24話目 真実の過去
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「兄さーん! 木苺がたくさんなってる! 採りに行こうー!」
「わかった、わかった。母さん、行ってくるよ」
「気を付けなさいね。特にオルト、あなたは常にその姿でいるのよ?」
「はいはい」
そこにあるのは、彼らにとってごく普通の幸せな日常だった。五歳になって活発になりすぎている妹の面倒を見るのは、もっぱら兄の役目である。というのも、父親の具合が思わしくなく、母親が付きっきりで看護をしているのだ。
父親の名をシクロ。
母親の名をメチル。
二人はいわゆる異種同士の婚姻だった。父のシクロは大きな大きな黒狐で、森にある大樹よりも長く生きているという神に近い魔獣だ。その逞しさたるや、人間の姿に化けると身長二メートル近くになり、筋肉という筋肉が盛り上がっていて、まともな服など入らないほどである。褐色の肌に腰まで伸びた長い黒髪は、人間の様相をもってしても、魔獣の迫力を隠せなかった。
けれどここ数年は、もう人の姿にさえなれなかった。
シクロ用に設えた巨大なベッドでは足りず、シクロは納屋に敷き詰めた干し草の上で一日を過ごしている。寝息だけでメチルのスカートを巻き上げてしまうほどの巨体を延命できたのは、ひとえにメチルの持って生まれた底なしの魔力のおかげだった。
使っても放出しても底が見えない魔力は、迷い込んだ森で格好の標的となった。襲われ続けた魔獣から一喝で護ってくれたのがシクロだ。
それから二人はずっと一緒にいるし、メチルは恩義をもってシクロに接している。だからまる一日治療魔術を使っても、なにも苦ではなかった。
オルトが人の姿に化ける技を覚えるのが早くて助かった。
そうでなければ、メチルはテトラの世話に、シクロの看病にと、それはそれは目まぐるしく働かなくてはならなかった。
「……テトラの匂いがする……」
眠っていたシクロが、のっそりと首を上げた。そうすると、もうメチルの頭よりずっと上に顔があることになる。
「テトラはオルトと遊びに行きましたよ。木苺を採ってくるんですって。ふふ。きっとまたお洋服をいっぱい汚してきますよ」
テトラを身籠る結果となったあの日。
あれは、迂闊な行為だった。
シクロと二人で生活するようになって数年経ったある日、森に侵入者があったとシクロが嗅ぎ付けた。魔術師の大群だそうだ。神聖な森の魔獣を、人間の都合で邪魔だと判断したのか、どうやら一掃に来たらしい。
メチルは探知がひどく苦手だった。だから強い魔力がどこにあるのか、誰にあるのかまったくわからないし、そのうえ、自分の力もわからなかった。
魔獣を避難させるといって消えたシクロを見送って、オルトを納屋に隠した。皆が無事であればいいと呑気にも外で祈っていると、闖入者があった。
魔術師だ。
そこに運悪く美しく強いメチルが無防備にいる。
あとは、襲われて呆然と天を見上げるだけだった。
冷静になって考えてみれば、あの魔術師は魔力を追ってきたのだ。強い魔力の根源に魔獣がいるだろうと考えて。けれどそこにいたのは女で。
なんて愚かなのかしら。
どうして私ったらこんなに馬鹿なのかしら。
戻ってきたシクロがすべてを察して魔術師を皆殺しにしたことは、他の魔獣から聞いた。
それでも二人はテトラを愛した。子どもにはなんの罪もないから。
襲うほうが悪なのだ。
襲われるほうが自分を責めることは間違っている。
シクロは何度もそう諭して、メチルを抱き締めた。
メチルは家族をこよなく愛していた。命に変えても守ると、テトラを産んだその日に誓ったのだ。
「テトラの匂いだ」
シクロはまだぼんやりと呟いていた。メチルは苦笑する。この頃は物忘れがひどくなって、ぼーっとしていることも増えた。
寿命なのだろう。
彼は長く生きすぎている。
メチルと一緒になろうと思ってくれたのも、自分に残された時間はそうないと感じていたからかもしれない。
「テトラなら木苺を──」
「血の匂いだ」
「──なんですって?」
笑顔がすっと失われるのを、メチルは感じていた。それと同時に寝たきりだったシクロが立とうと前足を起こしているではないか。
「あなた! そんな体じゃ……!」
「行くぞ、行かねばならない」
ぐらぐらと巨体を四本足でやっと支えられたシクロはメチルを背中に乗せて、あっという間に納屋の扉を突き破った。
どこにこのパワーが残っていたのだ。
一言話したら一日寝てしまうような体力だったのに。
メチルは驚くと同時に怖くなった。これだけシクロが命を燃やすほどのことがテトラとオルトに起きているのだろうか。
シクロの背中が大きく上下する。
はっはっ、と舌を垂らしながら全速力で森を駆ける。
ふと、視界の端に黒い影がちらついた。
オルトだ。オルトが魔獣の姿になって吠えている。その前にいるのは──魔術師だ!
