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友の告白の三頁目



裕福な貴族と裕福な商人の為に作られた瀟洒なホテルのロビーを、優雅に歩いてゆく影がある。

かつかつと高価な水弾きの魔法をかけた靴の踵を鳴らし、歩幅は大きいが、その動きには乱暴さのかけらもない。


夜霧の色の細身のパンツに、シンプルな黒いざっくりとしたセーター、そこに黒い長めのコートを羽織った姿は、優美な騎士のようだった。


歩く速度が早いので、コートの裾と高い位置で結んだ長い髪が尾を引くように翻り、それがまた人目を惹いているが、今更観衆の視線に敏感になる訳もなく。


目的のレストランの入り口で彼女が立ち止まると、まるで王の前で萎縮してしまう傍仕えのような表情で、給仕の少年が駆け寄ってくる。


家名を尋ねられ、これはもう高貴な青年貴族か何かだと思われているのかなと、セイはくすりと微笑んだ。



「気を遣わせてすまないね。待ち合わせだから、結構だよ」



軽く片手でそれを制すると、セイは既にこちらを見つけて手を振っていたリリアナに笑いかけた。


生粋の侯爵家の令嬢であった親友は、やはり窓際の一番いい席を難なく押えている。

セイからしてみても、彼女のような人間を一番人目の集まる席に通すのは良い選択だと思う。


シンプルながらに王都の有名な仕立て屋の作品だと一目でわかるドレス姿のリリアナは、目鼻立ちのはっきりとした上品な美人だ。



「お待たせ。相変わらず早いね」

「久し振り。相変わらず格好いいわよ」



そう笑ったリリアナは、二年前に結婚した。


あの、マリアの悲報に取り乱していた日から一年後に、宰相の補佐官として勤めていた王宮で見付けた同僚と結婚したのだ。

わかりやすい理由で、さっさと落ち着いてしまったリリアナの行動力は、セイからしてみても感嘆に値する。



「ご主人は元気なの?」

「上手い具合に元気で、そこそこに留守にしていてくれるわ。仕事も順調だし、二人の関係も上手くいってる。そうねぇ、一般的に言えば、かなり幸せかな」


初めて聞く人間がいたら考え込んでしまいそうな内容だが、リリアナは彼女なりに夫を愛していることを知っているので、セイは小さく笑った。


「そういう場合は、かなり幸せだとだけ言うことをお勧めするよ」

「勿論、あなた以外の相手にはそう言うか、あえてちょっとした愚痴を言うことにしてるけれど」


テーブルに予約した人数が揃ったことを確認した給仕からメニューを渡されながら、リリアナは品のいい栗色のまとめ髪からこぼれた一筋の髪を耳にかける。


所作は滑らかで伯爵夫人らしい優雅さだが、お供の者も連れずに一人で出かけてしまう奥様について、あの家令はまだ嘆いているのだろうか。


とは言えリリアナは、当時は侯爵令嬢でありながらも王宮勤めを望まれた程に有能な魔法使いでもあるので、自分の身くらいは自分で守れるのだが。



「もう一度、働こうとは思わないの?」



きっと、有能な補佐官を失った宰相は、さぞかし気落ちしただろう。

なのでと、わざと尋ねたセイに、リリアナはさも嫌そうに顔をしかめた。



「まさか!絶対に嫌だわ。王宮からの要請を断れずに働き始めてから、一刻も早くこれを辞めて、私の世界に戻れる環境を作ろうと決意したのだもの。まぁ、少し時間がかかってあの歳までかかってしまったけれどね」

