六頁でひび割れる
夢の中でも誰かの気配を感じている。
自分を包んでいた透明なガラスの覆いがなくなったようで、ひどく落ち着かない気分だった。
この夢はいつもの麗しいあの人の世界なのに、今日のそれは現実でしかないような断片ではなく、ただの夢に成り下がっている。
そしてその中でも、ローヴァーに言われた奇妙な世界の話がゆらゆら割り込んでいる。
「中庸な猫って何………?」
猫はあの可愛い生き物なだけではないのか、それとも、もっと厄介で不可解な猫がいるのだろうか。
狼のローヴァーがあの風体なら、他の生き物たちもその名前の余韻を残しつつ、人間と変わらないような生き物なのか。
であれば、こちら側の世界にいないような犬とは一体どんな姿なのだろう。
結構なゲテモノを思い浮かべて、セイは夢の中なのにげんなりする。
「そういうものに、知識的な強みを持つような勉強はしてこなかった」
あの人に纏わる全ては、割合現実的なものに還元されてしまっているので、今回の件に関するような問題に関してはだいぶ知識の薄いところだ。
そちら側も掘り下げておくべきだったか。
「そう言えば、どうして猫がいるかどうかなんて気になったのだろう?」
すぐに思い出せそうな気がするのに、何かが邪魔をしてその思考に辿りつけない。
もやもやする記憶に苛立って、セイは深く溜め息をついた。
(割合、思考に関しては執着の強い私らしくもない…………)
“その厚着は、お前にとって必要なものなのか?”
ふと、そんな誰かの言葉を思い出す。
“お前らしいお前っていうのは、本当にそうだと思っているのか?”
苦笑交じりに優しい声で。
ああ、あれは誰だったのだろう。
“まさかそれを目指すのか、”
そう言って呆れたように笑ったのは。
(子供の頃からずっと、傍に居てくれたあの人は誰?)
記憶の棚に、不確かなものばかりが増えてゆく。
知っていた筈の三年前に知り合ったばかりの凡庸な顔をした男なんていなくて、子供の頃から一緒に住んでいた家族みたいな人がいた筈だと、半ば確信めいた気持ちで考える。
(そうだ。だって私の家族は、もうずっと前にいなくなってしまったじゃない)
ある日家に帰ると、そこで待っていたのは彼だった。生まれ年の災厄でも生き延びた母と姉が亡くなったのだと聞かされても、実感が湧かないままこの家に連れて来られて。
(あの日、私は母と姉の訃報を聞かされる前から泣いていたっけ)
誰かとどこかに行こうとしていた。
その道も半ばで、知らせを受けて強引に連れ戻されたのだと思う。
失望で麻痺した心に重なった悲しい知らせに、手を差し伸べた彼を見上げた。
(でも、私はそのもっと以前から、彼のことを知っている…………?)
まだ言葉も不揃いな頃、子供用のベッドの柵の上から覗き込んだ孔雀色の瞳。
それが幼すぎる心にも強烈に綺麗に思えて、思わず小さな手を伸ばした断片の記憶。
(私が、仕事であちこち旅をするようになるまでは、ずっと一緒に暮らしていた?)
セイの音楽の才能を拾い上げたのは、早逝した著名な作曲家であった。
誘われて世界中を旅して周る生活に飛び出したのは、仕事で同居人が不在しがちになったことにうんざりしたから。
「ねぇ、セイ。猫って可愛いのね」
不意に聞こえた声に振りかえれば、意外そうにそう呟いたのはリリアナだった。
(ああ、ここは覚えてる。リリアナと初めて一緒に帰った帰り道だった)
あんなに頭脳明晰でしっかり者なのに、そんな突拍子もないことを言うので天然なのかと思ったものだ。
そうしたら余計に話しやすくなって、いつの間にかとても仲良くなっていたのだ。
「猫はどんな子も可愛いと思うけれど、リリアナは、どれだけ凶暴な猫にしか縁がなかったの?」
「ふうん。いいものね。私の見たことのある猫は、高貴で悪しきものばかり。後はそう、どっちつかずな配達人ばかりかしら」
(あの頃の私には、さっぱりわからなかった言葉)
当時はまだ小さな子供だったので、その言葉の裏にあるのは小難しい哲学を論じたい背伸びかなと思っていた。
でも今ならわかる。
あのときの言葉は、ただの本音だったのだと。
当時のリリアナは幼くて、自分の知識を隠す術もなかったのだろう。
だからセイは、あの時には当たり障りのなかった質問、今の彼女にとっては大切な質問を返す。
「それって、猫?」
「そうよ、猫。猫ってすなわち、光を貯め込む特別で美しい瞳を持つ一族でしょう?なのに、こちら側では別の名前があるのね。虎もドラゴンもあって、ややこしいわ」
「………虎はネコ科だけれど、ドラゴンはまったく別の生き物だと思うよ。ええと、…………形が特に」
「形で言えば、人間に似ていたわ。だからこそ猫は特別高貴で高階位だった」
「ええと、猫が?」
「むしろ、猫こそが」
ごうっと風が鳴り、気付けば見知らぬ暗い森の中にいた。
このイメージは石造りの城や雪深い季節を持つ国の、冷たくて青白い雪のない季節だ。
「猫が人に似てるって、どうしてですか?」
素直に質問をぶつければ、その背中の主はぎょっとしたらしかった。
「セイラムさん!?」
暗い森の中で彼はなぜか、華奢な銀縁の眼鏡をかけて読書なんかしていたらしい。
慌てて立ち上がると、本物かどうか疑うみたいに、じろじろと無遠慮に眺め回された。
「……………猫が人って、もうよくわからなくて」
「それで、………ここに?迷子にも程がある。おまけにここは、ある意味、私有地ですよ」
言っている意味がわからなくて首を傾げた。夢は夢でしかない筈なのに。
理解の薄いセイを気の毒そうに見て、狼だという騎士は憂鬱そうな溜め息をついた。
こんな森の中に美しい椅子があるのだから、やはりここは夢なのだろう。
「こうも繋がり易いのは、誰かと密に会話をしていた弊害か、或いは元々の体質なのか。いずれにせよ不用心ですから、今度道を外れたら私の名前を呼びなさい。お送りぐらいはしますから」
「あなたは夢の中でも、堅苦しい」
「…………でしょうね」
「でもなぜか、私はあなたのことが好きなようだ」
眉間に皺を寄せて目を細めた彼は、繋げられた言葉に声を失う。
