七頁の夜の甘い口づけ
ローヴァーは本当の屋敷まで送ってくれたが、セイはその見慣れていた筈の小さな屋敷では郵便物などの確認だけした後、昨晩と同じ屋敷にに自力で戻った。
空はよく晴れているし、やって来た汽車の窓際に寄り掛かるようにして立っていたのは、いっそもう何か起こってくれればはっきりするのではないかと、感傷的になっていたのかもしれない。
(ねぇ、ヴィネア。今夜は帰ってくるつもりはある?)
彼の遠方での私用とやらを、ぼんやり思う。
あえて追求したこともなかったし、そういう話題がお互いの興味に上ることもないままだったが、彼にも私生活があり、そこにかかわるセイの知らない人達がいるのだろう。
だから、残り少ないかもしれない自分との時間を無駄にしないで欲しいだなんて、そんな自分勝手なことを考えてはいけない。
大きな駅での乗り換えでふと、ヴィネアはメーヘルにいるのではないかと考えた。
(あちらは雪景色だろう。もう随分と、季節の戻りが遅くなったと聞いている)
年々季節の歪みが出始めているこの国で、その気候の変化が顕著である土地の一つ。
学者たちは地形や魔法の質の変化を論じ、今のセイは見知らぬ世界の生き物の影響を思う。
ふと、鞄に入れて持って来ていた共有書の頁を開いたのは、考える事に疲れたからだった。
出口のない考えに疲れて、息抜きをしようと思ったばかりで、当然ながら何の予感も推理もなく、だからこそ何の心の準備もなかった。
「………………うそ、」
そう囁いた声はとても低かったけれど、セイの様子に気付いた向かいの少女が、不審そうに顔を持ち上げる。
ここは列車の中だったと慌てて視線を戻し、セイは、震えそうになる指先を律した。
“童話の女王ユージィニア、メーヘルにて児童福祉施設に著書の寄贈”
また調べ物に戻る余裕はなかったので、セイが覗いたのは本日のニュースなどを記した大型の魔法新聞社の連絡版であった。
どっと血の気が引き、視界がくらりと暗くなる。
腕のいい画家を抱えているものか、鏡に映したような鮮明な姿絵に描かれているのは、花束を抱え、白髪でもなお少女めいた眼差しを持つ美しい人の姿だった。
(ああ、私はこの人の笑顔を良く知っている)
彼女だ。
息子と記されたヴィネアでしかない青年の隣で笑っていたのは、セイが憧れ続けた美しい女性そのものだった。
目の縁が涙に焼けて熱い。泣かないように堪えた熱が、どこか子供の癇癪のようでますます自分を惨めにする。
帰った屋敷は冷え冷えとした居心地の悪さで、温め直すこともないまま冷蔵庫の冷たい料理を少しだけ食べた。
ここが彼の領域なら自分は庇護されているのかも知れないし、この秘密を裏切りだと感じてしまうのは、セイにも大きな秘密があるからだ。
(それでもヴィネアは大切な友人だし、別に意固地になって彼を敵だと思うつもりもないけれど……………)
ただ、決してそちら側には行かないで欲しいと思った道の分岐へ、物語が歩き出してしまったように感じてしまう。
(ユージィニアの物語を読んだ)
そうしてまた一つ、ひやりとする。
どうして、ユージィニアの童話の中には、あの人が思いつきで語った筈の、奇妙な作り話で溢れているのだろう。
そしてそれは本当に、その場限りの作り話だったのだろうか。
自宅に帰るまでの道中、記憶の中に鮮明に残る年号を基準にして、過去に大きな災厄が共和国近くのどこかに起こっていないかどうか調べ、誰もが知る疫病がかの国々を震撼させた時代だと知り、成る程と思ってしまった。
(もしも私の考え通りならば、あの人もまたそういうものだ)
あれだけ特別な人が、只の人間だっただろうか。
鏡の隅に写った一瞬の姿の特別さは、あの眼差しや潤沢な知識は、果たしてこちら側の住人のものだろうか。
ヴィネアが聞かせてくれた仮面舞踏会の話は、共和国で開催された仮面舞踏会の夜に、彼の口からその伴侶に語られた話だった筈なのだ。
(もし私が彼女ならば、漂白されたくらいで、彼のことを忘れてしまえる?)
