035.幽霊の商人(前)
周囲を覆っていた、霧が晴れた。
乳白色だった世界が星明かりを取り戻し、美しい夜が訪れる。
それは幻ではない。
穴が空いていた甲板は、まるで描き直したかのように元通り。
それだけでなく、折れたマストもボロボロだった帆も修復されていた。
どこからともなく聞こえていた不気味な音も、鳴り止んでいる。
そして、真っ二つにされたスケルトンキャプテンだけでなくトウマが威伏したスケルトンたちも綺麗に消えていた。
白い蛍のような光が、天へと昇っていく。その魂が輪廻することは、ない。消滅という名の安寧を得るのだ。
奇跡のような光景に、レイナは見惚れたように息を吐く。
「まるで、時間が巻き戻ったみたいですね……」
「うむ。これでは、幽霊船とは言えぬの」
「そうか、そういうことか。ここにゴーストは、二種類いたのか」
「あの海賊骸骨以外にも、不死種がおると?」
影術で編んだ大鎌を構え、ミュリーシアが周囲を睥睨する。
威風堂々。何者であっても、一撃のもとに斬り伏せる。周囲を圧するような威厳に満ちている。
「ああ、言い方が悪かった。大丈夫。残っているのは、悪いものじゃなさそうだ」
「ほう、そこまで分かるか。さすがは共犯者よな」
ミュリーシアが大鎌から手を離すと、するすると解けてドレスの一部に吸収される。
それを待っていたかのように、トウマたちの目の前に白い光が生まれた。少しずつ集まり、光の塊はやがて人型に近い姿を取る。
眼鏡をかけた、気弱そうな青年。
ただし、半透明で実体はない。足もなかった。
「あ……ま……こんな……来る……て……」
リリィたちと同じゴースト。
ただし、理性を失ってはいないようだった。
「俺の言葉が通じるか?」
「……はい。解放……くださり……ありがと……ざい……た」
申し訳なさそうに、眼鏡の青年が頭を下げる。
声にはノイズが乗っており、ところどころ途切れていた。
「……海賊に抑え……られて……までいいように使われ……たのが……やっと解放……ました」
「ふむ。スケルトンキャプテンが、文字通りこの船を乗っ取っておったわけじゃの」
「本当に幽霊海賊船だったんですか。あきれたファンタジーですね」
「……の船……ワールウィンド号。……は、商人で…………オーナーだったヘンリーと申し……」
「このままだと、ちょっと話しにくいな」
トウマがつかつかとゴースト――ヘンリーへ近付き、肩に触れた。
魔力を代償に錬成された負の生命力を与え、半透明だった幽体にはっきりとした色が付く。
「わっ、足がちゃんと生えましたよ」
「ゴーストに足がないという話は、負の生命力が足りぬのが原因であったか」
「そういう話、こっちにもあるんですね……あれ?」
そうなると、トウマとレイナの故郷である地球にも本当に幽霊がいるということになるのではないか。
世界の真実に触れそうになり、慌てて首を振った。サイドテールが揺れ、甲板に影が踊る。
「俺は、死霊術師の稲葉冬馬。トウマと呼んでくれ。こっちは、幼なじみの玲那とドラクルのミュリーシアだ」
「ははぁ、改めましてヘンリーと申します。それにしても、幼なじみ……ってぇ!? 死霊術師にドラクルですってぇ!?」
ゴーストの青年は、ワンテンポ遅れて驚愕した。
十人並みの顔で目と口を目一杯開くと、そのまま飛んでいってしまう。
しかし、マストの高さと同じぐらいのところで見えない壁にぶつかった。島から出ようとしたリリィと同じように。
「リリィと同じタイプのようじゃの」
「ヘンリーさん、大丈夫か?」
「え。ええ……。幽霊でも痛みとか感じるんですね……」
そのまま、眼鏡を抑えながらふらふらと甲板まで戻って来た。
「それに、今の私は空を飛べるんですね。びっくりしました……。行商に便利ですね」