「綺麗だし、何だろう。………綺麗だし。多分、とても好みだから」
セイがそう言うと、彼はひどく狼狽した様子であった。
とは言え、この女性は告げた言葉の重みを把握しきれていないのではという疑いの目をしてこちらを見て、最終的には苦労人らしく天を仰ぐ。
夢の中のローヴァーは、妙に人間染みている。
「………で、あなたはなぜ、猫にこだわるんですか?」
「リリアナと、猫の話をしたことを思い出したから。あとは、急に理由が思い出せなくなってしまった」
「あなたは勘の鋭い方だし、伯爵夫人も身の回りの様子を見る限り、随分と多くの事を引き継いでいたようですね。思い出せなくなっただけの理由があるのなら、問題がなければいいのですが」
「引き継ぐ………というのは、鹿だった頃の記憶をでしょうか?」
「彼女は、鳥が正式なルートで漂白してもしきれなかったくらい、高位の鹿だったのでしょう。我々が抱えた記憶や力は膨大な資料のようなもの。鳥ごときに洗い流せる程、単純ではない」
「あなたの話を聞いていると、鳥は弱い生き物のように聞こえる」
ローヴァーは、濃い灰色の長衣に暗いオリーブ色のストールを纏う寛いだ姿だった。
つくづく夢らしく、弾帯のある服装は、見ず知らずの世界を思わせた。
高貴な軍人の休日とでも言えばいいだろうか。
「それこそ、あなたの言う聖書の中に住む存在のように、下位の者から高位の者がいますがね。とは言え、鳥の方が遥かに脆弱だ。こちら側に馴染むために、力や毒性を削り落とし進化した結果でしょう」
「鳥もあなたと同じようなものなら、説得や交渉は出来ないかなと思ってみたのですが、…」
「やめた方がいい」
「でしょうね。彼等にとっては仕事なのだから、それは無理だろうなとすぐに諦めました。でもそうなると、逃げ回るしかない」
まだ狙われた訳でもないのに、なぜ逃げなければいけないのかも重要な問題だが、逃げるという行為はあまり気分が良くなさそうだ。
(ほんとうにそこまでして、私は逃げ延びたいのだろうか……………)
なぜか、もう自分を諦めてしまいたいという不穏な欲求に駆られる。
そうすれば、怖いものを見なくて済むような気がしたのだ。
「でも老衰と同じようなものなら、あまり嫌がる必要もないのかしら」
ふとこぼれた語尾の幼さに、ローヴァーはまたあの独特な熱を浮かべた。
(腹ペコの猫みたいだ)
そんな、狼には不本意であろう評価を下しつつ、セイは小さく頷く。
「……………うん。寿命だと思えば、それはそれでいいものかもしれない。天使が迎えに来てくれるなら、満更でもないような気もしてきた」
だが、その意見にローヴァーは賛成出来ないようで、いやに陰鬱な表情できっぱりと首を振った。
「おやめなさい。あなたはあの鹿とは違う。終幕を法悦とする理由などないでしょうに」
「あるかもしれません」
自分でもわからないままにそう言えば、狼は更に気難しい顔になる。
けれども、空気が白み始めたどこかの淡い境目のあたりで、ローヴァーは奇妙なことを訪ねた。
「ところで、…………あなたの管理者はここにいないのですか?」
「……………保護者という意味ですか?」
「いいえ、我々のような存在の管理は受けていませんか?」
「そもそも、あなた方を知ったのは一昨日からなのに?」
筋張った手が伸ばされるのを興味津々に見ていると、ローヴァーは小さな溜息を吐いて頷いた。
「やはり駄目か。伯爵夫人は、あなたに対して過保護な友人でしたか?」
「ええとても」
「では、彼女の残滓かもしれない。私が、こうしてあなたに触れられないのも」
「触れられない?」
「おそらく、手の込んだ虫よけみたいなものですね。手が届かないんですよ」
「…………武器は持たないんですか?」
触れられないのかと思いじっと見たところで、そんなことが気になった。
「武器?私がですか?」
「弾帯もあるし、長衣だけどとても実用的な服でしょう?貴族みたいだけれど、戦う人みたい。剣や銃のようなものを持っていないのかなと思って」
「我々の側にも武器はありますが、私はそれを使う階位ではなかった。だからでしょう。どれだけこちらに馴染んだつもりでも、この場所ではかつての姿に戻ってしまう」
さぁ、と促されて境界を踏み越えれば、馴染んだ自分自身の香りがした。
夢にも境界があるのならば、先ほどまでの場所は一体どこだったのだろう。
「調べものをお勧めします。鳥は、その行動や生態が記録されがちな生き物だ。彼らが布教した教材ではなく、彼らに不都合な古い文献をあたるといい」
「また、会えますか?」
「たぶん、あなたが呼べばきっと」
強い風に薙ぎ倒されるように、色と形が崩れ去ってゆく。
最後の会話の余韻を残して、風景はあっという間に一変してしまった。
今はもう、ただの瞼の裏側の暗闇しか残っていない。
(調べもの、…………起きたら資料魔法の共有書から、総合図書館にでも行ってみようか………)
現実的に冷え込んだ頭でそう考える。
夕食のいい匂いに誘われて、目を開いた。
「いい夜だな。明日は気温が上がるらしいから、外でも丁度いい」
夕食時にテーブルを庭に出したのは、ヴィネアの提案だった。
明日は季節外れの気温になるらしく、夜の空気は夏めいた居心地の良さを与えてくれる。ローズマリーの茂みは薄紫の花をつけ、菫と水仙が満開だ。
アネモネに雪柳、日当たりの良さに早咲した桜も満開になっている。
「ねぇヴィネア、羽毛布団でも殺した?」
「は?何でその質問になった?」
「これ、羽だよね?」
庭の槿の木の下にひらひらしているのが気になったセイが摘み上げてきた真っ白なそれを、ヴィネアは嫌そうに一瞥する。
「お前な、鳥の話で盛り上がっておいて、よくもそこまで警戒心なく鳥の羽に触れられるな」
「………そうか、その鳥のものという可能性があるんた」
「頼むから、その手の頼りなさとやらを発揮するなら、ずっと家に篭っていてくれ」
「でもこれが噂の鳥のものなら、この辺でお亡くなりになったようだと思えるぐらいの量だし、流石に違うと思う。天使のような存在なら、そんなに多くいるわけでもなさそうだし」
「落ちてきたんじゃないか?」