「ふうん。勿体無いな、結構優秀だったって聞いているけど。………あ、このワインを」

「相変わらず、昼から飲むわねぇ。じゃあ、私も付き合っちゃおうかな」



躊躇いもなく高価なワインを選び始めたリリアナは、文章に紐付く魔法の解析に長けた文字の魔法使いだった。

気難しい宰相も蕩かしてしまう柔和でからりとした人柄のせいで、そのまま残って欲しいと願う声も多かったようだ。


けれどリリアナは、そんな懇願を無視してあっさり仕事を辞めてしまった。



「仕事が向いていなかったようには思えないし、引き合いも多いでしょう?」

「仕事は嫌いよ。私は元々そういう気質の生き物なの」

「それをはっきり言うと、あちこちで角が立たない?」

「あなたもね。でも、いいんじゃない?どうせ、十八年世代って言われるだけよ」




この国では、十八年前に大規模な魔法的災害とそれに付随する恐ろしい感染症拡大の悲劇があった。


かつては西の魔法大国と言われたこの国は、まだ何とかその威厳を保ってはいるものの、特殊な病状のせいで急激に若年齢化した国力を支える勤労層は、著しく低年齢化が進んでいる。


残された年長者達はただならぬ存在感と権力を持ち、法制度も大きく変わった。


歴史的に見ても劇的な程の変化を遂げたこの国は、年長者達からすれば、まるで見知らぬ異国のようになったのだと言う。


その運命的な災厄の年に生まれた世代は、一刻も早く大人にならなければいけなかったかつての子供と、この世界しか知らない無垢な後続達に挟まれた寄る辺なさの特徴を持っている。



(………個人主義で、能力に秀でた者が多い。良くも悪くも自立するしかない世代なのだろう)



甚大な魔法災厄は、多くの国では呪いと呼ばれている。


原因は不明とされたが、魔法がこれだけ一般化した国でも正体の掴めない、良くないものの障りである可能性が高いのだ。



(今はもう、この世界から魔法の起源となった生き物達は喪われてしまったと言うけれど、その残滓が動いた可能性もあるのだとか…………)



遠い、遠い昔。

まだ向こう側とこちら側が繋がっていた頃。


この世界には、神や悪魔のような、人ならざる叡智と力を宿した者達が暮らしていたのだと言われている。


でもそれは、所詮おとぎ話の向こう側の、神殿や教会、古い学術書の中の話で、誰もそんな生き物達の事は知らないのだ。



だからなぜ、この世界に魔法があり、人々が日常的にそれを扱えるのかは、誰も知らない。



(それはきっと、なぜ太陽は明るいのというような事だから…………)



「この前、議会でご主人を見たよ。伯爵はあまりそういう場所には行かないのだよね?」

「あら、セイこそ珍しいわね」

「はは。一年に一回は後援者への顔見せに、王宮にも足を運ぶよ。今年は公爵家のご子息に間違われて大変だった」

「ふふ、セイらしいわ。主人は、今年の暦の魔法編纂の担当なの。王から任された重大な任務だってはしゃいでいるけれど、すぐ私に分からない事を聞いてくるのよ?」



幸せそうな友人の様子に、セイは、脱いだコートを畳みながら微笑んだ。


彼女に触れることを躊躇ったのか、そんな素振りを見せなかったので怖気づいたのか、あの気弱なボーイは、セイのコートを受け取ることをしなかったのだ。



「リリアナが一緒に仕事をしてくれるのが、伯爵は嬉しいんだよ」

「でも、仕事を家に持ち帰られると、主人の補佐官達もこちらに来てしまうから。あまり家に他人を入れたくないのよ。ほら、私の趣味は特殊でしょう?」

「うーん、公表されたからといって、弊害が出るものかな?」

「冗談じゃないわ。同じ趣味の主人はともかく、あの趣味が周囲に露見でもしたら最悪だもの。余計な詮索も、異端審問官達に目をつけられるような憶測も呼びたくないの。当日に隠すにしても、何しろ量があるしねぇ………」



(憶測や詮索?やはり、そちら側の嗜好家の間では、色々な気苦労があるのだろうか)



