104.地底の旅路
「ここがどこか、聞いてもいいか?」
「…………」
一定の距離を保ち、両者ともに近付こうとしない。
かといって、トウマはもちろん。ネイアードのほうも立ち去ろうとはしなかった。
完全に拒絶されているわけではない。それは一人になったトウマの希望となった。
「なら、仕方ない」
帰り道を聞きたかったが、明かせないようだ。彼らの本拠地につながる情報だろうから、慎重になるのは当然だろう。
「残念ながら、そこまでの信頼関係は築けていないからな」
闇の中で、トウマは腕を組む。
現状認識と反省は終わり。ここからは、行動の時間だ。
「せっかくだ。さっきの話の続きをさせて欲しい」
「…………」
「ああ、そうか。あの天使なら、俺の仲間たちが倒してくれた。もう、心配ない」
「ソウケイニスギル」
早計に過ぎる。
その意味を考えようとしたところ――
「興味深い話ですね」
――トウマの背後から、銀で作った鈴を鳴らしたような凛とした声が割って入った。
「……ヴァレリヤ・イスフェルト」
「無事だったようですね、勇者トウマ・イナバ」
「お互いにな」
見たところ、ヴァレリヤに怪我をしている様子はなかった。光輝騎士の象徴である鎧も、ロングソードも健在のようだ。
「私も気がついたばかりですが、他に誰もいないようです」
「ああ。どうやら、あの爆発でネイアードの領域に飛ばされたらしい」
金髪碧眼の美しき光輝騎士は、納得したようにうなずき。
「なるほど」
流れるような所作で、ロングソードを抜き放った。
「そんな偶然が、あり得るとでも?」
ヴァレリヤがロングソードを振り下ろし、刃となった神気が《エボン・フィールド》を掠めて飛ぶ。
ネイアードは避けようともせず、その怪物のような体に触れる直前。神気の刃は、消滅した。
心なしか、ネイアードの姿が大きくなったように見える。
攻撃を無効化されても、ヴァレリヤに驚いた様子はない。ただ、面白くなさそうに眉をひそめただけ。
「そういうことですか。得心しました」
「どういうことだ、ヴァレリヤ」
「先ほど言ったとおりです。小細工をしましたね?」
「ソノトオリダ」
「なっ――」
そんなことができるのかという驚きと、あっさり認めるのかという予想外。それらがない交ぜになってトウマは二の句が継げない。
「…………」
なにも言わないのは、ネイアードも同じ。
語るべきは語ったと言わんばかりに、洞窟の奥へとずるずると体を引きずって移動し始めた。
「……どうするつもりですか?」
「ついていく」
「同行しましょう。天使を倒しても、神命の見届けは終わっていませんので」
「なら、《エボン・フィールド》の中に入ることが条件だ」
「……信仰心を試しているのですか?」
トウマは、静かに首を横に振った。
そして、後ろにいるヴァレリヤから先を進むネイアードへと向き直る。
「確認したい。死霊術師のスキル――負の生命力なら、記憶を奪うという力を防げるんだな」
「ソノトオリダ」
なんでもないことのように、ネイアードはあっさりと肯定した。
恐らくは、大発見に属するだろう事実。
光輝教会が敵視する、死霊術とネイアードの関係。その情報を聞いても、ヴァレリヤは眉ひとつ動かさなかった。
「分かりました。好きこのんで危険に身を晒す趣味はありませんので」
ロングソードを鞘に収め、ヴァレリヤが《エボン・フィールド》の効果範囲に足を踏み入れた。ただし、そのギリギリから近付こうとしない。適切な距離を取るつもりのようだ。
「フィールドは、俺にあわせて移動する」
「気をつけましょう」
気付けば、ネイアードの姿が視界から消えていた。
やや早足で、闇に包まれた洞窟を進んでいく。
「明かりを、こちらで用意しましょうか」
「ああ、助かる」
「――光よ」
ヴァレリヤが小石ぐらいの水晶球を取り出し、簡単な合言葉を唱えた。
するとそれが光を放ち、光輝騎士の数歩先に浮かんだ。マジックアイテムのようだ。
「これも、移動にあわせて自動的に動きます。持続は一時間ほど」
「助かる」
ヴァレリヤに軽く頭を下げるが、そこでトウマの動きが止まった。
「なにか? ネイアードと距離を取る必要はあるでしょうが、引き離されるのも拙いでしょう」
「ちょっと待ってくれ」
トウマの動きが止まった理由。
それは、ヴァレリヤの美貌に驚愕したから――ではない。
ただ、顔が土埃で汚れていたからだ。
「これを使ってくれ」
それを見とがめ、ハンカチを差し出した。
「不朽属性がついているから、そのまま返してくれて構わない」
「気遣いは……いえ、甘えましょう」
ヴァレリヤがハンカチを受け取り、顔から首筋を拭った。汚れにまみれても美貌は美貌だったが、本来の姿を取り戻しても当然美しかった。
本人もそれほど気にしてはいなかっただろうが、汗を拭えて不快に思うはずもない。
「感謝します」
トウマがハンカチを受け取るため手をさし出すが、もちろん、そのまま返したりはしない。
