落陽と決別の八頁
午後を少し回った頃、二人は空振り続きで少し早めの帰路についていた。
空は青空と頼りない雨雲のコントラストで、どこまでも真っ直ぐな道路に雲の影が流れてゆく。
ここはかつての国道のひとつだが、十八年前の災厄で分断され、今は地図にも載っていない道だ。
街路樹は森のように存在感を増し、かつての町々は公園と庭園に飲み込まれ見る影もない。
荒廃の印象がないのは、緑化がお伽話の森めいた柔らかさなのと、道路については、有事に備えた騎士団の手で綺麗に管理されているからか。
「通夜も葬儀もやらないなんて、少し意外だった。ご主人も寂しくないのかな」
「リリアナの遺言なら、仕方ないだろう。そもそも、儀式は残された側の為のものだ」
伯爵家を訪れたセイ達は、葬儀の手伝いの必要はなく、埋葬も身内のみで行うと告げられた。
憔悴しきってはいたもののどこか凛とした面持ちのフェルグレスト伯爵に対面し、セイは、もしかするとリリアナが夫には真実を伝えていたのかもしれないとぼんやり思った。
けれどもその苦しみは、きっともう彼だけのものなのだろう。
「それでも、伯爵家の問題だと分かってはいても、私は身勝手だから、少し寂しいと思ってしまった。あの蔵書も全部処分してしまったって聞いたとき、私の事情で手痛いのもあったけれど、それ以上にリリアナの足跡がなくなってしまうようで悲しくなったんだ…………」
「喪われたものに対応する術は、人それぞれだ。だがあれは、少し出来過ぎだな」
「…………どういうこと?」
ヴィネアには、伯爵の対応には何か思うところがあるらしいが、その問いには答えてくれなかった。
(意図的に蔵書の処分をしているということ?……………もしかしたら、ご主人に負荷をかけない為に、リリアナが手を打っていたのかもしれない…………)
リリアナは、いつだって有能だった。
あの手の文献に鳥や向こう側のものの知識が潜んでいるのならば、予めその破棄も含めた手を打っていても不思議はない。
だが、ヴィネアは、伯爵本人にも何らかの疑惑を向けているようだ。
セイは、まさか伯爵も向こう側から来たのだろうかと考えかけたが、首を振ってそれ以上踏み込まないようにした。
「ごめん、せっかく時間を作ってくれたのに無駄足にさせたね」
「構わないさ。他に行きたいところがなければ、食事でもしていくか?」
「家でもいいよ。せっかく車を出してくれたのだから甘えたいのだけど、残念ながら、他に用事が思いつけない」
鳥に関する問題は、動き回ってもどうにかなるものではない。
異教の教会に足を運ぶことも考えたけれど、そこに留まらない限り、鳥を退けることにはならないだろう。
「ねぇヴィネア、……………もし私が死んだら、私の遺骨を世界中の色んなところに撒く手伝いをしてくれる?資金なら、きちんと手配して遺しておくから」
ふと、そんなことを口にしたのは、子供っぽい感傷からだった。
約束を遺しておけば、せめて残された時間くらいの間は、心配してくれた彼が、ここにいてくれるかもしれない。
けれどそんな事を言われてしまったヴィネアは、不安になって顔色を伺ってしまうくらいの間、黙り込んでいた。
「………………可能性の話だよ?」
「そんなことより、生きている間に行きたい場所はないのか?」
そっと問いかける声は美しいばかりで、感情を垣間見ることは出来ない。
「そうだね、今はこんなことに巻き込まれたからかな、向こう側の世界を見てみたい。それとも、もしかしたら私がずっと見てみたいと憧れていたのは向こう側のようなところだったのかな」
奇妙な生き物達が生まれたその世界は、きっと目が回るほどに美しいのだろう。
なぜだかセイはそう確信していて、それはなぜだろうと考える。
もしかすると、あの人の記憶だったのかもしれない。
「いいか、そういうことは俺以外には言うなよ」
「言わないよ。可哀想な目で見られると言いたいんでしょう」
「物騒だからな」
(……………ヴィネア?どうして、そんな顔をしたの?)
ふと、彼が悲しんでいるような気がして。
「ごめん、嫌な話だったね。でも私は、…………そうだね、怖さはあるけれど、どうしても嫌だというわけではないんだ」
「………………まさか、鳥に狩られるのがとか言うなよ」
「勿論、怖さや痛みがあるなら堪え難いし、そういうものへの私の許容範囲は、他人より狭いくらいかもしれない。だけど、…………こんなに綺麗だから」
こういう時、感情に纏わる語彙が足りないことにほとほと嫌気が差す。
「ここではないどこかに、不思議な生き物達や美しい物語があるなんて、私は今迄知らなかった。こんな風にヴィネアと話せたのも、少し嬉しかったかな。………何でかな、こういう時間を与えてくれた運命みたいなものは、嫌いじゃないんだ。リリアナが納得の上で去ったのなら、後はもう私の問題だからね」
ふうっと落ちる、深い溜め息の音。
「お前はいつも、……………求めるものが危うい」
「そうかもしれない。私が欲しいものはいつも、断崖絶壁に咲いている花みたいだ。そういう自覚はあるもの。でも、特別に綺麗だよ」
「その花を死なずに手折れるなら上々だが、死んでも手折れるなら構わないか」
「…………そうだね、その花を見付けて、どうしても欲しいと思ってしまったら。それを諦めて生きていくことが出来ないのが、私という人間の頑固さなのかも知れない」
(あれ、…………こんな痛みを、昔にどこかで)
だから世界はとてつもなく暗く、何の彩りもない。
(…………そんな事を、いつ考えたのだろう。あの人には絶対に会えないと気付いた時だろうか。…………………それともこれは、あの人の記憶?)
