四頁目では秘密が軋む
小さい頃から、セイは、鳥が怖いと思ったことは一度もない。
とりわけ苦手だということもなく、鳥を飼いたいと思った記憶もあるし、純粋に力強く羽ばたくその姿を、美しいと思ったりもする。
翼をモチーフにした品物も好きだし、公園に群れている白鳥に餌をやったことすらある。
だとすれば自分は、余程鈍いのだろうか?
(あの人が、特別だというのは間違いない…………けれど、)
彼を表す言葉として、それ程にわかりやすい言葉もないだろう。
寧ろ想像もつかないのは、彼のような男が、その鳥という者達に無様に捕らわれたことの方だ。
そう考えてその思考の奇妙さに眉を顰めたが、リリアナの指摘したことはつまりはこういう事なのだろうと頷き、続きを考える。
(………………でも、………あなたは絶望していた)
小さな頃のように、セイは、心の中でそう呟いた。
かつての自分だった男に、「あなた」と呼びかけるのは奇妙なことだとはわかっていたが、人格として独立した他人だと感じているので、そうするのが自然だったのだ。
彼が、今のセイと同じ魂の持ち主だったとは言え、二人は別の人間なのだ。
そう思えば、同一の思いを共有している、リリアナとマリアの例は、セイからしてみれば不思議なものに思えた。
(伴侶を亡くして、あなたは、とても絶望していた…………)
遠雷の向こうで、慟哭する美しい人を見ている。
その光景は、何度も何度も、セイの夢に繰り返し現れた。
防ぎようもない死に突然攫われた伴侶の名前を呼んで、彼が泣いている。
その姿はどれだけ、セイの心をズタズタにしたことだろう。
彼の仕草。
鍵盤に触れる、その美しい指先。
彼と同じものを共有したいという欲求だけのために、セイは楽譜も読めないピアノを始めたのだと知ったら、どれだけの関係者が呆然とするだろうか。
表現しきれない彼への感情を、どうにかして吐き出して他のものに作り変えることで、少しでも楽になりたかったからだと白状したら。
(………多分、私は最初から少し壊れている)
この思いを純粋な恋だと語るには、いささか自分の行動は妄執染みている。
けれど、セイが音楽や世界の美しさに気付けたのも、何でもない些細なことで微笑むことが出来るのも、それは全て、彼という存在を通して見た世界が美しかったからだ。
彼がいたからこそ、自分という人間は構築されたのだし、そんな自分をセイは嫌いではなかった。
「………………鳥、かぁ」
ふーっと吐き出した紫煙を眺めながら、小さく呟く。
(恐らく、彼がそんなものに捕まったのは、絶望していたからだろう)
ある意味、あの時ほど彼が無防備だったこともあるまい。
何しろ彼は、自分の伴侶の死からさして経たずに、自らの命を絶ったのだから。
そんな状態を思えば、その、鳥とかいうもの達に捕まったのも無理はないかもしれない。
(どこまで信じるか、とは、………もう考えないんだな、私は)
正直、リリアナの話を疑いたいという欲求はあった。
奇想天外な事実だったし、彼への思いをひそやかに噛み締めながら、孤独なりにも楽しむ人生の中に、鳥などという不安要因が入り込むことは、当然ながら歓迎し難い。
正体も知れない妙なものに、この思いすら否定されるのだとしたら不愉快だ。
聞いた印象からすると、この魂は歪な粗悪品であるからこそ彼女自身でもあることなんて、おかまいなしなのだろう。
「待たせたな」
滾々と考え込んでいたセイは、その声にゆっくりと振り返った。
「ヴィネア、」
その名前が本名なのかさえ、セイは知らない。
わかっているのは、彼が、完璧にこの国の言葉を操るくせに、異国人にしか見えない容姿を持った男だということぐらいだ。
長身を包むチョコレート色のスリーピースはどこか尊大で成功者らしい装いだが、なぜか薄闇に息を潜める優雅な獣のようにも見えた。
いつも、排他的でひやりとするぐらいに鋭利な美貌を、表情一つであたたかな血の通った笑顔にしている。
経済的にはかなり恵まれているのだろうと思わせる言動と、最新の魔術式などに目がないこと、そして、自分と出会ったのが王家主催の舞踏会であること。
所在地も定まらない厄介な男ではあったが、妙なことに、セイは一度もそれらの情報を聞き出さなければと思ったこともない。
彼は、ヴィネアでしかなく、セイにとって必要なのは、時折会いたくなったときに呼び出したり、必要なときにメールを送ったりすることの出来る魔術式の文字列だけ。
「いい女が、銜え煙草で眉間に皺を寄せるなよ。勿体ない」
「その程度で恐れをなすような、脆弱な男には用もないね」
「相変わらず、男の趣味が狭いな。煙草も本当はまだ苦手だろう?」
ふわりと笑って、ヴィネアはごく自然に入り口にエスコートする。
女性らしい気遣いをされることは嫌いじゃなかったが、ヴィネアの仕草はそれ以上に滑らかだ。
今回もまた、何かの続きのように話しかけてくるようだし、彼と再会するときはいつもそう思えてならなかった。
(………ん?何度も再会するような機会なんてなかったよね?)
