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再会で幕を引く九頁




数時間も泣くと涙は枯れた。

立ち上がって冷たい水で顔を洗うと、通信用の端末の上に、魔法式の承認を求める光が点滅していることに気付く。


どんな魔法式なのか見なくても見当が付いたので、億劫になる前にそこに触れた。



「セイさん、良かった。もう繋がらないかと思いました」


すぐに応じたローヴァーの声に、安堵が滲んでいる。


「出れなくてすみません。少し、………取り込んでいて。それに、戻ってきたばかりなんですが、これから出掛けなくてはいけないんです」

「やめた方がいい。天候が回復しつつあるし、あなたは少し危機感を持った方がいい」


その忠告はもっともだなと思ったら、また胸の奥が熱くなったので思考に蓋をした。


「あまり時間がないそうなので、メーヘルまで行ってきます。大丈夫、ちゃんと帰ってきますよ」


どんな目に遭おうと、メーヘルで囚われるつもりはなかった。


それだけは嫌だ。


きちんと帰り着いて、自分だけのものを取り戻してから終わりたい。

これ以上、誰かの影の中で泣きたくない。

だからこそ行くのだ。


「メーヘルか、…………。あの童話作家がいるところですね」

「どうしてそれを?」


この狼に知らないことはないのだろうか。


「あなたの同居人を少し調べました。我々とは言え、こちらの世界に痕跡を残しますから」

「…………そうですか」

「セイさん、何かありましたか?」



ぱりんと魔法式を壊して、通信を切りたくて堪らなかった。

声を発するだけで、絶え間ない痛みを覚える。


話を切り上げたくて、少しだけ考えて短く答えた。



「嵐の中に放り出されたみたいに見える景色がすぐに変わってしまって、さすがに疲れました」


通信越しに、息を吐く音が聞こえた。

カーテンの隙間からは白み始めた夜の色が見えて、その鮮やかさが乾いた目にしみた。


「そちらに行きます。少し戒律を犯すことになるが、今更副作用も何もないでしょう。私はこれでも、穏健派なんですがね」



え?と聞き返す間も無く、ぷんと緑の濃い香りがした。


つい数時間前にヴィネアと向き合った記憶が刺激されて、思わず身体を折って小さく呻く。

目を強く瞑って涙を逃がしていると、そっと冷たい手が頬に当てられた。




「…………ローヴァーさん」



呆然と、その気遣わし気な顔を見上げた。

鮮やかな緑の瞳が、じっとこちらを見ている。


異形のものには出会ったが、鳥の姿を実際に目にしたわけではない。

こうして、理を超えたものを目にするのは初めてなのだと気付き、目を丸くした。


「我々だけが辿れる道が、この世界にもあるんですよ。職業柄、災厄を呼びかねないのであまり使いたくはないのですが」


わざと軽い言葉を選んだ彼の優しさに唇を噛んで、微笑みになりきらない表情を作る。


これは反則だ。

セイはまだ、痛みを人に見せられる程には立ち直れていない。



「知り合って数日の男性を、家に入れたのは初めてだ」


言外に来ないで欲しかったと伝えたつもりだが、彼は意にも介せず聞き流した。


「私も、この手の違法を行うのは初めてですよ。我々の力は場を崩してしまう。おそらく、この後は、急な荒天になるぐらいの影響は出てしまう」

「そうなんですか?」

「各自の資質による影響はまちまちですがね。私は風を乱すらしい」


そう言われ、あの大きな木の下でいつの間にか背後にいたヴィネアを思い出す。

その後の急激な天候の変化は、一人になった帰り道でも急な嵐のようだと思った。


「何があったんですか?今のあなたの目の色が、あまりにも悲しそうで堪えるんです」

「…………!」



セイはきっと、弱い人間なのだと思う。

彼が優しい狼であることは知っていたつもりだったが、こんな風に言われるとは思っていなくて、心の堰が崩れた。



「ヴィネアは、………私の同居人は、猫でした」


誰にも何も話したくなかった。

でも、ローヴァーは心を宥める前にここに来てしまって、自分は話すことを選んでしまって。


厭わしく悲しくて、声がざらつく。



「四足ではないでしょうね。そうでなければ、猫は高位の者も多い」