その量があるという秘密は、国が許しているところすれすれの魔法書の山で、それはまだいい方なのだ。


厄介なのは、専門的過ぎて常人は青ざめる程の、民間信仰や童話、神話などの専門資料の収められたかび臭い書庫である。


家の大部分を占拠している書籍だけでかなりのものなので、一度家に招かれたことのあるセイは、あまりの量に閉口した記憶がある。



「よくも、同じ趣味を持つ伯爵を見つけたよね…………」

「褒めて頂戴。民俗学の専攻出身で絞って、かなり探して宰相閣下に紹介していただいたのよ。寧ろ、その為に王宮勤めを我慢したと言ってもいいわ」



唇の片端で自慢げに微笑んだ親友の姿に、セイは、懐かしい男の姿を脳裏に描いた。



(………そう言えば、彼も民俗的な見地の固有魔法には詳しかったな。今は、どこにいるんだか…………)



ふっと微笑んだセイに何かを感じたのか、リリアナが猛禽類のような目で笑う。



「あらあら、とうとうあなたも恋煩い?」

「まさか!放浪癖のある友人を思い出していただけだから」

「………なんだ、あの男ね。相変わらず、恋の話が一欠片もなくててつまらないわね」

「すまない、と謝るしかない溜息を有り難う……………」

「そう言えば、どうしてヴィネアは駄目だったの?私はあなたにぴったりだと思っていたのに」

「…………寧ろ、リリアナに相応しいと思ったのだけれど、いけなかったみたいだね」



放浪癖のある友人が親友の好みに合致しているようで、セイは、この二人はどうだろうと考えていた時期がある。


「どういうこと?まさか、恋愛的な意味で申しているのなら怒るわよ」

「私には薦めるくせにどうして?彼だって、リリアナの趣味嗜好に見事なくらい一致してるじゃないか。寧ろ知識量で言えば、彼の方があるように思えるけど?」

「あれは、あなた用よ。私からしてみれば同類過ぎて耐えられないわ」

「私用かどうかはさて置き、そんなものなのかな?趣味も気も合うと思うのに」

「そうね、もし同類だという確証が間違いだったとしても、それでも嫌ね。主人もそういう意味では私と同じものだけど、気質がまるで違うから相棒としてはやっていけるの」



それだけの拒絶感を持つ同類とやらの線引きが気になったが、そこは追求しないようにした。


個人的な趣味嗜好には見ない方がいい奥行きもあるだろう。

なので、少し向かいを変えようとして、無難な話題に戻す。



「まぁ、容姿的な好みもあるよね。リリアナは綺麗なひとが好きだから」

「…………ええと、あなたも、綺麗なものは好きよね?」

「うん?リリアナの好みにしては、ヴィネアは凡庸過ぎるのかなと」

「…………え?」



意表を突かれたらしく、リリアナが固まっている。


容姿的な問題でもないのだろうか。

セイは、この微妙な話題の引き際を見誤った自分を呪った。



「セイ、まさか、………………あなたには彼が凡庸な容姿に見えるの?」

「………リリアナの基準は、もう少し判定が厳しかった?」



しかし、リリアナの審美眼に友人が不憫になったセイを置き去りにして、リリアナ本人は何とも生温い空気になる。

そういえばこういう顔を、ヴィネアに関わるとリリアナはいつもするのだ。



「…………そう、いいの。一度も腹を割って話したことはないけれど、あれが、あらためて同類だという気がしたわ。私には、美しいものが標準を装う理由が皆目わからないけれど、案外人見知りなのかしら?ああ、いいのよ、セイ。わからなくて。どちらにしてもヴィネアには絶対に恋をしないという話。それだけよ」

