172.砂漠の草原の種族(マグナー)
南方の暗黒大陸――魔族領域を旅する、アムルタート王国の宮廷音楽家ベーシア。
その謎めいた草原の種族の前に現れたのは、フードを目深にかぶった女タチアナだった。
「あーしは、ミュリーシア様の影っす」
「影? 影武者とかスペアとかそういうやつ?」
「その通りっす」
フードの下に隠されていたのは、ミュリーシアと同じ顔。
髪こそ赤毛と違っているし、性格は言うまでもない。
だが、それ以外はドラクルの姫とそっくりだった。
性格が違うのはともかく、根本的に性格が影には向いていないように思える。だが、ベーシアがその点に触れることはなかった。
嘘をつくなら、もう少しマシな嘘をつくだろうから。
「ミュリーシア様を影からお守りし、その手足となるべく育てられたのがあーしっす」
「一緒にいないじゃん」
「そうなんすよ……」
付き添っていない影に、価値はあるのか。タチアナが、がくりと肩を落としその場に膝をつく。
もしトウマが見ていたら、見た目と行動の落差に険のある瞳をさらに厳しいものにしていただろう。
「あーしは、ミュリーシア様に一度お目通りを許されたぐらいで修業の途中だったんす。そんなところで、ミュリーシア様の叔父が叛乱を起こして実権を握ったんっすよ。一族の恥っす」
「お家騒動ってやつか。そこは、人間も“魔族”も変わんないね」
「そして、ミュリーシア様がモルゴールに放逐されるときも同行を許されなかったんす」
「まあ、そりゃそうだろうね」
叔父とやらは、間違いなくミュリーシアに死んで欲しかったはず。せっかく最前線送りにしたのだ、護衛などつけたくないだろう。
「それどころか、あーしは馘首になってドラクルの一族から追放されたんすよ」
「へえ。ミュリーシアは優しいなぁ」
「……は?」
地面に膝をついていたタチアナが、ミュリーシアそっくりの瞳をベーシアへと向けた。
「ミュリーシア様がお優しいことに異論はないっすけど、どうしてあーしの追放からそうなるんすか? 頭おかしいんすか?」
「それ、一族に残ってたらミュリーシアへの体のいい人質じゃん。あるいは、そっくりの顔を活かして陰謀に用いられてたかもね」
即答され、タチアナは地面に倒れ伏した。ミュリーシアとは異なる赤い髪が、まるで血のように広がる。
端的に言うと、虫の息だ。
「あーしは、ミュリーシア様に守られてたんすか……?」
「そうなるね。一度しか会ったことがないような、自分の影武者のなり損ないをね」
「ぐはっ……」
タチアナが、ぴくぴくと痙攣した。
しかし、ベーシアの灰色の瞳にはその姿は映っていない。
「だとしたら、生きてることを吹聴したのはマズかった? いや、それくらい織り込み済みか。偉い人も、ミュリーシアを見捨てて街を爆破したことは認めたくないだろうしね。うん。問題なし!」
タチアナのことは綺麗にスルーして、反省を終わらせた。それに、噂を広げる段階はもう終わり。次の目的地は、決まっている。
「一族を追放されたあと、手切れ金で食いつなぎながらひたすら修業をしていたっすけど……。それすらも、ミュリーシア様のご配慮だったということになるっすか……?」
「そもそもさ」
包帯が巻かれた両手を後頭部で組みながら、ベーシアが地面に倒れたままのタチアナを見下ろす。
「ボクが知る限り、あの女王陛下に影武者が必要とは思えないんだけど?」
「まったく同じことを、ミュリーシア様にも言われたっす」
「あっ、そうなんだ……」
確かに、ずばっと言いそうな気はする。
「まあ、ほら。致命傷以外はノーダメージって言葉もあるし。これから、どうするか考えよう?」
「これから……。そう、これからっすよ!」
がばりと、タチアナが赤い髪を振り乱して起き上がった。
「真実を知ったからには、このままではいられないっす。どうか、どうかあーしをミュリーシア様のところへ連れて行って欲しいっす」
起き上がった直後、今度は土下座して懇願した。
