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ときとりちゃんぴより

前作とはだいぶ趣向を変えて、純文学、青春小説に挑戦してみました。

小説の題材はもう出尽くして書き尽くされた、などと言われているようですが、

いつの時代も青年は悩むし、不幸が世界から消え失せた事も未だにありません。

その意味で、この手の青春小説は需要が無くなることはないのでは、と思います。


どんな感想でも意見でも良いので書いてくだされば嬉しいです。よろしくお願いします。

 雲間から微かに太陽の光が漏れさしてくる歩道を、俯きがちに歩く。住んでいるワンルームマンションから出て商店街へ向かっているのに、全く人に出会わない。遠くから電車の過ぎゆく音のみが聞こえる。鮮やかに、色とりどりに、シクラメンやパンジーが咲いている花壇が並べてある煉瓦造りの瀟洒な喫茶店が目に入った。が、僕の心は何の感興も催さない。口の中に唾が溜まった気がして、溝に吐き捨てた。ふと見上げた高層マンションの向こう側は、澄み切った青が途切れ灰色が広がりつつある。僕は軽く首を振り、履き古した茶褐色のブーツで横断歩道の白の部分を狙って踏みつけるようにして歩いた。やがて目的地である駅前のファッションモールに着き、表通りに面するオープンカフェに入って、黒の上着を脱いで席に座って一息つく。肩掛けのくすんだ鞄から僕は一冊の文庫本を取り出して、それから煙草に火をつけた。本はゲーテの「若きウェルテルの悩み」であった。僕ほど真剣にこの本を読んでいる人間は現在の世界にはいないであろうというほど、切実極まりない想いで読んでいた。あたかも砂漠を放浪していた人間がオアシスを見つけて水をむさぼり飲むかのように、僕はこの物語の一文字、一文章、一ページを咀嚼していた。飢えて乾いている僕は希求していたのだ、生きることの意味を教えてくれる文学を。いや、文学でなくてもいい。誰かに教えてほしかった、なぜ生きるのか、どう生きればよいのか、を。一つ空いた隣の席で、向かい合った四十代ぐらいの女性二人がせわしなく何かを話しているが、僕は全然苦痛に思わない。誰もいない一人の安アパートにいるよりよほどましだ。僕は人に混じりたかった。この数ヶ月間で、まともに話をしたのは未希だけだ。新しい煙草に火をつけて、しばし本を伏せる。目に映る全てのものが、自分自身の思考と全く一致しない。僕が思い煩っているほどには、人々は不幸でも何でもないのだろうか。きっとそうなのだろうな。僕は微かに溜息を吐いて、またページをめくった。アイスコーヒーの入ったグラスの水滴がテーブルに滲んでいる。


 眠れなくて苦しい。未希にラインでメールを送ったが返事はない。毛布にくるまり、胎児のような姿で、死んでしまった母親の事を思い出す。母は僕が小学生の頃に自殺してしまった。彼女を徹底的に追い込んだのは父の不倫や暴力という、救いがたい代物であった。僕の人格形成に一番影響を与えたものは間違いなく母を死に追いやったそれらへの憎悪であろう。思わず僕は布団を抜け出して、ベランダ側の窓を開けた。震えるほどの冷気がゆっくりと忍び込んでくる。僕は構わず煙草を一本吸い、星一つない暗黒の夜空を睨みつける。罪には罰があたえられないといけないのではないか。だが、親父は、再婚して、今も都市銀行の幹部として高給を貰って、自由に放縦に生きている。そして、そのクソ野郎の金で僕は大学に行き、いや、殆ど行っていないのだが、仕送りで日々生活しているという有様だ。僕は耐えられないほどの憤怒で思わず、はあっ、と声を上げた。が、すぐに体の力が抜け、また僕は毛布に包まった。感じているのは、無力感のみ。


 僕はいつからか、欲というものを失ってしまった。欲しいと思うものが全くない。同年代の連中は流行りの服を買ったり、楽曲をネットで手に入れたり、美味しいものを食べに行ったりしているのだが、僕はそういうものに殆ど興味がない。普段買うものと言えば、新刊古本問わず文庫本のみだ。腹が減れば食べるが、それもスーパーで買った総菜と、自分で炊いたご飯などで、要は何でもいい。たまに未希が何か作ってくれるが、それも普通に食べるだけだ。ある夕方、家に来て狭い流しの前で包丁をリズムよく動かしていた彼女とこういう会話をした。