「落ちてきてこの有様じゃ、やっぱり死んでしまうよね?」
「もしくは、その辺の猫が狩りでもしたんだろう」
「かもね。よりによって今夜で我が家の庭か、とは少し思わないでもないけど」
ふと考えた。天使とも言えるくらい大きな鳥がここで力いっぱい羽ばたいたら、これくらいの痕跡を残すかも知れない。
もしくは、派手な痕跡をあえて残したのだとしたら。
自分が現れたのだと、知らしめる為に。
(………まさかね。だとしたら、ヴィネアが気付かない筈もないもの)
彼はずっと、この庭に面した書斎で仕事をしていたのだ。
血痕や残骸は見当たらなかったが、普通の鳥が、野良猫にでも襲われたと思うのが自然だろう。
「そんなに心配なら、向こうの茂みまで見てきてやろうか?」
「いや、変な気配もしないから大丈夫だと思う。ただ、今日の今日だからさすがに気になって」
「安心しろ。今はまだそんな頃合いじゃないだろ」
「今はまだ?」
「物語の展開なら、まだ早過ぎるって話だ。そんなもんだろ」
「それさ、物語の展開だと、開始早々に油断してやられる展開もあるけれど…………」
「お前、自分でそれを言うのは、かなり趣味が悪いぞ」
確かにそうだと自分でも呆れて、食事の席に戻った。
「で、お前はその奇想天外な一連の流れを、もう信じているんだな」
今までの流れは全て話し終えていた。
木ベラでバターソースを丁寧に流し落としながら、ヴィネアは僅かに考え込むような気配を見せている。
こういうときの彼は、大概に過保護だ。
「ヴィネアは信じられない?」
「リリアナが鹿だったって下りは意外だったな。もっとこう、攻撃性のある種族かと」
「え、そこ?」
「初めてこの家に遊びに来た時の、あの剣幕を覚えてるだろう?俺は殺されそうになった」
「あれは、まだリリアナも小さかったし。ヴィネアの容姿を見てびっくりしたんだと思うよ」
(あの年齢で、ヴィネアを見るなり、いかがわしいって言ったもんなぁ)
後見人と住んでいるのだと言った途端、過保護な友人は会ってみたいと言い出した。
そうして、玄関で会うなりヴィネアに飛びかかった小さな姿は、今でも鮮明に覚えている。
その後和解したようだが、大人気なく10歳のリリアナをヴィネアが餌付けした現場もそれなりに思い出深い。
「あとはまぁ、飲み込むしかないな。世界の常識や日常なんて、そんなもんだ」
「柔軟な人だとは思っていたけど、そこまであっさり受け入れられるとは思ってもいなかった」
もう少し驚くとかしないのだろうかと不審そうに見つめれば、彼は少し笑って肩を竦める。
「俺の専門分野は、土着の民俗文化だぞ?その専門分野では、妙な話を聞くこともある」
彼は、希少な魔法書を公的な立場で回収する仕事をしている。
相続人のいなくなった屋敷などにも足を運び、財産の管理人から手に負えなくなった魔法書を引き取り、国の魔法院に預ける仕事だ。
依頼を受けた魔法書をどこからともなく探し出してくるその生活は、世界中を旅して周るので、正直に言えばやや得体が知れない。
「何か、いい資料になりそうな書物に心当たりはない?」
後で自分でも調べるつもりだったが、まずは彼の知識を頼ることにした。
「リズフェリアの説話集あたりは、その手の話だな。あとは、お前の話を聞いていて、共和国の仮面舞踏会の話を思い出した」
保温性の高い鍋から洋梨と豚肉のリゾットを取り分けながら、ヴィネアは南洋色の瞳を眇める。
「どんな話なの?鳥は出てくる?」
「昔、一人の魔法使いが、見知らぬ城の絢爛豪華で奇妙な舞踏会に迷い込む。参加者たちは皆一様に信じられないくらいに美しく、見慣れない魔法を持つ王や貴族達だった。誰も彼も美しすぎて見分けのつかなくなった魔法使いは、彼らをよく知る動物になぞらえて覚えようとする。すると、その振り分けを面白がった参加者達は、自らもその動物を名乗って獣の仮面をかぶった。舞踏会は朝まで続いたが、夜明けの光が差し込んだ途端に煙のように消え失せ、魔法使いは廃墟となった城に一人残されていた。…………とまぁ、こんな話だ。途中で、鳥に似ていると言われて、どこかに飛び立ってしまう衛兵の話も出てきたか」
(…………私は、この話を知っている……)
子供の頃から知っていた物語に、セイは息を呑んだ。
詳細までは覚えていないが、語られる場面の断片を何度も見たことのある有名な物語だ。
ただ、セイにとってこの物語が特別だったのは、語り手が恋をした人だったからで、その声に聴き惚れはしても内容にまで深く興味を持ったことはなかった。
(そうか、これも動物の話だった。語り出ししか聞けてなかったから……)
関係があるかどうかはわからなかったが、今はどんな物語でも知っておく必要がある気がする。
特に共和国という国は、セイの前歴のあの人と、リリアナの前歴だという帽子職人がいた国だ。
“美しくていかがわしい海の女王が住む、万華鏡の商国。貴族と奴隷に、王族と娼婦。この国は、猫も鹿も心を震わせる、仕掛け絵本のような闇鍋の夜の王国”
そう笑ったのは誰だっただろう。
“あいつらにも、見せてやりたかったなぁ”
そんな風に、寂しそうに微笑んだのは。
(もっと、もっと、リリアナとも話したかった。ううん、話しておくべきだったんだ)
あの国に住んでいた赤毛の帽子職人ならば、セイの前歴を知っていただろうか。
手伝おうとしたけれど、座っていろと甘やかされたので、セイは素直にテーブルについて給仕を待つ。
この、ヴィネアの魔法のような料理の腕は、幼いセイを言い包める為の交渉道具として育まれたものだと聞いている。
店でも出せそうな花開き具合だが、今のところはただの道楽止まりであった。
「鹿や、狼や梟もいた?」
「狼は将軍で、梟は学者だ。鹿は宮廷画家だったかな」
「ふぅん。………王様は何の仮面をかぶったの?」
「……………さすがの魔法使いも、王を動物には例えなかった。だから王は、人間のままだ。あとは当時魔力を持つと言われていた猫を名乗りたがった者は多く、女公爵や伝令人まで一斉に猫の仮面をかけたので、慌てた魔法使いが他の特別な生き物に振り分けを変えた場面がある」
(……………ヴィネア?)
