240.緑の聖女と砂漠だったもの
トウマとレイナ。
勇者と聖女を殺せば、格別の慈悲を以て許す。
投げかけられた、蜘蛛の糸。
にもかかわらず、砂漠の民は誰一人として動こうとはしなかった。
ただ、空に座する宣教使を憎々しげににらみつける。
「どうした? なぜ、我の慈悲にすがらぬ? 他に生き残る術はないぞ?」
「できるはずがないだろう!」
空中と、地上から。エルフたちに狙われている。
味方は多いとはいえ、一斉に源素魔法を使用されたら誰かは死ぬだろう。
それでも、モルドに膝を屈するという選択肢は存在しなかった。
まったく以て、合理的ではない。
むしろ心配そうに、エルフの源素魔術師は格別の慈悲とともに問いかける。
「どういうつもりだ? なぜ、我の威光にひれ伏さぬ?」
「オアシスに手を掛け、俺たちの先祖を傷つけた。そんな相手の言葉に従う道理などあるものか!」
「くくっ、くくくく。なにを言うかと思えば」
天に唾するモルドの主張に、ソヴェリス・ティルタサナはやれやれとため息をついた。
子供に道理を語るというよりは、獣をしつけるような態度で。
「この砂漠は、聖魔王様の領域。延いては、教育を任せられたこのソヴェリス・ティルタサナのものなのだぞ?」
エルフ――ソヴェリスが、空の拳を大きく広げて握った。
生殺与奪の全権は、その掌にあると言わんばかりに。
「誰のお陰で生きていられると思っている?」
「俺たちは、俺たち自身の意思と努力で生きている!」
「違う。我の胸先三寸で生きているのだぞ」
再び、ソヴェリスが手のひらよりも大きなメダリオンを誇示した。
「よもや、今回だけが例外だと思っているのか?」
「まさか、今までの集団暴走は……」
「適当に間引いたら、再建はしてやるのだ。なんの問題がある?」
あのメダリオンでサンドワームを操って集団暴走を引き起こして、砂漠の民を打ちのめし。
厚顔にも、格別の慈悲を以て救ってやっている。
シミュレーションゲームで、気まぐれに災害を引き起こすような傲慢さ。
ジルヴィオよりも、遥かに醜悪。
砂漠の民たちの顔色が、一斉に変わった。
憤り、哀しみ、憎しみ。負の感情が溢れ出す。
一方、トウマもミュリーシアも顔色は変わらなかった。冷静だ。取り乱さない。
ただ、鋭い目つきで宣教使――ソヴェリス・ティルタサナを射抜く。
まるで、噴火寸前の火山のよう。
軽挙に走らない理由は、背後にいる聖魔王の存在。
ここでソヴェリス・ティルタサナを亡き者にするのは、簡単だ。だが、それでより大物を呼び込んでは意味がない。
その理屈は、ある程度共有されていた。
ただし、全員が自制したわけではない。
「は?」
レイナの目は、完全に据わっていた。
「は?」
カラーコンタクトで緑がかった瞳に浮かぶのは、侮蔑。山中に不法投棄されたゴミを見るのと同じ目つき。
「そうですか。そうですか」
サイドテールにした髪を、さっと振り払った。
静かに。そして、あからさまに怒っている。
端的に言えば、キレていた。
実の両親へ向けたこともないほどに。
「ハタノ様って、こんな怖かったんすか!?」
タチアナが、思わずといった調子で自分自身の体を抱きしめる。
レイナことを深く知らない。だからこそ、その怒りが恐ろしかった。
「魔力を50単位。加えて精神を30単位。理によって配合し、彼の地に繁栄をもたらす――かくあれかし」
レイナが右手を天へ伸ばすと、そこから幾条かの光の帯が迸った。
まるで、流星群。
「《シューティング・シャワー》」
地上に落ちた光が消えると、景色が一変した。
オアシスの周囲。わずかながら生えていた緑の周囲に、草原が生まれた。
砂漠の中では、点に過ぎないかもしれない。
だが、存在しているだけで奇跡だ。
「バカなっ。砂漠に植物が生えるなど?」
「は? 日本には、除草しないと緑化しちゃう砂丘があるんですけど?」
それは砂漠なのか。
誰もがそう思ったが、今の抜き身の刃のようなレイナに言えるはずもなかった。
「はいはい、これでここは聖魔王でしたっけ? ミュリーシアを恐れて陥れたクズ野郎の領地でもなんでもなくなりましたね」
「聖魔王様を愚弄するかっ」
ソヴェリスの抗議を、レイナは鼻で笑った。