単純なことだ。
ユージィニアの著書をどこかで購入してきて、ローヴァーに物語の中身を確かめてもらえばいい。
向こう側の生き物の心を奪う特別な人間は生まれ変わっても特別で、向こう側の生き物かもしれない人の心を捕えるのかどうか聞いてみてもいい。
(あの人を前歴に持つ私の後見人が、偶然にその伴侶を前歴に持つ人の義理の息子になるのだろうか………………)
この思考を手放したいと、切実に思った。
ヴィネアはまだ、セイの中にあるあの人の記憶を知らない。
それなのに、こんな細い線が繋がったのが怖いだけで、共に暮らしてきた程の人の事を疑うなんて馬鹿げている。
「どこまでが自意識過剰な疑いで、どこまでが冷静な推理なのかがわからないのが情けないな…………」
(もし、ヴィネアが向こう側の何かだったとしても……………)
そうだ。鳥だと考えるよりはいいかもしれない。
(いつだって彼女は特別だった。だから、たまたま目に留まっただけかもしれないし)
でもやはり、セイと彼女の両方が揃うのはおかしいと、冷静な心が声を上げる。
では、それは一体誰の為に。
物語の主役は誰で、使い潰されひっそりと消えてゆくのは誰なのだろう。
そしてそれは、彼が鳥であっても。
少しだけ違う同じ議論でくるくると回る。
(……………堂々巡りだ。こんな風に大事な人を疑うのは、自分で自分を惨めにしているだけではないか)
「今は現実的な問題を、…………鳥にどう対処するか考えよう」
声に出して気分転換すると、鳥に纏わる話を書き出した紙を並べ直した。
この際、ヴィネアが鳥であった場合のことは無視してかかる。
(鳥は夜目が効かず、雲が太陽と空を完全に隠している間は、地上に降りてこない)
穢れた土地と、異教の教会にも降りて来ない。
群れで戒律を守り、だがしかし人間に関わる時には決して群れで動かず、群れを成すのは災厄のときだけ。
そして、
「お伽噺の通りなら、自分より階級が上の生き物の庇護下からは、何も持ち去れない」
その一節を見つけたのは、古い東欧の詩篇だった。
翼を持つ兵士が罪人を捉えようとしたが、罪人は蝙蝠や梟、狼に狐の巣に逃げ込んでそれをやり過ごす。
だがその為にはそれぞれの動物の召使いにならなければならず、高貴な罪人はこう嘆くのだ。
“ああ、ここに王様がいれば喜んで召使いになるだろうに” と。
最後の主になった火蜥蜴はそれを笑い、王は王であるが故にここには居ないのだと罪人を諭す。
笑われた罪人はとても怒り、火蜥蜴の召使いになるのを拒んだ為に、翼を持つ兵士に囚われてしまう。
そんな話。
この詩篇に記された物語は、高位の獣達の庇護下にあれば、鳥の手を逃れることが可能だと読み解く事も出来る。
(ローヴァーさんは、その可能性を指摘しなかった。知らないか、従属が条件であれば可能性に入れていないということもあるかも?……………もしくは、従属はただの比喩かもしれない)
ふと、それが正解だという気がした。
罪人は高貴で美しい女性だし、動物達はみな男性として描かれている。
であれば婚姻のようなものを暗喩している可能性も高い。
(うーん、となると、ただの史実の捩りで、動物の表現の方がカモフラージュの可能性もあるのか)
「リリアナがいれば良かったのに」
頭の回転が速くて、いつも違う角度からの意見を見つけてくれた親友を思い出す。
一度飲み込んでしまえば、その死に対する思いは乱暴なものではなくなっていた。
彼女の覚悟を受け止めて、彼女が自分の最後の舞台に付き合ってくれなかったことを寂しいと思うくらい。
(寧ろ、……………今の私は、リリアナが羨ましいとさえ思う)
大事なものを見付けて、それが失われた世界で生きなくても済むのなら、どんなにか幸福だろう。
きっと、がらんどうのまま、生き続けることの方が苦しくて恐ろしいに違いないのに。
それでもその最後に、リリアナは会いに来てくれた。
セイに会う最後の余力を、残しておいてくれたのだ。
「それなのに、せめてもう少し一緒にいたかっただなんて、思ってごめん。でも、…………リリアナがいてくれたら心強かったのに」
(もしかすると、今回、私に纏わる事態がこんなに早く動いてしまったこと自体、リリアナには想定外だったのかもしれない…………)
あの日の彼女は警告こそすれ、ローヴァーのように、鳥から逃れる方法を教えてくれるような焦り方はしていなかった。
それに、鹿だったリリアナが、セイの秘密の一端を知っていたのなら、それは随分前からだったような気がする。
