072.ヘンリーの決断
「よくよく考えたら、死んだら男も女もないですよね!」
陽光の下、幽霊船ワールウィンド号の甲板に降り立ったトウマたちをヘンリーが迎え入れる。
ゴーストにもかかわらず、その表情は清々しくさわやか。
それは完全に開き直りの産物だったのが……すぐに曇ってしまった。
原因は、トウマと一緒にやってきたミュリーシアとレイナ。
「あの……トウマさん? 連れのお二人の機嫌が悪い……。悪すぎません?」
「そんなことはないですけど?」
「妾たちの機嫌は、これからの話に関係あるのかの?」
「あ、はい。その、大変申し訳のないことであります!」
ヘンリーは思わず背筋を伸ばしていた。
思えば、妻にも不用意な発言が言われていたではないか。50年経っても失敗を繰り返すとは、商人にあるまじき対応。
「すまないな。それで、念話でやり取りした内容の確認なんだが」
「ええ、立ち話もなんですから船室へどうぞ」
ふわふわ浮遊するヘンリーの先導で、船長室へと移動する。
その間、当然のように無言。
ヘンリーは、商人らしい愛想笑いを浮かべることしかできない。
黙って船室に入るとトウマとレイナが椅子に座り、ミュリーシアが壁に背を預ける。いつかと同じ態勢になっても、重苦しい雰囲気は変わらなかった。
「お茶でもお出しできれば良かったんですけどね、ははははは」
「気遣いは無用だ」
「トウマさん、めちゃくちゃメンタル強いですねぇ……」
主のぶれなさに、ヘンリーは戦慄を憶えた。
しかし、自分の計画にはこれくらいのほうがいいと思い直す。
それに、「ご自分の恋人たちの機嫌ぐらい取ってくれませんか?」などとは言えない。言えるはずがない。
「それでは改めてですが、依代の話をお受けしたいと思います」
「負担をかけてすまないな。感謝している」
「いえいえ、感謝しなければならないのはこちらのほうですので」
自動人形の、それも女性の体に宿る。
簡単にできる決断ではなかっただろう。
それでも、ヘンリーは前に進むと踏ん切りをつけた。
「そう言ってもらえると、こちらも助かる」
もし妻や子供に会ったら相当複雑なことになりそうだ。
そう思いつつも、トウマは口をつぐんだ。他人の介入できる話ではない。
「ノインの姉妹になるとして、交易はどのように進めるつもりなのじゃ?」
「そうですね。計画を聞きたいです」
「あ、はい。叩き台はありますので、ご意見をお伺いできたら幸いです。はい」
揃って腕組をする二人を前に、幽体の輪郭を揺らしながらもヘンリーは表面上は平静を装った。
妻の父にして上司である商会長に、妊娠の報告をした時に比べたらなんということはない。
……と、思い込むことにした。実際、あのときは死ぬかと思った。まあ、その後海賊に襲われて本当に死んだわけだが。
それでも、今はゴーストとなって生きている。
せっかく手に入れた二度目のチャンス。ふいにすることなど、ヘンリーにはできない。
「というわけで、交易計画なのですが……所属していたハイアーズ商会を尋ねようと思っています」
「勝手知ったると、いうわけか」
「ハイアーズ商会……聞いたことがあるような気がしますね」
「それは良かった。もし潰れていたら、計画の練り直しになるところでした」
少しだけ態度が柔らかくなったレイナを前に、ヘンリーは少しだけ饒舌になる。
「まあ、伝手は大事ですからね。ただし、いきなり神都サン=クァリスの本店に行くのはリスクが高すぎます。貿易都市デルヴェの支店へ行くつもりです」
「デルヴェというと……」
「妾も聞いたことがあるの。確か、亀裂海に面する水の都だとか」
「ああ。街中に水路が走っているのでしたか。ヴェネツィアみたいだなと、思った記憶がありますね」
「そんな街があるんだな。ジルヴィオのせいで、手間をかけてすまない」
この世界の常識に欠けるトウマが頭を下げる。