彼が一瞬口籠ったように見えたのは、勘違いだったのだろうか。
その後に続いた猫のエピソードに意識のほとんどを持っていかれつつ、セイはワインの栓を開けているヴィネアをそっと窺う。
「もしかしたらそれが、向こう側の人たちが動物に由来する一族の振り分けを持っている理由になったものの真実だったりして。向こう側の存在がこっちにも来ているなら、何かの形でその由来が伝わっていてもおかしくないし、その物語が文章になっているなら読んでみたいな」
「残念ながら、原本は戦時中に失われている。その物語を夫に聞かされて覚えていたという童話作家から、十年前に聞いた話だ。もう彼女も高齢だから、細部までは覚えていないだろうな」
穏やかな夜の風が、テーブルクロスを揺らしている。
淡いシャンパン色の髪に洗いざらしの白いシャツ姿のヴィネアは夜に浮かび上がるようで、そんな彼の声に滲んだ優しさにどきりとする。
「ねぇ、その童話作家は知り合いでしょう?それも、とても大事な人」
その言葉に彼は、視線を持ち上げて淡く微笑んだ。
「そうだな、大事な人だ」
「やっぱり。ヴィネアがそういう口調で話すのは、とても珍しいよ」
高齢だという童話作家。
そんな人を慈しむように語るとなれば、そこにはどこような関係があるのだろう。
(そういえば私は、ヴィネアの恋人や家族の話を一度も聞いたことがない。十年も前にそんな人と出会っていたのも初耳だし、子供の頃の話さえ聞いたことがないんだ)
彼はこの国には珍しい大人だけれど、それでも十年前となればまだ少年から青年の間だろう。
「もしかして、…………身内の方だったりする?」
「色々と公に出来ない経緯があってな。書類上では俺の母親ということになっている」
(…………母親!)
「それは、とても大切な人だね。知らなかったから、何かが無遠慮だったらごめん」
「構わないさ。ユージィニアの童話を一度読んでみるといい。彼女は、いい童話作家だ」
彼らしくなく、その話題はそこで打ち切りにされてしまい、最後の言葉が固いしこりのように胸の中に落ちた。
フォークで口に運んだトリッパの味が、急にしなくなる。
ヴィネアは普段通りだけど、その言葉に潜んだ秘密に胸がざわめくような気がした。
(自分のことは、あまり話したくないのだろうか)
彼のことをよく知っているはずなのに、生い立ちはまるで知らない。
こうして一緒に暮らしていたのに、その秘密が壁のように思えてしまう。
(でも、こうして教えてくれた事に対して、少しも嬉しいと思えないのはどうしてだろう?)
今夜は満月なので、夜空は黒というよりも青い。
セイは、何年も着ている寝間着代わりの菫色のシンプルなワンピースで、長い髪を珍しくまとめずに下していた。
少女めいた雰囲気になるのでこういう装いは苦手なのだが、ヴィネアの前で何かを作り込む必要もないと思ったのだ。
けれど、自分はこんなにも剥き出しなのに、ヴィネアは、秘密と無言できっちり着込まれているまま。
そのことが、堪らなく寂しく思えた。
「…………鳥は、向こう側の世界からこっちに来たのかな、寂しくはないのだろうか」
深く考えないでそう言うと、ヴィネアは呆れたように笑った。
「寂しくはないだろう。群れがあるし、権力もあるんだから」
「生まれた世界が、時々にでも恋しくはならないのかなと思って」
「お前は、もし向こう側へ行けると言われたらどうする?その代り、もう二度とこちら側には戻れないと言われたら、それでも行ってみたいと思うか?」
そう問われて、少しだけ思案する。
この世界が美しいことを、セイはあの人の眼差しから知っている。
でも、その美しく奇妙な生き物たちが住む世界に行けるのだとしたら、自分はどうするだろう。
(……………ずっと昔、)
そんな身を切る程の切望に焦がされたのは、自分自身の思い出だろうか。
「…………行きたいな。それで、二度と戻れないのだとしても」
「ふうん」
「そこまで呆れた顔をしなくてもいいのに。現実逃避の拗れたやつかもしれないけれど、どこか遠くへ行ってみたいという欲求が小さな頃からずっとあるんだ。…………だから、その機会に恵まれたら、私はそう思うだろうなって考えただけ」
「美しいだけの世界じゃなくても?」
「そこはここじゃないから、私は向こう側でまっさらなのだと思う。そう思ったら、こちら側でしくじったものをやり直す機会として、見知らぬ世界に行ってみたいと思うよ」
(ローヴァーさんも、そんなことを言っていたっけ)
彼にもこんな子供じみた願いがあるのだろうかと考えて、セイは唇の端を綻ばせる。
もしそうだとしたら、案外親近感を持ちやすいような男なのかもしれない。
「ヴィネアは、行ってみたいと思う?」
「さぁな。ただ、行き来があるってことは、どこかに道があるんだろう。こちら側で不自由になったら、向こうに逃げ込むのも手かもしれない」
「そうか、それは考えてもみなかった」
華奢なグラスの中で弾ける泡を見ているふりをして、セイは微かな寂しさを押し殺した。
彼ならば、ふざけてでも一緒に向こう側に行くと言ってくれるかと思っていたことが恥ずかしくなる。
「その騎士とやらは、信用出来そうなのか?お前は見る目がある方だから間違いないとは思うが、状況そのものが異質なんだ。あまり一人で手を出すなよ」
「生真面目で融通もきかない代わりに、いい人なんだろうなぁと思ったよ」
ローヴァーは時々驚くぐらい踏み込んでくるし、ふわりと隣に並ぶような近付き方はかつてのリリアナに似ている。
けれど、そこまでのことはどうしてか、ヴィネアには言えずにいた。
初対面の狼と連絡先を交換したことが後ろめたいわけではなくて、いざというときの命綱の為に。
(…………命綱?待って、どうして私はそんな風に考えたんだろう?)