(出会った頃、…………そう言えば、ヴィネアのことをものすごく嫌っていたっけ)
ヴィネアに対する信用するなという評価が、信用して打ち明けろ、に変化したのはいつからだっただろう。
勿論、餌付けの効果もあったようだけど、二人が随分と色々な話をしていたような記憶が微かに残っている。
となるとリリアナは、ヴィネアが何者なのかを知っていたのかもしれない。
(リリアナと、もっとそういう話をしたかった。もっと沢山の事を教えてくれていれば、マリアが死んだ直後に、傍に居てあげられたのに)
あんな風に魔法で声だけを繋いで話すだけではなく、リリアナ本人が断っても会いに行くだけの事実をあの時知れていたら。
そうすれば大切な友人の何かを、ほんの少しでも緩和してやれたかもしれない。
眠りの先で訪れた場所でそう言うと、目の前の男は、またしても不可解な眼差しになった。
「漂白された者となると違うかもしれませんが、恐らく傍に居なくても良かったのですよ。我々は自分の望みに忠実ですから、もし誰かに傍に居てほしければ、伯爵夫人は問答無用であなたに会いに行ったでしょう。あなたの状況など考えもせずにね」
セイが、腰かけた重厚な木の椅子にある爪痕に気付くと、ローヴァーは微かに恥じ入るような表情を見せた。
この傷跡を付けた時の彼に何があったのだろうと興味が湧いたが、どうせ言わないだろう。
「あの頃、綺麗な湖の畔で泣いているリリアナを見ていた夢の記憶があるんです」
あれはただの夢だったのか、こういう形での邂逅だったのか。
「会えていたのならば、幸いなことですね」
そう微笑んだ沈黙は柔らかで、セイは穏やかな気持ちになる。
「そう言えば、あなたに謝らなければいけないことがあります。結局今朝出てきた屋敷に戻って来てしまいました。せっかく送っていただいたのにすみません」
「最初から、あちらにお送りするべきだったかと、別れた後に後悔しました。しかし、元の屋敷への道が閉じていたとしたら、あちらに送れるのは私ぐらいでしょうから」
「道が閉じている?」
首を傾げたセイに、ローヴァーは頷く。
「あなたは、何者かが道を閉じ、自分が借りた屋敷に帰れなくなっていた。私が一度開け直したので、昨日は戻れたんです。郵便物などは確認出来ましたか?」
「ええ、綺麗になっていました。まだ一日程度ですが、同居人が取りに行ってくれたのかもしれませんね」
「住処は魔法の上でも場となりますから、庇護の一環でないとわかったら、あまりこちら側に根差していない場所に住むのはお勧めしません。その場合は、ご自身で借りた屋敷へ帰ることを推奨します」
「弊害や危険のようなものがある、ということですか?」
「逆に言えば、自分の領地ではない場所は、誰かの領地の中ですからね」
「……………言われると腑に落ちるのに、私は無知ですね」
歪んだ苦笑を浮かべたセイを、ローヴァーは年長者らしい眼差しで不憫そうに見る。
気遣わせてしまうのが申し訳なかったが、目の前の生き物が長命過ぎて、強がりや我慢がままならないようだ。
「こんな風に迷い込むのも、あなたにどこかで頼り切っているからでしょう。ごめんなさい、不作法だとはわかっているんですが、防ぐ術もわからなくて」
ふと、ユージィニアの姿絵を見た時の絶望が戻ってくる。
秘密を明かして助けを求めるなら今だと思ったが、どうしても誰かにその経緯を説明するだけの気力がなかった。
「いいえ、あなたは……………」
何かを言いかけたローヴァーが、ふっと目を瞠る。
瞳の硬質な煌めきに警戒が伺え、セイは何もない背後の森を振り返ってしまった。
「…………戻った方がいいでしょう。誰かが、あなたを探している気配がする」
ぞっと肌が粟立ち、気持ちを引き締めた。
「よくないものですか?」
「その判別までは。とは言え、あの屋敷にはあの屋敷なりの防壁があるのも事実です。念の為に体と心は同じ位置に揃えておいた方がいい」
「そういうものなら、戻ります」
視線を戻す前に、ぐにゃりと視界が歪んだ。
(…………何、これ)
せり上がるような不快感に、べたべたとした奇妙な甘さが混じり込む。
強引に連れ戻されて、狭いけれど身に馴染んだ鳥籠に入れられた気がした。
(誰?…………これは、また別の人の夢なのだろうか…………)
こちらを見下ろした誰かの影に、怖いくらいに鮮やかな瞳だと思っても、その色が誰のものなのかは思い出せない。
帰り道を間違えたのだろうかと考え、辺りを見回した。
(ここはどこだろう?)
