169.●●上戸
「シアの手は、綺麗だな」
「うむ、そうであろう」
「まあ、シアに綺麗じゃないところなんてないけどな」
「うむ、そうで……」
ミュリーシアが、ワインを注ぐ手を止めた。いや、止めたのは手だけではない。
幻聴のせいで――そう、幻聴に違いない――全身が固まった。
例外は、大きく見開かれた赤い瞳だけ。
「シア、こぼれている」
「おおうっ。これはすまぬ」
フリーズから復帰したミュリーシアが、慌ててワインのボトルを引く。その反動で、ドラクルの姫の繊手にワインの飛沫がかかった。
「いかにとんでもない幻聴であったとはいえ、なんたる不覚か」
「シア、少しそのままで」
「共犯者?」
トウマが、ミュリーシアからワインのボトルをそっと取り上げる。ドラクルの姫は、どういうわけか為すがまま。
それを石の円卓に置いたかと思うと、トウマはハンカチを手にした。
そして、優しく。慈しむように、女王の手を拭う。
愛情すら感じられる手つき。
「……共犯者?」
「ハンカチにも、不朽属性があるから大丈夫だ」
気にすることはないと微笑む。
「それよりも、シアの手が汚れていることのほうが我慢ならないからな」
優しく、余裕のある。淡く匂い立つような笑顔。
「ああ、これで綺麗になった」
口づけまではしないが、名残惜しそうに優しく握ってから解放する。
まったくトウマらしくはない。
だが、悪くない。ミュリーシアは、悪くないと感じていた……自分自身にも戸惑っていた。
「……一体、なにが起こったのだ?」
「……センパイ、誰ですか?」
「間違いなく、ご主人様かと……」
「トウマなのですよ~」
トウマだ。
険のある瞳も。
意志が強そうな唇も。
やや幼げな相貌も。
はっきりとした物言いも。
間違いなく、トウマだ。
ただ、そのすべてが丸く。親しみやすくなっているというだけで。
――すさまじい破壊力だった。
「シアは、褒められ慣れていると思うけど……何度見ても綺麗だ」
「ほ? ほ?」
「地球には美人は三日で慣れるなんて言葉もあるけど、少なくともシアには当てはまらないな」
トウマが、熟成されたかのように柔らかくなった瞳と声をミュリーシアへと捧げる。それは、いっそ官能的ですらあった。
「初めて会ったあの日から、ずっと感心……いや感動している」
「……は?」
「誰? 一体誰ですか!?」
「間違いなく、ご主人様かと……」
豹変。
豹の毛皮でも、ここまでは変わらないだろうという豹変。
驚天動地。
天と地がひっくり返っても、こうはならないだろうという反応。
当事者であるミュリーシアはもちろん、聞かされているレイナやノインも衝撃から立ち直れていない。
「ひゃーー。これは、見てはいけないやつなのです!?」
リリィは、両手で顔を覆い。部屋の隅へと飛んでいった。邪魔をしないように口をぎゅっと結び、それでいて指と指の間は適度に開いている。
もちろん、耳を塞ぐこともできない。
そして、レッドボーダーのゆりかごで眠るマテラは安らかだった。大物だ。
「才色兼備、明眸皓歯、一顧傾城、沈魚落雁……。どれだけの言葉を重ねても、シアを形容するには足りない」
「歯が浮くようじゃな……」
しかし、ミュリーシアの鼻は微妙に膨らんでいた。満更でもないらしい。
「シアにとっては、栄養補給だというのは分かっているが……」
言葉の途中で、恥ずかしそうに視線を逸らした。
それが普段のトウマとはまったく違って、だがトウマらしくて。周辺一帯の心拍数平均が跳ね上がる。
「血を吸われる度に、ドキドキしている。気持ち悪いだろうが、俺の本心だ」
「気持ち悪い? そ、そんなことはないがの?」
「ありがとう」
安心したように、トウマが微笑んだ。
「俺以外の血を吸うような話をしたことはあるが……本心で言えば、それは嫌だ。でも、シアのためなら、受け入れる。その時が来たら、俺に遠慮だけはしないで欲しい」
「そ、その予定は当分ないがの。うむ、ない」
「そうか。安心するのは間違っているんだろうが……安心した」