「鳥にも会いました。影だけで姿は見ていないけれど、ヴィネアといるときに追われて、…………それで、鳥と彼との会話を聞いて、初めてヴィネアが猫だと知りました」

「でもあなたは、彼があちら側の者だと気付いていたのでしょう?」


セイが旅先で買い付けてきた灰紫の絨毯の上に膝をついたまま、ローヴァーは座り込んだセイに静かに続きを促す。


そうして、寄り添うけど踏み込み過ぎない優しさが嬉しい。


この人が優しいのは他人だからだと思ったら、セイは少しだけ話すのが楽になった。



「ええ。あなたは、私たちは違う生き物だから気を付けろと言ってくれたのに、私の考えが甘かったんです。彼に秘密があると気付きながら、その秘密が私を殺しても構わないと思うような、そんな残酷なものだとは思いもしなかった」


どうにかせめて、ヴィネアがただの大切な友人だと思っていた頃のような口調で話そうとしていたが、ローヴァーの得心するような眼差しにその試みを諦める。


何一つ繕えないままで、何と無念なのだろう。



「そうでしたか。……………私はずっと、彼があなたを苦しめる程の武器を持っていなければと考えていた。我々の高慢さと嗜好は、あなた方を壊してしまいがちなものですから」

「高慢だったのは私の方です。自分の価値を見誤って、勝手に傷付いた」

「あなたにはその権利がありますよ。あなたの心は、あなたのものでしょう?それに、私も情報を見誤っていたようだ。私はずっと、あなたは彼の写本だとばかり」



ローヴァーは知らずに、セイの胸を抉る言葉を呟く。


心のどこかでそんなものに思い当たる節はないと言いながら、淡い期待があったと今ならわかる。


あの人を経由しない、自分だけの特別な運命があって、そこにはセイだけのものがあればいいのにと思ってしまったのだと。



「彼の本は、…………恐らく別の人です。私じゃない」



奇妙で残酷な真実を、言うべきかどうかでまた少し迷う。



(でも、この人は長く生きるだろう)



セイの持ち時間が終わっても、その先までずっと、ずっと。


こんな哀れな人間がここにいたのだと、せめて誰か一人でも、優しい人にセイラムという人間の身に起きたことを残してゆけたなら。



(私は写本なんて特別なものではなかったけれど、それでも)



記憶されたものは、もう物語だ。

そうして残されればせめて、物語としては昇華することもあるだろう。


あの幸福の一瞬にヴィネアに打ち明けたかったことを、こうしてローヴァーに背負わせるのは間違っているかもしれない。


それでも、遥かに長くを生きた彼であれば、自分の悲しみに耳を傾けることくらいは、許してくれるような気がした。


居住まいを正して自分を見つめたセイに、ローヴァーは体を離して膝を立てて座り、聞く体勢を整えてくれた。

打ち明け話をするならば、これが最後の機会だ。



「私も、あなたに秘密がありました。私だけが知って、私だけで抱えてゆくつもりだったけど、どうやら私はこの物語でも主役ではないみたいだから」

「あなたという本は、それがどんな物語であれ、あなただけのものです」


彼からすればきっとセイは幼く、それ故にきっと、彼はどこまでも優しい。


(彼らが手にするその本には、題名はあるのだろうか。それともそれは比喩的な表現で、実際に本という形は成さないのだろうか)


今更そんな事を知りたいと思ったけれど、羨望の痛みが生々しい今は、知るために相応しい時ではなかった。



「…………話してもいいですか?こんな風に私の物語を語るのは、ただの自己満足です。誰にも届かずに打ち捨てられた物語を、せめて誰かに手渡してゆきたいという我が儘でしかない」

「勿論、聞きましょう。私が、何があったのかと尋ねたのはあなたなのですから、私が知りたいのはそれこそだ」


そう言ってくれたローヴァーの優しさに、セイはほっとした。

きっと、その承認に多くのものが救われたが、今のセイにはそれを上手く言葉には出来なかった。



「私は、遠い昔にこちら側で死んだ、コレクターの生まれ変わりです。大切なひとを亡くして、自ら命を絶ってしまった、かつてのリリアナと同じもの。けれど私は、彼女のように過去の自分を引きずることはなく、まったく別のものになってしまった」