「言いたいことは分かるけど、ミュリーシアの命を狙うスパイという可能性は否定できないんだよねぇ」
「いくらなんでもあーしへの侮辱……っすけど、証拠はなにもないっすね……」
「ミュリーシアから、名前や存在を聞かされたこともないし」
「ぐはっ」
土下座から、再び地面に倒れ伏した。
「あー、もー。仕方ないな」
キャスケット帽を外して、ベーシアががりがりと頭を掻く。
ミュリーシアがタチアナのことに触れなかったのは、忘れていたとか嫌っていたとかそういうことではないだろう。
単純に、今は普通に暮らしているはずのタチアナを巻き込まないようにという配慮だ。
「ボクが、尻持ちするしかないか」
この草原の種族は、興味が持てない対象にはかなり冷淡。
それはそれとして、子供には優しいのがベーシア。
つまり、タチアナはそれと同じ分類になったようだった。
「ボクは、クロスブラッドに会うためタガザ砂漠ってところに行くよ。その旅の間で、タチアナのことを見定めようじゃあないか」
「望むところっす!」
再び、タチアナが立ち上がった。
ミュリーシアと同じ顔で、ミュリーシアらしからぬ行動。トウマがいたら、違和感で頭を抱えていたことだろう。
「なんでもやるっすよ! ベーシア先生、荷物をお持ちするっすか?」
「影武者っていうか、三下だね……」
本当にグリフォン島へ連れて行っていいのか。
身も心も一歩引き、たらりと汗が流れる。
ベーシアが、追い込まれた。
その意味では、タチアナは偉業を成し遂げつつある……のかもしれなかった。
「暑いっていうか、もはや熱いっすねぇ」
「そうみたいだね」
砂漠。一面砂しかない広大な砂漠に、ベーシアとタチアナの二人は足を踏み入れていた。
タチアナはフードを目深に被り、遮る物もなく降り注ぐ陽光を避けている。ドラクルだからというわけではなく、あらゆる生物にとって過酷な土地。
生命の気配は感じられず、歩く度に足が砂に沈んでいく。引き抜くだけで体力が削られ、かといって立ち止まってもそのまま干物になるだけ。
暑さと強烈な陽光で視界が歪み、水分とともに思考能力が失われていくのを如実に感じる。
タガザ砂漠。
ここに、クロスブラッド――人間と“魔族”が混血した者の末裔が押し込まれていた。
「なんで、ベーシア先生は平気な顔をしてるんすか」
「え? 過酷な環境にも耐えられるマントを装備してるからだけど?」
「なんで、あーしの分はないんっすか!」
「悪いね、タチアナ。このマント、一人用なんだ」
「ずるいっす!」
とはいえ、マジックアイテムで水は無尽蔵とまではいかなくとも潤沢に出せる。
砂漠の旅は、比較的楽で順調に進んでいった。
事件が起きたのは、三日目。
「……地震っすか?」
「いや、モンスターじゃないかな?」
包帯に覆われたベーシアが指さす先。
そこには、遠くからでもはっきりと見える。恐らく、20メートルはあるだろう巨大な砂色のミミズが屹立していた。
「あれが、タガザ砂漠に住むというサンドワームっすか! ……って、蛇みたいな人? が、サンドワームに襲われてるっす」
サンドワームの直下に見える、いくつかの点。ドラクルの鋭い視覚は、それが“魔族”の一種だと看破した。
「ふ~ん」
「なにをぼうっとしてるんっすか! 早く助けないとっすよ」
「まあまあ、落ち着こうよ」
ベーシアがリュートをつま弾き、タチアナに冷静さを呼び戻そうとする。
「砂漠は、彼らが専門だよ? 対策ぐらいちゃんと――」
「――なんか、サンドワームに吹っ飛ばされたみたいっすけど?」
「なにしてるのさっ。早く助けないと!」
「相変わらず、言ってることが適当っす!」
飛ぶようにして、フードを目深にかぶったタチアナが砂漠を駆け出していく。先ほどまでの気怠げな雰囲気は消え失せ、獲物を追う猟犬のような動き。
ベーシアは、その場から動かない。
「《狙撃手の宴》」
適切に急所を貫くための理術呪文を発動し、後ろで弓を構える。
そこから放たれた矢が五本を数えたとき、サンドワームは轟音とともに砂漠へと倒れ伏した。