無意識に滴り落ちた言葉に、くらりと世界が翳った。
目の前に座っているのは、セイの頼りになる親友だ。
良きものか悪しきものかわからない、見慣れない生き物ではない。
それなのになぜ、今夜はこんなに得体のしれない不安を覚えるのだろう。
「こんな時だし傍にいてやりたいが、明日は用事がある。……………一人で大丈夫か?」
「ん?………うん、大丈夫だよ。調べものもしなきゃいけないし、大人しくしているつもり」
調べものの特性として、まず思い浮かんだのはリリアナの蔵書だった。
でも、自分に必要なものならリリアナが手を打っただろうと思い直し、また時期的に不謹慎だとも思ったのでまずは自力で探そうと思っている。
精神上の問題だけでなく、専門家のヴィネアが帰国している時で良かった。
(そうだ。参考文献だって教えてくれた)
本能的な不安を押し殺して、セイは、自分にそう言い聞かせた。
「明後日なら、一日空けられる。外に出たいなら付き合ってやるから考えておいてくれ」
「うん。もしかしたら、リリアナのご主人に会いに行くかもしれないかな」
国の仕事をしているヴィネアならば、リリアナの夫とも面識がある。
お悔やみの言葉を伝えにゆきたいのだが、こんな状況だからこそ、狙われているかもしれないというセイ一人で行くよりもいいだろう。
「明日は仕事?」
「私用だ。少し遠方にいるが、何かあったら通信術式を繋いでくれ」
了解の代わりに、微笑んで頷いた。
微笑みながら、どうして泣きたいような気分になるのか、セイは、自分でもわからなかった。
翌朝、セイが階下に降りてきた時にはもう、ヴィネアは出かけていた。
まだ夜も空けないうちに扉を閉める音がしていたけれど、まさかあの時だろうか。
そして、彼が不在にしているときのこの家は、見知らぬ他人の家みたいでとても冷え冷えとする。
(どうしようかな、屋根の下にいた方がいいのなら、外には出ずに調べものをしていようか)
幸い、冷蔵庫には作り置きの常備菜やらサラダやらが用意されているし、ハムもチーズも潤沢にある。
パンは、拘りの強いヴィネアが買ってきたばかりらしく、美味しそうなものが揃っていた。
(ローヴァーさんに連絡もした方がいいのかも。リリアナのご遺体を家族に返したかどうか、葬儀の日は私も手伝いに行きたいし、結局、伯爵とも連絡が取れないままだ)
手配をして昨日の内にお悔やみのカードを届けさせたが、リリアナの夫とはまだ話せていない。
悲しみに臥せっているのなら追いかけるのも酷な話だが、彼女の葬儀は、多少の身の危うさが発生しても手伝うつもりでいた。
そんなことを考えながら、開いた共有書の魔法に触れ、文献検索の魔法を立ち上げる。
これは、国立図書館の蔵書を蓄積型の魔法として満たしたもので、リリアナからの誕生日の贈り物だ。
暫くの間、セイはその書の暗闇を彷徨っていたようだ。
ヴィネアの話していた説話集は、漏れなく読むことが出来た。
(狼の話、梟の話、妖精の取り替え子と、ドラゴンの話。喋る猫に、人魚と漁師の話)
おとぎ話に動物はつきものなのに、こんな状態だからか、どの話も有益な情報に思えて読み飛ばせなくなってしまう。
妖精は違うような気もしたが、羽が蝶なので同じ仲間かもしれないではないか。
一息ついてからテーブルの周囲を見回すと、少なくともお腹一杯食べてはいたようで、紅茶まで飲んでいた痕跡がある。
視線を窓の外にやれば、どうやら正午過ぎくらいにはなっているみたいだ。
「……………まぁ、無意識に寝食を抜くよりはいいけど」
前向きな呟きに重なるように、端末が小さく震えた。
リリアナ関係かと思って素早く取り上げたけれど、見慣れない魔法式の表記に眉を顰める。
「…………あれ、でもこの内容って」
(ローヴァーさん?)
通信用の魔法式は受け取ったけれど、こちらのものまで教えた記憶はない。
騎士団の書類に記入したものの記憶をひっくり返しても、この連絡先はそもそも私用中の私用だ。
とりあえず首を捻りながらも、音を繋いでの対話が可能かどうかの確認に返事を返して様子を伺うことにした。
実際に話した方が、聴取はしやすいだろう。
「ローヴァーさん、まずはどうして………え?………ええ、構いませんけれど」
しかし、ローヴァーは、開口一番に少し外に出られますかと言ってきた。
彼らしくなく、微かな焦りが感じられて、既にこの近くまで車で来ているらしい。
テーブルの上に散らばった無意識の飲食の残骸を手早く片付けると、部屋着の上からストールを巻きつける。
財布と魔法先の端末と、いざという時に走れる靴さえあれば後はどうにでもなるだろう。
ヴィネアにメモを残そうと思ってから、今日は必要ないかと考えている内に、唐突に家から出るのが嫌になった。
そもそも、ローヴァーに会う必要があるだろうか。
要件なら通信でもいいはずなのに、殆ど他人に近いローヴァーに会う為に、この居心地のいい家から出る必要なんてあるのだろうか。
(……………こんな気分になるなんて、やっぱりまだ疲れているのかもしれない)
それでも約束は約束で、セイは気分で約束を違えるのは嫌いな方だった。
連絡を受けた直後の興味はすっかり消え失せていたが、心底嫌々な思いを押し殺して玄関を出ると、さあっと霧が晴れるように憂鬱さは消え去った。
(……………変だ)
ひたりと、怯えのような、疑問のようなものが心の内に落ちる。
(この家は、何かがおかしい)
そろりと見上げた二階の窓には月並みな展開のように誰かがいることもなくて、よく見慣れた筈の自分の部屋のカーテンが見えるだけ。
それなのに、どこかに薄暗い危機感のようなものがある。
自分の中で警鐘を鳴らしている何かが、ここはおかしいと連呼している。
「セイラムさん、」
セイを我に返らせたのは、前の道路に車を寄せて、窓から自分を呼んだローヴァーの声だった。
「……………お待たせしました」
「………どうしましたか?何か厄介ごとでも?」
急に呼び出した側のローヴァーがそう尋ねたのは、セイが逃げ込むようにして車に乗り込んできたからだろう。
胡乱そうに空を仰いだのは、鳥絡みだと思ったからかもしれない。
「不作法でごめんなさい。驚かせましたよね。何か、………」
(嫌な予感がして?危機感があって?)
振り返ることが恐ろしいと思って自分の屋敷から弾かれるように逃げてきたなんて、おかしな話だ。
ましてやあれは子供の頃から住んでいる家なのに、どうやって説明すればいいのだろう。
「上手く説明出来ないのですが、何か、………自分の身の回りが元通りではないような気がして」
その言葉に、運転席のローヴァーの眼差しが心なしか厳しくなった。
「………そうですか」
しばらく無言で運転する彼の返事を待って、近年緑化が進んでいる街を見ていた。
すると、その緑の色のふくよかさに、ざわめいていた心が少しずつ落ち着いてゆく。
(あの災厄以降、気候や生態系も変わったと言われている。もしそれが、見知らぬ誰かの影響なのだとしたら、鳥は、その事をどう思っているのだろう…………)
「ぶしつけですが、あの家はどなたの持ち物なんですか?」
「………え?………ああ、後見人の持家なんです」
「初耳ですね、あなたの後見人の方?」
「…………?ええ、何か手続きに不手際でもありましたか?」
現実的な不安に駆られたセイは、脳内を大急ぎで捜索した。
(まさか手続きに不手際があったとか、相続や売買に不都合な裏事情があるってこと?)