「料理に慣れてるよね」

「わたし、小学生の時から料理してたの。お母さんが水商売で晩ご飯ほとんど作ってくれなかったから」

 その時の未希の横顔を僕は一生忘れないだろう。やや俯き加減で、長い睫毛は動かず、瞳は対象をしっかりと見つめ、高い鼻は白を纏い、唇は柔らかく閉じられ、顎から耳にかけて、なだらかな流線でつながっていた。それを見たとき、僕は、世界には見てはならないもの、聞いてはいけないこと、触れてはならぬ神秘があることを知った。禁忌を破った者は報いを受けねばならぬ。それは僕にとって、母子家庭で育ち、母親が病気で亡くなって高校を中退した後、苦界に堕ちた未希ともに生きてゆくことであった。生きねばならぬ。


にもかかわらず、僕の心は強く前に向くことはない。何かが、生きるための決定的な何かが、なくなってしまっていた。

 

 母にもう一度会いたい、という想いに駆られたことはこれまでに十回や二十回ではない。それと必ずセットで父親に対する憎悪が沸き起こる。親父を殺して死ぬか。そうすれば、天国で会った時に母親も喜んでくれるのではないか。僕は夢想の中で何百回と父親を殺した。だが、現実にはあいつはまだ生きている。そんな時、僕が思い出すのは、新約聖書のキリストの言葉だ。「わたしはあなたがたに言います。自分の敵を愛し,迫害する者のために祈りなさい」このマタイ伝第五章は他にも様々な道徳訓めいた事が書いてあるが、例えば右の頬を打たれたら左の頬を差し出しなさい、などと、およそ実行不可能に思われるような事が書かれていて、僕は聖書というものは究極の理想論を主張している、と思うようになった。できない、と僕はかぶりを振った。僕は、そもそも愛を知らない。愛されたことがない、もしくは愛を認識する前に愛してくれる人、母を失った。


 ある朝僕は、一人で近所にある川べりを歩いていた。コンクリートで整備され、ジョギングコースになっている川の沿道は、年配の人から若い学生風の人まで、いろんな人が走っていた。そこを、くたびれた黒いコートに身を包んだ僕が歩いているのは正直浮いていたが、僕自身は心地よかった。時折吹いてくる風に身を震わせるものの、歩いているうちに体が温まったからか、苦にならなくなった。歩きながら、この川が、かつての戦争で空襲に遭った時、火災から逃げ惑う人々が多数飛び込んで死んだ場所であることを思い出す。僕は階段状になっているところに腰かけて水面を眺めた。せせらぐ水流はただただ穏やかに美しく、昇ってきた太陽の光を受けて透明に輝いている。これほど世界が美しいのに、ここでかつてそんな悲惨なことが起こったとは! 僕はこの頃ずっと、この世界のある種の欺瞞に納得がいっていない。「悲惨」はどこからやってきて、どこへ消えてゆくのだ?ほんの数十年前に、ここで何百人、もしかしたら、もっと多くの人が非業の死を遂げたのに、今を生きている僕たちはそんな事は全くなかったかのように振舞っている。気づくと、一個のペットボトルが目の前を流れて通り過ぎてゆく。僕はこの瞬間、これを見て見ぬふりをしたら嘘だと思った。勢いよく立ち上がり、靴もズボンも濡れるのもお構いなしに水の中に入り、ペットボトルを拾った。そして、怒りに任せて思い切り握りしめた。誰かに、それでよい、と言われた気がした。


 吹き付ける風が肌を突き刺す年の暮れに、未希が旅行に行こうと言い出した。お金がなかった僕は正直にそう告げると、私が全部出すというので、ついていくような気持ちで、いつ買ったのかも記憶にない黒のキャリーバッグに必要なものを淡々と詰めた。


 その日は生憎の薄暗い空模様だったが、未希は可憐な花が咲いたようにずっと笑顔だった。ボア付きの赤いコートが良く似合っている。僕も彼女につられて、何となく楽しかった。帰省の時期だからか、家族連れをはじめとする人混みでごった返す新幹線の駅のホームで待っている途中、彼女は僕に言った。