けれどもそれは、もっと曖昧な記憶のどこかの、自分自身のことだという気がした。
そこで絶望し取り残されたからこそ、セイは欲求をこちら側に向けられず、閉じ篭って記憶の内側に残る美しいものばかりを見ていたような気がした。
(ずっと昔に…………)
窓の外から、震える程に美しい雪景色を見ていた。
そんなセイに、差し向かいに座る誰が微笑みかける。
それは、赤い天鵞絨の特別なボックス席でのことで、セイは向かい合わせに座った美しい人と、どこまでも行きたかった。
「今ね、……………ふと思い出したんだ」
あの時の自分は、そうしてどこかに行けるのが、とても嬉しかった。
その人の手をぎゅっと握って、泣きたいくらいの喜びに心が躍ったのだ。
「ずっと昔に、……………多分、とても小さな頃かな。胸が潰れそうなくらいに、そういうものを欲しいと思ったことがあった気がする。だから私は、そういう嗜好になったのかな?」
「…………それは初耳だな。いつのことだ?」
「そこまではわからない、…………ただの夢かもしれないけど」
気恥ずかしくなって言葉を止めたけれど、向けられた眼差しの強さに気圧されてしまい、続きを話すことにした。
「列車に乗って、どこかに行こうとしていたんだと思う。誰か、…………家族ではないけれど、とても大好きな人と一緒に。綺麗なものを窓からたくさん見て、とても幸せで、…………けれど、その旅行は途中で中止になってしまった」
事故や急病など、どうしても引き返さなければいけない、深刻な事情があったような気がする。
「そのときに、ひどく失望したのを思い出した。まだ小さな子供だったけれど、何かに背いてでもその先に行きたかったって、そういう魅せられ方をその時にしてしまったんじゃないかな」
「ふぅん、行きたかったのか」
「どこに行こうとしていたのかも、もはや定かではないけれどね。でも、…………やはりこれって、実際にあったことなんじゃないかな。どうして忘れてしまっていたんだろう?」
「どちらにせよ、その時行けなかったなら、それはそういう巡り合せだったんだろう。いずれまた、そういう機会もあるだろうさ」
「そうか。だから私は、たくさん旅行をしたのかな」
「お前が旅中毒になったのは、あの作曲家の悪影響だろ」
その不機嫌そうな声色に、ふふっと笑う。
「ヴィネアは、先生のことがあまり好きじゃないよね。確かに一所にじっとしてられない人だったけれど、優しくて素晴らしい人だったよ。私は、先生のお蔭でたくさんの国に行けたのだもの」
「身内や祖国から引き離す大人だろ」
当時、ヴィネアの不在の長さに悄然としていたセイを慰めてくれたのは、あの忙しい旅の方だったのだけど。
「先生は、私を喜ばせようとして、色々な国に行ってくれたんだよ。一人で留守番ばかりしていないで、世界を見せてあげるよって」
「断崖絶壁の花、か」
「いや、そうじゃなくて。だってあの頃、ヴィネアはほとんど家にいなかったでしょう」
「……………まさかお前、それが理由で家を出たのか?」
たっぷり無言で驚いてから、慎重な声で尋ねられた。
「…………あれ、そうだったみたいだ」
「ん?どうしてその返答になった」
「自分でも、今気付いたんだ。私、ピアノは好きだけど、人に聴かせる為に弾いていたわけじゃないのに、どうして世界中を回ったのかなって。………あの家に一人ぼっちで居たくなかったみたいだね。講演料で自分の好きな国に行けると知ったのは、旅に出た後のことだし」
「お前、……………前の話といい、俺のこと大好きだろう」
(…………前の話?)
「当たり前だよ。だってヴィネアは、私の家族みたいなものでしょう?」
すとんとその表現が胸に落ち着いた。
だから警告されても信じていて、秘密を危ぶんでも寂しいだけ。
「そう言われて喜ぶと思ったら大間違いだぞ」
「どういうこと?」
半ば傷付いたような物言いに眉を顰めた瞬間、がくんと車が大きく揺れた。
「ヴィネア!?」
驚いて運転席を見ると、ヴィネアは、目を細めて剣呑な表情を浮かべていた。
彼の視線を辿れば、何かが道路の真ん中に落ちていて急ブレーキを踏んだようだ。
「………………ほお、実力行使に出るとは、品のない層が来たか」
薄く何事かを呟くヴィネアがいたが、その内容が聞こえずにセイは目をしばたく。
(……………鳩?)