瞠目したローヴァーを見て、彼は知らなかったのだと安堵した。


「かつての私は猫で、この世界でいうところの竜だったのだそうです。そしてヴィネアは、その人の古い友人だったと話していました。今の彼が庇護しているのは、かつてその古い友人の伴侶だった人で、あなたも知っている童話作家です」

「………………まさか、かの竜の本だったとは。竜は、もう向こう側でも失われてしまった存在だ。最後の者が向こう側へ渡ったと、随分昔に聞いた記憶があります。それがあなただったわけか。鳥たちはきっと、随分な時間を漂白に当てたことでしょう」



その言葉を聞いて、ヴィネアの裏切りの後に初めて痛み以外のものを感じ、柔らかな感傷が胸に広がった。



「そうですね、彼が亡くなってからもう、百年以上は経っていますから」



(あの人は、最後の竜だったんだ)



そう思えば尚更、遠い記憶の二人が愛おしく大切に思える。


その暖かさを意識して、思いがけずに暗さの一端が抜け落ちて消えてゆくのを感じた。



(最後は悲劇だったとしても、あの人は幸せだった)



この胸に、彼が幸福だった証拠となる、美しい美しい記憶がある。


そんな、彼等の幸福な時間を自分が幸いだと思えるのだと気付かされて、セイは、ほんの少し救われたような気がした。


これはきっと、ローヴァーと話さなければ、得られなかった感情だ。



(私達は物語。そして、言葉も物語だ。紡ぎ直して初めて、本当の意味がわかる)



一人で抱え込むだけでは読み解けなかったものが、ふわりと解けた。



「それだけ高位になれば、漂白という言葉自体そぐわないかもしれませんが、…………私の目でこうしてあなたを見ていて、そこに他の要素を感じることは全くありません。あなたが心や資質を受け継がなかったのは、記憶以外のものは完全に練り直されたからかも知れない」

「……………あなたが来てくれて良かった」



微笑んでそう言えば、ローヴァーは言葉を失ったようだ。


もう少し傍で言葉を伝えたくて、白いシャツの袖先を掴んで触れると、セイは、まだひびだらけの微笑みを作った。


距離を詰められたローヴァーが彼らしくなく固まっているのを見て、こうして無理をして駆けつけてくれたくせに、感謝されるとは思わなかったのかなと気分になる。



「この部屋に閉じ篭って、私は、なんて不公平で悲しいのだろうとばかり考えていました。でも今、何となくだけれど理解出来たような気がします。私は、憧れたようなものを持つことは出来なかったけれど、あんなにも美しい物語を記憶の内に預かって生まれたことも、幸せな人生だったに違いありません。勿論、私自身の願いが叶わない筋書には不満もあります。けれど、この美しいものが、私のもので良かった。そう思えるとは思ってもいなかった……………」



目を閉じる。



(あなたが、……………)



瞼の裏側の鮮やかな世界で、向かい合って微笑む幸せな夫婦を見ている。


彼の世界は万華鏡のように美しく、優しく、泣きたい程に満ち足りている。



(あなたがいつも、私に美しいものを見せてくれる)



セイは、ずっと勘違いしていた。



セイを孤独にしたのは、あの人ではない。


孤独な心を救い上げてくれていたのが、セイの愛した最後の竜だったのだ。

愛するということの歓びや、世界を愛するということの幸せを教えてくれたのが彼だった。


だからずっと、セイは彼に、そして彼にそれを与えた彼女に憧れていたのだ。



(それすらも、ずっと間違えていたなんて……………)