「こちらの書類に記入されたあなたのご家族は、既に亡くなられていました。それに、あなたが住んでおられたのは、もう少し利便性の高い別の地区の屋敷ではなかったですか?」
「……………別の地区の………?」
問い返す声が、限りなく低くなった。
気付けば、膝の上で握った両手に嫌な汗をかいている。
そうだ。
確かに昨日から何かがおかしかった。
何かが見慣れずに不安で落ち着かなくて、あの家は、ヴィネアがいないとどこかひやりとしていた。
「そう、…………でした。そんなことを忘れる筈もないのに、私は一体どうして…………」
激しく動揺するセイを追及はせず、ローヴァーは静かにその続きを待っている。
(言われてみれば、帰国前に、自分で選んだ屋敷を借りた。リネン類を購入する為に業者の選定をした記憶もあるし、三年までの契約だと仲介人と話した記憶もある。……………どういうこと?!)
「ローヴァーさん、…………あの屋敷は、私の住まいではないのですね?」
「あなたは飲み込みが早い。私もそうであることを恐れていましたが、この経緯ではそうなるのでしょうね、この手配も含めて伯爵夫人の関係ですか?昨晩も話したように、あなたには妙な障壁がある」
「リリアナの?いいえ。それに、昨晩って……」
認識してから、ようやく頬に血の気が昇った。
夢だと思っていたが、まさかあれもこの奇妙な現実の地続きなのか。
だとすれば流石に無防備過ぎた。
「…………っ、すみません。夢だとばかり思っていて」
「記憶の改竄や介入は、高位の鳥と、我々の一部の者がごく稀に扱う手法です。これについては後で話しましょう。急な呼び出しで気が急いたでしょう、到着するまでは寛いでいて下さい」
なめらかに走っているので気付かなかったが、速度がかなり出ているらしい。
十八年前の災厄の影響から、王都の近くでも人間が住めなくなった荒れ地が増えた。
今は閉ざされ、緑地化が進んでいる。
そのような土地を抜ける道は、速度を上げられるように道路が整備され、速度制限がなくなった代わりに出口も随分減った。
(王都に向かうのか………)
セイが生まれる前に存在したという、海に面した町や村の幾つかはもうない。
人工的に再開発された海岸部は、地殻変動で遠浅になった海に面した穏やかな保養地になっている。
「それから、昨晩も言った通り、不用意な場へ入り込んだら、次回からは私を呼ぶように」
「そうします。王都へ?」
「ええ。郊外は、鳥だけでなく、私自身にも有利ではあるのですが、自然に寄った土地は人の力が及び難い。他の者たちの介入を受けると厄介なのですよ」
「もしかして、あの屋敷もそういう場所を狙って?」
「ええ。あの屋敷があなたを管理、あるいは守護する誰かの砦ならいいのですが。逆であれば非常に性質が悪い。後見人と言うのであれば、その人物がどのような思惑であの土地を選んだのか、何か心当たりはありますか?」
そう問われて、ヴィネアの姿が浮かんだ。
おそらく、あの家が記憶の通りにセイの家ではないのなら、あそこは彼の領分なのだろう。
でも彼は、大切な家族のような人で親友だ。
「…………数日前までは、友人だと思っていた人です」
「その方は、向こう側とのかかわりは?」
「今回の話は、全て話してあります。でも彼自身からは、向こう側に由縁があるようなことは聞いていません。それに、………彼がただの親友なのか、私の家主で後見人なのか、もう自分の記憶に自信がなくなりました」
「少し、集約して考慮する必要がありそうですね。ああ、着きましたよ」
ローヴァーが車を停めたのは、目抜き通りの一本裏に入った石畳の道路だった。
目の前にある美しい邸宅には、ピアニストとしてのセイが接待などで足を運んだこともある有名レストランが入っていることを目視で確認し、食事をしたいのかなと首を傾げた。
「この通りの場所ですが、中庭を抜けた離れに、看板を出していない紅茶専門店があるんですよ。あなたが好みそうな内装なのと、今は店を閉めているので鍵を預かっていまして」
そう、銀色の鍵を見せられて、彼なりに場所選びに苦労したのだろうかと考える。
何しろ今回は、会話の内容が特殊だ。
先程の動揺の余韻を気遣われたのか手を差し出されたが、気恥ずかしいので笑顔で遠慮した。
「今日のお仕事は、大丈夫なのですか?」
「公休日ですし、今日に限ってはしっかり休みを取っています」
「ふふ、でもそんな日にも急に呼び出されるお仕事ですよね」
「いえ、しばらくは休日の私を呼び出すようなことは何も起きませんよ」
まるで、そうだと知っているかのような言葉だ。
片眉を持ち上げたセイに、案の定彼は肯定した。
「梟のツテを頼りました。彼らの中にはそういう才能に恵まれた者がいる」
生真面目に頷いてからネタを明かしたローヴァーが開いたドアの先には、赤い天鵞絨張りの美しい椅子が並ぶ、柔らかな光に照らされた店内だった。
カウンターはアラベスク模様のタイル張りで、食器棚に収納された宝石のようなカップは一つとして同じものがない。
(ああ、……あの人が好きそうな場所だ)
この騒ぎで彼のことを思う機会は減ったけれど、見るなりそう思った。
彼の影響を多分に受けたセイも、この店の雰囲気は大好きだ。
表情に出ていたのか、ローヴァーが満足そうに笑う。
「経営者は鹿です。今は買付けとやらで、隣国に出ていますが」
「……………失念しがちでしたが、あなた方もこちらでは普通に仕事をされているのですものね。やはり、その性質に見合った職種が多いんですか?」
セイを座らせてから、慣れた様子で湯を沸かしているローヴァーが、今日は休日らしい寛いだ服装だと気付く。
そうしていると、彼はこの店のオーナーのようだ。
何か小洒落た紙袋を持っていると思ったが、その中からは数種類のバケットサンドやパテにサラダが出てきた。
黄桃とクリームのパイまで出てきて、この手厚さと趣味は、ますます誰かに似ている。
「かもしれませんね。我々の性質は生まれ持ったもの。人間よりも遥かに、変え難いものです」
「そう言えば、今朝起きてから、あなた方のものかもしれない物語を沢山読みました」
どこかで、一番恐ろしい話題を避けているのはわかっていた。