閑散とした風景に似合わない綺麗な石畳の道の上に、一羽の鳩が蹲っている。
ハンドルに手をかけたまま無言のヴィネアを一瞥して、セイは、素早くシートベルトを外して外に出た。
「怪我をしてるの?」
声をかけながら傍まで行き、視線を近づける為にしゃがみ込んだが、その鳩はふてぶてしい表情のまま微動だにしない。
ふくふくとした体の下の足は見えなかったが、傷を負っている気配はなく、ただ何というか、明確な意思を持って動かないと決めたという感じがした。
「動けるのなら、道の端にいこうか。こんなところにいたら、轢かれてしまうよ?」
声をかけているセイの方を見ようともしない、頑固な鳩だ。
(そう言えば鳩って、)
聖典の中に出てくる神に忠実な動物の一つに、鳩がいたのを思い出した。
「……………まさかね」
そう苦笑した途端、見上げた空を切り裂くように、大きな影がざっと横切った。
「!!」
竦み上がった体に合わせて鼓動が跳ね回り、セイは慌てて車の方を振り返る。
そこには、彼らしくない緩慢な動きで、車を降りようとしているヴィネアがいた。
ばくんと大きく脈打った心臓が、ぎゅっと締め付けられたようになる。
「待って、そのまま車にいて!」
思わずそう叫べば、ヴィネアは意表を突かれたような顔をした。
不安の裏付けを取る間もなく、大きな翼が打ち鳴らされる音と不自然な囀りが耳に届く。
その羽ばたきに引き起こされた風の強さに打ち倒されそうになり、急な気圧の変化が起きたような、鈍い頭痛が閃いた。
体勢を崩したまま風をやり過ごして、もう一度空を見上げる。
聞こえてきたのは、あの夢の中で聞いた、聖歌の遠い重なりにも似た鳥の囀り。
(………………鳥だ。間違いない)
「セイ!」
そう確信した途端に、セイは、咄嗟に車に背中を向けてその場から走り出していた。
路上の鳩も、背後で自分を呼んだヴィネアの声も振り切って、本道を外れて街路樹が重なり合う区画へと走り込む。
(大丈夫。足の速さには自信があるし、あのまま、あの場所にいたら………、)
車から降りたヴィネアを見たときに、息が止まりそうになった。
脳裏に蘇るのは、最愛の伴侶を失ったあの人の慟哭で、目の前の人が喪われたらと思ったら、居てもたってもいられなくなった。
彼だけは駄目だ。
そんなことは耐えられない。
「え……………?」
どこに隠れようかと周囲を見たセイは、驚愕に立ち竦む。
乗っていた車は、今は退去区画となった大きな町の大通り沿いを走っていた筈だった。
この辺りは十八年前の災厄で建造物の倒壊が相次ぎ、更なる倒壊を防ぐ為に一部は更地になっているのは知っていたが、未だ残された建物も多いとろこだ。
それなのにどうだろう。
目の前に広がっているのは、深い森。
とてもではないが、街路樹が広がったにしては濃密過ぎる。
必死に屋根の残っている廃墟を探したが、建物らしきものは悪い夢のような遠さに見えるばかりで、走ったくらいですぐに辿り着ける距離には思えなかった。
(ここは前にも通ったことがあるけれど、こんな場所なんてあったっけ?!)
前回に来た時は、左右に残された建物を見ながら走った記憶が鮮明にあるのに、なぜこうなってしまったのか。
(………と、とりあえず、屋根の代わりになるもの…………)
立ち止まっている訳にもいかない。
がむしゃらに足を動かして、セイは、枝振りが立派な木を求めてひたすらに走った。
木の影や崩れかけた壁沿いに移動してゆくと、少し先にかなり大きな木があることに気付く。
遠のいたり近付いたりする囀りを目安にして、じりじりとその木までの距離を詰めた。
「…………っ」
途中で何度か、大きな影が旋回して木々の間を彷徨っているのが見えた。
鳥が低く飛ぶたびに囀りがぐっと低くなり、ぎいぎいと金物が鳴る音にも似た声を軋ませる。
(……………………怖い)
顎先から滴った冷たい汗を、震える手の甲で拭った。
木々をざわめかせる風で、足音や息遣いは隠れるが、揺れる枝影が鳥の動きも隠してしまうのだ。
最後は這うようにして大木の根元に転がり込んでから、セイは、自分が端末も財布も車に置いてきてしまったことを心から悔いた。
(せめて雨が降ってさえくれれば………)
激しい羽ばたきと重なり合う囀りに、ぞっとするくらいの存在感を感じるのに、その姿はいっこうに見えないままだった。
木々の隙間に影が何度も落ち、その度にセイは、倒れそうなまでの恐怖の重さに体を折り曲げた。
いっそ攻撃ならば反撃のしようもあるだろう。
でも、影だけの追手はこうも精神を大きく削るものなのか。
(ヴィネアは、巻き込まれていないよね………。こんなことになるのなら、もっと踏み込んだ事を話して、危険を伝えておくべきだった)
車のところに残して来てしまったが、鳥の目当てが自分ならば大丈夫だと信じたい。
まさか、関わった者を皆巻き添えにする程に残虐ではないだろう。
(でも、聖典では無慈悲な天使の描写も多かったような…………)
彼らが管理者なら、不安要因そのものにも冷酷である可能性もあると気付いて、セイは震え上がった。
