098.地下の旅路
不意に、地下水路の水が大きく波打った。
トウマとレイナは、テレビで何度も見た津波の情景を連想する。
湯船から溢れ出る水を数百倍数千倍にしたような勢いで、地下を目指していた船が木の葉のようにあおられた。
「しっかりと捕まっていてくださいませ」
しかし、ノインは冷静だった。
小刻みに、時に大胆にオールを操って船を落ち着ける。
ただの借り物。特別なところはなにもない、ただのボート。
それが転覆せずに済んだのは、ノインの操船技術の賜物だろう。
「ノイン、助かった」
「なんで当たり前みたいに操縦してるんです? しかも、めちゃくちゃ上手いんですけど」
「メイドですので」
ノインは多くを語らず、目礼をするに留めた。
まだ、事態は解決していない。
「うっぷ。酒以外のもんで酔うのは、オレのポリシーに反するんだが……」
「ジルヴィオ、なにが起こっている?」
「あー。前衛が、モンスターかなにかに遭遇したんだろ? いくら駆除しても沸いて来やがるからな」
「ふむ。では、光輝教会のお手並み拝見と行こうではないか」
「シア……。分かった、そうしよう」
レッドボーダーを手にしたまま、トウマはゆっくりうなずいた。
最近、開発を始めた負の生命力を近接戦闘に活かせるスキル。それが実用に耐えられるならば別だが、今のところは理想郷のように遠い。
そもそも、連携などできないのに出しゃばっても混乱を招くだけだ。
「|平和は我らとともにあり(フリーデン・ミット・ウンス)」
遠くから、光輝教会の聖句が聞こえてくる。地下水路で反響して、厳かな雰囲気すらした。
信者にとっては、恐らく勇気づけられるであろう。
しかし、トウマは幾人が無事でいられるかという不安しかない。
本音で言えば、誰にも怪我をしては欲しくない。しかし、手を出す場面ではないことも分かっていた。
他人の領域に土足で踏み込むのは良くないことだ。自分が、なんでもできるヒーローだと錯覚してしまいそうになる。
「ヴァレリヤがいるんですし、滅多なことにはならないですよ」
「そうだな。なんか、変身してたしな」
「変身? ああ、異界の神の祝福を受けた姿かの。副団長ということであれば、できて当然であろうな」
沈黙。
そして、視線が前のジルヴィオへと視線が集まる。
「へいへい。神託鎧装を賜れるのは、光輝騎士でも特に信仰心に溢れた実力者だけですよ」
「信仰心、か」
「見るからに、そこは欠けておるの」
「むしろ、なんで光輝騎士になれたのかって話ですよね」
「あー。終わったみてえだな」
ジルヴィオが大きく手を叩き、地下水路に反響する。
あながち、ごまかしとも言えなかった。
実際、地下水路のさらに奥から眩い光が溢れ出て、震動が水路そのものを揺らす。
沈黙。
しばらく待つが、なにも起こらない。
勝ちどきのひとつも起こらないが、戦闘が終わったのだ。
「スピードを上げるぜ」
「ノイン、頼む」
「お任せを」
元々、地下へと流されていた。
ノインが巧みにオールを操って、その流れを加速させる。
変わらず、薄暗い地下水路。まるで奈落へ落ちていくかのよう。
「イザナギとイザナミの神話みたいですね」
「帰り道には気をつけよう」
途中、負傷した兵士たちを乗せて地上へと戻る船とすれ違う。
レイナが緑がかった瞳で、トウマの横顔をじっと見つめる。そして、ふっと軽く息を吐いた。
「……仕方ないので、致命傷を受けている人だけはあたしが引き受けますよ」
「いや、問題ない」
ジルヴィオは、あっさりと断った。
「ああ、そうですか」
義理というよりは、トウマへの配慮だったからか。レイナはあっさりと手を引いた。
それに、それどころではなくなったというのもある。
船が進んだ先。
地下水路を塞ぐように横たわっているモンスターの死骸。いや、死骸が残っている以上、モンスターではなくただの巨大化した生物。
それは、黄金色に輝く虫だった。
水路を塞ぐほど巨大な、黄金色に輝く虫だった。
「これ、色はあれですけどゴキ……」
「分かっているなら、言わなくていい」
さすがに顔を背け、その間にボートは名を呼ぶのも憚られる巨大な黄金色の虫を通り過ぎていった。
「これは確かに、定期的に駆除しないとダメですね。むしろ、薬とか撒きたいぐらいです」
「それで片が付くか? しぶといだろう」