何かを囁く口元が見えた筈なのに、その内容はどうしても聞き取れない。
ただ、ただ、暗く力に溢れてどこまでも甘く麗しい。
(……………あ、)
せわしない羽ばたきと、わんわんと響いて落ちてくる聖歌の欠片。
そんなわけがないのに、大聖堂の床に横たわっているようで、やはりこれは夢だと思う。
「…………………やれやれ、気が多い生き物だ。ああ、まったく。お前には時々、殺意すら湧く」
それは、誰かの甘い囁き。
(怒っているのに、笑っているみたい)
ふと、柔らかな口づけが額に落とされた。
(これはまるで、おとぎ話の中の誓約の場面だ)
そうして、唇にも甘い吐息の温度を感じる。
(………………はは。なんだ、夢か)
悲しくなる理由がわからないけれど、その途端にそう思い、胸が潰れそうになった。
口づけはさらりとしていて、それでいて甘く、ほんの一瞬だった。
だからこんなにも胸が震えて、ずっと欲しかったものばかりを手に入れられない己の人生について考える。
(あのとき、あの手を離さなければ良かった。あの汽車を降りずに、あの人と一緒に行きたかった)
それは一体、いつの物語だろう。
沢山の真っ白な羽と、眩暈がする程の暗さが降ってくる。
遠くで悲鳴が聞こえ、大きなものをばりばりと引き裂く湿った音が重なった。
誰かの啜り泣く声と、誰かの笑い声が聞こえ、ぱたりと途切れる。
そんな気がした。
水音に目が覚めて体を起こすと、セイは、ベッドの下に立派な羽が一枚落ちていることに気付いてぞっとした。
庭で夕食を食べた日に見た細やかな羽毛ではなく、随分と立派なものだ。
そう言えば昨晩の夢の向こう側で、誰かの気配を感じていたのではなかっただろうか。
額に落ちた口づけと、唇に触れた吐息の甘さを辿れば、遠い羽ばたきも聞こえたような気がしたが、夢の内容はよく思い出せなかった。
(…………………………まさかね、)
嫌じゃなかった。
もしあれが鳥の仕業なら、堪らなく不愉快だった筈だ。
だから、あそこまでは夢だとして、薄っすらと感じていた他人の気配だけが本物なのかも知れない。
夢の中で恍惚としていた自分が信じられないくらいに、誰かが争う恐ろしい物音を聞いた気がしたけれど、そうであれば目を覚まさずにいた理由がわからない。
何かを引き裂いたあの音は、思い出すだけでも震えてしまいそうなくらいに、残忍な残忍な音楽だった。
(でも、もしこれが鳥の羽なら、どうしてこんな風に落としていったのだろう…………)
カーテンを開けてそろりと窓から見下ろした庭では、いつの間に帰っていたらしいヴィネアが、庭木に水遣りをしている。
なぜかとても上機嫌で、ここからも口元の笑みがわかるくらい。
(ねぇ、ヴィネア。…………あなたは鳥じゃないよね?)
そう考えるのは、とても孤独なことだった。彼の秘密を推理して、知らないものの大きさを知る度に、セイは寂しく寄る辺なくなってゆく。
(それはきっと、私が疑っているのが、罪のないちっぽけな秘密ではないからだ)
鳥でも、鳥ではない向こう側の生き物であっても。
そこに隠された秘密が悪意によるものならば、セイは掛け替えのない友人と、彼と過ごした日々の柔らかさを失ってしまう。
それが怖くて悲しい。
(……………もう少しだけ、いなくならないでね、ヴィネア)
嘘でもいいから隠し続けて、どうか、この人生の最後の場面くらいは、一人きりにしないで。
そんな心の声の無残さに少しだけ泣いて、セイは、髪を結ぼうとしてやめた。
いつも着る服を見て小さく唸ると、気の迷いで買ったコットンの白いワンピースを着た。
これを最初に店頭のラックから外したのはヴィネアだ。
あの時に結局買ってしまったのは、セイがとても酔っていたからだと今でも考えている。
でもこれを着ると、ヴィネアは上機嫌になる。
リリアナもそうだった。
(だから、今日ばかりは私を守る為に着よう)
視覚で好感を増幅させようするのも、歴史上証明されてきた立派な武器ではないか。
この際その手も使うので、今日は精一杯、大事にするべき友人だと認識して欲しい。
「……………最後の優しさだと思って」
