079.アムルタート王国最大の危機
幽霊船ワールウィンド号が、トウマとレイナを乗せて出港したその後。
アムルタート王国は最大の危機に見舞われていた。
「共犯者は、風邪など引いておらぬかのぅ……」
「食欲はあるみたいなのですよ……」
「そうか。それじゃ重畳じゃ……」
円卓に頬を乗せて突っ伏しながら、ミュリーシアは熱い息を吐いた。
気怠げで、瞬きすらも緩慢。
むしろ、ミュリーシアのほうが風邪でも引いているのではないかと誤解してしまいそう。
それくらい、今のミュリーシアには威厳もなにもなかった。
「リリィ様は、ご主人様がどうされているかお分かりなのですね……」
「トウマがなにか食べたら、その味が伝わってくるというだけなのです……」
「それは、素晴らしい機能でございますね……」
小柄で瀟洒な和装メイドが、ミュリーシアとまったく同じ姿勢で言った。
紫の瞳は、普段のアメジストのような輝きを失い濁っている。
「そんなことはないのですよ……」
リリィは、円卓に半ば体を沈めていた。というよりは、一体化しているといったほうが近いか。
とにかく、三人が三人ともやる気をなくしていた。それどころか、“王宮”はおろか円卓の間から動く気配もない。
医師の診断がなくとも分かる。
重症だ。
「むしろ、これがなければトウマは島からは出て行かなかったのです」
「それは……そうじゃな」
「左様でございますね」
美味しいものをお腹いっぱい食べさせること。
それが、トウマとリリィの契約。
そのお陰か。そもそも、死霊術師の能力に距離は関係ないのか。契約は正常に作動し、一日に三回リリィとゴーストたちへ食べ物の味を届けてくれている。
微かなつながり。
それが貴重で、同時に悩みの種でもあった。
「普通にしてたら、突然ご飯の味がするのでびっくりするのですよ~」
「それは確かに、驚くのう」
「ゴーストの皆様が不意にびくりとするのは、そういう理由でございましたか」
会話が途切れ、円卓の間を沈黙……ではなくため息が支配する。
その原因は明らか。
なのに、思考はそちらに向いてしまう。
「航海は順調かのぅ……」
「レイナもいるし、なにかあっても大丈夫なのですよ」
「自賛ではございませんが、私めの妹の体を使っていただいておりますので。ご主人様を守る盾ぐらいにはなれるかと」
ミュリーシアは、ノインの奉仕精神に若干引いた。
しかし、指摘する気も起きない。
「なにもないのが一番じゃが……」
「トウマとレイナなのですよ?」
「常に最悪に備えるのが肝要かと」
「どうせ、海賊船に襲われるとか、モンスターと遭遇するとか、沈没船をサルベージするとか。そんな事件が起こるのであろうな……」
気鬱げに、ミュリーシアが息を吐く。
もはや、呼吸をするのもめんどくさい……のかと思いきや。
「いや、そんなに起こってたまるかっ!」
唐突に立ち上がり、自らの非常識な発言を否定した。
「でも、トウマとレイナなのですよ?」
「そうじゃろうか……? そうかもしれぬな……?」
ミュリーシアがゆるゆると椅子に戻り、また円卓に突っ伏す。
「レッドボーダーも持ち込まれておりますし、大丈夫だと思われますが……」
驚いて顔を上げていたノインが指摘するが、彼女もまた円卓に吸い寄せられた。
みんな揃って、背骨が抜けてしまったかのようだ。ゆるい。
「こうなることが分かっておったら、共犯者に妾の血を飲ませておくんじゃったな……」
「ミュリーシアの血は美味しいのです?」
「そういう話ではないわ」
接地面が生暖かくなってきたので、ミュリーシアは少し位置をずらした。
「血を共有するとの、精神的なつながりができるのじゃ」
「ほうほう……なのです」
「ドラクルの御技ということになりますでしょうか?」
「うむ。影術と血奏術。これが、ドラクルの力の結晶よ」
「なるほど。陛下のお力には、そのような秘密が」
「それは関係ないがの」
「左様でしたか……」
ドラクルの。否、ミュリーシアの怪力は天然。
相変わらず、ドラクルの姫は底知れない。
「でも、影はよく使ってるけどけっそーじゅつっていうのは全然なのですよ?」
「うむ。モルゴールでアンデッドたちを操っていたのが血奏術での。自らに課しておるわけではないが、なるべく使わぬようにしておるのじゃ。戒めのようなものよの」
「ほえ~なのです」
その誓いがあるから、使ったりはしなかった。
そして、その誓いを反故にしてしまいそうなほど今の状況は末期的。
「リリィ様には、ご主人様との契約。陛下には、血奏術。なぜ、私めにはそのような機能がないのでしょう?」
「自動人形だからであろう」
「なんて……ことでしょう……」
