106.伐採作戦開始
ネイアードの持つ“劣化”の特性。
魔力を“劣化”させ天使の樹の活動を抑制し、生まれた天使を消滅させ。
近づくものの精神も“劣化”させ記憶を奪う。
この姿になることを代償に得た、世界を守る力。
「負の生命力は、例外と?」
ヴァレリヤの碧眼が、すっと細まる。
死霊術は、平和の名を持つ異界の神ナイアルラトホテップが禁じた邪法。
その死霊術の根幹ともいえる負の生命力。それと反発するどころか共鳴するネイアードの種族特性。
光輝騎士として、見過ごすことはできない……が。
「今は、神命の真っ最中だろう?」
「終わった後のことも、考えたほうが良いのでは?」
「そんな余裕はない」
トウマは、まっすぐにネイアードに相対する。
「地底湖で、緑の聖女のスキルが発動しなかった。これは、ネイアードの特性からすれば当然だ。けれど、俺の《エボン・フィールド》は発動した。それどころか、いつも以上の効果だった」
どちらも、影響を受けるはず。けれど、違いが出た。矛盾が発生した。
そうなると、結論はひとつ。
「負の生命力に対しては、“劣化”の特性は反転する」
「ワレラモ、ハアクハシテイナカッタ」
「そうなんだろうな。知っていたのは……」
「我らが神のみ」
この展開は、ナイアルラトホテップ神の意図した通りの流れに違いない。
もしかすると、結果までも。
「すべて見抜かれているわけだ」
「キブンガワルイナ」
「同感だ」
勇者と粘体種。
これが、本心から通じ合った最初の瞬間だった。
そう、瞬間でしかない。
「ダガ、マキコムキハナイ」
「巻き込みたくない。その気持ちはうれしいが、こうなった以上は通用しない」
トウマは、険のある瞳でネイアードをじっと見つめた。
ここですべてを任せられるようだったら、建国なんてしない。すべてを投げ捨てて、ミュリーシアとどこかに隠れ住んでいただろう。
「それに、千載一遇のチャンスだと思うけどな」
「勝算があると?」
「ああ。樹木も、神も生き物だ。なら、不滅の存在じゃない」
負の生命力が司るのは、老化、腐敗、停滞、衰弱。そして、エントロピー。
この世界では、文字通りの意味で神は死んだ。
神ですら、死は避けられないのだ。
もはや、神ですらない。零落したなれの果てである天使の樹が、その例外であるはずがない。
「要するに、あの樹を枯らすことができるということだ。俺とネイアードでならな」
「……零落したとはいえ旧き神。ただの力だけでは、どうしようもできないでしょう。忌々しい話ですが」
ヴァレリヤとしても、光輝教会のみで挑み敗北するとは思わない。
しかし、聖剣軍がモルゴールで受けた被害が回復していない今、そんな冒険に出るのは難しいことも理解していた。
「少数精鋭による事態の解決は、我々にとってもメリットが大きい」
「俺の見込み違いなら、そう言って欲しい。勝算がないのなら、俺だって無茶はしない」
トウマがネイアードを見つめる先。
天使の樹とその周辺では、 こうしている間にも誕生と死の輪廻は留まることなく続いていた。
天使を一体始末するまでに、ネイアードがその数倍は犠牲になっている。
終わりなき人海戦術。
「こう言ってはなんだが、じり貧なんじゃないのか? 今までの献身には敬意を抱くが、もしこれが破綻したら人間も“魔族”もなくなるだろう」
トウマが、ネイアードとの距離を詰める。ヴァレリヤは、なにも言わない。
訪れる沈黙。
それは、すぐに破られた。
「……キョウリョクシテホシイ」
「ありがとう」
意識せず、感謝の言葉が口をついていた。
それで、トウマは本心に気付く。
ミュリーシアが、レイナが、ノインが。
天使の光線を受けて作り替えられたらと思うと、ぞっとする。
だから、天使は倒さなければならない。
影で活動してきたネイアードへの尊敬の念と同時に、利己的な動機があったのだ。
「……どうやら、俺はわがままな人間だったらしい」
「セイジンクンシヨリ、ヨホドコウカンガモテル」
「わがままを言ってほめられるのは、初めてだな」
初めてなのは事実だが、ミュリーシアやレイナやノインにわがままを言うと結構喜ばれるという事実をトウマは認識していなかった。
使い捨てられた勇者の意識は、使い捨てた側に向いている。