「…………ヴィネア」
だからだろうか。
思わず、その名前が唇から零れた。
こうして逃げる怖さの代償としては充分だと思ってしまった人を思って、震えの止まらなかった手を自分の手で抑え込む。
ここまで引き離せたなら、きっと大丈夫。
そう考えて初めて、ここまで走ってくる間、恋をした筈の人を思い出しもしなかった自分の、その執着の居場所を思い知らされ、セイは小さく息を飲んだ。
「ったく、心細いなら一人で逃げるなよ」
まさかのその直後に、突然耳元で聞こえた声に、セイは呆然としたまま振り返る。
大きな木の根元に蹲ったセイの背後に、いつの間にか追いついたらしいヴィネアが立っているではないか。
息をきらしている様子はないので、もしかすると、セイより前からここにいたのかもしれない。
「どうしてここに!?」
「そりゃ、あの状況下で逃げられたら追いかけるからな」
「危ないから、車に戻ってって言ったじゃないか!」
「言われて残らないだろ。普通に考えて」
無事な姿を見られたことと、ここに居てくれる安堵に、そして、否が応にも巻き込んでしまった事への罪悪感に苛まれて、声が詰まりそうになった。
こんな形で、理不尽に刈り取られるのは当然ながら不愉快だけれど、ヴィネアを巻き込んでしまうくらいなら、いざとなればそれでもいいとさえ思っていたのに。
(でも、あなたを巻き込んでしまったら、冷静じゃいられなくなるのに)
ヴィネアに何かがあるのは嫌だ。
考えただけで怖くなって、身長の高いヴィネアの腕を必死に引っ張って、何とか体を屈めさせる。
「普通じゃない状況なんだ。……………巻き込まれないでいて欲しかったのに」
その切実な声に目を瞠ってから、ふっと相好を崩してヴィネアが微笑む。
大きな手で頭を撫でられて、子供の頃に戻ったような気がした。
きっと彼には秘密がある。
それでもいい。
(だから、お願いだからどうか、私がここにいる間だけは、あなたまでいなくならないで)
どうか、後もう少しだから。
そんな、情けない程に生々しい欲求が迸りそうになる。
ああ、そうだ。
セイは、一人で死にたくない。
もう二度と、誰からも置き去りにされたくないのだ。
だって、みんなセイを置いて行ってしまう。
「あのな、お前を置いてはいけないだろう」
セイの我が儘の理由など知る筈もなく、諭すように言うのは、焦りも怯えも感じさせないいつも通りのヴィネアだった。
そのことに安堵しながらも、この自分の怖さは場違いな我が儘でしかないのだと思ったら泣きたくなった。
(私が先に捕まれば、これは終わるだろうか…………)
立ち上がろうとしたセイを、今度はヴィネアが腕を掴んで無理やり座らせた。
「馬鹿かお前は。何を考えているんだ」
呆れが濃いものの、微かな怒りを感じる声。
そんな声を聞いてしまったら、塗り固めていた言い訳がぼろぼろと剥がれ落ちてゆく。
こんなに怖いのだから、気付いてしまった恐ろしい予感に蓋をしたまま、こうしてヴィネアが来てくれた事だけで満足して、こちらから全てを置き去りにしてしまいたい。
そんな、信念も何もない、自分に甘いだけの自分でそれでもいいと思った。
「二人で固まらない方がいい。私は向こうに行くから」
「そんな見え透いた言い訳で、俺が説得されると思うなよ?ほら、こっちを向け」
「ええと、向こうに雨雲が見える?風が強いからもうすぐ天候が変わるよ。だからヴィネアは、ここで待っていてくれれば、その間だけどうにかする」
「そのいい加減な言い訳を続けるなら、仕舞には怒るぞ」
「怒っているのは、私の方なんだけど!」
ぱっと顔を上げたセイを驚いたように見た、青碧の瞳が綺麗だった。
なんて綺麗な人だろうと思って、身を切るほどに鮮やかなその輝きに、剥き出しになってしまった心が震える。
全てを取り払ってみれば、真実は恥ずかしいくらいに単純だった。
(ああ、本当に私は馬鹿みたいだ。こんなにこんなに、私はヴィネアが大好きだったんじゃないか)
いつ生まれていつ育てたのかも分からない頼りない想いだけれど、安全な過去の記憶ばかり夢見ていて、こんな最後の最後で気付くなんて。
「……っ!?」
その瞬間、ひときわ大きな羽ばたきと共に、背後の木の枝が大きくざわめいた。
見上げても重なり合う枝で見えないその上に、何者かが降り立ったのだとわかって、セイは恐怖に吐きそうになる。
ぴったりと幹に体を寄せて両手で口元を覆ったセイを、ヴィネアが肩を抱いて屈ませると、今度は足元を這う風に目が痛んだ。
ずるずると座り込んだ地面が、季節を無視して氷のように冷たい。
ぎらりと光ったのは、雲間からの陽光だろうか。
分厚い雲の塊が、太陽を覆い隠しつつあった。
湿った風が雨の香りを運んで、通り雨がくるのだとわかる風が暴れている。
雨が近いことに気付いたのだろう。
頭上に降りた誰かの、あるかなきかの微かな躊躇が感じられた。
雨が降ると降りられないだけではなく、雨そのものにも不都合があるのだろうか。
(もう少しだけ、時間を稼げれば………)