出会ったのは三年前で、去年にも一度会っている。
それだけだった筈だと、セイは顔を顰めた。
そうして、訝しげに注視した途端、彼は前からこういう容姿だっただろうかというおかしな疑いが脳裏を過ぎった。
背は高いし、よく見れば端正なのにと、そんな印象の誰かがいた気がする。
でも、それがヴィネアでないのは一目瞭然だ。目の前の彼は残酷なぐらいに特別で、その怜悧な美貌には凡庸さの欠片もない。
「ヴィネア。その、髪型とか、…………雰囲気を変えたりした?」
「どうした?何も変えていないし、俺は元々こういう容姿だよ」
可笑しそうに笑いながら言われて、慌てて言葉を濁した。
自分でも何を言っているんだろうと思う。
リリアナの告白の余韻で、色々と混乱が尾を引いているようだ。
「今度はどこに行ってきたの?タガリア王国は、去年までだったかな」
「今年に入ってからは、ずっとメーヘルにいるな」
店の前で、携帯用の夜鉱石の灰皿で煙草を消しながら尋ねると、思いもよらない返事が返ってきた。
「……………この国にいたの?」
「ああ。手は空いているからな。呼ばれればすぐに出てきてやるよ。お前、暫くは王都住まいだろう?」
「いや、王都に滞在していると言っているのは、仕事関係の連中にだけね。実際には、郊外にいるよ」
「隠遁生活へのこだわりは、ご健在のご様子だな?」
ヴィネアがそう問いかけたのは、椅子を引こうとした店員を片手で制して、自分で引いた椅子に座りながらだった。
ぞんざいにも思える気取らない動きのくせに、なぜだかいつも、この男の言動には妙な気品めいたものが混じる。
セイが賞賛を浴びるピアニストとして世界中を旅して回り、古い血筋と家柄に恵まれた人間達に会うことが増えれば、ヴィネアは彼等と同じ匂いがした。
けれども、彼から感じる深さや余裕のようなものは彼自身でしかなく、そこに特定の文化や家の名前が紐付いた事はない。
だからこそセイは、どこにも属さないヴィネアがとても好きだった。
「押しかける仕事の関係者や、謎の高貴なご知人とやらをまくのにも役立つから。でも、一部の関係者には、王都の貴族の屋敷に間借りしていないと評判がどうとか、利便性を考えて王都に家を持つべきだとか、わけのわからない忠告をされる始末で………」
「へぇ、面倒だな」
「でしょう?そもそも、最近は仕事もしてないのだし、金銭的な事情ってものもあるっていうのに、彼等にはその問題が理解出来ないみたいなんだ。それもまた、私のたいそうな印象とやらのお陰で。それを謎の知人にも忠言されると、頭を抱えたくなる」
「謎の知人、ねぇ。まったく相変わらずの賑わいだな」
ふっと、息を吐くようにして笑ったヴィネアに、セイは僅かに目元を染め、喋り過ぎたことを反省した。
いつもこうなのだ。
ヴィネアは、同じ歳の気安い親友のようにも飲めるし、小さな妹が兄に甘えるように愚痴もこぼせる。
空気のように馴染みながら、容易く目を逸らせない上等な男。
だから、リリアナが、関係性を発展させるつもりもないセイを、勿体無がるのもわかる気はする。
とは言え、あくまで第三者としての意見でだったが。
「ごめん、愚痴が溜まっていたみたいだ」
「いいさ、うんざりしてたんだろう?とは言え、俺までもお前の足取りが頻繁に掴めなくなる騒ぎには、少し辟易としているけどな。大騒ぎから逃げ出す時には、知らせておけと言っただろう?」