「……………私は本当に馬鹿だな。あなたと話さなければ、宝物を一つ持っていることにも気付かないまま、打ちのめされているとことでした」



そう告げたセイに、瞳の微妙な光彩の色も見えるぐらいの距離で呆然としていたローヴァーが、ふっと微笑んだ。


すると、離れた位置で指南役に徹していた過保護な狼にやっと触れた気がして、嬉しくなる。



「メーヘルに行きます。……………私自身の為に。それから、私にこんな尊いものを与えてくれた、ユージィニアの為に。だから大丈夫です。ちゃんと、帰ってきます」



先程とは違う表情で言ったセイに、今度はローヴァーも頷く。



「わかりました」



年長者らしい仕草で頭を撫でられ、重ねて素直に嬉しいと思った。


自分の最後はきっと、この綺麗で優しい狼が見ていてくれる。

であればきっと、もう少しくらいは頑張れるだろう。



「その用事が終わったら、あなた自身の物語の為に、私が色々なものを見せてあげましょう。物語でも風景でも。だからあなたはどうか、無事に帰って来て下さい」

「ふふ、大サービスですね」

「まったくだ。私は面倒見がいい方ではないのですが」



無事に帰ってきても、梟とやらが予見したセイの残された時間はせいぜい数日だろう。

その後の時間を引き延ばすなら、逃亡生活に入るしかない。


だから、ローヴァーは休暇を引き延ばすとは言わなかったし、セイも一緒に逃げてくれとは言わない。


それでも、胸の中が温かくなった。

どうせなら、帰りには何かお土産でも買って来ようと思う。

思えば、まだローヴァーには何のお礼も出来ていない。



「行ってきます」





ごとんごとんと、列車が走ってゆく。

その中でセイは、たくさんの本を読んだ。




“むかし、むかし、二人の王様がいました。


一人の王様は思慮深く冷徹で、もう一人は言葉巧みで柔軟でした。


けれども、二人の王様の古い友人だった竜がお妃を見付けてお妃様の国に旅に出ると、王様達はすっかりご機嫌斜めになってしまいました。


一人の王様は竜のお妃を殺してしまおうと言い、もう一人の王様は、竜をそっとしておこうと決めました。

その代わりに、お妃が死んだ後に竜が帰って来易いようにと、お妃の国と自分の国との間に列車を走らせたのです。


けれども、竜が帰りの列車に乗ることは決してなく、王様たちはやがて、竜を待つことさえも諦めてしまいました ”




はらはらと雪が降る。



列車を降りる前に読んだ物語の余韻を残したまま、混雑した駅を抜けて次の駅近くまでゆくバスではなく、手配していた送迎の車に乗った。


本来ならここからまた電車に乗って行く土地なので、道中は少し時間がかかるそうだ。

考え事がしたいのでいいですよと笑えば、雪景色が綺麗なので帰りは電車もお薦めだと教えて貰った。



ここに来るまでに読めた物語は、あの人のものに違いないという確信がある。

竜の物語が読みたくて探し、その条件に適う物語を見付けたときは、本当に嬉しかった。



(この物語に出てくる列車に、乗ってみたい)



胸は痛むけれど、視界は明るい。


美しい竜の物語をお守り代わりに胸に抱いて、セイは調べておいた住所を再確認する。


(これが最後になるのだろうか、私は、きちんと笑えるだろうか)