トウマが、また微笑む。
心臓に悪い笑顔だ。
「もちろん、外見だけじゃない。シアの行動力、決断力、知識に助けられている。まさに、王の器だと常々思ってる」
「女王に推した共犯者は、慧眼であったの」
ミュリーシアは、飲んだ。杯を干した。
飲まずにやっていられない。
「ああ。シアがいてくれて良かった」
「そ、それほどでもないがの」
新雪のように白かった頬は桜色で、赤い瞳は潤んでいる。
飲んでも、やっていられなかった。
「もしかして、幻覚ですか? セイレヌスがどこかにいるとか?」
「うぬぅ、生き残りがおったとは。どこまでも、不埒なモンスターよ」
「陛下、奥様。自動人形は、幻を見ませんので……」
現実。
幻聴などではない。圧倒的現実。
であれば、どうにかしなければならない。
「センパイ、酔ってますよね? それくらいにしません?」
「アルコールを摂取したら、それは酔うだろう」
まずは元凶を取り除く。
レイナの正攻法は、トウマの本気の解答で粉砕された。
「酔ってることを自覚してこれとか、性質が悪すぎません……?」
「玲那……」
「え? あ? はい? あたしですか?」
「玲那には、いつもきついことばかり言って悪いと思っている」
「は? はあ? は? まあ、あたしのためだっていうのは分かってますから」
標的が移動した。
レイナは顔を引きつらせ、ミュリーシアはほっとしたような残念なような誰にも言えない感情を抱え。
ノインは、さりげなくトウマからカップを遠ざけようとして失敗していた。
「前にも言ったかもしれないが、玲那がいてくれて本当に良かったと思っている」
「言われましたかね? どうだったですかね?」
正面から受け止めるわけにはいかない。
曖昧な言葉で対応し、受け流す準備を整えた。
けれど、とんできた言葉はそれを許さない。
「なにしろ、玲那がいなかったら生きることを諦めていただろうからな」
「……はい?」
「モルゴールを壊滅させる任務が終わったと思ったとき、玲那に会ったらどうしようか考えていた」
トウマが考えていたのは、どうやって謝ろうか。つまり、どうレイナのご機嫌を取ろうか。
しかし、レイナはそう解釈はしなかった。当たり前だ。どう考えても、愛の告白の前振りだ。
「まあ、騙されたことに気付かずそれはできなかったんだが……」
「い、今からでも遅くないと思いますけど?」
「レイナッ」
「はっ」
ミュリーシアに叱咤され、レイナは正気を取り戻した。もう少しで持って行かれるところだった。危なかった。
そんなやり取りに、トウマは気付かない。
「ジルヴィオに裏切られ、シアに助けられたあと。玲那が同じ世界にいたからこそ、当たり前に生きることを選べたんだと思う」
「それだと、あたしのために生きてるみたいになるんじゃ……」
「もちろん、それはある。まあ、全部じゃないが」
肯定しつつ、トウマがカップを手にし……眉をひそめた。中身が、空だった。
自然な動作でミュリーシアが、ワインを注ぐ。
このままではいけない。だが、もっと見てみたい。
ホラーへの対応。完全に、怖いもの見たさだった。
「ご両親から裏切られたように感じて。それでも一人で生きていこうとした玲那を、俺は尊敬しているんだ」
「尊敬? おにい……センパイがあたしをですか?」
「ああ。そして、そんな強い玲那に頼ってもらえるように俺はもっと強くあろうとしていたのかもしれない」
玲那は耐えた。
おへその辺りに力を込めて、とろけそうになる表情をきゅっと引き締める。
「へえ……。そうですか……。センパイが、そんなことを……」
ただ、舌の制御までは及ばなかった。脳のリソース不足だ。人類には限界がある。
「ちなみに、あたしってかわいいですよね?」
「当たり前だ」
なにをつまらないことをと、トウマが言い捨てた。
「レイナは可愛いに決まっている。向こうにいるときから、そう思っている」
「ひっひふー、ひっひふー」
ストレートすぎる言葉に、レイナは過呼吸になりかけた。