「いたわ! あなた、あそこよ! あそこ!」
言うと、シクロはぐんっと力を込めて方向転換した。
魔術師の手には剣に魔石を嵌めた討伐用の魔道具がある。あれでオルトを殺そうというのだ。
途端、メチルは耳を塞いだ。
耳を聾する直前、シクロが咆哮をあげたのだ。それは怒りに燃えた魂の雄叫びだった。
魔術師は、まだ小さなオルトなんかではなく、憤怒に燃ゆるシクロへと矛先を向けたがその顔は蒼白そのものだった。
勝てない。
強敵だ──。
そんな言葉が如実に表情に出ている。
ひと呑みだった。
耳まで裂けた大口を開けて、シクロは魔術師をがぶりと口に頬張った。咀嚼をするバリバリという音が振動と共に伝わるのがメチルは不愉快だった。メチルはシクロの背から降り立ち、震えて腰が引けているオルトを抱き締める。シクロの足ほどしかない幼い黒狐は尻尾を垂らしてぴったりと体に巻き込んでいた。
「怖かったわね、怖かったわね。もう大丈夫よ。テトラは? テトラはどうしたの?」
オルトは魔獣の姿のまま答えた。
「魔獣に誘拐された子だろうって、保護するって、五人くらいの男に連れて行かれた」
メチルが振り返った先に、もうシクロはいなかった。
どこにテトラがいるのかを、既に知っていたのだろう。巨体を上下させて一心不乱に駆けていた。
「行かなくちゃ、テトラを連れ戻さないと!」
「わかってるわ。怪我はないわね? 行きましょう。さあ、走って!」
二人は必死にシクロを追った。シクロの姿が見えなくなっても、大きな足跡が道を教えてくれた。
遠くで悲鳴が聞こえる。男達の声だ。
断末魔の声がなり止むのとほぼ同時にメチル達はその場に到着した。
テトラとシクロがいた。
シクロは大きな狐の姿のまま、納屋でそうしていたように伏せて目を閉じている。その鼻先にテトラが座っていた。テトラは激しく抵抗したのか、引っかき傷や打撲だらけで頬が腫れていた。
「……父さん、眠っちゃった」
テトラはシクロの鼻をしきりに撫でていた。そのテトラの髪や服が揺れていないことに、メチルは気付いていた。
あれだけ大きな吐息がないことを、メチルは気付いていた。
メチルは微笑んだ。
最期まで娘と息子を守り抜いたシクロを夫としても父親としても男としても、誇らしく思った。失った悲しみなんかで、その誇らしさを殺してはならない。
笑いながらテトラの頭を撫でる。
「ええ。眠ったわ。父さんは、もうずっと、眠ることにしたのよ」
「起きない?」
「起きない」
「声は聞こえてる?」
「わからない」
「父さーん! ありがとー!」
垂れた耳に向かって叫ぶテトラの無邪気な姿に、メチルはとうとう耐えきれなくなって泣いた。
命にかえても守ると誓ったのに、守ってくれたのはまたもやシクロだった。
なんて私は無力なのか。
愛する人ひとりさえ守ってやれない。
打ちひしがれてシクロの毛並みに埋もれると、まだ暖かかった。
「母さん、危ない!!」
そのとき、メチルの前に立ち塞がったのは誰だったのか。
小さな白い、ふっくらとした手を握り締めると、愛しさが溢れて頬が緩んでしまうくらい愛する子。まだまだ顔の丸い可愛い娘。
その背に守られているのは、もしかして私か?