どこか別の木の下に逃げられるだろうかと息を殺して周囲を見回したが、この木以上に大きな木はないようだったし、周囲の一回り以上小さな木々では、葉の密度が足りずにこちらの姿が丸見えになってしまう。
走って逃げようとしても、鋭く旋回したあの鳥の羽ばたきより、この疲れ切った足が速いとは思えなかった。
(怖い……………)
深く茂った枝を揺らして、頭の上で誰かがひたひたと歩き回っている。
奇妙なことに、その足音が耳に届くのだ。
「………ああ、猫がいるのか」
ややあって、そんな嘆息が頭の上から落ちてきた。
「………っ!!」
抑揚のない声は芝居じみていて、その平淡さにぞっと鳥肌が立つ。
これは、異質なもので異形のものだ。
(これは、…………狼なんかよりも遥かに、人間が関わってはいけない生き物だ)
同じ言語を流暢に喋れる動物の声、そんなことが咄嗟に思い浮かんだ。
美しく馨しい、他の者達とは違う。
この生き物は、どれだけ姿かたちが似ていたとしても、人間と同じものだとはどうしても思えない。
「雨待ち風だ。もうじき、飛べなくなるぞ」
その声に、ふっと空気が揺れた。
隣の男が息を吐くようにして笑ったのだと、一拍遅れて気が付いたが、セイは、一瞬、何が起きたのか理解出来なかった。
(………ヴィネア!?………って、え?)
ぎょっとしたセイが息を飲む間もなく、ヴィネアは、隣にしゃがみ込んでいたセイの腰に手を回すといとも容易く座っている自分の膝に抱え上げてしまう。
咄嗟に抵抗しそうになってしまってから、跳ね回る心臓を静めて、がちがちに強張った体をそっと預けた。
(ヴィネア、何を言っているの?)
「お前たちも雷を厭うだろう」
「はは。生憎、俺はメッセンジャーの四足じゃない」
「であれば山猫か、豹か虎か。忍び足と策略の上手い、俗悪な収集家だ」
「俗悪とはおかしな言い分だな。生まれつき目が悪いお前たちは、美しいものの識別すら出来ないじゃないか」
かすかに枝を揺らす音が続いて、セイは、ヴィネアの腕の中に抱き込まれたまま必死に頭を働かせる。
この会話が意図することなど明白だ。
そう考えて、体の内側で激しい鼓動を感じている。
そろりと視線を合わせると、微笑んで頷かれた。
指を唇に当てて沈黙を指示される。
顎の下に抱き込まれるようにしっかりと抱えられて、今度はその安堵に胸が潰れそうになった。
(あなたは、やっぱりそうだったの?)
違うと言ったくせに、それなら、この鳥との会話は何なのか。
(…………でも、あたたかい)
いつの間にか、怖さが剥がれ落ちた。
鳥という、異様な気配の生き物に対する根源的な恐怖めいたものはまだある。
それでも、こうして守られていると、もう何も怖くない気がして、深い安堵の吐息が零れた。
(ああ、そうか。私は、)
こんなにも。
気付いてしまったその時から、繰り返し繰り返し自覚し、その逃れようもない無残な事実を思い知らされる。
「悪いが、これは俺のお気に入りだ。狩りの続きがしたければ、余所をあたれ」
(でもやっぱり、猫なんじゃないか!)
今ばかりは堪能出来る安堵のお陰で余裕が出たのか、セイは、心の中で盛大に突っ込みを入れた。
のらりくらりと躱し続けてセイを不安にさせていたくせに、こんなところであっさり認めるなんて。
そんな風に心を緩ませようとしたその時、ひたりと落ちたのは、鳥の問いかけであった。
「その傘の下は、本当に安らかだろうか」
静かな声が刃物のように差し込まれて、怖いものには蓋をしていたセイの、愚かで脆弱な心臓に触れる。
「………!!」
「それは体を休める屋根ではなくて、大きな罠の咢かもしれない」
そういう仕様なのか、鳥の声はするりと耳に滑り込んだ。
揺さ振りだとわかってはいても、安直な歓喜が萎んで、胸の底に残っていた絶望が頭を擡げそうになってしまう。
その動揺に気付かれたくなくて、セイは体を強張らせた。
ああそうだ、いつだってこういう生き物は、人間を不安がらせるのがとても上手い。
だけど人間だって、こうして目を逸らしていても、真実がどんな酷いものなのかくらい、とっくに気付いているのに。
だからこそ、その醜悪さを暴かないで欲しいのに。
「そうだろう、山猫?お前が異教の教会に隠した物書きも、不実な迷い子ではないか」
顎下に抱き込まれているので、彼の口元が強張るのがわかった。
(…………ヴィネア、)
薄い氷の上にぴしりと走ったひびを見るように、ぞっとして息を止める。
ぎりりと軋んだヴィネアの腕の強さにも気付いてしまって、息が止まりそうになった。
ああ。
ああ、こうしてひび割れて壊れるのか。
なぜそれが、この今でなければならないのだ。
(お願いだからどうか、…………そこに触れないでくれ……………)
軋んだものの危うさに、心が悲鳴を上げた。
自分がそう感じてしまったことに慄いて、必死に懸念を打ち消そうとする。
けれど、よくない予感はいつも当たる。
いつだって、それは間違わないのだ。
(どうして、……たった今気付いたばかりだったのに!)