「洗って返します」
「そうか」
思えば、女性の汗や汚れを拭ったハンカチを受け取るのも、問題があったように思える。
レイナに知られていたら、説教案件かもしれない。
ただ、誰にも知られずハンカチを回収できる可能性は低いだろう。
詰みなのだが、トウマはそれに気付かない。今のこの状況では、むしろ幸いだったかもしれない。
「少し急ごう」
「当然です」
トウマとヴァレリヤ。体力があるのがどちらかは明白。
一方は競歩で、もう一方は軽い早足でネイアードを追いかける。
意外にも、すぐに。トウマの息が上がる前に、追いつくことができた。
「……もしかして、待ってくれていたのか?」
返事はない。
ただ、流れ落ちる皮膚をそのままにネイアードはさらに洞窟の奥へと進んでいった。
トウマとヴァレリヤが、黙ってそれについていく。
ただし、完全に無言というわけではない。
「どうやら、誤解をされているようなのでな。言っておきたいことが、あるんだが」
「こちらも聞きたいことがあります。一度殺されかけた相手を恐れもしなければ、取り入ろうともしない。勇者とは、そういうものですか?」
「ちょうどいい。俺が説明したかったのも、そのことだ」
前を向いたまま、トウマはわずかに口角を上げた。
「俺は、光輝教会とそれに関わる人間を信じてはいない。ただ、ある一点を除いて」
「それは?」
「信仰心だな」
ヴァレリヤは足を止めない。
そのままトウマの言葉の意味を考える。
「信仰に適うならば、公平な扱いをすると評価しているのですか?」
「この絶好のチャンスに、俺を殺す素振りも見せないのがその証拠じゃないか?」
「当然です」
「信仰で人を殺すのなら、信仰のために不利益でも約束を守る。そう信じているわけだ」
「個人ではなく、信仰心を信頼していると」
「ああ。もし裏切られたら、俺の見る目がなかっただけだな」
ネイアードを追って歩くトウマには、怯えも気負いもない。
これが腹芸だったら、大したものだ。
ヴァレリヤは、トウマの評価を密かに変更していた。
評価を変えるに至った理由は、もうひとつある。
信仰心を信用する。
神に仕える者に、これ以上の殺し文句があるだろうか?
「その上で言うんだが、玲那を守ってくれてありがとう。礼を言う」
「やはり、理解できないですね。勇者だと持ち上げた挙げ句、殺そうとした相手に言うことですか?」
「それとこれとは、別の話だからな」
籠手で覆われた指を唇に触れるか触れないかのところにやり、はっと顔を上げた。
「是々非々。それを、教会とそちらの国の間にも適用したいということですか」
「意地を張って敵対するのは、もったいない。信用できない相手だと思って、お互いに利用する分には腹も立たないだろうしな」
「光輝騎士団の副団長といえど、そのような権限はありません。決められるとしたら、神と。その地上代理人である教皇猊下のみです」
「なら、その一柱と一人によろしく伝えて欲しい」
親戚に就職の世話を依頼して欲しい。
その程度の気安さで伝えられ、さしものヴァレリヤも押し黙る。
言葉もなく進むこと、数分。
トウマもヴァレリヤも沈黙は苦ではなく、気詰まりもしなかった。
「なんにせよ、帰還したら報告するしかないでしょう。すべてを」
最後にヴァレリヤがそう言ったところで、ネイアードが立ち止まった。
「ココダ」
たどり着いたのは、地下の大空洞。
地底湖よりも広大なそこには、常識が崩壊しかねない光景が広がっていた。
「なんと、冒涜的な」
「もしかして、これを見せたかったのか?」
「……天使の自爆にかこつけて、代表者を招待したということですか」
陽の差さぬ地で、どうやってここまで成長したというのか。
地上ではそうは見ない。見上げるほどの巨木が生えていた。
当然、レイナの《ミリキア・レギア》とは違い実体がある。
そして、奇妙にねじくれ陰鬱で、枝からはいくつもの実が生っていた。
しかし、真に衝撃的なのはこれからだ。
巨木と、その周囲に群がるネイアードたち。
アメーバ状になって、ひとつが全になり巨木へと波のように迫る。
その時、巨木に生っていた実が地面に落ちた。
卵のように実が半ばから割れ、そこから白いナニカが現れた。
「天使……」
先ほど相対した天使だ。
生まれた直後、飛び立とうとした天使に粘体の怪物――ネイアードが取りつく。
醜悪で、目を背けたくなるような捕食行動。
天使が抵抗し、ネイアードが何体も折り重なって押さえつける。
どれだけ、それが続いただろうか。
やがて、動きが止まった。
消滅したのだ。
「天使の樹……とでも言えばいいのか?」
「まさか。神蝕紀からずっと、存在していたと?」
「レイラクシタ、カミ。ソノ、ノナレノハテダ」
零落した神。そのなれの果て。
無機質で、感情のこもらぬネイアードの声。
しかし、今この瞬間だけは憐憫と侮蔑が入り交じっているように思えた。