(そう言えば、二年前にこの国を離れたのはそんな大騒ぎが原因だったな…………)
セイにとって、その喧騒はなかなかに堪えた。
誰にもなれないからこそ、足掻いている。
これは、その残骸なのだと自分こそがよく知っているから。
「…………行方が知れないと言うなら、ヴィネアの方が遥かに厄介な気がするけれど………」
「リリアナによく言われたよ、しっかり管理しておけって」
「どうしていつも、その要請がヴィネアにいくのか、未だに理解出来ない」
「だろうな。…………注文を」
ヴィネアに呼び止められた店員が僅かに表情を崩すのを、微笑ましく見ていた。
こうして注文をするとき、ヴィネアはいつも、一緒に注文をしていいかどうかを尋ねた後にセイの物も合わせて頼んでくれていた。
恐ろしいくらいに好みが合うのと、彼の知識が広いからだったが、ヴィネアは、セイが、自分が選んだ目新しいメニューやいつもの料理を喜ぶと知っているのだ。
おまけに、彼が選んだ料理こそが、その日のセイの体調を整えてくれたりもする。
数日間妙に体調が優れないと思っていたりしても、ヴィネアと食事に出かけると回復する事も多い。
そのおかしな親密さが家族のようで、実はかなり気に入っているのだと告白したら、彼はたじろぐだろうか。
(色恋沙汰の範疇ではないのだけれど、妙に親密に聞こえるのは確かだし………)
そんな仕方のないことで悩むのは、セイらしくない思考で。
それなのに、そう思わせてしまうのは、ヴィネアという男が稀有な人間で、尚且つ失い得ない相棒のような存在だから。
「で?随分、急な呼び出しだったが」
見慣れない黄金色の前菜をじっと見ていたセイを、そんなヴィネアの質問が引き戻す。
気を取り直してグラスを触れ合わせる再会の儀式に参加すると、セイは、相談するべき内容の言い難さに視線を彷徨わせた。
「久し振りに会った親友に、…………今夜はヴィネアと食事でもしていろって言われたからかな」
おやっと、片眉を上げてみせたヴィネアに、セイは、自分も腑に落ちてはいないのだと示す溜息をついてみせる。
ろくでもない事情で呼び出されたくせに、ヴィネアの口元に浮かんだ面白がるような笑みは消えないままだ。
そのことに感謝しながら、セイは説明を補足する。
「深刻な話の後に言われたから、大人しくその通りにすることにしたんだ。こうして伝えると、きちんとした理由になっていないね」
「俺を呼び出すのはいつでも歓迎だが、妙なことに巻き込まれてるんじゃないだろうな?」
(そんな毎度のことみたいに言われても、奇妙なことに巻き込まれるのは、これが初めてなのだけど)
しかし、無視するには咎める響きが気になる言葉だったので、セイは首を傾げた。
「いや、きっとヴィネアが考えているような事ではないと思うよ。お互いの、…………あまり芳しくない事情を打ち明けあったというか、」
(どうしたものかな。妙なことに巻き込まれているとしても、それはこちらの履歴のせいだし…………)
魔法のように優雅な手つきで、 何かを口に放り込みながら、ヴィネアは呆れたように目を細める。
彼は料理好きの美食家でもあるので、反応を見ている限り、美味しいものではあるようだ。
恐る恐るセイも続いてみると、黄金色の物体は想像以上に好みの味だった。