セイの懇願とは裏腹に、鳥は、無情な言葉を重ねた。
「お前にとって、この国は絶好の隠し場所だっただろう。異教の住処に守られたあの古い都市は、まさに宝物庫に相応しい。こうしている今、そこに門番がいないのは残念なことだ」
ユージィニアについて語ったとき、あの夜の庭でヴィネアの声に滲んだのは、セイが呆気なく絶望するくらいの優しさだった。
セイは、よりにもよってそのひとを天秤に乗せてきた鳥に飛びかかって、大きな翼の羽を力一杯毟ってやりたくなった、
「それは困るな。取引を迫るとは、清廉潔白の鳥らしくない」
(……………っ、)
ヴィネアが手放そうとしているのがどちらなのかを知り、セイは安全な筈の腕の中で凍りついた。
「強欲は罪だ。その腕の中のものを置いて去るといい」
「とは言え、ユージィニアはお前達の言うところの脱走者じゃない。正規の道筋を経て、お前たちが漂白に失敗した魂だ。管理の問題だろう」
「この世のものならざる獣を血族と偽るのもまた、この世界に不実であるという罪ではないか」
「言葉と心のある生き物に、お前たちに常に誠実であれと思うのも高慢だな」
「高慢なのはお前だろう。その娘の生き死になど、どちらでも構わないくせに」
「そうだな。確かにそれはそうだ」
(…………………え)
奈落のような断絶。
(今、………………何て?)
何かがひび割れて、息の根をぱたりと止めた。
「だからお前達は害悪、理を乱す、悪しき誘惑なのだ」
(……………どうでもいい?)
心が寄り添わないことは、理解出来る。
利用され、騙されれば傷を負う。
けれど、ヴィネアが口にしたのは、そんな残酷さとは比べようもないくらいに鋭い、無関心な言葉であった。
その崩壊の瞬間に備えていたセイですら簡単に殺されてしまう程に辛辣な、拒絶にも満たない断絶の言葉だ。
(それはまるで、いらなくなった玩具を、無関心に捨てるみたいに)
「やれやれ、ほら、立てるか?」
気持ちが追い付けない状態のまま、セイは、立ち上がったヴィネアに両手で抱え上げられ、自分の足で立たされた。
膝の上に持ち上げられたときと同じくらい唐突に、セイはぽいっと放り出される。
無言で見上げたセイの声なき悲痛な問いかけを、ヴィネアは目を細めて酷薄な微笑で受け止めた。
(猫は、高貴で悪しきものばかり)
こんな時に、リリアナの言葉を思い出すなんて。
「状況が変化した。俺にはまだ、ユージィニアが必要だからな。お前は一人で大丈夫だな?」
その優しい問いかけに、胸が潰れそうになった。
なぜこの男は、今の自分がセイに何をしているのか知っているくせに、こんな場面でも優しく笑うのだろう。
感覚そのものがこちらの生き物とは違うのだろうかと思ったら、ずしりと重い後悔に襲われた。
(どうして私は、あんな少しの間も我慢出来なかったのだろう)
その想いには、ずっと気付かずにいたのに。
そのまま気付かなければ、心は揺れもしなかったのに。
(ローヴァーさんは、向こう側のものに心を寄せるなと、あれだけ私に忠告していた。あの言葉を、私はもっと真剣に考えるべきだったのだわ…………)
自制して、冷静に自衛するべきだったのだ。
それなのに、一瞬で容易く心を屈してしまうなんて。
最悪のタイミングとは、まさにこのことではないか。
「…………確かに、状況が変化したいみたいだね」
さっきまでの優しさは何だったのだと、声に出してヴィネアを詰るべきだ。
でも、くたりと力が抜けてしまって、希望という希望を根こそぎ持っていかれたようだった。
ようやくの思いで囁く程の声で返し、数歩後ろに下がれば、それを見たヴィネアの瞳が愉快そうに歪む。
そこに揺らいだ震える程の残酷さに打ちのめされ、セイは、この冷静さが不愉快だったのだろうとすぐに気付いた。
この人は、本当に不愉快な時にはこうして微笑むのかと。
永遠にも思える一瞬の後、ヴィネアは、がらんどうのような冷たい目で口元を嘲笑の形に歪めた。
「ああそうだ。どのみちここで殺すわけじゃないが、お前はまだ駄目だ」
追い打ちをかける鋭利な言葉の毒に怯んで、セイが蒼白になったその時。
「ああ、口惜しいな。時間切れか」
ばさりと、翼が鳴る。
(………………え?)