「ものすごく誤魔化されているのはわかるけど、いいよ、もう踏み込まないから」



困った話題から抜け出せたと安堵したセイは、高価な素材を惜しげもなく使った前菜を載せた皿を、立ち姿の美しい給仕が運んでくる様を幸せそうに見つめる。


ずっと昔からセイは、かつて自分があの人だった頃に享受していた世界観を感じさせるものがとても好きだ。


災厄の前の、贅沢さが華美だと鼻につかない時代、その優雅な暮らしを堪能していた彼と、少しでも同じ景色が見られたなら。


だから彼女は、歴史のある高級レストランが好きだったし、天井の高いこの国の古い建築が残る施設を好んでいる。

年に一度までと自制している王宮の訪問をとても楽しみにしていて、最近の古典志向の流行を歓迎していた。



「……………相変わらず、妙なものにご執心ねぇ」

「まぁ、趣味だからね。そう言うリリアナだって、旧時代のものが好きじゃないか」

「私の場合は、理由もあるし、………ね」

「ああ、昔住んでいたところは、古い魔法の残る土地だったから?」




そのときのリリアナの表情を、セイはその後もずっと忘れられずにいた。


頬杖を突いたまま、今は目の前にない何かを慈しむように微笑んだリリアナ。


細い手首には繊細なゴールドのブレスレットをしていて、爪先まできちんと手入れされた手は、女性らしくて綺麗だった。


彼女の好きだった、甘いヴィオレットの香り。


晴天の青を背景にして、一枚の絵画のように切り取られて記憶に残るその情景はずっと、セイの記憶の中に残り続けた。




「ずっと、ずっと昔にね。そこに住んでいたのは、正確には私じゃないけれど」



前菜の甘海老の燻香付けを口に運ぼうとしていたセイは、リリアナの奇妙な言葉に眉を顰める。


不審そうに見返された視線を予期していたかのように、リリアナは極上の微笑みで受け止めた。



「………ええと、じゃあ、古い魔法書を買う為に滞在していたのかな」

「ほー、そうやってすぐに私を、そちらの趣味に結びつける」



悪戯っぽく小さく笑うと、リリアナはグラスの白ワインを豪快に飲み干す。

その一連の動作の全てが、どこか一般人離れした品のいい仕草にしか見えないのは彼女の特権だ。



「違うの?」



あえて、何でもないことのように、セイは聞き返した。



今日、帰国したてのセイを呼び出したのはリリアナの方だ。


自分の部屋で荷解きの格闘をしていたかったセイが足を運ぶことにしたのは、彼女から話したいことがあると告げられたからだった。



だからきっと、リリアナは何か大切な話しをしようとしているのだろう。



「ボドルート共和国の旧王都に住んでいたのは、帽子職人よ。名前は忘れちゃったわ。才能があって背は高いけれど体格があまりよくなくて、今で言うところの気弱で繊細な男の走りみたいなひと。友達が少なくて、自分の仕事を愛していて、好物はイチジクのパンと青カビ系のチーズだった」



そこで一度言葉を切ると、リリアナはぞんざいに前菜を口に運ぶ。



「へぇ、正確な描写だね。何となく人物像が浮かびそうだ」

「でしょう?目はオリーブグリーンで、髪の毛は煉瓦色。声までは覚えてないけれど、彼が住んでいた小さな家は覚えている。職人街にある小さな家だったけれど、彼は劇場に通うのにいい場所だって、すごく気に入っていたわ。………道が、行きやすかったのよね。彼にとって劇場は、人生において一番大事な場所のひとつだったから…………」



妙な、妙な表現だった。


それなのにセイは、ただ息を詰めてその言葉に耳を傾けている。


じわりと胸の底が熱くなって、難解な演奏にも慣れている筈の指先が小さく震えた。




「彼女の名前は、マリア」




また、リリアナが微笑む。

今度は見間違いようもなく、愛しそうに。



「劇場の歌姫だった。誰からも愛されていて、共和国の男達はみんな彼女に恋をしていた。最高に美しくて、あたたかくて、………それに、あの声!あの声を忘れたことは、一度もない。勿論、彼女の名前もだけれど。そして、どういうわけか彼女は彼の恋人だった。勿論、彼もそれなりに特別ではあったけれど、所詮はしがない帽子職人。それなのに、貴族達からの求婚を全部はねつけて、マリアは、彼だけを愛し続けていたの。まるで奇跡みたいにね」