ローヴァーは、戻りの駅で待っていると言ってくれた。


空は重たい雲に覆われ、雪景色は冴え冴えと世界を照らしている。

車が止まったのは、とある寺院の敷地内に立つ壮麗な屋敷だった。



この国の古典的な様式が、清浄な雪景色に上手く馴染んでいる。

ヴィネアが好みそうな建物だなと思ったが、案外、ユージィニアという女性の趣味なのかもしれない。



何しろ彼女は、かつての自分の履歴を覚えているようだから。



去年の冬に買った灰青のスノーブーツを履いて、セイはとうとう、丁寧に道筋を付けられた雪の上に降り立った。


鬱蒼とした森は純白に落とし込まれ、淡く柔らかいお伽噺の色彩に息を飲む。



「優しくて、…………綺麗な場所だ」


悲しくなるだろうかと思っていたけれど、この場所の安らかさを、あの竜に見せてあげたいと思った。


あなたの大切な人は、今もこんな風に静かに守られているのだと。



「思っていたより遅かったな」



雪景色に目を奪われていたせいで、門のところに出迎えがいることに気付かなかった。


淡いシャンパン色の髪に、砂色のゆったりとしたセーターを着て、厚手の織に同色の模様のある白いパンツ姿のヴィネアは、雪の王様みたいだ。


こうして見知らぬ存在として離れて見て初めて、身を切る程に鮮やかな瞳の色が、美し過ぎて残酷にも見えるのだと知った。



「出がけに人に会っていたから。でもお蔭で、雪が降り出して移動が楽になった」

「狼が忠犬なことだ」

「あまりにも何もかも知っていたと知らせるのも、少しばかり嫌味だよ」


そう言えば、薄く微笑んでから、着いて来いという風に身を翻して歩いてゆく。


春にはさぞかし美しいだろう雪景色の庭を抜け、セージグリーンのタイルが美しい玄関に案内される。


壮麗で大きな屋敷ではないが、細やかに手入れされ、大事にされている場所であることをそこかしこから感じた。



「今日はあまり具合が良くなくてな、中で待たせている」

「無理をさせてしまうなら、私はどこかで待っていようか?」

「それだけの猶予があればの話だろ」



磨きこまれた白木の床に、レンガ色の室内履きが用意されている。


期待と緊張に張りつめた心が、女性らしい色彩とデザインに僅かに和んだ。


薪の香りと、シナモンやクローブに似た香草の香り。

そして、暖炉の炎の燃える温かさが、ユージィニアという女性の人柄を感じさせてくれた。



「ご到着だ。大丈夫そうか?」


とは言え、そっと案じる声の優しさは、やはり胸を軋ませる。


セイは、開かれたドアの先にある椅子に座った人を真っ直ぐに見て、ああ、と小さく呟いた。



(ああ、………彼女だ)



微笑んだ、美しいひと。



「ごめんなさいね、こんな形でお出迎えだなんて。歳を取るのは嫌いじゃないけれど、不作法になってしまうのは心苦しいわ。私はずっと、あなたに会ってみたかったというのに」

「初めまして、セイラムと申します」



立ち上がろうとしたユージィニアをヴィネアが押し留め、耳元に何か話しかけている。

小さく声を上げて少女のように笑ったその声に、記憶の中の女性がぴたりと重なった。



あの、花盛りの庭園で幸せそうに笑っていたひとだ。



(ずっとあなたに、会いたかった)



ユージィニアの背後に回ったヴィネアに促されて、その正面に歩み寄り、差し出された童話作家の両手を受け止める。


それは血管が透けるような年老いて青白い手だったが、そこにあるのは病の影というよりもこの世のものならざる透明な儚さの様なものだった。


不思議なことに、一目でそうだとわかるのに、あの人の記憶の中で見ていた彼女らしさは微塵もなく、ただ引き込まれそうなぐらいに穏やかな目をした老人がいるだけだ。


ユージィニアが纏うあまりの静謐さと揺るぎなさに、セイは自分の選択が不意に愚かなものに思えて恥じ入りそうになった。


深く考えなくてもよくわかる。

この人が鳥達に追われることはないだろう。

ここに居る人の魂は、道筋を外れずに真っ当に生まれた魂だ。


そう理解してしまうと、視線を合わせる為に跪いて見上げた少女の美しさを留めた顔に、冷静さを装っていても指先が震えそうになる。



今、目の前に随分と小さくなって座っているのは、あの人が唯一人愛した女性。

そして、セイの心をくしゃくしゃにした男が、生まれた日から大事に大事に守った人だ。



ずっとこの瞬間を覚悟していた筈なのにと、セイは茫然としてしまう。


目の前のユージィニアには、どんな歪みも絶望も感じられなかった。



(…………どういうこと?)



これは、かつての伴侶を忘れられない彼女の為に用意された舞台ではなかったのか。

それならば、この穏やかさはどういうことだろう。



(………………あの人は、)


だからこそ、全てを受け入れて心穏やかになれたと思っていたセイは、最後の竜の慟哭を思い出すのだろうか。


(あの人は、あなたのことをあんなに思っていたのに)



あの矜持の高い男が鳥の手に落ち、あれだけの特別な存在でありながら全く違うものに生まれ変わらざるを得なかった。


それでも彼女のことを忘れることが出来なかった無念さが報われなかったように思えて、凪いだ筈の心がざわざわと震える。


不慮の事故で伴侶に別れの言葉すらなく死んだ筈なのに、どうして彼女はあれだけ自分を愛した男を置き去りしたまま振り返らずにいることなど出来たのだろう。


全く無関係なセイまで裏切られたような気がして、そう思う図々しさに視線を合わせているのが苦しくなった。



(私は、彼の残骸から生まれ出たに過ぎない全くの部外者でしかないのに)