ついつい声に出ていたらしい。
「何だそのいかがわしい独白は」
不意に聞こえた声に小さく飛び上がって振り返ると、部屋のドアにもたれてヴィネアが立っている。
「………ええと、…………欲求不満なんじゃないかな」
「何を想像して答えればいいのかわからなくなるから、言葉遊びで漢気を出すのはやめてくれ」
「え?」
「そうか、ただの厄介な無邪気さか。余計にやめろ」
窘められて首を捻った。
少しふざけた言い回しだが、寂しいと呟いただけなのに笑えない冗談だと思われたのだろか。
ここは甘やかしてくれるべき場面だと思って、微かにむっとする。
(ふざけて言ってるけれど、ほとんど本気なのだから、それなりに傷付くのだけど)
「ヴィネア?」
そう考えていたところで、今度は不意に首筋に顔を寄せられてぎょっとする。
「着方が乱暴だな。襟元に髪を巻き込んでいるぞ」
抱き締められるくらいに近付いたのは、襟元で乱れた髪を引き出してくれたからだったらしい。
そんな、何の意味もない優しさに気恥ずかしくなってしまったセイは、慌てて話題を変えた。
「もう出るよね?煙草を買ってくるよ」
「俺といるときにまで吸う必要はないんだけどな」
「いや、始めたきっかけは、ヴィネアに勧められて声をかけられ難くしての事だけれど、時々指先の癖みたいに無性に欲しくなるんだ」
ローヴァーに出会ってからすっかり吸わなくなっていた煙草は、気付けば、一箱も残っていなかった。
吸い始めたきっかけは、見知らぬ人々に囲まれないような気難しさを演出する為だが、煙草を持たずに外に出ると厄介事に巻き込まれ易いという妙なジンクスがついてしまい、手放せなくなったのだ。
ヴィネアは微妙な表情になったが、立ち上がり部屋を出る。
「すぐに戻るから支度をしていて」
横をすり抜けて小走りで階段を下りると、長い階段を駆け下りてシューズルームの飾り棚の上にある手の込んだ刺繍の小銭入れを持って外に出る。
セイがすぐに何も持たないで散歩に出てしまうので、ヴィネアがここにもと置いていてくれるものだ。
走る必要はないのに息を切らして、たまたま近所にある古びた煙草屋に辿り着き、それからやっと鳥のことを思い出して青ざめた。
(……………ああ、馬鹿なのか私は!薄曇りで本当に良かった……………)
こんな土地に店を構えている煙草屋は、小さなカウンターだけの薄暗い店舗にいつも小柄な老婦人がいる。
セイのお気に入りの銘柄も、置かれた位置をこちらで教えてから初めて店頭に置いていることを思い出したくらい商品管理には熱意がない。
いつもの箱を出してもらい、手早く支払いを済ませると、店主はまた居眠りに戻るようだ。
淡い覆いでしかない雲の防壁は心許ない。
急いで帰ろうと、また走っていたときだった。
(……………あの車、)
ふと、見覚えのある車に立ち止まる。
訪ねてくる途中に発見されたものか、運転手はもう車を停めていて、すぐに降りてきた。
「ローヴァーさん…………」
今日は初めて会った日の漆黒の騎士服で、その黒の鮮やかさにふと視線を奪われる。
「昨日は問題なく戻れたようですね。…………それにしても、走るのは上々ですが、軽装で外出するには無謀過ぎませんか?」
「ええ、自分でもそう思ったばかりです。何かありましたか?」
今日は同居人と出かける日だと知らせていた筈なので、そんな日に訪ねて来たからには、何か特別な用事があるのだろうか。
「このピアニストを御存知ですか?」
おもむろに差し出された宣材写真では、柔らかい砂色の髪をした綺麗な少年が微笑んでいる。
「ええ、有名な子ですから。一年前に対談の話も出たんですが、残念ながら面識はありません」
その写真を手にしているのなら、ローヴァーも、彼が一年前の災害に巻き込まれ命を落としたことは知っているだろう。
「その子が、………もしかして今回の事情に関わりが?」
「いえ、直接の面識がないのなら、あなたはご存じないのでしょうね。ふと気になってあなたの身の回りを調べたら、気になる顔が出てきたのでそれだけです」
(その確認の為だけにここまで?)