頭上の枝が大きくしなり、ばらばらと木の葉が落ちてきた。
思わず見上げたその先で、ほんの僅かな雲の隙間に滑り込む飛影が見えたような気がする。
(ということはつまり、……………)
「…………いなくなった?」
気付けば、細かい雨が降り出していた。
それはあっという間に激しくなってゆき、雲間から差し込んでいた光の筋をたちまちに煙らせてゆく。
(もしかして、ヴィネアはこのタイミングを図って?)
はっとして、微かな期待で視線を戻せば、それはいとも容易く打ちのめされた。
「ほら、車の鍵だ。運転は出来たな?俺はここから逆方向になる」
ぞんざいに投げられたものを反射的に受け取り、セイは強張った表情のまま無言で頷いた。
ヴィネアはもう、こちらを見てもいなかった。
うんざりと鳥が去ったらしい方角を見据えたまま、セイに視線を戻す手間もかけない。
見事な枝ぶりの大きな木の下は、時折吹き込む雨があるくらいで体を濡らすようなこともなく、しばらくして、沈黙に耐えかねて言葉を切り出したのはセイの方だった。
「メーヘルにある神殿群は、確かに異教の教会かもしれないね」
「ああ。信仰の自由を認め、あの都市のあるこの国は、まったくもって幸いな隠れ家だ」
激しい雨が、地面に打ち付けていた。
足元は跳ね上がる雨足で重たく濡れ、雲の流れが早いらしい空には、気紛れに青空が覗き光の筋が幾重かに差し込んでいる。
その暗さと明るさの奇妙な中間で、セイは正面に立った綺麗なひとを見ていた。
(触れる事も出来ない前歴なんかよりも、ずっと大切な人だったんだ。…………そうだったと、やっと気付いたのに)
打ち砕かれた胸の奥の鋭い痛みが、麻痺したまま残っている。
涙の流れない目元は強張って、目の前の酷薄な光景を全力で否定しようと、ありもしない言葉を探したまま。
「通り雨か。この雨じゃ、雲間があっても鳥は降りて来られないだろう」
その無責任な言葉は、お前は運がいいなとでも言いたげで、そのくせにいつもの気安さはない。
空を見上げ翳ったままの眼差しは見通せないが、口元が笑みの形に歪んでいるのはわかった。
(仮面が剥がれたら、取り繕う気も起らないというわけ?)
セイは、どうにかして怒りを奮い起こそうとしたが、胸の淵で揺れているのはあまりにも重い失望ばかりであった。
「ヴィネアの目的が、まだよくわからないんだ。…………どうしてこんな回りくどいことをしたの?」
「どうしてと問わないのが、お前のいいところだな」
せめてもと、何とか平静さを装ったセイの渾身の努力も、ヴィネアの声の冷たさが容易く掻き乱してゆく。
「言ったところで事実は変わらないし、事実だけで良ければ、…………残念ながら、それなりに把握出来たからかな」
「そういうところは、つくづく可愛げがない奴だな。でもまぁ、それがお前なんだろう」
いつもはじゃれるように言うその声に、温度がないのが怖かった。
皮肉でも何でもない、ただの評価でしかない冷たい言葉に、かじかんだ指先を強く握り込む。
手を伸ばせば届くぐらいの距離だけど、もう永遠に届かない。
(ああ、私は馬鹿だな………)
こんな風に振り回すなと怒らないで、手の届くところにある内に、このひとにもっと触れておけばよかったと思うだなんて。
自分の生死をどうでもいいと吐き捨てた男に向けるには、あまりにも情けない執着ではないか。
ざあっと温度のない風に嬲られて、重ねすぎて色をなくした感情が降り積もってゆく。
でもその中の何一つとして、言葉には組み立てられない。
それはもう、死んでしまったものばかりだから。
「あなたは、やっぱり向こう側のひとだったんだね」
「お前の履歴は特殊だからな。ユージィニアに会わせる必要がある。そうだろう?」
ヴィネアの答えは、彼の都合ばかりでセイの質問を汲んだものですらなかった。
何度でも、セイの胸をずたずたに引き裂きぼろ布のようにする。
(……………っ?!)
「……………待って、まさか、ヴィネア…………」
「だから俺は何度も言っただろう?まさか、あれを目指すのかと」
(その会話はをしたのは、やっぱりあなただったの?)
いや、そんなことより何よりも。
「あの人を、知っているの?」
彼の瞳にひらめいたのは、セイではない、他の誰かに向ける歪んだ諦観めいたものだった。
「あいつは、俺の古い友人だった。お前の知る言葉で言う、竜とでも言うべきか。永く、自由に生きたあいつが、まさか写本なんてものに手を出すとは思ってもみなかったが」
「じゃあ、…………メーヘルにいるあなたのお母様が、誰なのかも知っているの?」
「当たり前だ。彼女が生まれ直した日から、そして忘れずにいたあいつの名前を口にしたそのときから、俺の庇護を与えているからな。……………次はもう覚えていないだろうが、記憶が残る間はせめてな」
(あの人が生まれた、その時から?)