ノインが、愕然として目と口を開く。
絵画であったなら、そのタイトルは絶望だ。
「ご主人様は、無事帰ってきてくれますでしょうか……」
「共犯者は、たまに無鉄砲になるからのう……」
「心配なのですよ……」
アムルタート王国に訪れた、最大の危機。
それは、トウマロスとでも表現すべき事態。
否。
これはもはや、事件と呼ぶべきだ。
「もう少し、体を慣らしてから行かせるべきであったかのう」
「どういうことなのです?」
「ワールウィンド号で近海を航海し、ご主人様がいらっしゃらない期間を一日、二日と少しずつ伸ばしていくべきだった。陛下は、恐らくこうお考えなのではないでしょうか」
「なるほどなのです」
「よう、くみ取ってくれたの」
「でも、リリィは結局航海についていけないのです……」
「そうじゃな……」
「左様でございますね……」
別に、すべてトウマのためにやってきたわけではない。トウマがいないと、なにもできないわけではない。
だが、トウマがいないと張り合いがない。
これでは駄目だと分かっているのに、動く気力が沸かないのだ。
「いかんな……このままでは、レイナに笑われてしまうぞ?」
このままではいけない。
死力を振り絞って、ミュリーシアが立ち上がる。
必死に歯を食いしばり、美貌を苦痛に歪めて。
それでも、アムルタート王国の女王は立ち上がった。
「妾たちは、共犯者を失ったかもしれぬ。じゃが、まだこの命があるではないか」
「おお、ミュリーシア。その通りなのですよ」
「なんと、偉大な。これが、女王陛下のお姿……」
ミュリーシアに感化され、リリィとノインの瞳にも光が戻る。
「レイナに笑われるだけなら、まだ良い。共犯者がこの惨状を目の当たりにしたら、どう思う?」
普通に心配するところだろうが、そんな常識はこの場には通用しない。
「非難はせぬ。誹りもせぬ。ただ気遣うのみよ」
「トウマっぽいのです」
「まさしく」
リリィとノインも同意した。
「妾たちは、それをただ受け入れるのか? 否、断じて否である」
ミュリーシアは羽毛扇を広げ、天下高く掲げた。
まるで、トウマの血を飲んだ直後のようにテンションが上がっている。
「共犯者が喜ぶような、なにかを作ろうではないか」
「レイナはいいのですか?」
「ご主人様がお喜びになれば、一緒に喜ばれるのではないでしょうか?」
真理だった。
「そういうことでしたら、私めにひとつ腹案がございます」
「ほう。聞こうではないか」
ミュリーシアが石の椅子に深々と腰掛け、長い足を組んだ。
黒いドレスから、白い脚線がまろび出る。
「私めとしましては、畜産に手を出しても良いのではないかと考えております」
「畜産……家畜かの?」
「はい。マッスルースターから始めるところが、手頃なところかと」
「手頃かの?」
個体の強さは、ミュリーシアに比ぶべくもない。
しかし、それは比較対象が悪いだけ。あの強靱な爪とくちばし。それに、あの狂犬のようなメンタリティは家畜とはほど遠い。
「あれで、上下関係には厳しい生物と聞き及んでおります」
「ほえ~。犬さんみたいなのです」
「つまり、生け捕りにするときに上下関係をはっきりさせれば飼育できるというのじゃな?」
不可能ではないようだ。
「そういえば、共犯者が卵を食べたいというようなことを言うておった記憶があるの」
「まさに、渡りに船かと」
「そうじゃな。囲いを作る程度で、労力はそこまでかからぬだろうからの」
マッスルースターを生け捕りにして、上下関係を教え込ませるコストは一切考慮されていなかった。
仕方がない。ミュリーシアにとっては、コストなしと同じことだ。
「はいはい! リリィは、ほこらがいいと思うのです!」
「ほこらとな?」
「そうなのです! せっかくだから、アムルタート様のほこらが欲しいのです」
「ふむ。それも悪くないの」
旧き神も異界の神も、この新しい国では柱になり得ない。
しかし、精霊信仰。精霊アムルタートへの信仰心であれば別だ。
「巨石を切り出し、そこに妾が像を彫るだけでも形になりそうだの」
「お~。なんだか、格好良さそうなのです」
「陛下にばかり負担がかかることになりますが……」
ミュリーシアは再び立ち上がった。
光彩奪目。その勇姿に、目が離せない。
「問題ない。どちらも、こなしてみせようぞ」
「にゃ~」
そのとき、外からニャルヴィオンの鳴き声がした。
「ふはははは。ニャルヴィオンも、あきれておったのかもしれぬな」
冗談。
そのはずなのだが、実は的を射ていた。
ニャルヴィオンが鳴いたのは偶然ではない。
そして、あえて翻訳するならば――
『ようやくかにゃ。まったく、世話が焼けるにゃ~』
――ということになるだろうか。