いささか不自然ではないかと考え、その気持ちが顔にも出たらしい。
「彼はコレクターです」
重ねてそう教えてくれたローヴァーの説明に、セイはぽかんとした
「………………知りませんでした。随分と世間は狭いみたいだ」
「偶然ではない可能性もあって、こちらに伺ったんですよ。念の為にですが、対談の話が流れたのは偶然ですか?」
「私の都合がつかなくなったんです。専門外なのに、環境保全の為に滅多に立ち入れない有名な流星湖の調査同行の話が舞い込んできて。乗らない手はないでしょう?」
「その調査同行のお話はどちらから?」
「…………同居人からです。」
「彼はご一緒に?」
「いいえ。彼は陸路から合流する予定だったんですが、経由地の国で崩落事故があったらしくて。迂回路がないので合流出来ないままになりました」
ローヴァーが何かを懸念しているようなので、セイもその思考を推理する。
「元々私は、十八年前の災厄の調査で来たものだとお話したでしょう?当然、余災とされる一年前についても調査をしました。あれが、自然によるものなのか、災いによるものなのか」
ヴィネアを待たせてるとぼんやり思いながら、セイはその続きを待たずにはいられない。
「結果は不明、ということになっています。が、私はあれが追加災害だとは思っていない。その理由が先程の写真です。私は別のルートから彼を見付け、一年前の事件の重要参考人だと考えている。今回、その線があなたに繋がりかけたと気付いた。…………そういう訳です」
「どうやって、私とあの子との接点を見付けたんですか?」
対談は身内で設定されただけで、流れてしまい公にはならなかった筈だ。
「あの少年が、あなたの熱烈なファンだったと耳に挟んだのを、私の知人が思い出しました」
それはもしや、予言めいたことの出来る梟だろうか。
「どちらかと言えば、私が彼のピアノに聴き惚れてしまって、その話を昔の音楽関係の知人に話したら、繋げてくれようとしたんですよ。何度も会う機会はあったのですが、とうとう実現しないままでした」
魔法式の通信を通して、拙い公用語で必死にお喋りしてくれた少年のことを思い出す。
天才的な技巧とは裏腹に、いつもご機嫌の子犬みたいな性格で、とにかく可愛い男の子だった。
「一年前の災害では、彼が、中心地で亡くなった唯一の人ならざる者です」
「……………彼が?でもそれでは、時期的に合いません。災害というものは、……向こう側からの訪れで起こるものなんですよね?」
「いいえ、我々の衝突でも起こり得ます。この場合には事故ではなく、事件となりますが」
「反論するようですけど、あの災害の現場には私も、………リリアナもいませんでした。無関係だと思いますが」
「私が可能性として見ているのは、あなたの同居人の方です。あの屋敷を見て、あなたにかけられた防壁を見たときに、その可能性を思案しました」
幸い表情は動かなかったが、胸の底の恐怖のかたまりが小さな悲鳴を上げた。
「ヴィネアは、…………私の同居人はその時、崩落事故のあった国にいた筈です。そう言ってもですか?」
「ええ、今の事情をお聞きして、尚、いっそうに深く」
言葉を失ってから、まじまじとローヴァーを見返して、無意識に額に手を当てた。途方もないことを示唆されている。
けれど、ローヴァーはもう、それがただの推理だとは思っていない。
「……………申し訳ない。一本吸っても?」
「どうぞ」
混乱していたせいで煙草に火を付けてしまってから、しまったと思った。
どうぞと言ったくせに、ローヴァーがぎょっとした顔になったからだ。
しまった苦手だったのかと思ったとき、
「セイさん?一体何を吸っているんですか?!」
そう声を荒げて、セイの口元から煙草を毟り取って投げ捨てると、涙目で咳き込んだローヴァーに仰天した。
「ローヴァーさん?!ちょ、手!火傷してませんか?!」
素手で握り潰したのをばっちり目視していたので、慌ててその手を両手で掴んで開かせる。
(………………良かった、赤くもなっていない)
ほっとしてから顔を伺えば、眉間に皺を寄せて煙草を投げ捨てた排水溝の方向を見ていたローヴァーが、視線をこちらに戻すところだった。
「熱くありませんでした?気が回らなくてごめんなさい、煙草なんて後にするべきでした…………」
慌てて謝れば、む、と眉を顰めてローヴァーが難しい顔になる。
「まさか、あれが煙草だと思っていたんですか?」
「は?」
「一体どこで、あんなものを手に入れたんです?」
「ええと、………煙草そのものが苦手なのですよね?先程のものは市販の煙草です。珍しいのは確かですが、専門店ならどこでも売っている銘柄ですよ?」
そう説明すると、片手を額に当てて、心からの溜め息をつかれた。
その姿に、セイはちょっと可哀想になって語尾を弱めた。
表情がとても暗いし、何しろ彼はまだ少し涙目だ。
またしても撫でてあげたくなる、恐るべき狼ではないか。
