15話目 残された時間
「世界一にならないと、あと一年でテトラは死ぬんだ」
オルトに差し出されたハンカチで口元を拭う。ぐっしょりと赤黒くなったハンカチはすぐに使い物にならなくなった。拳の中に隠すみたいにハンカチを握り締めてはみたが、指の隙間から血が滴り落ちていて、まるで取り出したばかりの心臓を握っているようにも感じられる。
テトラを見るオルトの目は、打ち明けるぞ、というお窺いの眼差しだった。
テトラは簡単に頷いた。
「世界一になると、あるものが手に入る。それを使えば、テトラは生き延びられるらしいんだよ。そうだよな、テトラ?」
頷いた。
とにかく、空腹だった。
自分の中にいる魔獣の部分が、いつでも飢餓を訴え続けてくる。食べないでいると、テトラの生命そのものを蝕み始めるのだ。そうして、きっと気付かぬうちに体を乗っ取られるに違いない。
「あるものが何なのか、テトラは教えてくれない。けど、テトラが生きるためには、もう、それしかないんだ」
「だから、通して欲しい……。少しでも早く世界一になって、少しでも長く、兄さんと過ごしたいんだよ」
メタも誰もなにも答えられない顔だった。このテトラの様子を見れば、それが嘘ではないというのは一目瞭然だ。出会ったばかりの旅人に、我が国のために死んでくれとは、さすがに言えない。
テトラはまだ頭の中がゆっくりと振り子のように揺れているのを感じた。人間と魔獣を行き来する憎き振り子だ。
「兄さん、ごめん、お腹空いた」
「わかった、すぐに持ってきてやるから、座ってろ。どれだけあれば足りそうだ?」
「……わからない……今日はちょっと、調子が悪い」
「わかった。おとなしく待ってろよ?」
「どこにも行かないよ」
昨日のポリマーを倒したときの魔術が久しぶりに強かったか。最近は静かだった野生が、今日は解放しろと、やけにうるさい。食堂へと駆けていくオルトの背を見送りながら、胡座をかいた。
「魔獣とのハーフに、世界制覇の資格があると思ってるのか」
重い雰囲気のさらに沈んだところを這う低い声は、へキスから発せられていた。
腹からせりあがってくるゲップを胸のあたりで堪えると、苦しくて自然と顔が歪む。その瞳でへキスを睨み付けると、へキスは半ばヤケクソになって言った。
「ハーフであると、各国に報告する」
諌めたのはパラとペンター、そしてメタもだった。
世界制覇は純然たる人間でなければならないと資格が定められているのだった。
「お待ちください、へキス。それは倫理に反する行為です。いくらなんでも!」
「助けてもらったくせに、なに言ってんのさ!」
「それは、あまりに不義理すぎるぞ」
だが、三人に詰め寄られてもへキスは諦めなかった。
「俺が報告をすれば、その左胸にある四九個の国章は無効となり、お前は世界制覇できずに近々死ぬことになる。そうだな?」
「……そう」
「死ぬことは間違いないか」
「そう」
「お前の中の魔獣が強くなって、完全に支配されるか、先に人間であるお前の体が壊れるか、どちらかなんだな?」
「そうだ」
「なら、ハーフであると秘密にしてやるから、この国を守ってくれ」
言われ、テトラは思わずきょとんとしてしまった。
へキスが放った言葉の意味を理解すると、大声で笑い始める。しばらく笑って、落ち着くとへキスを上目で見遣る。
「ほんと、この国、性格悪い人、多すぎじゃない?」
◇◆◇◆◇◆
「世界一になってからでも構わない。ベンゼン国に戻ってきて、騎士団と魔術団の訓練をしてくれ」
「制覇した瞬間、逃げ出すとは思わないのか?」
「俺とパラが送迎する。パラは探知に関してはこの国一番の実力者だ。絶対に逃さない。門扉の察知魔術も、パラが施したものだ。見破ったのは、俺が魔術団に所属してからならテトラが初めてだ」
「……確かに、あれはよく出来てた。いい匂いがした」
「匂い?」
「……いや、なんでもない」
そこへオルトが両手いっぱいのトレイに料理を乗せて戻ってきた。まさかの玉座に続くドアを足蹴にして入室してくるのだから、さぞや王はお怒りだろうと振り返ってみると、もうそこに王は座っていなかった。
よほどこの四人の魔術団員を信頼しているらしい。あとはうまくやるだろうと考えて、さっさと自室に戻ったに違いなかった。
じかに床に置かれたトレイにはパンやら塩漬けの豚肉やら卵やらサラダやら、ケーキやらが乗っている。テトラはカトラリーを使わずに、手掴みでそれらを口に押し込んだ。
いつになれば、この体は満足するのか。
食べても食べても空腹であるこの体は、なにを喰らえば満たされるというのだろう。
「まだ持ってくるか?」
「わからない。でも、今は傍にいてほしい。ひとりは嫌だ」
「わかってるよ」
オルトがテトラの頭を撫でようと伸ばした手を、引っ込めたのをテトラは見ないふりをした。オルトには魔力を無力化する特別な手袋を渡してある。だが、それはテトラが発作を起こしたときのみ使用するのを約束していた。そうでなければ、テトラの魔力がオルトを無自覚で傷付けてしまうおそれがあったからだ。
そのとき、喉に違和感を覚えた。ひりひりと焼け付く、妙な感覚だ。
今、口に押し込んだのはケーキだった。美しく装飾されたブラックベリーのケーキ。
パンと肉の中でやけに異様な存在感を放っていた、このケーキ。
「兄さん……このケーキ、誰が作ってくれた……?」
「え? 勝手に厨房の奴が乗せてくれたけど」
テトラは胃の腑からケーキを吐き出しながら笑った。
今日はよく笑う日だ。しかも、全然面白くない。
笑うのに苦しさなんて感じなかったあの日々に戻りたい。
絨毯に吐瀉物が広がり、オルトはその理由を察した。常に飢えているテトラが食べ物を吐くわけがないのだ。
「水だ! 水を寄越せ!」
テトラは嘔吐したヘドロみたいなケーキを掬い上げて、独り言のように呟いた。
「どうやら、国を守って欲しくない奴がいるらしい」
毒だ。
言うのと、四人の魔術師達が駆け寄ってくるのは同時だった。
普段のテトラであれば、これしきの毒は体内の魔獣が勝手に飲み込んでくれた。だが、今日はタイミングが悪すぎた。抑え込んだ魔獣はふてくされているし、体力を使い果たしてしまっている。
じわじわと毒が血流に乗って体を巡るのを感じる。
熱い。
魔術師達の白い服に刺繍された金色の唐草模様が、どうしてか天使の羽根に見えた。