「空を飛んでくる行商人とか、絶対取引したくないですけど」
レイナの正論はさておき。
「驚かせてすまない。だが、隠し事をすると後々もっとひどいことになると思ってな」
「いえいえ、こちらこそ申し訳ありませんでした。死霊術師にも魔族にも含むところはないのですが、まさか実際に会うとは思っていなくてですね。ですが、私の信仰は商取引に捧げられていますから心配ご無用です。あ、このことは光輝教会にはナイショでお願いしますね」
早口で、淀みなくまくし立てるヘンリー。
気弱そうなという第一印象は変わらない。
だが、商人らしい合理主義者の一面を覗かせた。
「それは問題ない。俺は、光輝教会から追放された身だからな」
「センパイ、それはあたしもですよ」
「それ本当に大丈夫です!?」
ヘンリーが再び驚愕する。
幸い、今度は飛んでいくことはなかった。
「キャビンは、当時のままですね」
「ここが船長室か」
「ええ。操舵室につながっています。船員の叛乱があっても、舵さえ抑えておけば船はどこにも行けませんから」
いつまでも甲板で立ち話は……というヘンリーの提案で、船長室へと場所を変えた。
船尾側にある船長室は、天井が低くそれほど広くもない。
船員が集まって会議をするための部屋といったほうがいいくらいだ。海図を広げられる大きめのテーブルと、何脚かの椅子。その他は、ベッドと私物を入れるチェスト程度しかない。
しかし、それがほとんど丸ごと当時のまま残っているのはおかしな話だった。
「叛乱前提ですか? 起こされないほうが良くないです?」
「ははは。確かに問題しかありませんが、これが現実というものなのです」
「現実と言えば、まるで幽霊船とは思えぬな。幻ではなかろうの?」
「もしかしたら、ワールウィンド号だったか? この船そのものもアンデッド化しているのかもな」
「文字通りのゴーストシップですか」
レイナが遠慮無く椅子に腰掛け、長くしなやかな足を組んだ。
「はしたない」
「なにするんですか」
トウマがふとももをぺしんと叩くと、レイナは綺麗にネイルを塗った手をテーブルに打ち付けて抗議する。
「ちゃんと計算して足を組んでますから、角度とか」
「そういう問題じゃない」
「そうじゃな。共犯者の言う通りじゃ。なにせ、船から櫂がなくなっておったからの」
「あ、そっちの話ですか……。え? ガレー船じゃなくなってるってことですか? 全然気付きませんでした」
「船の種類まで変わったのか……」
いかにもな幽霊船だったときは、確かにガレー船だった。
それが交易用の帆船に変化している。
「船長によって形質が変わったのか。ちょっと聞いたことがないな」
「まずは、歓迎すべき変化であろうよ」
壁際に佇むミュリーシアが羽毛扇をぱっと開いて一振り。
レイナの隣に座ったトウマは、軽くうなずいた。
「いやはや。海賊をやっつけるわ、この事態にも動じていないわ。お三方がすごい人だというのはわかりました。ははっ。とんでもないことですが、命の恩人にケチを付けるようなことは死んでもしません。もう死んでますがね」
「アンデッドジョークって、マジでツッコミ難くて困りますね」
「慣れてくれ」
「ええ、もちろんです。センパイとはもはや一心同体にして一蓮托生ですからね」
「一心同体は要らんであろ」
ミュリーシアが胸を張りつつ話に割り込んだ。
自然と双丘を強調して、赤い瞳でゴーストを射抜く。
「して、ヘンリーとやら。なにゆえゴーストとなったのか聞かせてもらおうかの」
「ああ。内容次第だが、俺にできることがあるはずだ」
「はい、もちろんです。聞いていただきたいのは、むしろこちらのほうですから」
否やはない。
ヘンリーは椅子から立ち上がり、すっと頭を下げた。