「わたし、生まれてはじめてよ、自分で行く場所を決めて旅行するの」

「そうなんだ。いや、ひょっとしたら俺もそうかもしれない」

 記憶を辿ると、もちろん学生時代に修学旅行などには行っているのだが、それは誰かに決められた場所に連れて行かれているだけだ。自分の行きたい場所に、か。新幹線が到着したので、僕らはやや急ぎ気味に乗り込み、僕が窓際に座った。途端に、小雨が降ってきて、窓ガラスを水滴が濡らした。


 乗り換えを含めて、合わせて二時間半ほどで、僕らは中部地方の著名な温泉街に辿り着いた。行程の景色が僕が想像していたよりも緑に囲まれていて、鬱蒼とした森林や素朴な田園風景だったので、近代的な建物が多く立ち並ぶ旅館街に辿り着いたときは何かしらの安心感を覚えたものだ。その間未希はスマートフォンを触りながら、今日泊まる旅館の由緒や温泉の効能や出される料理のことなどを取り留めもなく話していた。普段さほど饒舌ではないので、よほど興奮して嬉しいのだろう。最後に乗ったバスから降りて数分歩くと、彼女が見せてくれた画像通りの、門構えや庭造りから貫禄のある老舗の旅館に辿り着く。部屋に案内されて、一息ついたところで未希が早速近場にある有名な滝を見に行こうという。この旅行のイニシアチブは費用も含めてすべて彼女が払ったということで握られているので、僕は唯々諾々とそれに従った。山間だからだろうか、都心にいる時よりもさらに気温が数度も低いような気がする。吐く息が白い中、僕がかじかむ手に息を吹きかけたりしていると、未希が僕の腕にしがみついてきた。僕も気持ち、彼女に寄りかかるようにして歩いた。ふと気づくと、なだらかにカーブを描く山道の前方を二人の男女が同じように寄り添って歩いているのが見える。男は背が高く、女は低いので、その不釣り合いがなんとなくユーモラスに思えて微笑ましくなった。だが、少し経つと、二人の姿が不意に見えなくなった。風がどこからかやってきて、森にひしめく木々がそれぞれにざわめき揺らめく。

「なんだか変だよ」

「……。俺もそう思ったけど、なんだろうね」

 二人とも、その違和感をうまく言葉にし得なかった。やがて彼らが見えなくなった場所に到達したが、その先も同じく一本道で、視界の先に観光名所となっている滝が見える。だが、先ほどの二人の姿はどこにもない。僕らはともかく、滝のすぐ側まで行って、柵に囲まれた小さな公園のようになっている場所で周辺を見渡した。何組かの夫婦や家族連れがいるが、先ほどの二人はやはりいない。頭上を見上げると、遥か高くそびえた崖の上から、勢いよく流れ落ちる水簾が絶え間ない落下音を響かせている。柵から見下ろして流れを追うと、地面の凹凸を縫うように遠く彼方まで川となって流れてゆくのが見える。滝のかなりの迫力に押された僕は、何も言わずにしばしの間、水流を凝視していた。すぐ横で同じように無言で激しく沈む滝を見つめていた未希が、突然あっ! と大声を上げた。その意味は僕にもすぐに分かった。切り立った崖の上、弱々しい日光が、二人の人間を微かに照らしている。あの身長差、まさかさっきの、と言おうとした途端、二人が抱き合いながら、激流の下へ飛び込んだ。僕は思わず目を背けた。未希が見ていたかどうかは分からない。数秒経って、僕は、機械的に、自分の意思とは関係なく、滝の流れ落ちる水面を見た。何もない。何事もなかったように、相変わらず水簾はその勢いを誇っている。遠くから野鳥が鳴いている声が響いてくる。未希が僕の胸に飛び込んできた。全身が震えている。こんな時、いったい何を言えばいいのか? ただ、彼女を精一杯抱きしめる事しかできなかった。


 その夜、未希は床に入った後も眠ることなく語り続けた。その内容をどう判断していいかわからなかったが、淡々と語る彼女の口ぶりから、本当の事を語っているのだけは理解できた。