「なんじゃ、二人して。でかいとはいえ、ただの虫であろう?」
「ああ、シアは知らないのか……」
「それはそうですよね。お姫さまが見たことあるわけないですよね」
「妾を仲間外れにするとはのう」
「この場合、仲間外れで正解だと思うが」
「まったく、その通りでございます」
ぴしりっと、なにかがひび割れる音がした。
それがノインの握るオールだと気付いた者はいなかったが、低く冷たいその声に圧されて誰もなにも言えなかった。
メイドと害虫の関係は、余人が立ち入れる領域にない。
たとえ、森の中にいる同種の仲間が益虫であろうと関係なかった。
「とりあえず、あれを倒せるだけの戦力があるのであれば今後も任せて良さそうじゃな」
「ああ、そうしてくれ。連携もなにもないのに出てこられても面倒なことになるだけだしな」
ジルヴィオらしからぬ正論。
いや、厄介事を避けるという意味ではジルヴィオらしいのか。
レッドボーダーを片手にトウマもそれを受け入れ、船はさらに地下水路を進む。
揺れるたいまつの火。
ゆらゆらとした影。
ごうごうとうなるような水音。
時折強く吹く風。
そして、いつ出てくるか分からないモンスター。
「ホラー映画にぴったりのシチュエーションですね」
「ああ。それに、やっぱりちょっとずつ下ってるみたいだな」
「まさに、行きはよいよいってやつじゃないですか」
「なあに。帰りは妾が運んでやろうぞ」
「その時は、よろしくお願いいたします」
「セーフティーネットがあると思うと、気が楽になるな」
飛ぶのが苦手なトウマがそう言うほど、地下水路は不気味だった。
そしてまた、盛大に地下水路の水が波打った。
「ま、帰りに襲われるよりはマシってもんだろうよ」
「あたしたちは、別に構わないですけどね」
しばらくして、改めて行軍が再会する。
これ以降、似たような遭遇が何度か発生した。
それをすべて光輝教会が処理していくが、当然、脱落者も増えていく。
「随分と、寂しくなりましたね」
「彼らは役目を果たしただけです。それから、治癒を申し出てくれたことにはお礼を言います」
「いいですよ。断られましたしね」
そうなると、必然的にトウマたちとヴァレリヤの船の距離も近くなる。間にジルヴィオを挟んでも、会話ができるほどに。
「ヴァレリヤ。ひとつ、聞き忘れていた」
「こちらに答えられることでしたら」
「ええぇ……」
ジルヴィオがオレを無視するのも挟むのもやめてくれという表情をするが、当たり前のように無視された。
「光輝教会は、ネイアードをどうするつもりだったんだ?」
「排除する。それ以外に、ありますか?」
「そうか」
犠牲は関係ない。
相手の立場も関係ない。
ただ信仰のために、異物を押しのけ取り除く。
「シンプルで……歪んでいるな」
「感想はご自由に」
「なあに、共犯者よ。光輝教会が、こうだから妾たちの存在意義があるというものよ」
「それは、確かにそうだな……」
「ふっ。聖魔連合も、そこまで違いはせぬがな」
「笑い事じゃない」
当意即妙と言うには真剣味がありすぎるツッコミに、会話に参加していなかったレイナがまず噴き出した。
「神命をどのように達成するのか。こちらから口出しすることはありません。それは確約しましょう」
「俺たちに任せるということか」
「どちらかというと、お手並み拝見って上から目線なだけじゃないですか?」
「それでもいいさ」
排除は立ち退きを含めるのか。そもそも、居住環境どころか価値観に違いのあるネイアードと折り合いが付けられるのか。
少なくとも、光輝教会に交渉という選択肢はないようだった。
無視か、それが無理なら排除。それだけだ。
であれば、ミュリーシアが言う通りトウマの。アムルタート王国の出番はあるはず。
トウマの中で、少しずつやるべきこととやりたいことが形を為していく。
そう考えながら、船はまたゆるゆると下っていく。
「ここが終着点のようですね」
たどり着いたのは、地下に広がる湖。
半球状の空間は広く、神秘的ですらあった。
「ここが……」
「とても、ネイアードが好む不潔な環境とは思えないですけど」
「おるな(・・・)」
レイナの指摘を否定する、黒いドレスに身を包んだミュリーシア。
その声音は、まるで不吉を告げる予言者のようだった。