震えるように息を吐いたリリアナが、わざと悪戯っぽく笑ってみせる。


今話している物語は、何でもないもので、特に深い意味なんてないんだよとでも言い訳したいみたいに。


だからセイは、手を伸ばして、テーブルの上に置かれた彼女の手を握った。


はっと見開かれる瞳に理解の色がじわりと広がり、リリアナは、今度こそ本当の微笑みを浮かべる。


それは、セイが見慣れた彼女らしさではなかったけれど、どきりとするぐらいに鮮やかだった。




「………だけどある日、彼女は殺された」



長い睫を伏せて、リリアナは小さく呟く。


テーブルの雰囲気をどう見て取ったのか、リリアナの皿を下げにきた老給仕は、無言のまま慇懃で他人行儀な一礼をして去ってゆく。


その完璧な対応に感謝しつつ、セイは話の続きを待った。



「彼女を殺したのは、自分の求愛を受け入れて貰えなかった、収集家の貴族の坊やだったわ。その男はすぐに捕まったし、環境を思えば驚くぐらいにきちんと報いを受けたけれど、彼女が戻らないことに変りはなかった。だから、彼もあまり長く生きてはいられなかった…………」



空になったグラスに、ワインを淹れてやると、リリアナはすぐさまそれを飲み干した。



「私が知っている物語はそこまでだけだった。私は、その物語をずっと、小さな頃に見た歌劇か何かの記憶だと思っていたし、その記憶の中のマリアを深く愛していたことだって、舞台の登場人物に思い入れがある程度にしか考えていなかった。………でもね、セイ。私は、もう一度彼女を見付けたの。………見付けてしまったのよ」




真っ直ぐな眼差しは、セイにすら言葉を失わせる。



きっと、そのときにセイが言えた筈の言葉は、他にも沢山あっただろう。

けれど、その目を見ているだけで、どんな言葉も陳腐で頼りないものに思えて言えなかったのだ。


セイが口に出来たのは、一言だけ。




「あのマリア、」



リリアナは、ただ幸せそうに微笑んだ。


だからセイは、そんな場合ではないのだけれど、何て綺麗な微笑みなのだろうと考える。

愛するべき人ともう一度会えるというのは、どういうことなのだろうかと。



「奇妙なことだったわ。考えられる?彼女が誰だかわかった途端、私は、私という一人の人間で女でしかないのだけれど、今でもマリアを、例えあの頃のように男女のそれではなくても、それでも誰よりも愛していることがわかってしまったのよ?マリアは特別で、忘れられるはずもなくて、その他の誰かを愛することなんて、想像もつかなくなってしまったの。自分がどういう性質のものだったのか、どこから来た者なのかを、それが現実だとあらためて理解したわ」



確か、マリアがデビューした頃のことだった。

リリアナが、幼馴染の婚約者と唐突に別れたと聞いたのは。


そのまま結婚するだろうと思われていた二人だっただけに周囲はひどく驚いたらしいが、セイはさして驚かなかった。


当時のリリアナは幸せそうだったし、彼女が自分自身にとって間違った判断をするという場面は、欠片も想像出来なかったから。


セイにとってのリリアナは、感嘆してしまうぐらいに自分に正直な人間だったのだ。



「別に、彼女以上に特別なものがなくなってしまっただけで、マリアと同性という壁を乗り越えて恋をしたいと思っていたわけじゃないの。それから、山のように手紙を書いたわ。頭がおかしいって思われても良かった。ただ、彼女に知ってもらいたかったの」

「………どんな手紙を書いたの?」



当たり前みたいにそう訊いてやると、リリアナはまた嬉しそうに笑う。


今更、目の前の皿の中身が変っていることにも気付いたらしく、フォークとナイフを取ると食べ始めた。



「……………ずっと昔に、帽子職人が劇場の歌姫に恋していた話を、何度も、何度も。書きながら、私は馬鹿なんじゃないかと、何度か自分の正気を疑ったわ」

「それでも、書かずにはいられなかったんでしょう?」

「そうなの。……………でもね、何の反応もなかった。驚かないでね?私はそんなことを三ヶ月もしていたわ。そしてある日、一通の手紙を、執事がお嬢様にと差し出してくれた」



