23話目
骨の軋みが聞こえる。それは抑えきれないほどの憤怒によって握りしめられた拳が鳴ったものだった。
人工的に入れられた墨による、真っ黒な肌の拳。
人が見れば、さぞや不気味で不愉快に思うことだろう。
人間が魔獣を見るときと同じように、化け物と侮蔑されるやもしれぬ。
それでも構わなかった。
ただひとり、兄さえいてくれれば、テトラはそれだけで幸せだった。
それなのに。
テトラはぎしぎしと首を回して、傷だらけのヘキスを睨んだ。
そして獣のように低い姿勢からヘキスに飛び掛かる
「殺してやるッ……!!」
胸倉を掴み、魔術を発動させようとした。どんな魔術でもよかった。ヘキスの要らない言葉でぶち壊された人生に見合うだけの苦痛を、ヘキスに与えられるのならばどんな代償を払う魔術でも使ってやる。
だが、使うには至らなかった。
胸倉を掴む指先から、服が溶けるようにして千切れたからだ。
はっとして掌を見る。肌が露出した掌に乗る白の衣服が、熱い紅茶に入れた砂糖みたいにみるみる溶解していく。
「……なんだ……?」
蒸発したのではなかった。テトラの肌が服を吸収したのだった。
パラがはっと息を呑む。
「まずい! 均衡が破れたんです! 今までは体内に封印していた魔獣の魔力を呪文が食っていたからこそ、体に刻まれた呪文と共存していました! それなのに──」
「魔獣がいなくなったら──」
「テトラの命を喰らい始める!!」
「皆、テトラに魔力を注ぐんだ! なるべく多くの魔力を!!」
四人がなにかを話しているのがわかる。
けれど、テトラには言葉の意味が理解できなかった。ぶつぶつと途切れる言葉はどこか不快で、次第に大きくなる耳鳴りが邪魔をする。ついにはなにも聞こえなくなった。
そこは真っ白な空間だった。
上も下も右も左もない、ふわふわとしたただの空間。影も光もない。痛みも苦しみもない。無の世界。
私はとうとうここまで来たのか。
いずれ、この思考さえ無になるのだろう。
そして瞼を閉じて、ひたすら眠り続ける。
なにも感じず、なにも考えず、この空間の一部に溶け込んで無限の時を過ごすのだろう。
それもいい。
ひとりぼっちだというのなら、無いのと同じだ。
テトラはそれがなにか動物の腹の中のように感じられた。食われたあとの、つかの間の安寧。
もう、終わりだ。
そっと目を閉じようとした──
「……!」
なにかが聞こえた。
ここには誰もいないのに?
ひとりぼっちの、ただの空間なのに?
「テトラ!」
その名は、兄しか呼んではくれないのだ。
兄か?
兄がいるのか?
どこに?
テトラは閉じかけた目を剝いてオルトを探した。
遠くに黒い塊があるような気がした。狐だ。濡羽色の黒い狐が遠吠えするように鳴いている。
泣いているのか?
助けなければ。
助けてやらなければ。
兄さん。
「テトラ!! 時間回帰を!!!!」
はっとした。
もうそこは白い空間などではなかった。オルトが宿す魔獣に破壊し尽くされた、ベンゼン国の魔術団の施設だった。壊れた天井が目に入る。
テトラは正六角形の中央で、天に献上する贄のように浮かんでいた。
正六角形をぐるりと囲むように立つのは、魔術団員の全員だ。何十人という魔術師達が必死にテトラに魔力を送り続けている。彼らの滝汗たるや、限界が近いことを物語っていた。
「……時間、回帰を……ッ!」
パラの苦しそうな顔が、オルトのそれと重なる。
テトラはほぼ無意識に自分で自分を抱き締めた。指先に力を込めると、音もなく風がテトラの足先から絡み付いて這い登ってくる。
風に包まれたテトラは、自分の肌が元通りになっていくのを感じた。
足先から、だんだんと温かくなってくるのだ。
そうして全身が暑くなると、風がふっと急に止む。
浮いていた体が床に着くと、すぐに起き上がった。久しぶりの自分の腕をまじまじと眺める。こんなに、白かっただろうか。
その様子を見ていた魔術団員達がばたばたと倒れていく音がする。
最後まで立っていたのは、ヘキスだった。
「……ごめん……」
それだけを呟いて、ペンターに覆い被さるようにして倒れた。
魔術師達が折り重なっている。その中央に、ひとり立つテトラ。
これだけの人数がいて、これだけ静かなのは不穏でしかなく、落ち着かない。
とにかく皆を治してやらねばならぬと、天に向かって十字を切った。
「……よかった、使えた……」
魔術は無事に発動した。
皮膚が元の色に戻っても、魔術団員からの供給がなくても、広域治療魔術は難なく動いている。風車みたいに回る十字が彼らの疲労をすべて吸い尽くしていく。
魔獣がいなくなって、呪文が消えても、魔術の衰えがない。
その意味は、まだ考えられなかった。
もしかすれば、自分の命は短いままなのかもしれないという考えがよぎったけれど、それよりも魔術を使えることに安堵した。目的さえ達成すれば、魔術などどうでもいいと思っていたのだが、オルトがいなくなってしまったとなるとそうもいかない。
オルトを見つけるまでは魔術はまだ必要だ。
テトラは倒れたままの魔術団員を見渡す。
正直なところ、クソ野郎のせいで助けなくてはという高尚な気持ちはないのだが『稠密六方格子の棺』のことを考えると、助けておかなければならない。
すぐにでもオルトを追いたいのに。
あの姿で誰かに見つかって討伐されてしまわないだろうか。罠にかからないだろうか。人間に化けて見せることを覚えているだろうか。
大丈夫。オルトはきっと逃げるはず。
そう思わなくては、堪えられなかった。
「……クメン達を呼んでこよう」
魔術を使って運ぶより、筋肉に頼るほうがいいと判断する。
「兄さん……」
テトラは脱ぎ捨ててあった詰襟を羽織って、しばし呆然と立ち尽くしていた。