「しかし、突然訪ねても門前払いが関の山じゃないか?」
「そこはちゃんと考えています」
ヘンリーが得意げに微笑み、右手の人差し指を立てた。
「我々はですね、50年前に消息を絶ったワールウィンド号を偶然にも発見したのです」
「なるほど。ヘンリーの遺品を届けるということで商談のきっかけにするのか」
「そうです。役に立つのなら、死人だって使うのが商人ですから」
普段の。そして、過去のヘンリーならここまでは思い切れなかっただろう。
すべては、ノインの妹の体に憑依すると決断をしたお陰。
そういう意味では、一皮むけたと言っていいのかもしれなかった。
「遺品は良いが、幽霊船になったことですべて新しくなってはおらぬか?」
「あと、この船から持ち出せないんじゃないですか?」
「死霊術師のスキルで、風化させることはできる。それから、火口のダンジョンに使ってない紙があったよな? あれで、遺書でも書いてもらえばいいんじゃないか?」
ミュリーシアとレイナから発せられた懸念。
トウマがそれを丁寧に潰すと、なぜか沈黙の帳が降りた。
せっかく良くなっていた雰囲気が変わり、ヘンリーはあわてて口を挟む。
「ま、まあ、あれです。要はハイアーズ商会の誰かに会えさえすればいいんです。取っ掛かりですよ、取っ掛かり」
「あとは、商品の魅力で押すということか」
「ええ。少なくとも、チョコレートは絶対に売れますから」
当然、リスクはある。だが、上手くいけばそれに見合うリターンがあるとヘンリーは太鼓判を押した。
「ただ、今回はサンプルでの商談になるでしょうけど」
「それはそうだろうな」
「それでも、生活必需品を買える程度の対価は引き出して見せますから」
「期待している。いや、頼らせてもらう」
「ふははは。相変わらず、トウマさんは商人の使い方が上手いですね」
虚々実々。騙し騙され、ひりつくような日常に生きているのが商人だ。
金貨の重さで、誠実さを量る。
そんな世界で生きていたヘンリーにとって、無条件で寄せられるトウマからの信頼は実に心地好いものだった。
やりがいがある。
そして、恐ろしくもある。
そんな内心を押し隠し、ヘンリーは主であるトウマにひとつ希望を伝える。
「それでですね、さすがにあのノインさんの姿をして商人でございとは通用しないと思うんですよ」
「ああ、そうだろうな」
小柄なメイドが、難破船から遺品を見つけたので届ける。ところまではいいとして、そこから商談に持って行くのは不自然だろう。
「途中まで進めることができたとしても、絶対に責任者と話をしたいと言われるだろうな」
「そこで……あっ、そういうこと? そういうことだったんですか!?」
ヘンリーは、やっと気付いた。
そうと気付かず、毒の沼地で踊っていたことに。
しかし、もう遅い。手遅れだ。
賽は投げられた。
さじを投げたくなるのを必死にこらえ、ヘンリーは続ける。
「ええ、それでですね。トウマさんが新進気鋭の若手商人という態で、交易に同行をして欲しいのですが……」
「ああ、もちろんだ。むしろ、最初からそのつもりだった」
トウマも若いが、ノインの姿をしたヘンリーよりはましだろう。
多少は足元を見られるかもしれないが、長期的な視点で考えるしかない。
そもそも、交易ができない状況では損もなにもなかった。
「チョコレートが怪しまれても、最悪ゴーストシルクを出せば食いついてくるだろうしな」
「は? ゴーストシルク? スターシルクのことですか!?」
ゴーストシルクと聞いて、色めき立つヘンリー。
思わず席を立つが、その動きが一瞬で止まった。
「それ、センパイだけじゃないとダメってわけじゃないですよね?」
「うむ。共犯者一人などとは、到底容認できぬな」
ここからが本題。
そう言わんばかりに、赤と緑がかった二対の瞳が幽霊の商人を射抜いていた。