それを指摘されるかと思ったが、視線で促されて、セイは共有書の蓄積魔法であれこれ調べたのだと付け加える。
「人間との関係は、不思議なものですね。我々はあなた方を本として蒐集する。そしてあなた方は、我々を詩篇や伝承として記録する」
「狼の話もありました」
「おや、どんな?」
緑色の瞳が色を濃くしたので、本気で興味があるのだろう。
彼から聞きたいことの方が多いのだが、セイは、今朝読んだばかりの物語を一つ披露してみた。
「黒い狼が、白と灰と赤の狼から後継者を選ぶお話でした」
黒い狼から次の満月までに最も意味のあるものを持ち寄るようにと言われた三狼は、白は理想とし、この世のものではない一冊の本を持ってきた。
赤は力とし、別の一族の王の首を持ち寄った。
ただ灰だけは手ぶらで現れ、黒い狼に問われるとこう言った。
私は白が王に相応しいと思うので、臣下として得難い王である白こそが意味のあるものですと。
黒い狼はそのような忠誠をこの場に持ってきた白狼が王に相応しいと宣言し、赤は怒ってひどく暴れたが、灰色狼は心からその選定を喜んだという。
「…………ごめんなさい」
「なぜ、謝罪を?」
アイリスの絵柄が美しいカップを置いたローヴァーに、セイは思わず謝罪してしまった。
「ひどく辛そうでしたので。狼の話なのだから、あなたの何かに触れるものだったのかも知らなかったのに、配慮が足りませんでしたね」
向かいの席に腰を下ろしながら、ローヴァーはまた、不可解な年長者の微笑を浮かべる。
こうして誰かと向かい合わせに座ることには慣れていたが、セイは、実のところ今までそれが苦手だった。
でも、ローヴァーにはそれを感じない。
思えばリリアナも、更にはヴィネアもそうだった。
「不思議なものです。心の澱の底に沈めて誰にも話さないことだったのに、見知らぬ子供の子守唄代わりにその話を話してしまった。ここはそういうところだ。何者でもなく過ごせる、見知らぬ新しい世界。だから我々は、こちら側ではひどく饒舌になってしまうのかもしれないですね」
「もしかして、…………あなたの物語なんですか?」
思わぬ事に、セイはぎょっとする。
「その物語は、めでたしめでたしでは終わらなかった。白は慈悲深く誰からも慕われたが、王になることを望んではいなかった。だからこそ、いずれ訪れたいと思っていたこちら側で編纂された書物を持ってきた。私はそれに気付けず、結果的に彼を何処にも行けない囚われの身にしてしまったんです」
「……………あなたがこちら側に行くことを、そのひとは知っていたんですか?」
その質問に、豊かな森の色をした瞳は揺れただろうか。
「こちらへの調査にあたり、私を選んだのは彼です。自分の代わりにこちらを見てきて欲しかったのでしょう。でも私は、戻った先で彼の目に羨望を見付けるのが恐ろしくて、二度とあちら側には戻らないと誓った」
「二度と?……でもそのひとは、あなたの見てきたものを知りたいのでしょう?」
こんな風に語るのだ。
大切な存在だったのだろうに。
「我々は、利己的な生き物です。私は忠誠を是としましたが、己の罪を覗き込むことには耐えられない。唯一人の王としたた唯一人の友の目に、私のせいで生まれた絶望を見ることだけは耐えられなかった。だから帰らないのです」
どこかもわからない美しい夜の森が、脳裏に浮かんだ。
この物語を読んだ時に思い浮かべたその景色に、セイは今、森に背を向けてひっそりと去ってゆく灰色狼を思い描く。
「勿論、今でも定期的に報告は上げていますよ。きっと彼は、私のことを未知の世界に魅せられた裏切り者だと思っているのでしょう。でもそれならばいい。彼が私を憎むのには耐えられる。耐えられないのは、微笑みながら絶望しているその目を見ることだ」
「会いたくはないんですか?大切な友人だったのでしょう?」
ローヴァーは、どこか鋭い微笑の残骸を見せた。
その眼差しにきりりと胸が痛んで、目の前の美しい生き物をそっと撫でてやりたくなる。
でも彼はただの狼ではないから、セイは動けずにいた。
「私が会いたかった彼は、私が殺してしまった。だから私は、コレクターではない珍しい滞在者なのですよ。この世界にいるコレクターではない同胞は、そのような身の上の者が多い」
遅い朝食でかなり食べていたが、広げられたものの趣味の良さにいつの間にか食べ物にも手を出していた。
オリーブとパテには、面倒見良くピックが刺さっていて食べやすい。
そして、セイが机の上のものを食べると、ローヴァーは嬉しそうにする。
(私の周囲には、食べさせて喜ぶ人が多いな……)
ヴィネアとリリアナとローヴァーと、その並びにひやりとしたが、ピアノを教えてくれた恩師もそうだった。
「私を助けてくれるのはどうしてなのでしょう?こちら側での暇潰しでしょうか。それとも、私とあなたの仕事が、あなたを巻き込んでしまったから?」
この狼は、きっと不器用な人なのだと思う。
素直に己の傷を見せ、どうしてこんなに穏やかに話を続けることが出来るのだろう。
「あなたの眼差しが、かつての白に似ているからでしょうか。向こう側に焦がれ、美しいが少し無垢で危うい。だから私は、昨日のあなたに手を差し伸べようと思ったのかもしれない」
(…………そうか、この人はわかっていて。……………だから)
ローヴァーはきっと、友人のその危うさこそを恐れたのだろう。
だから、彼の願いを知っていたのに鎖をかけてしまった。
ローヴァーは、友人の願いに気付かない程彼は愚鈍ではなく、だからこそその罪に耐え兼ねて逃げ出したのだ。
(だからあなたは、向こう側に戻ろうとはしない)
罪深くて悲しい、したたかな獣。
「不思議ですね。あなたは綺麗で、私なんかが想像もつかない程に頑強な存在の筈なのに、こんな風に同じ苦しみも持っている」
そういうものなのかと、セイは思った。
人間にしか見えないけど異形ではあって、でもとてもよく似ていてどこか愛おしい。
「だから私は、この世界がとても好きですよ。同じ醜さや苦しみを持ち、それでも私にとってはどこか非現実であり続ける。ずっと終わらない物語を読んでいるようだ」
「…………あなたは、優しい人ですね」
「それは勘違いです。私は純然たる人外のものだ。優しいなどと思ってはいけない」
