197.雨の館
外から、ざあざあと雨が降る音がする。
一瞬か。もっと長い時間が、経過しているのか。
判然としなかったが、あの第二層とはまったく異なる場所にいる。それだけは、間違いないことだった。
トウマは、鼻を鳴らして周囲を見回す。
目の前に広がる光景が、その根拠だ。
「ここは……洋館……か……?」
広い。“王宮”が丸ごと入ってしまいそうなエントランスに、トウマは立っていた。
天井には、きらきらと輝く照明。
太い柱が、何本も立っている。
足下は、分厚い幾何学模様の絨毯。
そして、正面に左右に分かれた馬蹄型の階段。
入ったことなどない。
けれど、イメージとしては受け入れられる。
やや無骨な印象もあるが、絵に描いたような洋館だった。
「怪我はない。記憶も途切れているところはない……な」
稲葉冬馬。
地球では受験を控えた高校三年。
幼なじみとともに異世界に召喚され、勇者となった死霊術師。
光輝教会から使い捨てられ、今はアムルタート王国の宰相。
「……冷静になると、召喚されて以降は気付いたら洋館にいるよりも異常事態だな」
トウマの唇が、シニカルに歪んだ。
余裕はある。今回は、レイナを巻き込まなかった。それが、最大の安心材料。
トウマは、無意識に鼻を擦った。
「まあ、俺だけで済んだのは不幸中の幸いか。ネイアードが一緒なら、玲那も大丈夫だろう」
「ようこそ、当館へ。この大雨、さぞ難渋されたことでございましょう」
「なっ……」
目の前に、片眼鏡の紳士がいた。
ここに来たときよりも、突然。
「【旅人】様でございますね」
トウマは答えない。答えられない。【旅人】などという呼び名に心当たりはなかったし、完全に毒気に当てられていた。
「わたくしは、【執事】と申します。畏れ多くも、【当主】様より当館の維持管理を任せられております」
灰色の髪を綺麗に撫でつけた【執事】が、胸に手を当て華麗に一礼した。
その所作に、ノインのことを思い出す。
「この先の川が増水し、とても橋を渡れる状態ではないと聞き及んでおります」
雨の音は、途切れることなく続いている。
「窮鳥懐に入れば猟師も殺さずと申します。我が家と思って、おくつろぎくださいませ」
トウマは、旅の途中で豪雨に見舞われこの館に助けを求めた……ということになっていた。
どこの誰とも分からない。それどころか、まともに受け答えもしないのに【執事】はトウマ――【旅人】を館に受け入れるという。
制服を着た、怪しい風体であろうトウマをだ。
名前ではなく役職を口にする態度といい、異常以外のなにものでもない。
意識せず、トウマは鼻を鳴らした。
「悪いが、先に確かめさせてもらう」
一言断ってから。しかし、答えは聞かず踵を返した。
重厚な扉を全身を使って開き、礫のような雨が降る空へと飛び出し――
――元いた場所に戻っていた。
「ようこそ、当館へ。この大雨、さぞ難渋されたことでございましょう」
「わたくしは、【執事】と申します。畏れ多くも、【当主】様より当館の維持管理を任せられております」
「この先の川が増水し、とても橋を渡れる状態ではないと聞き及んでおります」
「窮鳥懐に入れば猟師も殺さずと申します。我が家と思って、おくつろぎくださいませ」
そして、まったく同じ台詞が繰り返された。
「ただ、ひとつ……お願いがございます」
「お願い?」
先ほどとは違う台詞。いや、先ほどの続きか。
意外な言葉に、トウマは思わず反応してしまった。
「もちろん、代わりというわけではございませんが」
「……聞かせてもらおう」
この館からは、簡単に出られそうにない。
であれば、その流れに乗るのもひとつの選択だろう。
「当館は、現在【騎士】様、【貴族】様、【商人】様をお迎えいたしております」
「【騎士】、【貴族】、【商人】……」
またしても、名前ではなかった。これでは性別も不明だ。
他の滞在者がいるということしか分からない。
「その三人も、雨を避けるために?」
「いえ」
老齢の【執事】が、静かに首を横に振った。
「ありがたくも、当館の【令嬢】様に求婚するため訪れてくださったのでございます」
「そういうことか」
「【令嬢】様の評判を聞き、それぞれ素晴らしい贈り物を持ってきてくださいました」
