093.束の間の休息を
「お湯に入って、ゆっくり休めなんてな……」
平泳ぎをするように腕を動かすと、水面に波紋が生まれた。
しかし、当然ながら泳いだりはしない。
ここは、温泉なのだから。
「無理難題どころか、逆に心配されたみたいだな」
ミュリーシアが汲んできた温泉に浸かりながら、トウマは反省していた。
本当に無茶を言われることはないと信じていたが、まさか普通に気遣われるとは思っていなかった。疑った自分が恥ずかしい。
「初めての船旅、カティアとベーシア、モンスターに光輝教会……。いろいろあったからな」
ひとつひとつはそれほどなくとも、連続で累積すればがたが出るのも仕方がない。
それに、船上では体を拭くことぐらいしかできなかった。
それが不満というわけではないが、やはり肩までお湯に浸かると全身から疲労が溶けていくよう。
無事に島へ戻り、温泉に入って、米まで食べられた。
「恵まれてるな……」
いろいろあった。
それは間違いないが、トウマは幸せを感じていた。
「あのときシアに出会わなかったら、どうなっていたか……。まあ、死んでたか」
感謝。ひたすらに感謝。
そんな風に、ミュリーシアのことを考えていたからだろうか。
「湯加減はどうじゃ?」
「ああ、ちょうどいい――って!?」
――違和感なく返答し、視線を上げてしまったのは。
畢竟、目に入るのは夢のような光景。
穢れなき、新雪のように白い肌。
彼女の前には、太陽の光でさえ平伏させられる。
女性的なくびれと、湯気で演出された絶妙なバランスを誇る肢体。
思わず息を飲むが、色香よりもまず美しさが先に立つ。
銀色の髪が要所を隠し、それがひとつの芸術作品を完成させている。
類い希なる美貌に羞恥の色はなく、いつも通り赤い瞳でこちらを見下ろしていた。。
妖姿媚態。
ただただ、美しい。
トウマは慌てて目を逸らし、まぶたを閉じる。だが、遅い。彼女の前には、遅すぎた。
まぶたの向こうに。
脳裏に。
魂に。
その媚態が、はっきりと刻まれてしまった。
罪悪感から後ろを向くと、躊躇うことなく湯船に誰かが入ってくる気配がする。
誰か? 疑問の余地はない。
ミュリーシア・ケイティファ・ドラクル。
このアムルタート王国の初代女王しかいない。
「うむうむ。なかなか良い湯であるな。ほんに、温泉とは良きものよ」
「シアの良識を信じた俺がバカだった……」
「なにをぶつぶつ言うておる。久し振りの温泉を満喫せぬか」
ミュリーシアから要求されたのは、温泉でゆっくりすること。
その優しさに、トウマは感動すら憶えていたのだ。
当たり前のように、ミュリーシアが入ってくるまでは。
この窮地から脱するため、のぼせ気味の頭脳がフル回転する。トウマがパソコンだったら、ファンが轟音を立てているに違いない。
「なあ、シア。こっちは男湯だよな?」
「うむ。分類上はの」
故意犯だった。
そうなると、普通に出て行けと言っても通じない。逆に、トウマが出て行くことも不可能だ。許すはずがない。
であれば、頼るのはひとつ。
外的要因だ。
「男湯ってことは、ヘンリーはあれだけどベーシアが入ってくる可能性が――」
「――心配するでない」
ミュリーシアが牙をむき出しにして笑った。
見えないが、雰囲気でそれが分かる。
「事情を説明したら、快く協力してくれたぞ」
「だろうな!」
まだ短い付き合いだが、あの草原の種族が愉快犯気質であることは嫌というほど理解している。
戦う前から、勝敗が決まっていた。
いや、まだだ。まだ終わらない。
レイナが。そして、ノインもこの状況を放置するとは――
「レイナとノインを、きっちり足止めしてくれるはずじゃ」
「しかも、そっちの協力か!?」
温泉のお湯が、盛大に波打つ。
それが、せめてもの抵抗だった。
なお、リリィはなるようにしかならないので考えないものとする。
「本当は、背中を流してやりたがったのだがの」
「なにがどうして、そうなるんだ……」
「約束通り、無事に帰ってきてくれたからの。妾からの報酬のようなものじゃ。信賞必罰は、武門の寄って立つところだからの」
「そういうことなら……って、なるわけないからな?」
そもそも、武門ではない。
「ならぬのか?」
「ならないな」
にべもない返答に、ミュリーシアがため息をつく。
熱い吐息が漏れ、トウマの首筋を撫でる。
「では、妾は邪魔かの?」
「…………」
トウマは回答を拒否した。
「嘘をつけぬのは、共犯者の得がたき長所じゃな」
「相手による」
「ふふふ。妾には嘘をつかぬとは、またうれしいことを」
ちゃぷちゃぷと、お湯の音がした。
声が、徐々に近くなる。
「なに。ただ単に、リラックスしながら共犯者と語りたかっただけじゃ」
「む……」
そう言われては、拒否するのも大人げないように思える。