そのことを痛いくらいに思い知らせてくれた男が、今目の前に立っている。


セイという人間が、彼等の持つ過去の美しい物語とは何の関係もない、ただの巻き込まれた通行人に過ぎないのだと、ヴィネアは最も最悪のタイミングで思い知らせてくれた。


その件でも傷だらけになっているセイの心は、思いがけず脆弱で剥き出しになっていたのかもしれない。



「………………まぁ、」


密やかに、それでいて困惑よりも優しさの滲む声で低く呟いたユージィニアの声で我に返り、痛々しいぐらいに鮮やかな菫色の瞳が見開かれたことに気付いて初めて、セイは自分が涙を流していることに気付いた。


声すら出せずに無言で視線を巡らせると、ユージィニアの肩に手を添えたヴィネアも微かに瞳を見開いている。



(違うんだ………!!)


彼等が何かを勘違いしそうで怖くて、セイは奥歯を噛み締めた。


もうここには、あの人はいない。


重ねて漂白されて、鳥に抹殺されてしまったその最後の残骸としての見知らぬ女、セイがいるだけだ。


この涙はあの人が感じる喜びでも愛情でもなくて、あの美しい竜の為にセイが流した、無念の涙なのだから。



「………………そう、」



ふわりと微笑んだユージィニアが呟く。

セイの頬に添えると手に零れる涙をそのままに、愛おしそうに微笑んだまま小さく柔らかな溜息をついた。


「彼はもう行ってしまったのね。私は、ほんとうに、いつも仕損じてばかりだわ」

「……………!」



茫然とした表情を隠し損ねたセイに気分を害した素振りもなく、クリスマスの夜の雪のように、ユージィニアの静かな声が降り積もる。


軋んで悲鳴を上げるセイの心を撫で上げ、そっと宥めてゆく目の前の女性が、深い皺の刻まれた目元に少女めいた苦笑を浮かべた途端、そこにいるのはやはり彼女だと唐突に理解した。


見せかけのものに惑わされていたのはセイの方で、まったく別のものに生まれ変わっても尚、そこに彼女もいるのだと。



「彼の魂の温もりに、もう一度触れさせてくれて有難う。この魂はもうあなたのものなのに、私の最後にこんな特別な時間を与えてくれて有難う、セイ」



流暢な公用語だった語り口が、僅かな感情の揺れで音階が乱れる。

繊細な彫刻の施された飴色の椅子の肘置きをぎゅっと握りしめた彼女に、セイは託宣を待つ巫女のように、無言でユージィニアを見つめていた。



「あの翼のあるもの達に出会いもせずに、私は真っ直ぐな道を歩いて行ってしまったのよ。きっと、思い残すことばかりだったくせに、自分が置かれた状況を理解出来ないまま道なりに歩いて行ってしまったのね。よくあの人に怒られたものだわ。ただぼんやり前に歩いて行くのではなくて、きちんと状況を把握しなさいって。その言葉を守っていたのなら、私はせめて彼に最後の挨拶ぐらいは出来たでしょうに。でも、……………彼は、どこかで理解したかもしれないわね。私が抵抗もせずに行ってしまったのは、きっとぼんやりしてたからだろうって。仕方のない奴だと苦笑して諦めてくれたに違いないわ。………だからもう、あの人はそこにいないのね」



淡く微笑む声は、遠い季節を映してきらきらと輝く。


その輝きの純粋さに、失い得ない者を得て愛して愛された女性の馥郁たる強さを観た気がして、セイは眩しさにその目を細めた。


大きな窓の向こう、春の気配の欠片もない冬の森の光を覗き込みながら、セイは初めて、彼女の本当の強さに触れた気がした。



(………そう、………………だったのか)



目の前の青い瞳に視線を戻せば、彼女はちゃんと理解していた。

そして、信じ切っている。



そうだ。

あれだけの人が、どれだけ漂白されたところで不本意に消えてしまう筈などないではないか。



(………彼女がもういないと理解して、自ら?)



