二頁目の始まり音
その年、マリアという名前の歌い手が命を落とした。
セイは今でも、親友のリリアナがその死に驚く程打ちのめされていたことを覚えている。
当時、情熱的なダンスと強い酒の有名な美しい薔薇の国、フェスドの後継国にある小さな街に暮らしていたセイは、号泣ながらにかかってきた魔法通信を聞くまで、マリアという名前すら知らなかった。
だからこそ、後日、リリアナが市販の魔法媒体で送りつけてきたその楽曲を聴いた瞬間の衝撃は今でも忘れない。
ぼうっと光る青白い鉱石から流れてくるのは、魂を掻き毟るのに充分な歌声で、かたかたと、同じ机の上に乗せていた夜露のインクの瓶を震わせる。
彼女の歌は特別だった。
それはきっととても月並みな言葉で、マリアへ向けられる賛辞としては使い古されたものだろう。
とは言え、セイという人物を知る者が聞けば、その手放しの賛辞に驚いたに違いない。
少女と言っても差支えのない年齢の女性らしからぬこの環境。
小さな田舎町にある簡素な貸し部屋の二階で、窓を開け寝る前の一服と一杯の儀式を楽しみながら聞いたその曲に、セイは久し振りに心を震わせた。
勿論、心を震わせるものなどいくらでもある。
世界には美しいものが溢れているし、人間が作り出したものにも美しいものは多い。
だがセイが美しいと感嘆するものはどうにも古いものが多いらしく、こんな流行のものに心を動かされたのは初めてだ。
(………そうか、あなたは成功したのか)
会ったこともないマリアに、セイはそんな言葉を向ける。
羨望にも似た思いが胸を焦がして小さな苛立ちが生まれたものの、それでもその曲を聴いていたいという思いは揺らがなかった。
何度か同封されたリリアナの手紙をひっくり返して観察し、歌詞を記した紙片の隅々まで熟読する。
けれどもそこには満足できるだけの情報が残ってはいなかったので、セイは朝まで眠る贅沢さを諦めると、夜にしか仕事をしない知り合いの調律魔法師に連絡をすると、その歌い手の事を教えて貰った。
マリアは、美しい女性だった。
まだ若い彼女の命を奪った痛ましい事故は、公演で訪れた小さな公国で起こったものだったそうだ。
リリアナの手紙に入っていた、彼女が姿絵を描く事を許した最初で最後になったという劇場のパンフレットを見ながら、セイはぼんやりとその人物像を把握する。
男爵家の次女として産まれ、唱歌の魔法を認められて音楽院を華々しい成績で卒業しデビューを飾ったマリアだったが、当初はあまりにも整いすぎた美貌に人気が出なかったらしい。
成る程それは納得出来る。彼女は未熟な新人としての役柄を歌いこなすには美しすぎたし、群衆に紛れるような配役を演じるには印象が強すぎた。
寧ろ、最初から重要な配役を与えて出した方が良かったのではないかと、素人のセイですら思う。
(彼女の歌声は、炎みたいだ。他人と同じ舞台に上げるのは無理があったんだろう……………)
だから、彼女が歌劇場の舞台に上がり始めたときは、世間は左程その少女に注目していなかった。
男爵家の令嬢が舞台に立つ事を、古い世代の貴族達が批判する声も出ていたと言う。
事前にその才能を知った関係者達の異様な興奮具合に、過剰な評価だと批判が集まったそうだが、それも、新人らしく何役かの端役を義務的に終えたマリアがあっという間に舞台の中央に立ち、相応しい役柄を得た彼女の歌が歌劇場に流れ始めるまでだった。
彼女の歌は特別だったが、でもそれはこの世界の人々の嗜好の多様さに比べれば、万人の好みとは一致しない筈でもあったのに、事務所には国内外からオファーが殺到し、連日多くの関係者が彼女を熱烈に追い回したのだそうだ。
“会いたいの。会いたいのよ。だから、私は歌うことにしたの”
様々なサロンや舞踏会に呼ばれると、マリアはいつも、舞台を選んだ理由をそう語ったという。
“残して、問うべき物語があるの。だから今度の舞台の歌詞は私が書かせて貰って、私は、その歌で為の私なりの告白をすることにしたの”
そう笑ったマリアの美しさに、周囲は新進気鋭の音楽家が彼女の為に書き下ろした歌劇に出てくる恋人が、もしやどこかに実在するのではと色めきたったが、該当する人物が特定された様子はない。
マリア自身も、特定のモデルがいるような言葉は残していなかった。
だからこそ、セイは確信する。
マリアは、自分の同胞だったのだと。
(会ってみたかったな。私は、自分と同じような思い残しのある人に出会ったことはないから……………)
彼女の歌を聞いた瞬間に理解した。
あの歌は、捜索の手段だ。
このとき程、リリアナに感謝したことはない。
探す場所の狭さに辟易とし、世界各国を転々としたここ数年の生活に、セイはいささか嫌気がさしていたところだった。
大雑把な性格のセイが暮らすには、やはり馴染んだ気楽さのある祖国が一番なようだ。
家族もなく、面倒な家柄のしがらみもないのだから、生活全般の面倒を押し付けられる同居人でもいれば異国に住むのも吝かではないが、今のところは一緒に住みたいような相手には巡り会っていない。
となると、気の合わない相手と長い時間一緒に過ごすのは元々苦手なので、結局一人でいるしかないのだった。
「………………マリア」
窓辺に腰掛けると、紫煙を吐き出しながらその名前を呟く。
これは獣避けの魔法を特殊な紙で包んで作られた煙草で、災避けの魔法にもなるからと知り合いから教えられてからは、ずっと吸っている。
魔法使いでもない女性が煙草を吸うのは珍しいと言わていたが、幸いにもセイは、煙草を吸っていても違和感のない容姿をしていた。
足元に置いたグラスには、きつい香りの蒸留酒が入っている。
先日知り合った神域を治める老人には、若い女性の趣味ではないと笑われたばかりだ。
だが、それが好きだったし、酒も煙草も、ほんとうは欠片も美味しいとすら思えないという最大の秘密を除けば、最初からすっと手に馴染んだ。
“セイ、あなたその趣味をどうにかしないと、本当に同性に襲われるわよ?”