セイは、ずっと彼女のようになりたくて、彼女の持っているものが羨ましくて堪らなかった。
それなのに今度は、生まれたその日からヴィネアの守護まで得ていたと言うのか。
(彼女はいつも、私の欲しいものばかり手にしている)
勿論、彼女からしてみれば見ず知らずのセイの絶望なんて知ったことではないだろうし、そもそも、彼女には何の罪もない。
それを理解しているから、ただ、ただ、羨望だけが嵩を増す。
打ち捨てられるものと、大事に庇護されるものと。
その差が明瞭に際立ってしまう。
「だから、私を見付けたの?」
(だから?いつか彼女に与えるその為に、私に縄をかけていたというの?)
「俺はずっと、こちら側で失われたあの男の足跡を探していた。お前が生まれたとき、お前の中にあいつが欠片も残っていないことに気付いて失望したのは事実だ。…………もう少し執念深いと思っていたが」
「私が、彼の記憶を持っていることに気付いたのは?」
質問に飽きてきたのか、ヴィネアは突き放すような目をする。
「会話もままならない子供の頃から、散々あいつの話をしておいて?」
「……………そう、か。ごめん、子供の頃にヴィネアに会った時のことはあまり覚えていないんだ」
正直にそう告げると、彼は不可解な表情をした。
その表情を見て、セイの記憶に曖昧さや欠落があることは、彼のせいなのだと思い至り、またいっそうに複雑な気持ちになる。
「一度屋敷に帰るなら、その後にでもこちらに顔を出してくれ。正直なところ、ユージィニアは少し体調が不安定でな。あまり後ろ倒しにしたくない。次の季節を見られるかどうか」
ああ、ここにいるのは、なんて身勝手で残酷な、見知らぬ美しい生き物なのだろう。
(私が受け入れると、信じて疑わない)
どうにもならないのならせめて心の平静を保つ方向に舵をきろうと、セイは、当たり障りのない会話に戻してみる。
正直なところ、もう、それしか出来なかった。
「駅まで送って行こうか?その様子じゃ、必要ないだろうけど」
「ああ、道行きが違うからな。お前と俺とでは、成り立ちも素材もまるで違う」
ぬけぬけとそう答えられ、セイは小さく微笑んだ。
もうそうするしか手がなかったからだったが、その顔を見て不愉快そうに目を眇めたヴィネアの姿に、とても嫌な予感がした。
殺意や悪意とは違う、鋭い刃が振り上げられたような、そんな気配がしたのだ。
「俺はずっと、お前の存在そのものが不愉快だった」
ぼろぼろの心では何も言えず、無情に振り下ろされた刃を見ていた。
「だからこそ、手の内に入れた。覆い囲んでどこにも行けなくしたところで、放り出してやろうと思ってな。でもお前は、最初からどこにも行けない哀れな子供だった」
血の気が引いてゆくのを、肌で感じている。
殺される程の心が残っていれば、セイは悲鳴を上げていたかもしれない。
でも、もう何も動かなくて、ただ力なく頷いた。
「こうやって放り出して地に落ちても、お前は壊れもしないぐらいにがんじがらめだ。ユージィニアとは違う。会わせていいのかすら悩むところだが、何しろもう時間がないからな」
「…………そんなに、その人の具合は良くないの」
「時間がないのは、お前自身だろう」
(そうか。あなたも、私がもうすぐ死ぬと思っているのか………………)
何度も緩めようと苦心してもまた、打ち砕かれる。
今までと同じ彼はもういないのだと、知らしめられるだけ。
それがどれだけ大切なものだったか、知りもしないくせに。
焦げ付いた溜め息を吐いて、セイは頷いた。
冷えた体がひどく重く感じる。
「わかった。着替えて一休みしたら、そちらに向かうよ。どうせ、かかる時間も違うんだろう。無駄な時間を割かないようにするから、少し待っていてくれ」
「あまり寄り道するなよ?俺も鳥も、あまり気の長い方じゃない」
「はは、おまけに、更にそう言い重ねるなんてね。…………わかった」
その後、どうやって自分で借りた屋敷に帰ってきたのかは覚えていない。
憎しみさえ込めて前だけ向いて、道中はずっと唇を噛み締めて運転だけに集中していたように思う。
そうして、倒れるのを堪えて自分の部屋に転がり込むまでずっと、誰の目にも触れない一人きりの場所でなくてはならないと、必死に自分に言い聞かせていた。
心は何処もかしこも傷口だらけで、誰のことも思い浮かべられない。
満身創痍とはこういうことかと、コートを脱いでからようやく考えた。
テーブルの上に、ヴィネアに見せるかどうか悩んだ挙句、今朝まで居た屋敷に忘れて出た筈のリリアナからの白い封筒がある。
それを見たらもう駄目だった。
テーブルに縋るようにして床に座り込んで、セイは、顔を覆って泣いた。
途中からすすり泣きが嗚咽に変わって胸が張り裂けそうになっても、もう誰かの名前を呼びたいとは思わなかった。
それが悲しくてまた泣いた。
鈍感な自分がずっと気付かずにいて、生まれるなりヴィネアが殺してしまったものが不憫で仕方がなかった。