トウマは竹取物語を連想したが、逆だ。別に、【令嬢】が無理難題を吹っ掛けているわけではないらしい。
「……それで、俺はなにを? どうも、かなりタイミングが悪かったようだが」
「そのようなことはございません。誰が【令嬢】様のお相手としてふさわしいか、ご意見を賜りたいのです。よろしければ、見届け人となってはいただけないでしょうか?」
「客観的な視点が欲しいということか」
直接は答えず、【執事】は見事な所作で頭を下げた。
「参考になるかは分からないが、そういうことであれば協力しよう」
「ありがとうございます。それでは、部屋へご案内いたします」
片眼鏡が光を反射し、【執事】は背を向けた。
トウマは、そのあとについていく。
「ここで、俺が逃げるわけにもいかない……か」
もちろん、義理もなにもない。
ただ、死霊術師としては看過できないものがあった。
「だから、俺だけが呼ばれたんだろうな」
この館からは、かすかに死の香りがした。
『センパイが……センパイが……さらわれました』
「どういうことなのです!?」
「なんじゃと?」
スマートフォンから聞こえてきたレイナの声。
それを耳にしたミュリーシアとリリィは、思わず顔を見合わせる。卵から放たれている光の明滅が、その横顔を照らした。
「あたしは、なにもできなくて……」
『突如、黒い扉が出現シタ。そして、イナバトウマを飲み込んで消え去ッタ』
見かねてか、ネイアードが話に割り込んできた。スマートフォンの向こうで揉めている声が、微かに聞こえる。
その結果がどうなったのか分からないが、続けて聞こえてきたのもネイアードの声。
『我等で第二層を捜索しているガ、発見の報告はナイ』
「黒い扉……じゃと? まさか、次の階層への扉かの?」
『たぶん、そうだと思います……』
「ミュリーシア、なにか知ってるのです?」
「いや……」
擬似太陽が照らす精霊殿で、美しい銀髪が力なく揺れた。
「そのようなこと、聞いたこともない。無論、ダンジョンでなにが起こるかなど神にもすべては分からぬであろうが……」
火口のダンジョンの第一層でリリィが引っかかったように、転移の罠ならば存在する。
しかし、強制的に階層を移動させる罠などありえない。それでは、ダンジョンが階層で分かれている意味自体がなくなってしまう。
『もうひとつ、悪い報せダ。第三層への扉自体が、消えてイル』
捜索に回ったネイアードからの情報だろう。
ミュリーシアの白皙の美貌から、さっと血の気が引いた。周囲の音が遠くなり、それでいて心臓が耳の側に移動したかのように鼓動がやたらと響く。
叔父に反旗を翻されたときも、モルゴールへの追放を言い渡されたときも。
こんな気持ちになったことはなかった。
「ミュリーシア、どうするのです?」
リリィが、明滅の早くなった卵とミュリーシアの顔を交互に見る。金髪の三つ編みが力なく垂れ下がり、天真爛漫さは失われてしまっていた。
「致し方あるまい」
「やっぱり、そうなのです……」
トウマは心配だ。この上なく心配だ。しかし、この卵も放ってはおけない。トウマが帰ってくる場所に、なにかあったら。それこそ、本末転倒。
それが分からないほど、リリィは子供ではなかった。
「卵を運ぶしかないの」
「……どういうことなのです?」
ミュリーシアはリリィの疑問に答えず、代わりにドレスの裾から影を放った。それは素早い明滅を繰り返す巨大な卵を包み込む。
「うむ。大人しくしておるようじゃな。善哉善哉」
「もしかして、卵もダンジョンに運ぶんで一緒に行くのです?」
「他に方法はあるまい」
赤い瞳に力強い光を宿し、ミュリーシアが断言した。
「レイナ、今すぐそちらへ行く。猶予は、それほどないぞ?」
『……べ、別に泣いたりなんかしてませんよ!?』
ぶつりと、通話が切れた。
スマートフォンをリリィに預け、ミュリーシアは背中から翼を生やす。
「雨の中飛ぶのも、悪くはなかろう」
「……ミュリーシア、待つのですっ! リリィも、一緒に行くのですよ!」
擬似太陽の下、飛行するドラクルが精霊殿を抜けて外へと出て行く。
その後を、慌てたゴーストの少女が追っていった。