(あ、ジャガイモにとろりとした挽肉の詰め物をして、揚げてある………)
セイの表情から、どうやらこの料理は気に入ったようだぞと判断したのか、ヴィネアはまた、口元をカーブさせて愉快そうに笑う。
高級ホテルのバーも併設したレストランらしく、ぎりぎりまで落とした照明の中でも、彼の瞳は身を切るくらいに鮮やかな色を失わない。
色味的に、よく光を集める色彩なのかもしれないが、淡い淡いシャンパン色の髪に、鮮やかな青緑色の瞳はひどく人目を惹くのも確かだ。
先程から幾つかのテーブルからの視線を集めているのは知っていたし、彼を振り返るのは女だけでもない。
付け加えれば、同席しているセイも充分に人目を惹くのだが、彼女は、視線というものに鈍感だった。
「お前にしては、歯切れの悪い説明だな」
「ああ。私自身もまだ、あまりきちんと理解出来ていないんだ。でも、ヴィネアが想像しているような物騒さはないけれどね。その同席していた古い友人も、学院時代の親友だからね」
「……………リリアナからか。殊更に厄介だな」
額に手を当てて大仰に溜息を吐かれた。
その仕草は、劇がかっているようでどこか深刻さが漂うのはなぜだろう。
「もしかして、リリアナと話をしている?」
「いや。だが、彼女が言うのなら、それだけの意味があるんだろう」
「確かに、リリアナは勘が鋭い方だけどね」
「だとしても、お前が動揺しているのは珍しい」
「…………動揺している?」
甘いピアノの音と、切なげに掠れた女性の歌声。
時間ごとに始まる音楽の演奏に目を細め、セイは、得心気味に笑うヴィネアの瞳を見返す。
艶やかな黒いテーブルにはまた違う色の黒い影が落ちて、琥珀色のキャンドルの炎が揺れる。
初めて出会ったのも、こんな夜だった。
あれはふくよかな秋の香りのする仄暗い美しい夜で、王宮での舞踏会だったからかヴィネアは貴族めいた漆黒の盛装姿をしていた。
セイが着ていたのも、漆黒のドレスだったような気がする。
「ここ最近で、お前がそこまで動揺してるのは、珍しい」
理由を問うでもなく、何でもないことのように笑う。
ふと、セイは、自分のものだと思っていた仕草や物事の捉え方が、彼のものを模倣しているのに過ぎなかったのだと、唐突に気付いてひやりとした。
(そうか、…………私はヴィネアにも憧れていたのか)
本当に近付きたかったのはあの人だけど、でも、彼はどこにもいなくて、その情報量は限られている。
だからセイは、彼に準じるものとして、ヴィネアの仕草を盗もうとしていたらしい。
「ふふ、そんなに付き合いが長いわけじゃないけれどね」
「やれやれ、胸を抉る言葉だな」
事情を説明する程に冷静ではなかったので、そうやって誤魔化したけれど、ヴィネアは仕方がないなというように付き合ってくれた。
(ヴィネアは、私がどれだけ途方に暮れながら生きているのかを、知らないんだ)
恐らく、自分は強い女だと思う。
けれども強さと孤独は別のものだし、絶望ともなると更にかけ離れたものだ。
本当のセイは、愚かな願いに身動き出来ないままの困った子供でしかない。
どうして彼以外の誰かを、彼ほどに愛せるというのだろう。
ましてやそれは、場合によっては記憶どころか幻想でしかないもので、それ故に永劫に失われないものだというのに。
(もし、ヴィネアに、私はそんな惨めな人間なのだと明かしたら?)