「一週間に一度ぐらい、ずっと続いている物語みたいな夢を見るのよ。小っちゃい頃からずっとよ。そこでは私は軍か何かの一員なの。自分が何人なのか、何語でしゃべっているのか自分でもわからないの。どちらかというと、誰かの人格を同時体験しているみたいな感じ。でも、何が話されているかは感覚的に分かるのよ。来る日も来る日も誰かを拷問しているの。捕まえられてくるのは大体年配の男。中には若いのもいるけど。顔は抽象的と言うか、のっぺらぼうと言うか。最初は普通に尋問みたいなのをするんだけど、誰も正直に話さないか、激しく否定するかどっちか。そうなると、拷問が始まるの。服を脱がせて下着姿にして、数人がかりで殴ったり蹴ったりするの。私もしているのよ、私も。それから、すごい量の水を飲ませる。そして、残りの水を体にぶっかけて、寒いさむい牢屋に放り込んむ。寒いと人は必死に動き回ったりするのね、それを見て笑うの。そしてまた引きずり出して、今度はロープで縛って、床に転がしておしっこをひっかけた後、逆さ吊りにして、木刀で殴りながら、さぁ本当のことを言え、と言うの。そのとき私がどんなことを思っているかわかる?」

 僕は正直に分からない、と答えた。

「一緒になって楽しんでいるのよ。この悲惨な拷問を。そのうち、拷問を受けている人は気を失ってしまう。そうなったら終わり。みんなして、荷物を運ぶように牢屋に連れて行って放り込んで終わり。そのあと、偉い人の部屋に行って、みんなで一列になって敬礼して、本日の任務終了、と報告して帰宅。ちゃんと家もあって、私はおばあちゃんと二人で住んでいるのね。でも、おばあちゃんには本当の仕事のことは言ってない。言えないよね、拷問が仕事なんて。おばあちゃんは口癖のように孫の顔が見たいというの、そのたびに私は、いずれね、と言って暖炉に薪をくべたりしてる。その家はぼろいんだけど、とても暖かいの。私は夜が更けると暖かい羽毛布団に包まって眠ってしまう。彼が眠りに着いたら、私が目覚めるの。朝が来る」

 そこまで話すと彼女は一緒の蒲団に入っている僕を見つめた。その瞳にはうっすら涙が浮かんでいた。

「ねえ」

「うん」

「子どもがほしい、道宏の。あたらしい命」

 新しい命、という言葉が僕に深く突き刺さった。そして、僕は思わず、反射的にこう言ってしまった。

「僕の血は汚れている。子どもが可哀想だ」

 未希はこんな恐ろしい言葉は聞いたことがない、という表情をして、そんなこと、とだけ言った後絶句した。明かりを全て消した、暗闇に支配された部屋に、二人の微かな呼吸だけが響く。どちらも、それ以上何も話せなかった。僕は、今日滝に飛び込んだ二人の命運を思った。彼らはなぜ死んだのだ。生きるという選択肢はなかったのか? 自殺しなくてもよかったのではないか。僕が自殺を、自分もしくは誰かの命を奪うことを否定的に思うのはどうしてなんだろう。逆に、命を産み育むことを肯定的に思えないのはなぜだろう。命とはなんだ……。思考は未希からの口づけで途切れる。僕は、そっと未希の浴衣の中に手を入れた。鼓動が伝わった。生きている命。


 カーテンの隙間から朝陽が差し込んでくる。僕はそっと蒲団を出て、カーテンの向こう側の景色を眺めた。窓には朝露がついている。滴の一つを見てみると、虹色の鮮やかな光を放っている。永遠という名の一瞬を手に入れた気がした。飽きるまで僕はその美しい光源を見つめていた。そして、それは僕ら二人の未来そのものである気がした。(終わり)

前作とはだいぶ趣向を変えて、純文学、青春小説に挑戦してみました。

小説の題材はもう出尽くして書き尽くされた、などと言われているようですが、

いつの時代も青年は悩むし、不幸が世界から消え失せた事も未だにありません。

その意味で、この手の青春小説は需要が無くなることはないのでは、と思います。


どんな感想でも意見でも良いので書いてくだされば嬉しいです。よろしくお願いします。

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