セイがずっと理解しきれずにいたことを、ユージィニアは一目で見抜いて理解してしまった。


セイから向けられた理不尽な怒りにも気付いただろうに、きっとセイが彼に向けていた不相応な恋情にすらも気付いただろうに、穏やかに微笑むだけ。


静かに静かに想いを重ね、丁寧に生きて理解した上で、安らかに眠りにつこうとしている美しいひと。


ユージィニアは、そうして終わってしまった尊い物語のその失敗も終焉も抱き締めて、潔く幕を引ける人だ。


そう納得した途端に、胸の奥に凝っていた最後の悲しみや惨めさがはらりと抜け落ちた気がした。


生まれてから殆どの時間を傾けてきた過去への執着が昇華されて、ただのまっさらな人間になれた気がした。


その身軽さは恐ろしく悲しかったが、深く息を吐けば、淡い光がさすように胸の奥底が明るくなる。



(………………ずっと、この思いを抱いてゆくのだと思いながら、私は、どこかで解き放ってくれる人を待っていたのだろうか)



自分でも気付かずに救われたいと思っていたその思いは、もしかしたら、再会を待ち続けたあの竜の最後の欠片だったのかもしれない。



そこまでを考え終えると、その後に残ったのは、清々しく穏やかな微笑みだけだった。

童話の女王を見返すセイの瞳にはもう、涙の余韻はない。


ただ少しだけ、彼等と向かい合う自分の傍には誰もいないことが寂しいと思った。



「………ええ。ある人が、私の中には私しかないと、教えてくれました。恐らく彼は、あなたが言う通りに、あなたが行ってしまった事情を理解して、自分を終わらせたんです。あなたの言葉を聞いて、ようやく謎が解けました」



真っ直ぐに自分を見上げたセイの眼差しに光が戻ったことに気付いたのだろう。

ユージィニアは、微笑みを深めた。



「ごめんなさい。あの人の所為で、何の罪もないあなたを逃亡者にしてしまったのね?」



その言葉に、吐きそうな程の圧迫感で自分を追いまわしていた鳥のことを思い出した。


真っ白に羽ばたき、執拗に。

どこまでも事務的に。


大切なものは指の隙間から零れる砂程にあっという間に失われてしまい、今の自分には、一体どれだけのものが残されているというのだろうか。



(………………けれども、)


けれども、どんなに孤独でいるときも世界はいつでも美しかった。

あの人が見ていた世界が、いつだって胸が痛くなる程に美しいものを教えてくれた。


確かに、正常に生まれ落ちて得る筈だった幸福は失われたのかもしれない。

それでもまだ、ただ美しい最後の竜の姿を見る為だけの幸福と引き換えにしても何の後悔もない。



この世界の美しさと、引き換えに出来る筈もない。



「いいんです。………こういう形で生まれたからこそ、私はずっと、あの人の持つあなたとの思い出に救われていました。それに、だからこそ出会えた人がいますから」

「あら、大切な人がいるのね」



ユージィニアの問いかけに、まずはリリアナの懐かしい微笑みが脳裏を過ぎった。


それから、真摯に自分を案じてくれたローヴァーの生真面目な顔が浮かび、セイは微かに口元を綻ばせる。


彼は自分を狼だと言うけれど、先行きが危うい場面でも立ち止まりもしないセイの腕を引いたその眼差しは、厄介な人間に振り回される心優しい猟犬のようだ。



(そして、…………やっぱり、ヴィネアも)



ユージィニアの背後に立つヴィネアの顔を真っ直ぐに見上げる危険は冒せないままだったが、けれどもきっぱりと頷く。



「はい。私がやみくもに突き進むせいで随分と苦労をかけた方がいるので、帰ったら謝りにゆきます」

「大切な人に会いにゆくのはいいことよ」



ユージィニアが、誤解しているのはわかっていた。


ローヴァーは、彼女が考えるような甘やかな存在ではない。

それでも、夢見るように微笑むユージィニアの微笑みを差し止めるには忍びなく、もう一度短く頷く。


きっと老獪なヴィネアには、そんなことはお見通しだろう。


彼が唇の端を微かに歪め、愚かな見栄を張ったなと、微笑みを瞳の中だけに浮かべる様子が目に浮かぶようだ。

それとも、用済みとなったセイになど、無関心でいるのだろうか。



「会いにゆける人がいるのは、幸せだということが今回の一件でよくわかりました」


小さくユージィニアが笑う。


「そうね。逃げ出してゆく人々も皆、誰かに会いにゆくのですもの。無実の罪で追いまわされたら、大切な人に会いたくもなるでしょう。………ごめんなさい。せめて私に、鳥達を説得出来るようなツテでもあれば良かったのだけれど」