これもまた唐突な衝動に、セイはひっそりと苦笑する。
すうっと、胸の奥を突き抜けてゆく清涼な風のように、記憶の横で鮮やかに輝くその情景。
あの人の伴侶は、決して特別な女性ではなかった。
人並みに笑い、迷い、けれどその奥に、どこか鮮烈な強さを滲ませていた人だった。
その強さが、最後まで彼にしてみれば不可解で美しいもので、抗う術もなく愛してしまうようなものだった。
憧れた。
眩暈がするくらいに、強く、強く、憧れて。
それでもセイは彼女のようにはなれなかった。
彼女は特別に美しい女ではなかったし、それを補う程に特別に美しい心を持っていたわけでもない。
けれど、見る者を惹きつけて止まない磁場のような何かがあった。
彼の目線で彼女を見て、その強さや美しさに胸を打たれる度に、セイは、彼の愛した彼女のようになりたいと痛切に思う。
彼に触れたい。
そんなことは不可能だ。
それはわかっている。
だとするならせめて、彼に愛された彼女のようになりたい。
それすら叶わないのだと知ったセイに出来たのは、出来の悪い彼の模造品を目指すことだけだった。
馬鹿げた発想だとはわかっていても、それ以外にやりたいことはなかった。
(それでもいい。私は私でしかないし、それを変えたいとは思わない。でも、)
ヴィネアの視線の鋭さに、時々胸が潰れそうになる。
明るい日差しの中に放り出されたようで、塗り固めた表層が剥がれて、何て価値のない人間だろうと失望されそうで怖くなるのだ。
自分自身の在り方は変らない筈なのに、どうしてだか、ヴィネアと向き合うときだけ。
(そうだ、私は彼に憧れている。それと同時に、私はヴィネアが、………少し怖い?)
それは、とても奇妙な直感だった。
彼のように大切だと思う友人はリリアナくらいであるし、彼ほどまっさらに向かい合える相手はいないのに、どうして自分は彼を怖いと思うのだろう。
「理由までを話す必要はないけどな。何かあったら、頼るぐらいのことはしろよ?」
ほら、彼は造作もなくセイを甘やかしてくれる稀有な男なのに。
では、一体全体どうして?
“セイ、用心して頂戴。鳥はね、必ず私達を見つけるでしょうから”
まさか、まさかそんな。
(……………推理が飛躍しすぎだ。そもそも、鳥というものが、どんな形状で現れるかもわからないのに)
それに、ヴィネアには翼は似合わない。
そんないい加減なことを、セイはぼんやり考える。
寧ろ似合うとするなら………、
(猫、だろうか。………ええと、大型の………)
「どうした?セイ?」
「………ああ!ごめん、ぼんやりとしてた」
慌てたように視線を戻したセイを、ヴィネアは不審そうに見つめる。
飄々としていつもは人の心内まで踏み込まない男だが、さすがに様子がおかしいと感じたのだろう。
「お前、本当に大丈夫か?」
「いや、本当にどうでもいいことを考えていただけなんだ!………なんと言うか、うーん」
「言えよ。気になるだろ」
「………いや、………動物に例えるのなら、ヴィネアは猫だなぁって」
考えてもいなかっただろう返答に、ヴィネアは虚を突かれたようにぽかんとする。
疑問符が浮かんで見えそうな一瞬の沈黙の後に、彼は口元を片手で覆うようにして小さく笑い出した。
「ほらっ!だから、どうでもいいことだって言ったじゃないか!」
声を張らないようにして抗議すると、ヴィネアは笑いの残る瞳を上げて、愉快そうに首を振った。
「深刻な面持ちで悩むことか?それが?」
「いいじゃないか!ふっと思いついただけなんだから」
「心配したこの繊細な心の機微を、どうしてくれるんだ」
「どうせ、単純に自分の疑問を発信しただけでしょう…………」
ヴィネアという男がどれだけ思慮深く、加えて底の知れない人間であるのかは知っていたけれど、同時に彼は気紛れで、相当いい加減な部分もある。
それを嫌という程知っているのでそう返してやると、ヴィネアはかもなと呟き、悪戯っぽく笑った。
だから、セイは気付かなかった。
理由もない唐突な不安は馬鹿げた杞憂にしか思えなくなり、ヴィネアの気安い雰囲気のお陰で、いつも通りの二人に戻って心底ほっとしていたから。
だからセイは、口元に当てた手の下で、ヴィネアがはっとするくらいに深く微笑んだことには気付かなかった。
今もまだ唇の端に残されたカーブに、ひどく排他的な満足感が滲んだことも。
そうして、やがて気付くのだ。
セイが、ヴィネアと相対するときだけ、時折身につまされるような感覚を味わうのは、現実に彼が向ける視線の中に、冷酷なまでの観察眼が織り交ぜられていたからなのだと。
けれど、そのことに気付くのは手遅れになってからだった。