ゆだりそうなトウマの頭は、明後日の結論に向かいつつあった。
「俺はそっちを見ないぞ?」
「仕方あるまい。妾から共犯者はよく見えておる」
からかうような声が、トウマの耳朶を震わす。
額に熱を感じた。
心臓が、ばくばくと脈打っている。
温泉のせいで血行が良くなっているからだろう。他にない。そうに違いない。
「まずは色気のない話をするかの。神命の件は、不可抗力であろう。気にするでないぞ」
「後悔はしていないが……そう言ってもらえると気が軽くなる」
「別に共犯者を慰めるために言うておるわけではないがの」
ミュリーシアは、愉快そうに笑っていた。
見えないがそれが分かる。
ミュリーシアの笑顔と一緒に、その下まで想像しそうになってトウマは顔をお湯につけた。
「妾たちのことが光輝教会に露見するのも、まあ、時間の問題であったのだろう?」
「グリフォン島に引きこもりを続けない限りは、そうだっただろうな」
「うむ。建国の理念を考えれば、それはあり得ぬ選択よ。そう考えれば、まつろわぬ民――“魔族”との接触も旅先の美味であろう」
渡りに船――タイミングが良いという意味の例えを口にする。
「まあ、それはどうでもいいのだがの」
「どうでも良くはないだろう」
「共犯者が妾を頼ってくれた事実に比べたら、一段落ちるのは間違いないの」
「それは……情けない話だが……俺にも玲那にもないものを、シアが持っているからな……」
「つまり、妾が必要ということじゃな?」
「そういうことになるな……」
反論はできなかった。
実際、そのためにグリフォン島へ戻ってきたのだから。
「うれしく思うぞ」
「うれしいのか? 面倒なだけだろう?」
「なにを言うか。妾たちは、迷惑を掛け合う関係のほうが良い」
「それはどうなんだ?」
「共犯者も、いずれ分かるようになるわ」
ドラクル目線でミュリーシアが笑う。
「さて、無粋な話はここまでとしよう」
「ああ。そろそろ、上がる――」
「――レイナと夫婦役をしたという件、詳しく聞かせてもらおうかの?」
「したのは、練習だぞ?」
「では、練習内容を聞かせてもらおうかの」
トウマは立ち上がろうとした。
しかし、女王からは逃げられない。
「玲那が、俺のことをあなたって呼ぶとか」
「ほう」
「なるべく、距離を詰めるようにするとか」
「ほうほう」
「なにか言ってくれ!?」
「気にせず、続けよ」
妙に圧が強い。
しかし、出迎えの時の弱々しいミュリーシアよりも安心する。
だからだろうか、気付けば根掘り葉掘り聞き出されていた。
それで終われば、まだ良かったのだ。実際問題、練習だけでなにをしたというわけでもないのだから。
だが、好事魔多し。
温泉から出たところで、レイナが待ち受けていた。
「玲那か……」
仁王立ちする、年下の幼なじみ。
トウマはなにも言わず、その横を通り過ぎ……ようとした。
「お兄ちゃ……センパイ! なにしれっとスルーしようとしてるんですか!?」
しかし、回り込まれてしまった。
「万が一の可能性に賭けた」
「ゼロに決まってるでしょう!? 小数点以下もないですよ!?」
「万が一もなかったか」
仕方なく、トウマは立ち止まった。
視界の隅に、ニヤニヤというよりはニタニタと笑う草原の種族が目に入った。
「幸運を! そして、勇気を!」
視線に気付いたベーシアが、後は任せたと親指を立てる。かゆいところに手が届かない宮廷音楽家だった。
「ミュリーシアとの温泉は、どうでしたか?」
「憩いの時間になったようじゃぞ」
「なぜ、シアが答えるんだ……」
「じゃあ、次はあたしの番ですよね?」
「駄目に決まっているだろう」
「なんでですか!? ミュリーシアにはできて、幼なじみのあたしにはできないっていうんですか?」
「昔も、そんなことしてない」
幼なじみは関係ない。
同居していた頃も、絶対に事故を起こさないように注意していた。
「じゃあ、いつならいいんですか? 今ですか?」
「結婚したらいいんじゃないの? ボクの親友も、一人目の奥さんとの新婚旅行の時に混浴してたし」
「一人目か……」
「なんで知ってるんですかね、その情報」
トウマは遠い目をし、レイナは緑がかった瞳でベーシアをじとっとにらみつける。
「まあ、いいです。どうせ、このあとは一緒のベッドで寝るんですし」
「あ、カティアは、船に行くって言ってたよ。それから、ボクは適当なところで寝るから」
「ベッドメイクは完璧でございます」
いつからいたのか。ノインが誇らしげに胸を張った。
逃げ場はなかった。
そのまま“王宮”へ連行され、当然のように同じベッドに入る。入れられる。
久し振りの窮屈なベッド。
しかし、余程疲れていたのか。トウマはあっさりと眠りに落ちてしまった。
途中で起きることはなく、夢も見ない。
とても安らかな眠りだった。