思わず毀れた言葉を窘められて、セイは慌てて首を振った。
「ええ、それはきちんと理解しているつもりです。それでも、あなたが、あなたの過去を開いて見せてくれたことが嬉しかった。こちら側では、そういうものは、滅多に与えられるものではないから。…………私はそれを与えてくれない人に、寂しいと思ったことがあるから」
セイの長い言い訳を最後まで聞き終えて、ローヴァーは自分のカップをテーブルに戻した。
無言でゆっくりと頷いてから、今までとは違う静かな声を紡いだ。
「選択の場に立たされたとき、人は孤独にもなります。あなたが生き延びる為に、その苦しみが、願わくば、考える程に深くなければいいのですが。それと、あまり不用意に我々に心を開いてはいけませんよ。私達は価値のある人間にとっては、決して良いものではないのですから」
「どういう意味ですか?」
「あなたの後見人が気になるんです。コレクターは、名前の通りに欲したものを刈り取る狩人だ。彼らの願いとあなたの幸福が一致するとは限らない。我々のこちら側の人間達との価値観は違うんですよ」
「………………あなたは、私の友人がご自身の同胞だと思っているんですね?」
「高い確率で。或いは、低い確率で同胞の力を借りることの出来る立場にあると。あなたには既に、その気配や干渉の足跡が見えます。それはつまり、あなたのご友人には秘密があるということだ。重ねて言います、どうか用心して下さい」
ヴィネアに不信感を持った。
その思いをこうして肯定されているのに、セイは、今さら彼の為に憤るなんて間違っていると思う。
(でも、……………)
「秘密なら、誰にでも」
こんな風に答えてしまうのは、ヴィネアが自分にとって良くないものだと認めるのが恐ろしいからなのだろうか。
「ええ、誰にでも。しかしこの秘密は、あなたには大変厄介なものだ。そうでしょう?」
片手を上げて、セイの返答を押しとどめて、ローヴァーはしばしの沈黙を挟んだ。
「あなたが、どういう種類のものにせよ、彼を愛しているのなら殊更に」
「あ、愛…………?」
言い淀んでしまい冷や汗までかいてから、セイは、ローヴァーがどのような種類にせよという万能の前置きをつけたことを思い出して、胸を撫で下ろした。
「ええ、そうですね。私という人間にしてみれば、随分大切な人です」
彼が作為あってセイを陥れるのなら、この上なく簡単だろうと思うくらいには信用している。
だからこそ、現実的にその疑いを洗い出す作業にも向いていないのだろう。
(そしてローヴァーさんは、…………私のその弱さにも気付いている)
だからこの狼は、こんなに優しく、こんな風にしたたかなのだ。
「私が把握している純然たる事実のみで構わなければ、十二年前に家族を亡くしたあなたを引き取った人物は、あなたの叔父ということになっています。あなたは八年前に家を出て、国外での講演活動に入り、四年目に師を亡くされて演奏活動も辞められた。その後は国外を転々とされていますね。正式にこの国に戻られたのは、ほんのひと月前」
「…………今の記憶とも一致します。であれば、昨日までの私の認識が、作り物だったのでしょうか?もう、昨日までの記憶を思い出すのも難しくなってきているような気がします…………」
「伯爵夫人とお会いされたときには、まだその記憶を?」
「そうか、だからリリアナはあんな風に?彼女と私の認識が違うような場面がありました」
「可能性は幾つかあります」
ぴしりと指を立てて、ローヴァーが説明に入る。
「一つは、伯爵夫人が暗示の解除のきっかけになったという説。或いは、帰国を含む、時期的なものがきっかけになったという説。もしくは、私との接触で敷かれた魔法に綻びが出た可能性もある」
騒ぐ心を撫でつけて考えてみると、少しだけ手がかりがあった。
「もし、………………私の同居人がそれを成したのなら、これは彼の意志だという気がします。私の記憶の回帰を当然のようにしていましたし、……今回のことで、彼は一度も驚いていませんでしたから」
そのことを言うのは、とても嫌だった。
けれど、ローヴァーの優しさに報いたくて、痛みを堪えて苦しい言葉を口にする。
(リリアナが死んだことも、…………彼はまるで予定調和みたいに受け入れたんだ)
まだ泣く場面ではない。
でも心は大きく削り取られた。
小さく鼻を鳴らしたセイに、ローヴァーは、たった今ポットの中が空になっていることに気付いたように、カウンターに湯を沸かしに立った。
甲斐甲斐しい姿が不似合いで、優しい。
「一度お会いしてみたいですが、あなたの手の内を晒すことになる。もしも彼に存在の秘密や思惑があった場合、状況を加速させるだけかもしれないですからね」
そんな守護を切り分けるような台詞に、胸を打たれた。
こうして差し出された優しさにも思惑はあるかもしれないが、セイが、それでもいいと言えてしまうくらいに、話を聞いてくれる人がいることに安堵しているのだと、目の前の狼は知らない。
(ああ、大切なものが増えればいいのに)
夜の庭で、底知れぬ瞳で微笑んだヴィネアを思い出す。
(大切なものが、……………私を裏切るかもしれないから)
そう考えてみる程には疑っている。
けれど、淡い不安に真剣に取り合う程に、彼への執着は甘くも浅くもない。
そのことに気付いて、セイは密かにぞっとした。
(もしこの疑いが現実になったら、私は耐えられるのだろうか?)
鳥より遥かに恐ろしいのは、非情な現実の方かもしれない。
「明日は、彼と共に過ごす予定なのですが………」
そこで思い出してリリアナのことを尋ねると、規則上、その遺体は疫病魔法による検索を重ねた後、数日後に近親者に戻されるということがわかった。
今回の事は事件性なしと判断され、ローヴァーの休暇中は他の騎士に引き継がれているらしい。
「距離を置いて、こちらでも注視してみましょう。今週いっぱいは休暇ですから」
そう言われて、視線を上げた。
すぐに言葉にしたいのに、喉に張り付いた恐れが声を奪ってしまう。
(まさか、でも、………いいえ、この人はきっと)
視線の先の綺麗な目が、微かに気の毒そうな陰りを帯びる。
「あなたは、私が生き延びるかどうかが、この数日間にかかっていると思うのですね?」