セイは、驚いてリリアナの顔をまじまじと見てしまう。


そこにあったのは、誇らしさと愛情と。

そして多分、拭い去れない喪失感と。



「便箋は飾り気のないものだったし、書いてある言葉も単純だった。“会いたい、会いたい、マリア”って、それから、当時の彼女が暮らしていた屋敷の、魔法端末の承認術式」

「………連絡………したんだね?」

「したわよ!!時間なんて気にせず、すぐにかけたわ」

「彼女は…………、」

「すぐに応答してくれたわ。私からの連絡が来た時の為に、持ち運べるように小さな魔法式の受け取り台を買い直したのですって。………私だとわかって驚いて、………あの子は、私が聞き取れないくらいに早口で喋り出した」

「うん」

「魔法式の繋ぎの向こうにいたのは、マリアだった。変らない、私の愛したマリアだった。神様は何て素晴らしいことをするのだろうって、ぼんやり思ったわ。マリアのあの声を、そのまま今の彼女に持たせてくれたんだもの」

「同じ声だったんだ?」

「そう。それはね、私達のような者達からしてみれば、非常に珍しいことなのだそうよ。だからやっぱり、マリアは神に愛されていたのだわ」



ふと感じた違和感に、セイは内心首を傾げる。



リリアナの言葉に織り込まれた意味ありげな一言が、棘のようにちくちくと心を刺激した。


視線の先のリリアナの目を見ている限り、彼女はわざとその言葉を選んだのだろう。

だからセイは、リリアナの説明を待つことにした。



「それから私達は、随分長い間話をしたわ。その中で、どうして私達が特別なのか、どうしなければいけないのか、避けられない運命についても話をした」



そこで言葉を切り、リリアナはしばらく食事に専念する。


何かを焦らしているようでもあり、何かを告白するべきかどうか、深く思案しているようでもあった。



(………リリアナ?)