あなたの美しさは眼福だとうっとり呟いた人物とは思えない厳しさで、リリアナには忠告されていたが、改善するつもりなどさらさらない。
セイは、これ以上の他の人間になどなりたくなかった。
彼女のことを知る人間は、大抵「セイ」と呼ぶ。
本名はセイラムで、それはもう女らしからぬ名前だったが、その名を与えてくれた両親には感謝していた。
厄介な履歴を抱える自分には、何ともお似合いな名前ではないか。
身長は女性にしては高い方だが、すらりとした細身の身体には、女性らしい曲線も備わっている。
身長が伸び出した頃から、よくバレエなどの舞踏の類いをやっているのかと聞かれたものだ。
髪は切りに行くわずらわしさに負けて、長く伸ばしたまま一本に結んでいることが多い。
そして、髪を短くしてもいない彼女を、美しい女ではなく美しい男だと勘違いする者は非常に多かった。
酷薄な淡さの菫色の瞳に、どこか嘲笑の似合いそうな口元。
白い肌に、黒曜石を紡いだような透明感を感じるくらいの、硬質な漆黒の髪。
他国の血が混ざるセイの造作が、灰髪や黒髪に琥珀色の瞳の造作の多いダルフェニウムの国の民族的な特徴とは違うのは仕方のないことだったが、どちらかといえば男らしい美貌を持つ父親に似過ぎたのがいけなかったのかもしれない。
だがそれを、惜しいと思ったことはなかった。
甘やかな少女めいた容貌を経た数年前まで、自分の中身と容姿の差異に苦労したものだ。
セイは、生まれながらに女らしい女ではなかったし、偏った趣味の人間からは、いかに男装の麗人が似合うのかを説かれさえする。
いっそもう騎士団に入れと勧められた事もあったが、残念ながら騎士団は貴族の血統の男児でなければ入れないのだ。
(それはさすがに、男装までをやりたい訳ではないのだけれと、)
よく誤解されるが、女性が憧れる類の男らしい美貌を持ち合わせているのは理解しているが、だからといって性的な嗜好や恋愛対象を女性に向けたことは一度もない。
女性らしい美しさを美しいと思うし、用途に応じてスカートもドレスも着用する。
着痩せする体型だが、胸だってそれなりにある方だ。
だが、社交界では話題性もあり、赤裸々な内心を吐露などしなかったセイを、ひどく風変わりな女だと評価する者達は多かった。
彼女はかつて、幼き天才ピアニストだった。年齢を考えれば華々しい経歴だったが、本人がそれに固執したことは一度もない。
彼女が望んだのは、とある人が手にしていたものを形にすることだけだったから。
そしてその模倣は所詮付け焼き刃だったので、セイは行き詰まると何度も手段を選び直す羽目になり、彼女の人生を示すやり方は、音楽やその他の様々な手段へと変化していった。
(最初から希望のない私には、マリアのように、正しい手段には巡り合えないのだろうか…………)
短くなった煙草を揉み消し、琥珀色の液体が入ったグラスを持ち上げる。
からりと鳴った氷の音を楽しみ、セイは香りだけは気に入っているこの土地の強い酒をちびちびと飲んだ。
現在は、ほぼ働いていない。
災厄の前の旧時代であれば少女といってもいい世代の彼女の才能を惜しむ者達は多かったが、音楽の仕事はきっぱりやめてしまい、手元に残されたそれなりの収入を少しずつ削りながら気儘に暮らしている。
きっと、手持ちが寂しくなればまた何か仕事をするだろうし、胸の内の悲鳴がこぼれ落ちるように、何も作り出さないことに限界がきたら何か作るかもしれない。
或いは、その日暮らしの生活や仕事に馴染み、それに満足してしまうかもしれない。
「マリア、あなたは見つけられた?」
答える声がないのを承知で、夜闇の向こう側にそう問いかけてみる。
あるべき手段に巡り会えた彼女ならば、その願いさえも叶ったのだろうか。
それとも彼女は、自分自身を出し切ることだけで満足してしまったのだろうか。
(いや、まさか)
あの歌劇の題名を見れば分かる。
彼女は、ずっと誰かに会いたがっていた。
だから、彼女の願いはきっと再会だったのだろう。
そう確信して、セイは自分自身の欲求に向かい合う。