「あれは、我々の世界でも滅多に流通しない錬成魔法を織り上げた、特殊な毒物です」
入れ替わりで愕然とするセイを不憫そうに見て、ローヴァーはまた一つ溜め息を吐いた。
「こちらの世界での調合が、たまたまあなた方の毒物に該当したということですか?」
「あり得ません。こちら側で練るには特殊過ぎますし、そもそも素材がこちら側にはない」
「まさか、………どうしてそんなものが、あちこちで市販されてるんです?!」
「失礼ですが、これはご自身で選ばれたものですか?」
そう言われれば、煙草を吸い始めたのはヴィネアの影響で、この銘柄を薦めたのも彼だ。
しかし、その後は普通に市販品を購入している。
そう説明すると、ローヴァーは考え込む様子を見せた。
「そう、思わされているだけではなくて?」
「そうだとしたら、どうしてそんなことを?まさか、彼が私を毒殺しようとしているとでも?」
声が鋭くなるのは、怖さがあるからだ。
妙な偶然が重なり過ぎている。
とは言えセイは、彼の秘密が自分を殺そうとするようなものだとまでは思わない。
「いいえ、この錬成が使用者を脅かすことはありません。そもそも、これが猛毒として効果を及ぼすのは、我々だけですから」
暗にローヴァーを殺しかけたと言われているようで、セイは呆然とした。
「え、影響はないんですか?!ごめんなさい、かなりの至近距離でしたよね?!」
「大丈夫ですよ。私は元々、死に難い成り立ちのものです。狼は傷や毒には特別強い。ただ、他の一族であれば、近付くことも叶わない程です」
恐らく、と付け加える。
「あれはあなた専用の害虫駆除かもしれませんね」
「………………駆除?」
なんて馬鹿な事をと笑おうとして、失敗する。
それがどういうものなのか推理しようとして、ベッドの下に落ちていた真っ白な羽が思い浮かぶ。
「鳥も、こういうものを使いますか?」
「鳥が?いいえ、彼等はこちら側仕様だ。彼等には我々程に効果が出ない代わりに、彼等にはこれを作る力もない。これは、あくまで向こう側の生き物向けですね」
「セイ、」
「………ヴィネア?!」
会話の途中で少し離れた位置から名前を呼ばれ、セイはぎょっとして振り返った。
やましいことをしていた訳ではないのに、後ろめたい気持ちになってしまう。
帰りが遅いので迎えに来たらしいヴィネアが、交差点を渡って、ゆっくりとこちらに歩いてくる。
その寛いだ歩き方を、わけもわからずに怖いと思った。
(……………嫌だ。そんなことを、ヴィネアに感じたくない)
ぐっと奥歯を噛み締め、セイは揺らいでしまった自分の弱さに悲しくなった。
「……………ヴィネア、」
それ以上の言葉が続かなかったセイの代わりに、如才なく会話を引き取ったのはローヴァーだ。
「初めてお目にかかります。不躾なことは承知の上でしたが、彼女はとある事件の被害者と面識がありまして」
申し訳程度に頭を下げたローヴァーからそう説明されたヴィネアは、飄々とした歩調のままやって来て真正面に並ぶと、ローヴァーを昂然と見下ろした。
「不審死を事件に昇華させるくらいなら、正直に俺のことも調べに来たと言ったらどうだ?」
さり気なく割って入って、セイを背後に庇う仕草は、不自然さもなく過保護なだけに思える。
「私がお話を伺っていたのは、彼女なのですが」
「残念だが、視線の配り方で感情が透けて見える。お前が疑念を向けているのは俺だろう」
「率直なところ、私はあまりあなたご自身には興味がなかったのですが」
ちらりと排水溝の方に視線を投げてから、ローヴァーは剣呑な眼差しになる。
「ああいう特殊なものを彼女に吸わせるとは、どういう経緯なのかとは疑問に思いますね。彼女は、あれが普通の煙草だと仰っていますが」
「おいおい、あれだけ立派な市販品が違法薬物だとでも?」
「あなたがそう言うのなら、そういうことになっているのでしょう」
「少し想像力過多なんじゃないか。公職の騎士が、職権乱用で近づいた上に、余計なことでこいつを煩わせないでくれ。ただでさえ、親友を亡くしたばかりなんだ」
二人とも微笑みらしきものを浮かべながら、交わす言葉には鋭い毒を潜ませている。
牙のある美しい獣のようなひとだけど、ヴィネアがこうして誰かを嬲る姿勢を見せるのは初めてで、セイは間に入ることも出来ずに唖然とするばかりだ。
「あなたのその言葉の盾が、本当に彼女の為のものであればいいのですが」
「別に小綺麗な正義感で苦言を呈した訳じゃない。個人的に不愉快だと言っているんだ」
「ヴィネア、彼は第一騎士団の騎士だ。あまり失礼な事をしない方がいい」
言い方を何通りか思案した後にそう言葉を挟むと、ヴィネアはわざとらしく溜め息を吐いてセイの頭に片手を乗せた。
「お前も、また妙なものに懐かれやがって」
「………貰い火?」
セイが不当な糾弾に仏頂面になったところで、ローヴァーが苦々しく息を吐いた。