そこでセイが感じたのは、妙な胸騒ぎ、おかしな重さの不安のようなものだった。


真っ青に晴れた青空を見上げて、どうにも暴風雨になりそうだぞと考えるぐらいに、ぞわりと沈み込むその感覚に、無意識に手を組み合わせる。


その感覚はどこか恐怖にさえ近くて、セイは、グラスを傾けながらワインの味すらわからなくなってしまった自分を不思議に思う。



確かに、この先に待っているのは悲劇の結末だ。


マリアは事故で命を落としたのだし、だとすれば、待っているのは最悪の顛末でしかない。


それなのに、今のセイが感じている恐怖感は、どうにも過去の悲劇に由縁しているようには思えないのだ。



まるで、現在進行形の何かを恐れるべきだとでも言うかのように。

ひたひたと、足音を忍ばせて近付いてくるよくないもののように。


吐き出す息が冷たくなる。



「ねぇ、セイ。私がずっと苦手だったものを、覚えているかしら?」

「………鳥。一番苦手だったのが、白鳥と鷺」



ずっと昔から、悲鳴を上げるくらいにリリアナが苦手だったものを思い出して、セイは即答する。



「じゃあ、私の一番の大好物」

「鶏料理…………」



そこもまた、即答した。


華奢で優美な見た目を完全に裏切る形で、リリアナが好むのは鶏肉を使った料理で、本当によく鶏肉を食べていた。



「大正解よ。だからこれからするのは、内緒話」



ふわりと、その微笑みが仮面のような無機質なものになるのを、セイは見ていた。


そこにいるのは見慣れた親友だけど、リリアナじゃない誰かのように思えて、密かにぞっとする。



これは誰だろう。

この、ずしりと重たい気配は、誰のものだろう。




「鳥に、気を付けなさい。セイ」



「………………………鳥?」



意味が理解出来ないまま反芻したセイに、リリアナはどこか寂しそうに微笑んだ。



「そう、鳥よ」

「………ごめん、リリアナ。よく、わからないよ」

「そうよね、今はわからなくてもいいの。けれど、こんなことを話すのは、あなたがマリアの同胞だから」

「………!!」



息を呑んだセイを暖かく見つめ、リリアナは皿を下げに着た青年に、人懐っこく微笑んだ。


その視線がもう一度自分に向けられるまで辛抱強く待ってから、セイは無言で続きを促す。



「マリアはね、鳥に殺されたの」



低く、慎重な声。


そこに押し隠された暗さに、またセイは、わけもわからずはっとする。



「あれは、山崩れに馬車が巻き込まれた事故じゃなかったの?」

「ううん。彼女の命を奪ったのが、馬車の事故なのは間違いないわ。けれども、あの時間にあの場所で彼女が事故に巻き込まれるように巡り合せたのは鳥なの。鳥はね、…………そういうことが出来るもの達だから」

「………鳥って?」

「上手く説明出来ないわ。翼があって、………鳥としか言いようがないの。多分私たちは、鳥のことを客観的に表現出来ないようになっているのね。鳥は、私達のような零れ落ちた規格外の魂を見つけて、元の場所に戻す仕事を請け負ったもののことよ」



突然飛躍して進み始めた会話に、セイは目を瞬いた。


それまでの話を自分と同じ立場で理解出来ていない者が聞いたら、物語のあらすじだとでも思うだろう。それぐらいに非現実的で、不可解な話だった。



「私達………」

「そう。正しい形をしていない、色残りした魂の写本。最初の物語を捨てきれていない者達と称されるのだそうよ。私とマリアは、お互いの事情は違えど、そうなった。お互いにお互いのことを諦めきれないまま、思いが強過ぎてあるべき形まで漂泊することは出来なかったのね。だからこそ私達は覚えているし、鳥からしてみれば歪な粗悪品でしかないのだわ。更にマリアは、同胞達にだけ理解の出来るメッセージを、最後に上演した歌劇に込めてしまっていた」



どこか冷静なままの頭で、セイは、リリアナが声を落としていてくれて良かったと思った。


こんな会話を周囲の人間に聞かれたら、どんな評価をされることやら。

セイは兎も角、リリアナは伯爵夫人なのだ。



(………それとも私は、この事実を知ってしまったことを、誰かに知られるのが怖いと感じているのだろうか?………………まさか、ね)



ひやりとした意識の端で、セイは、大きな窓の向こうの青空を見上げる。



「………………その粗悪品を、鳥はどうにかして処分しようとしているってこと?」

「セイの、納得はしていなくても冷静に理解しようとしてくれるところが、私は大好きよ」



対するリリアナは、そんなことを言っておかしそうに笑う。



「そうするしかないでしょう。とりあえず感想は、全部を聞くまで言わないから」

「別に、鳥は悪意があるわけじゃないわ。ただ、合理的に判断して、間違って出荷されてしまった粗悪品は、一度戻して作り直すべきだって考えているだけ」

「………さして変らないじゃないか」

「うーん、………なんていうか、鳥からしてみれば、自分達はこちら側の管理者で、私達は困った手のかかる作品、再生産前の印字が残ったままの頁が混ざり込んだ本みたいな感じなのよね。話だけ聞いていると、確かに彼らは正しいのよ。自分の我が侭であるべき場所を放棄する魂ばかりだったら、この世の仕組みは正常に動かなくなるのは間違いなさそうだし、規則が必要なのは確かだわ」



眉を寄せてその説明を噛み砕き、セイは小さく唸る。


「………死霊を引き取りに来た、教会の教えにある天の御使いみたいなところ?」

「あら、随分とざっくりまとめたわね。けれど、そのようなものだと思っていて」

「でもさ、こちらからしてみれば、もう生まれてきて立派に人格を持って生きているのだから、この段階で回収するのはどうかと思うれど」

「そこは融通が効かないのでしょう。あちらの言い分だと、彼らはそもそも階位が違う別の生き物なの。それに、欠陥を持ったままの魂を放置しておくよりも、生きている状態の間に回収する方が効率いいみたいよ?」

 


