の防御フィールドを展開するもの。
「《ミリキア・レギア》」
「《エボン・フィールド》」
失敗するはずがなく、スキルが発動――しなかった。
レイナのだけが。
普段よりも色が濃い防御フィールドの内部で、レイナが愕然とする。
「どうして……?」
「よもや――」
「あっ? なんだよ? なにもしてねえぞ!?」
連想するのは、ジルヴィオが使用した三つにわかれた燃え上がる目が描かれた、円形の盾。
ミュリーシアが赤い瞳を後ろに控える光輝騎士に向けると、ジルヴィオが露骨に動揺した。しかし、それは計略を見抜かれたからというわけではなかった。以前、膝蹴りを食らったトラウマが蘇っただけ。
「陛下。光輝騎士たちに動きはございませんでした」
「ええ、そうですね。使えないんじゃなくて使えたけどかき消されたような……」
声が出ないのではない。
声は出たが、騒音でかき消された。
聞こえないのは同じでも、原因が異なる。
そんな印象を、レイナは抱いていた。
「俺のほうは、変わりなかった……」
しかし、トウマのほうは違った。
「いや、いつもより手応えがあったな。増幅されたような……」
なぜか、普段よりも強力だった。その証拠に、ダメージを受けると薄くなる《エボン・フィールド》が、今はいつもよりも深い黒になっている。
「こんなことは初めてだ」
「ネイアードが関係……してないわけないですよね」
「分からない。こうなると、記憶を奪うという話をどこまで信用したらいいのか」
「間違いでなくても、それだけではないのかもしれぬの」
夜の海のぞき込んでいるような不気味さ。
のぞいていると思っていたら、のぞかれていたかのような恐ろしさ。
こうしているだけで、全身がぞくぞくするような寒気に襲われる。
「ご主人様、どうされます?」
「みんなには悪いが、ここで退くわけにはいかない」
トウマは振り向くことなく、湖面に視線を固定している。
「共犯者らしい配慮じゃが、無用ぞ」
ミュリーシアが、黒い羽毛扇をぱっと開いた。
「それに、ここでやはり止めたくはなかろうて」
「センパイの頑固さは、とっくに知ってます。ミュリーシアに会うより、ずっと前から」
「僭越ながら、期間だけでは推し量れぬものかと存じます」
「お? 濃厚さも語りますか?」
「語らなくていい」
トウマが、レイナの膝を軽く叩いた。
ちょっとうれしそうに、レイナもトウマの肩を叩き返す。
そんな風に時折じゃれ合いながら、ミュリーシアの直感を信じて地底湖の中心で待ち続ける。
どれだけの時間が経ったのだろうか。
「共犯者」
「ああ。待ち人来たる……だといいんだが」
地底湖の中心から、盛り上がるようにナニカが出現した。
松明に照らされる、黒と緑が混じった不吉な色。
水が流れ落ち、人の形を象った。
それだけ。体型はのっぺりとして、まるでデッサン人形のよう。生物かどうかも、怪しい。
だが、ディテールを見ると逆にあまりにも特異だった。
目と口と鼻と。顔に当たる部分の造型はめちゃくちゃ。
バランスが崩れた、醜悪な福笑いだ。
全身を粘液が覆い。否、粘液で体が構成されている。そして、それが常に流れ落ちている。まるで、皮膚や筋肉が腐り落ちているかのよう。
どろどろで、人の形をしているだけに嫌悪感が先に立つ。
記憶を奪われるというが、この姿を忘れられるのであればむしろ慈悲かもしれない。
「待っていた」
しかし、トウマには関係なかった。
ボートの上で立ち上がり、《エボン・フィールド》越しに醜悪な怪物をまっすぐに見つめる。
「俺は――」
「タチサレ」
トウマの言葉は、割れたガラスを擦り合わせたようなゾワゾワとする声で遮られた。
意味は通じる。
だからこそ、その異質さが際立つ。
緑がかった瞳を細めながら、レイナがため息をついた。
「話には聞いてましたけど、ここまでミュリーシアの言う通りとは思いませんでしたね。その上、話をする気がまったくないと来てます」
「玲那」
「タチサレ」
再びの警告。
けれど、どんなに嫌がられても言う通りにするわけにはいかなかった。
「ここで帰るぐらいなら、そもそもここに来てはいない」
「…………」
粘体の醜悪な怪物が押し黙った。
つまり、話が通じるという証拠だ。
トウマは、心が軽くなるのを感じた。
恐ろしいのは、モンスターのように話が通じないこと。
言葉が、思いが通じるのであれば突破口はある。
稲葉冬馬は、死者とも言葉を交わす死霊術師なのだから。
「チカヅクナ」
「……分かった。これ以上近付くと、記憶を失うんだな?」
「…………」
またしても無言。
それは、肯定に他ならない。同時に、無闇に記憶を奪っているわけでもないという証拠だった。
「まず、確認させて欲しい。あなた方はネイアードと呼ばれる種族。それで、間違いないだろうか?」
「…………」
「俺は、稲葉冬馬。光輝教会に召喚されて地球――異世界から来た人間だ」
不気味で醜怪な粘体は答えない。
「だが、今は光輝教会とは袂を分かっている。死霊術師のスキルを利用され、死霊術師ということで殺されそうになったからな」
まるで手応えがない。独り言のほうがまだましな状態で、それでもトウマは語りかける。
「そこを、ここにいるミュリーシアに助けられた。今まで誰にも言ったことはないけど、めちゃくちゃうれしかった」
「その感想はいらんじゃろう?」
思わずといった調子のツッコミにも、ネイアードは反応しない。
「そして、今はある場所で国を作ろうとしている。誰も、虐げられない。望むなら人間でも“魔族”でも受け入れる。そんな国だ」
本人は意識していなかったが、国のことを語っているトウマは誇らしげに笑っていた。
それに気付いたミュリーシアが、黒い羽毛扇で思わず口元を隠す。
「…………」
一方。ネイアードは聞いているのか、いないのか。判然としないが、遮ることはなかった。
「とはいえ、まだまだだ。人口も少ない。良く言っても、村ぐらいの規模だ」
「そもそも、人口の九割はゴーストですけどね」
「助かっているよ。そう、みんなの協力のお陰だな。なんとかやっていけているのは……って、話が逸れたな」
小さく咳払いをして、トウマは再び《エボン・フィールド》の向こうにいるネイアードをまっすぐに見つめる。
確かに、彼の美的感覚でも醜いとしかいえない。
けれど、ネイアードからしたらこちらも見るに堪えない容姿なのかもしれない。
そう思えば、お互い様。押しかけている分、こちらのほうが悪い。
だから、嫌悪感はなかった。
「そして、異界の神の神命を受けて俺たちはここにいる」
「…………」
「人間よりも先に、ここにいたのかもしれない。だけど、光輝教会はそちらを排除するつもりだ。俺たちには、移住を受け入れる意思がある」
ついに核心。
トウマは、熱が入りそうになるのをこらえて。努めて冷静に、語りかける。
「すぐにとは言わない。だけど、俺たちの提案を検討してくれないだろうか」
「コトワル」
だが、その結果は拒絶。
たった一言で、今までの言葉はすべて切り捨てられた。
「俺たちが信用できないのは理解できる。でも――」
それでもなお、トウマが口を開き掛けたその時。
「共犯者ッ」
ミュリーシアが、トウマの肩を掴んだ。
その直後、地底湖。いや、この地下空間自体が不気味に震動を始めた。




