1話目
テトラが『不触の魔術師』と囁かれ始めたのは、七年前からだった。
誰にも触れず、誰にも触れさせない黒ずくめの魔術師。
温暖な気候になっても、裾が脹脛にまで届くほどの詰襟長袖を着ている色白の女。
それがテトラ・トルーシェ、十八歳だ。
「……誰も来ない」
広大な闘技場の真ん中で、木枯らしが吹き抜けていくのを見つめる。本来ならば対戦相手がとうの昔に登場しているはずなのだが、待てど暮らせど誰も来ない。文字通り、テトラは待ち呆けていた。
首を巡らせれば、闘技場を囲うように造られた観客席は満員御礼状態。
始まりはシンと静まり返っていたにも関わらず、雑談が増えている。これだけの人数が蠢き、声を上げると、ひとつひとつは小さくても中央に立つテトラには集約されすぎてなかなかどうしてうるさい。あまりにも『待て』をされて飽き飽きしたと見える。
どうするのだと、近くに立つ審判に目をくれると、審判の目がきょろきょろと動いた。
「ちょ、ちょっとばかり、お待ちを。確認して参りますので」
すたこらと走る審判は、おそらくビップ席に向かったに違いない。
ひとり、残されたテトラ。
後ろ手に組みながら深呼吸をする。薄っぺらい胸板にたくさんの酸素を取り込んだ。
ほんのりと、魔力の匂いがした。
少なからず、対戦相手は近くにいるらしい。
なのに──
「なぜ、来ない」
その間にも雑談はどんどんと膨れ上がる。耳朶を震わせるどころか、まるで頭蓋骨を揺さぶられているみたいだ。
少し静かにして欲しい。
その願い、ひとつだった。
深呼吸をした。
先よりも、もっと深く。
力を込めると、胸いっぱいに溜まった空気がぐつぐつと煮えたぎるのを感じる。
ぱん、と弾ける感覚と同時に大口を開けて、天に向かって咆哮した。
それは歪な形をした太陽だった。
だが空を舐めるその動きはさながら生きているみたいで、どこか禍々しい。
テトラが放った業火は昇龍のように一瞬で消えてしまった。乾いた空気が龍の踊りを助けたのだろう。体をくねらせながら、喜び勇んだように消えた。
火炎は同時に静寂を連れてきた。
そこに誰もいないかのようだ。耳鳴りのするほどの静けさに、テトラは満足げに小さく頷く。
ふと見ると、そこまで戻ってきていたらしい審判が蒼白になった顔色で目が合った。かと思うと、また来た道を戻ってしまう。
──なんなんだ……。
炎を憤怒と察したらしい観客席からは、もう雑談は聞こえなかった。
待っていると、今度こそ審判が戻ってきた。結婚式のリングピローよろしく、紫色の小さなピローにテトラが目当てとしていた国章がひとつ乗っている。
審判はテトラの前で膝を付き、ピローを捧げた。
「国王陛下のご判断です。不戦勝という形にはなってしまいますが、この国の全魔術師を凌駕したと、ここにご証明いたします」
不戦勝とは腑に落ちないが、貰えるのなら貰っておこう。
ピローの中央から土色の国章を取り、左胸に着ける。そして無言で踵を返した。
テトラの左胸には、それぞれデザインの違う国章が四八個も輝いていた。
◇◆◇◆◇◆
「不戦勝ぉ!?」
闘技場の外でテトラを待っていたのは、褐色の肌に黒髪黒目を持つオルトだ。二頭の黒馬にそれぞれ跨り、次の国へと向かう道中で事のあらましを説明したのだった。
オルトの頓狂な声で、森の木々にとまっていたらしい鳥達がぎゃあぎゃあと悲鳴を挙げて空に飛び立っていく。彼らの安息に横槍を入れた自覚はないらしく、オルトは大仰に表情を崩してテトラを見つめていた。
「そう。誰も来なかった」
「誰も? ひとりも? マジ? だって……だってよ! 七人の王家直属魔術部隊と戦うはずじゃなかったか!?」
「そのはずだった」
「七人相手に勝ったら、そのバッヂをくれるっていう条件だっただろ!?」
「そのはずだった」
「王サマって奴は、そのバッヂを五十個集めたら世界最強魔術師って認められて、超ヤバい金銀財宝と、超絶すげぇ権力を与えられるって知ってんだろ!?」
「そのはず」
「なのに、そんな簡単にくれちゃっていいのかよ、おいおい……。あと二国でマジで制覇しちまうじゃねえか……」
「いえい」
「いえい、じゃねえよ! 無表情でサムズアップすな! 喜びかたが雑だな!」
テトラの野望まで残すところ二国となったが、素直に喜べないのはそのふたつの国が二強ともいえるほどに軍力を備えているからだ。軍力の強さはすなわち、優れた魔術師がいるという意味でもある。いくら体術に強い騎士団体を備えていたとしても、魔術師がいる国には敵わないからだ。さらに、強い国には優秀な魔術師を引き抜く財力もある。どれほどの魔術師がいるのか、噂には届いているがその実力たるや計り知れない。
しかも国々によって『国章渡し』の戦いを開く条件が違う。
トーナメント戦でトップになってから、ようやく国一番の魔術師と戦えるというわかりやすい条件の国もあったし、影武者百人から一発で本物の魔術師を見つけたら対戦という変わり種もあった。それらを繰り返して勝ち進み、本日めでたく四八個目の国章を手に入れたわけだが、残る二国がどんな過酷な条件を出してくるのか、行ってみなければ皆目検討もつかない。
「次はベンゼン国だったか?」
「そのはず」
「四人のツワモノがいるって国だよなぁ。変な条件出してこなきゃいいけどな。ある国じゃ散々だっただろ。ペアになって洞窟から抜け出せたらオッケーみたいなやつ」
「あれは……最悪だった……」
それはそれは黒歴史だ。偶然、テトラがオルトと旅をしていたからペアという要件はクリアしていたものの、洞窟にはあらゆる罠が仕掛けてあって、戦闘への耐性抜群のテトラにとってしてみればサバイバルは苦手分野で、心底苦労した。今でも思い出すと、うんざりする。あのときはオルトが文字通り大活躍した。というより、オルトがいなければ脱出など夢のまた夢に違いない。
「頼りにしてるよ。兄さん」
「任された。妹よ!」
にかっと歯を見せて笑う異父兄のオルトに、テトラはいつも支えられている。