「ヴァレリヤ、協力してもらうぞ」
「つまり、露払いをせよというのですね?」
「神命への協力は、誉れあるものだと聞いている」
「当然です」
挑発に乗ったわけではない。
光輝騎士として、当たり前のこと。
その前には、死霊術の行使もネイアードとの協力も些末事。
すべては、事が終わった後に神が判断すること。
「一刻の猶予もないというわけではなさそうですが、ドラクルやレイナに出てこられても面倒ですね」
同じ話を繰り返すことになるだろう。それくらいならばいいが、盛大に反対するはずだ。
それは、面倒だ。
「俺としても、シアや玲那が天使化するような危険は避けたい」
「いいでしょう」
兵は拙速を尊ぶ。
トウマとヴァレリヤの利害が一致した。
「神託鎧装」
ヴァレリヤは切れ長の碧眼で、天使の樹をにらむ。
旧き神のなれの果て。多頭海蛇などとは比較にならない、神の敵。
異界の神ナイアルラトホテップに成り代わり、神罰を執行するに相応しい存在だ。
「《ナイアル・ガシャンナ》」
短い祈りの言葉が、ヴァレリヤの形の良い唇から漏れた。
その直後、全身が黒いもので覆われる。
鎧の上から、手足も顔も髪も区別なく。黒い皮膜が覆い尽くし、硬質化した。
鎧のようで鎧ではないもので武装したヴァレリヤは、もはや性別も分からない。
「しばらく、一人で相手をしましょう」
「ネイアード、仲間を退かせてくれ」
「ワカッテイル」
波のように泥のように、天使の樹へ迫っていたネイアードたちの動きがぴたりと止まる。
そして、潮が引くようにトウマたちへと下がっていく。
入れ替わりに、ヴァレリヤが飛んだ。
広大な地下空間の天井すれすれを行き、ネイアードの“劣化”の影響範囲を避ける。
それは同時に、奇襲の布石でもあった。
「|平和は我らとともにあり(フリーデン・ミット・ウンス)」
聖句を唱えるた直後、ヴァレリヤが急降下。
全身を伸ばし、右足を突き出して天使の樹の幹に衝突した。
地底に閃光が走り、衝撃で空気が揺れる。
蹴り。
ただの飛び蹴り。
それはしかし、神蝕紀から活動する天使の樹を大きく軋ませ。葉が舞い、未成熟なまま実を地面に落下させた。
トウマからは見えないが、天使の樹は折れないまでも亀裂が走っていてもおかしくない。
しかし、ヴァレリヤは深追いはしなかった。
神託鎧装をまとったまま蹴りの反動で、距離を取る。
代わりに、天使の実を丁寧に潰していった。
比喩ではなく、文字通り踏みつぶして。
「やっぱり、強い。下手をすると、シアに匹敵しそうだな……」
もちろん、天使の樹も無抵抗ではない。
枝が大きくふくれ、そこから無数に伸びてきた。鞭のようにしなって、ヴァレリヤへと迫る。
レイナの《ビーンズストーク》よりも細い枝だが、数は比べるべくもない。
ヴァレリヤは空を縦横無尽に飛んで、その波状攻撃を回避する。
それどころか、逆に枝を掴んでそのまま飛び去り引き抜きまでした。
それでさらに葉が落ち、だが地面には落下しなかった。意思を持つように宙を飛び、刃となってヴァレリヤを襲う。
枝と葉とで、辺り一面が制圧された。
さすがに、それには抗しきれない。
「くっ」
天使の樹の枝が初めて光輝騎士を捕らえ、蠅のように叩き落とす。その無防備なところでさらに枝が四肢に絡みついた。
触手にも似た枝で拘束されたヴァレリヤ・イスフェルト。
その無防備な体に、天使の樹の葉が殺到し神託鎧装を無惨に切り裂く。
闇の中、白い素肌がのぞいた。
「ヴァレリヤ、大丈夫か!?」
「手出しは無用」
ヴァレリヤの体が光に包まれた。
光輝騎士と呼ぶに相応しい、白く美しい輝き。
即座に神託鎧装は再生。
ヴァレリヤに触れている枝や葉が、ぼろぼろと灰になっていく。
神気を全身にまとい、返しとばかりに正面から天使の樹を殴りつけた。
再び、地の底が鳴動する。
「アツマッタゾ」
「……すごいな」
気付けば、ネイアードたちが一塊になっていた。
比喩ではない。粘体がひとつの大きな塊になって、地下空間の一角を占拠しているのだ。
「まずは、負の生命力を充填させてもらう」
ネイアードの“劣化”が、石には通じないというのは事実なのだろう。
トウマは、ごつごつとした地面を歩いてネイアードの塊へと近づき。
おもむろに、《エボン・フィールド》を解除した。