「いいえ。あなたに会えて良かったです。ただそれだけで、充分でした」



立ち上がったセイは、晴々と笑ってみせた。


この微笑みは、ピアニストだったころに磨かれた一級の品だ。


颯爽と立ち去るに相応しく、華やかに、あでやかに、心内の本音の全ては欠片も漏らさずに。


目の前にいるのがユージィニアだけだったならば、セイはもっと違う笑い方をしただろうが、ヴィネアの視線を感じているこの状況ではこの笑顔が最も相応しい。



もう、舞台から降りる時間なのだ。




「また会いに来て頂戴、と約束出来ない私を許してね。もうあまり時間が残されていないのはわかっているの。それにここは、これから先は、あなた自身の場所へ戻ってゆく人には、あまり相応しい場所じゃないわね。帰りは、…」

「一人で帰れますので、どうぞお気遣いなさらずにいて下さい。私はもう立派な大人ですし、そこらの男達より余程しっかり出来ていますから。それに、少し歩きたいんです。この森から駅までの道を覚えておきたいから。いつか、ここであなたに出会ったことを思い出したときに、この森の情景も思い出せるように」

「まぁ、………大丈夫かしら。いつもならあなたのその言葉だけで納得してしまうところだけど、鳥達がここまで来るようなことはない?ヴィネア?」



不安そうに振り返ろうとしたユージィニアに、ヴィネアははっとするほどに優しい手つきでその肩に手を乗せた。


硝子細工でも抱いているような仕草に痛いくらいに愛情が透けて見えて、セイは羨望のあまり微笑みが強張りそうになる。


彼への執着がもはやこの手を離れた今ならば、正直に目の前のひとに「あなたがずっと羨ましかった」と言える筈だった。

その告白の機会を奪ったのがヴィネアだ。


彼がそこにいるだけで、羨望は生々しい痛みを帯び続けてしまう。


それまでをからりと笑って諦めるには、セイは現実的過ぎた。

残された時間があまりないのは、セイも同じなのだ。



ローヴァーを道連れにして悪足掻きする程、セイは悪趣味ではない。

いずれ鳥達は、セイを捕獲するだろう。



「空が何かを降らせている間は、鳥達は降りてこれないんだよね?」


この部屋に入って初めて、セイはヴィネアの目を真っ直ぐに見て、微笑んだ。



「そうだな。雪が降り止むまでは問題ないだろう。車に乗ったら、真っ過ぐに帰るといい。道中で夜になるだろうから、鳥達は朝まで身動きが取れなくなる。向こうに帰ってからしばらくは、雨の日以外は日中に出歩かないことだ」

「どこまでその厄介な制限通りに動けるかはわからないな。でも心には留めておくよ、忠告してくれて有難う」



唇の端で微笑んでから、それはヴィネアの仕草だったと気付いたが、もう手遅れだった。自分自身が複雑な気持ちになることを除けば、本人は気付きもしないだろうが。



一瞬だけ。

ほんの一瞬だけセイは思案する。



もし自分が、老いてなお少女のように微笑むユージィニアのように、或いは、自分とはまるで縁のなかった誰かのように脆弱で儚げな少女だったら、この場の何かが変わっただろうかと。


けれどもそんなのもは自分ではないし、自分でなければそこには何の意味もない。


目を伏せてもう一度小さく微笑み、脇役らしくひらりと身を返す。



そうして、晴れやかな終焉と硝子を呑むような羨望を抱えて、童話の女王の居城を後にした。





国内で発行されている新聞の一角に、とある老婦人の写真が載ったのは、その一週間後のことだった。



だが、童話の女王として多くの子供たちにもう一つの世界を見せたユージィニアの訃報を、セイが目にすることはとうとうなかった。









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