どちらが味方でどちらを謀るのか、セイはふとわからなくなる。
これは一体、誰の為の誰用の茶番なのだろう。
「今日は出直しましょう。あなたには別件でお聞きしたいこともあるので、また伺います」
「正規の要件ならな。だが、根源的な理由で立ち入るなら、図々しいという自覚ぐらい持てよ」
「おや、害獣はどちらでしょう?リヒトという貂を御存知かどうか、思い出しておいて下さい」
しなやかに身を翻して立ち去るローヴァーの背中を見送った後、ヴィネアは無言でセイに問いかける。
セイは、波立つ鼓動を抑えて、いつも通りの距離を保った。
「煙草を吸おうとしたら、酷く迷惑をかけてしまったみたいだけど、…………彼は嫌煙家なのかな?」
(ローヴァーは、リヒトの事を、貂だと話していた…………)
ヴィネアは、その問いかけにも顔色一つ変えなかった。
「さあ、嫌煙者には時々偏屈なのがいるからな。それにしても、もう少し危機感を持てよ」
「危機感?あのひとは身元のしっかりとした騎士だよ」
「お前は、誑したという自覚がないからなぁ」
呆れられる意味がわからず、セイは眉を寄せた。
セイは、時々ヴィネアが言うこの言い掛かりに、割と辟易としといた事を思い出した。
「……………誑さないよ。そもそも、あまり他人と距離を狭めるのが好きじゃないのは、ヴィネアも知ってるでしょう」
「ああ。でも、あの手の奴は好きだろうが」
そういうところは見透かされているらしいと、微かに頬が熱くなる。
「 私の、人間的な好みはこの際どうでもいいと思う…………」
「この際なら言うが、さっき話題に出たのはお前が去年ご執心だったピアニストだろ。あれも、ろくでもない男だったぞ」
「…………ヴィネア、まさかリヒトと面識があるの?」
セイが、記録媒体で聞いた彼の演奏にべた惚れだったのを、ヴィネアは知っている。
こんなピアニストが現れたのだと、魔法通信でさんざん感想を聞かせたせいで、げんなりしていたのを覚えているのだ。
「お前のご贔屓のせいで一度な。もう故人だし、言うだけ不粋だから言わなかっただけだ」
片手を引かれて家へと歩きながら、朝の光の中でヴィネアの持つ色彩が楽園の配色だと気付いた。
(まさかね………)
その配色にふと、セイは聖典の天使を思う。
彼が鳥なら、今までセイを泳がせていた理由がわからない。
それに、管理者という鳥のイメージは、どうしてもヴィネアに重ならなかった。
「そう言えば、郵便が来ていたぞ」
すいと渡されたのは、しっかりとした上質な紙の白い封筒。
金の箔押しでシルクハットの絵柄に、どこかのブランドのものかと思って裏返せば、リリアナという署名が飛び込んでくる。
「ヴィネア!これ………」
「リリアナからだな。消印を見てみろよ、国外からだ」
「海外に行っていたなんて聞いてない。わざと経由させて配達を遅らせたってこと?」
「かもな。昨日、渡し損ねてたのを思い出した」
(昨日は、陽も昇らない内から家を出ていたのに?)
消印は、昨日の日付になっている。
では、この手紙を彼は、どこの郵便受けから持ってきたのか。
(さっきだって、ローヴァーさんはあんなに明確に、リヒトという貂という言葉を口にした)
それを何でもないことのように聞きとめたヴィネアは、そう言えば一度もこの奇妙な話を馬鹿にしたり、疑ったりしなかった。
するりと受け入れ、当たり前のように会話に入り込んで、まるで昔からその知識に馴染んでいたようにさえ思える。
(仕事柄どんな事にも驚かなくなったとあなたは言うけれど、もし私なら、こんな風に自然に受け入れられるだろうか?)
疑いを精査しようとしたけれど、セイは、隣でしれっと朝食の話を始めたヴィネアに毒気を抜かれた。
いつも通りの気安さにほっとしたら、やっぱり彼が自分を傷付けるとは思えなくなる。
「リリアナは鹿なんだって」
袖を引いて言えば、ヴィネアは微かに眉を持ち上げた。
「ああ、そう聞いたな」
「 私は、ヴィネアがもしそういうものなら、猫じゃないかって思った。リリアナが死んでしまったあの夜に、そう言ったのを覚えてる?」
「猫ねぇ、俺もその仮面舞踏会に参加出来るのなら、それも悪くはないけどな」
(……………かなわないな、流された………)
セイは苦笑して、背の高い友人の顔を背伸びして覗き込む。
「私なら何だろう。ヴィネアは、何だと思う?」
「お前が、その舞踏会に入れたらか?」
ヴィネアの瞳に淡い光が揺れた。
朝の澄んだ木漏れ日の揺らぎを受けて、あるかなきかの心の織りを覗かせる。
ほんの一瞬だけ。
「獣の枠は、もう満員なんじゃないか。猫だらけだって話だしな。お前には耳や尻尾より、王冠の方が似合うだろう」
「………え、王冠は王様がいて役足りてるんじゃないかな」
「なら、王妃ならどうだ?」
「いい加減だなぁ……………」
ちょっとがっかりしたセイがぶつぶつ言うと、横で小さく笑う気配がした。