そこでようやく、セイは自分が感じていた疑問の正体に気付く。



「リリアナ、………それは、誰から訊いたの?どうして私が、マリアの同胞だとわかったの?」

「セイ、…………私は、昔から少し変わり者だったでしょう?」

「趣味は特殊だけど、リリアナは……そうだね、頑固で天然、だったかな」



そう言えばリリアナは少しだけ笑った。


「記憶、というものは厄介なものよ。………マリアはね、少し目立ちすぎたの。自分の気持ちに真っ直ぐで、不器用過ぎたのね。私を探すことに何の躊躇いも恐れもなかった。結果、マリアは鳥に見つかってしまった。知っている?彼女くらいに有名になってしまうと、私たちの想像を絶するぐらいの恋文や夜会へのお誘いのカードが毎日届くのだそうよ。だから、彼女が私からの手紙を読んだ頃にはもう、マリアは鳥に見付かってしまっていたの。あの、取り繕う暇もないほどに焦った手紙は、実際に彼女が焦っていたからだったのだわ。………………私たちが初めて話したその翌日のことだった。……………マリアが死んだのは」



深く、吐き出される息の音。


俯いた顔に零れかかった髪を耳にかけると、リリアナは視線を上げて、悲しげに微笑む。


言葉を失ったまま、セイは聞いたばかりの言葉をどうにかして整理しようと試みたが、上手くいかなかった。



(………………鳥?)



そう言われても、どうにも腑に落ちない。



自分とリリアナが、似た境遇にあったらしいという驚くべき事実はすんなりと理解出来たものの、その鳥という存在に関しては、さっぱり実感が湧かなかった。



「セイ、鳥のことを思い出せないということは、重ねて深く漂泊されたということなの」



ぎょっとして顔を上げたセイをじっと見つめて、初めて見るくらいに真剣な顔でリリアナはそう言った。


その言葉がどれだけ深く、どれだけセイの心を揺さぶるのか、勿論理解しているよと言う風に。



「あなたに前歴があるのは、言動を見ていてわかっていたの。あなたが愛するものと、私の愛するものは同じ時代のものが多かったし、私は、………少し特殊だから」

「リリアナ………、言っていることはある程度理解出来るし、他人事でもないとも断言出来るよ。自分が異質だったのは子供の頃から重々承知しているけれど、この話はまだ飲み込みきれない……………」



そう正直に答えると、親友は小さく呟いた。



「あなた達が生まれたとき、何かが大きく変わってしまった。だからきっと、鳥達はその世代を特に注視しているのね。私は鹿で、どちらかと言えば狩りでは弱者だから、他の本持ちの意見も聞ければいいのだけど、残念ながらあの人以外の同胞を探す時間がもうないわ」



それはまるで独白のような、奇妙な言葉の羅列。



「リリアナ?」

「………ごめんなさい、今の言葉は忘れて。私自身の推察と後悔でしかないから、あなたに言うべきじゃなかったわね。あなたは特別だけれど、…………私の側の同族というわけではないし」

「待って、それはどういう意味?」



顔を上げたその眼差しで、セイは、リリアナがそれ以上のことを話すつもりがないのだとわかった。



「ごめんね、セイ。…………私は自分勝手なの。この先もずっと、当たり障りのない私のままでいられるかと思ったけれど、もう飽き飽きしてしまったわ。それに、あなたのことまで口を出すのは管轄外なのだけど、流石にこのままにはしておけないもの」

「自分勝手だなんて思わないよ。リリアナの気持ちは、リリアナだけのものだから。……けれど、圧倒的に説明不足だから、その曖昧に濁している言葉が気になるんだ」

「うん、ごめん。わざとなの。私はきっと、あなたに私達の事を考えて欲しいのだわ」

「リリアナ、」



言いかけたセイを押えて、リリアナはにっこりと微笑む。


そこにいるのはもう、いつもの見慣れた彼女でしかなかった。




「だからね、セイ、………今度こそ間違えないように、どうか用心してちょうだい」










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