「はっ。大層な名前の割に、愚弄されるようなことしかしてないじゃないですか。結局、光輝教会に負けてミッドランズを追い出されてるんですから」
「貴様ッッ。先代、先々代様の苦労をなんと心得る」
「仕える相手がどんだけ偉くても、あんたのすごさは保証なんかされないんですけど?」
虎の威を借る狐。いや、それ以下だとレイナは断定した。さらに、ここで終わらない。
「だいたい、ステカたちの先祖相手にイキってただけの雑魚でしょう? なにが聖魔王ですか、バカバカしい」
沈黙が砂漠を支配した――のは、ほんの短い間だけだった。
「くっ、ふはははははっっ。まったく、まったくその通りじゃな」
こらえきれず、ソヴェリスのさらに頭上でミュリーシアが大声を出して笑った。黒い羽毛扇で顔の半分を隠しているのが、せめてもの節度。
「確かに、追放された先でイキっておるだけの雑魚じゃのう。うむうむ。どうしようもないの」
「ミュリーシア・ケイティファ・ドラクル! 見逃していれば、調子に乗って!」
「見逃される謂われなど、どこにもないがの」
秋霜烈日。豹変したミュリーシアの赤い瞳に射抜かれて、ソヴェリスが空中で後ずさる。その額には、うっすらと汗がにじんでいた。
「なんじゃ? 妾にも、その格別な慈悲とやらをくれてやるつもりだったわけか。度し難い、なんと度し難い」
黒い十字架もかくやの重圧に、エルフの宣教使が魚のように口をぱくぱくとさせた。
それでも、なんとか反駁を試みる。その精神力だけは大したものだった。
「草が生えたと言っても、どうせ一時のこと。ここが砂漠である以上、枯れるが定めよ!」
虚勢。負け犬が遠吠えをするのと同じ、必要以上の大音声。
「否だ! 今すぐ焼き尽くして――」
「びゃっっ」
それに刺激されたのか。
「何事っすか!?」
「しまっ」
「びゃ、ああああっっっっっ」
思わず耳を塞ぎたくなるような泣き声が、砂漠に響き渡った。
「マテラっ」
驚くタチアナの横をする抜け、トウマはマテラのいるニャルヴィオンへと走る。
しかし、間に合わない。
ニャルヴィオンの二階席から、虹色のシャボン玉が無数に出現した。
月の砂漠を吹く風が、シャボン玉をオアシスの方向。泉へと押し出し――そこでまとめて弾けた。
それで終わり、ではない。
「……木が生えましたねえ。あたしの《ミリキア・レギア》ぐらいのサイズありません?」
グリフォンの翼で、様々な生物を産みだしてきた虹色のシャボン玉。
今度はそこから、一本の樹木が生まれた。
「オアシスが、一気に広がっているように見えるんだが……」
葉が生い茂る巨木が、一瞬で砂漠に出現した。
レイナが作り上げた草原に、しっかりと根を下ろしている。
そのたもとには、オアシスの泉だったもの。
一気に二回りは広がり、月を水面に映し出している。
あまりの事態に、砂漠の民たちもソヴェリスも。ただ口を広げることしかできずにいた。
「というか、あの木から雨が降ってませんか?」
「地下水をくみ上げて、葉っぱから水を出している?」
そんなことが可能なのか。トウマの知識では、類例は見つけられない。ノートパソコンで調べれば分かるのか。分かったところで、事実は覆らない。
ここは、ここだけはこのタガザ砂漠で緑が育まれる場所となったのだ。
「天使を産む樹の一兆倍役に立つじゃないですか」
「0にはなにをかけても0だけどな……っと、マテラは?」
「……泣き止んでますね」
まるで、レイナの真似をするためだけに泣いたかのよう。
「マテラ、もうあたしが教えることはなにもないですね。二代目緑の聖女の名前を与えましょう」
「襲名制だったのか」
もちろん、そのような仕組みではない。それどころか、なにも教えてもいない。
「これを見越して、ニャルヴィオンに忍び込んだということか……?」
「まあ、そんなことはどうでもいいじゃないですか」
そういう解釈も成り立つだろうが、分からない。
レイナは気にすることなく、未だ空に浮かぶソヴェリスを指さした。
「ほら、ここはもう砂漠じゃないですよ? 不法侵入? 不法入国? 犯罪者は、そっちです。尻尾を巻いて回れ右しなさい。それとも、人間の言葉が通じませんか? お帰りは、あちらでちゅよー?」
分からないが、怒りでガタガタと震えるエルフの姿は溜飲を下げるに充分だった。