果たして自分は、どうすれば満足するのだろうかと。
(………………難しいな)
それは、彼女が生まれたときから抱える難問だった。
生まれた家しか知らなかったその頃から、目を閉じれば溢れた鮮やかな色彩。
それは世界中のあらゆる美しい場所で、セイは、自分がかつては高貴な身分であり、多くの国を旅したことを知る。
(私は、どんなに声を張り上げても会いたい人には会えない。だってそれは、……………私自身なのだから)
彼は、美しい男だった。
それは獰猛だが美しい虎や、人を唆す悪魔のようなものを美しいと感じられるかどうかで違いはあっただろうが、それでも一般的に、ひどく美しい男であったことを知っている。
生まれた国はよく知らない。
何がしかの古い血を受け継いだ王宮のように壮麗な屋敷は記憶にあるものの、そこを愛しいと思えたことは一度もない。
大抵の同性を昂然と見下ろせる身長。
白い肌に、漆黒の髪と鮮やかな深い夜青の瞳。
潤沢な知識と明晰な頭脳を持ち、何事も成功させずにはいられなかった不遜な男。
彼の辛辣な気質はいつも、穏やかな対人用の微笑みに隠されていることが多かったが、友人達は、彼が非常に厄介な男であることを承知していた。
その上で彼を、魅力的な男だと思ったのだろう。
彼の思考、低く甘い声。
好みの味や香り、音楽に絵画、住む家に至るまでを完璧に把握している。
満足して笑うときの癖や、苛立ったときに目を細める仕草。
そう、……………何もかも。
その男は、セイの前歴だった。
魔法の叡智に溢れるこの世界でも、それは決して一般的な事象ではない。
けれど、稚拙で月並みな表現で表すしかないのなら、きっとそういうことなのだろう。
彼のように完璧な男には出会ったことがなく、彼ほど魅力的な男をセイは他に知らない。
だから、もし彼こそが運命に指名された恋人だったなら、セイの人生はわかりやすく完璧なものだったのに。
けれどもあの男は、自分自身なのだ。
その魂はセイのものとして使い直されており、あの奇跡のように完璧な男はもうどこにもいない。
おまけに、どうやら転生した個体というものは、過去の自分とはまるで違う意識を持つらしい。
だからセイは、彼を誰よりもよく知る彼の後継者であり、同時に彼とはまるで違う人間でもあった。
目を閉じれば容易く、世界は色を変える。
荘厳な寺院の立ち並ぶ学徒の国に、美しい森に囲まれた湖の国。
砂漠の真ん中にそびえる水晶の城塞都市と、満開の薔薇に囲まれた小さな調香師達の町。
そして、その他の美しい永遠の都達も。
彼の記憶は、いつも美しかった。
淡い金色の靄に包まれた夜明けに、鮮やかな木漏れ日の下。
薄紫色に色づいた夕暮れと、青く滲んだ夜の光の美しさ。
彼の見ている世界は美しく、鮮やかで、豊潤に咲き誇っていた。
なぜならばそこには、彼の世界を煌かせるのに充分な最愛の伴侶がいたから。
セイの中に残っている彼の記憶の殆どが、彼女と過ごす日々のものだった。
きっとこの記憶は、そのあまりに深い愛情や感情が、魂そのものに刻み付けられてしまったからなのだろう。
あまりにも愛しくて、決して忘れられはしないのだと。
だからこそ、彼の見ていた世界はいつも美しいのだ。
(では、私はどうすれば良いのだろう…………)
だからセイは、この癒しようもない渇きにも似た、渇望と絶望を抱え込んで生きていく羽目になってしまったのだ。
指先で辿るマリアの歌詞に、今日もまたどこにも行けない心が摩耗する。
暗い部屋に、甘やかな歌声が流れた。
私が会いたいのは、あなただけ
会いたくて、会いたくて、
目覚めるたびに、その激しさに胸が潰れそうになる
だけど、あなたはもうどこにもいないし、私はその事実を理解している
それでもあなたへの愛は、
殺しきれず、息が止まりそうなくらいに美しいのだ
あなたを愛している
それだけで私は、永遠に報われないままでもあるし、
この世界のどんな場所にも、あなたの愛した美しいものを見つけることが出来るのだ
どうか、私を呼んで
ただ一度、もう一度だけでいいから