テトラの胸に突き刺さる矢に絶望を見る。
その先に立つ弓を持った騎士に、憎悪を見た。
「なんていうことを!!」
崩れ落ちるテトラを抱くと、オルトが牙を剝いて騎士に向かっていった。
「やばい! 女の子のほうを殺しちまった!」
「心臓には当たってないさ! 出直すぞ! あとで保護しに来よう!」
数人いた騎士達は、おそらく魔術師達の補助に来ていたのだろう。メチルが魔獣をけしかける悪女にでも見えたのだろうか、矢を放ったものの、テトラが庇ってくれたことで結果的に惨事を招いた。
騎士達を追い払ったオルトがそのまま駆け戻ってくる。ぺろぺろとテトラの白くてふんわりとした頬を舐めた。
「テトラ、痛い? 痛むの?」
テトラは目を覚まさなかった。
「……だめよ、そんなの絶対にだめ!」
シクロが最後の命の炎を燃やして、燃やし尽くしてまでも助けたのだ。それを私を守るために手放すですって?
ふざけないでよ。
メチルはテトラの胸に刺さる矢を抜いて、胸に開いた穴に掌を置いた。
「聞いてほしいことがあるの、オルト」
「テトラ。テトラが起きないよ。テトラ」
「オルト、聞きなさい!」
普段、けっして怒鳴ることのなかったメチルが声を張り上げると、オルトが腰を引いて驚いた。
その黒々しい瞳を見つめて、言う。
「母さんも眠るわ」
「……どういうこと?」
「もう父さんと母さんはいなくなるの。オルト、あなたがテトラを守るの。守り抜くのよ!! わかった!?」
「わ、わかった」
「絶対に兄妹離れ離れになっちゃだめよ! あなた達はふたり一緒! ずっと一緒! 守り切るの! いいわね!?」
「わかった、や、約束する」
メチルはふっと微笑んで、小さな黒狐のオルトを抱き締めてやった。
シクロの香りにそっくりだった。
そしてメチルはテトラの体に全魔力を注ぎ込んだ。自分の力が未来永劫、娘を守るように。
娘が自分で自分を守れるように。
娘が、強くなれるために。
これを、魔力置換という。
魔力の持ち主を置換する魔術で、国の承認が得られなれば発動させてはならない禁忌魔術のひとつだ。
メチルにはそんなこと気にしていられない必死さがある。
大空よりも底なしの魔力全量、最後の一滴までテトラに与えると、メチルはそのまま瞑目してシクロの横腹の部分に倒れ込んだ。
伏せて眠るシクロと、シクロを背もたれにして安らかに微笑む二人は、まるで木漏れ日を楽しむ二人のようだった。
オルトはメチルの頬を舐めた。だらりと垂れ落ちた手に鼻を突っ込んで頭に乗せてみても、もうその手は頭を撫でてはくれなかった。
オルトはシクロの背に乗って、耳を噛んでみせた。じゃれあってくれる動き一つさえなかった。
オルトの尾は箒みたいに地面に垂れ下がっていた。
ずっと目の前に立ってくれていた両親がいなくなって、自分が先頭に立つ不安がいっきに湧き起こる。怖くて堪らない。
けれど、いつまでもここにはいられない。
オルトはしばらくの間、メチルとシクロの間に僅かにある隙間に丸くなってじっとしていた。
少しして、二人の体が冷たくなってくると、本能が無駄なのだと教えてくる。
二人は死んだ。
オルトはまだ寝転んだままのテトラを器用に背に乗せて、家へと戻り始めた。
少し歩いて振り返ると、いつも薄暗い納屋で見る仲睦まじい両親が天日に当たって気持ち良さそうだった。
それが最後だった。
それから、逃げ仰せた騎士からの情報で幾度も襲撃を受けたが、オルトは一度だってテトラに怪我をさせたことはなかった。
母親譲りのとんでもない魔力を有するテトラが、自分の力に気付かぬまま、何度も命からがらに魔術師達を撃退するオルトを目の当たりにして、自分の無力さを責め続け、『稠密六方格子の棺』を知って最強魔術師を目指すことになるのは、それからしばらくしてからだった。
呪文を彫らせ終えたその日から、オルトの中にある魔獣の魂を自分に封じ込め、オルトの記憶を改竄した事実をひた隠しにしてきた。
禁忌を犯しても家族を守ろうと動くのは母親そっくりなのだと、兄妹二人共、知らなかった。
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