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最後の頁




新円の飾り窓から、夜の海を見ていた。


枠には精緻なステンドグラスを配置して、大きな絵のように見せる意匠が美しい。

見事なシャンデリアがあるのにヴィネアは明かりをつけようとはせず、セイも、ホールから聞こえてくるオーケストラの音楽を聴きに行きたいとは言わない。



「ここから先は、お伽話の領分だ。願い事には気を付けろよ。お前が気まぐれにでも望むなら、俺はお前を殺してしまうからな」


だがしかし、そろそろ空腹を訴えたいと密かに思っていたところで、ヴィネアにそんなことを言われた。



その忠告の平淡さに、やはり人間でしかないセイは、少しだけ彼の手を取った自分を責めたい気持ちになる。


線の反対側に入ったせいか、ヴィネアは剥き出しのままの残酷さを隠しもしなくなった。


船に乗るときもセイを子供のように抱え上げたまま昂然と行列を無視したし、入り口の乗務員はヴィネアの装束を見て凍りついたまま、慇懃な口を利く死体のようになった。



(もう少し、ヴィネアの感情の機微や、こちら側のルールがわかるようになるまでは我慢しよう……………)



抱き上げられるのは好きだけど、あまりにもそのままだと、愛玩動物みたいで心の淵が冷えそうになる。


船に乗るまでは上機嫌だったヴィネアの瞳が、いつの間にか、かけらも笑っていないと気付いたのは離岸して少し経った頃だった。


徐々に鋭利なまでの怠惰を滲ませてゆき、暗い船室の中でセイを膝に乗せたまま、とうとう椅子の上から立ち上がろうともしなくなった。



「こちら側にも、同じような月があるんだね」

「重なり合った層の、違う階層でしかない。色形は、同じ世界だからな」



星の密度は桁違いで、月も海にかかる程に大きい。

夜空は青く魅入られる程に深く、庭にテーブルを出して二人で食事をした、凡庸な向こう側の美しい夜を思った。



(あなた達は、こんなにも美しい世界に生きていて、何がそんなに寂しいの?)



その問いかけは馬鹿げた妄想だけれど、どこかで真理の一端に思えて仕方がなくなる。


彼らの心の鋭さは、欠け割れたその断面の鋭利さだ。



(だって、竜は向こう側であんなに穏やかで幸福だった)



写本が彼らを満たすなら、どうして今夜のヴィネアは、こんなにも空っぽなのだろう。



(私、きちんと選んだでしょう?物語の選択はきちんと成されて、もうそろそろ幸せになってもいい場面じゃないの?ここでまた場面がひっくり返ったら、一体どうすればいいの?)



こんなにもその腕の中にいるはずなのに、なんて厄介で、なんて特別な生き物だろう。


半ば諦めに近い気持ちでそう考えていたとき、くるりと夜の色彩が変わった。

濃紺の色鮮やかな月夜から、紫紺の星月夜へと、もう一段階深い色相に落ち込む。



「…………日付変更線?」

「似たものだな、ここから先は完全にこちら側だ。終着駅の港から今まで通り過ぎてきた場所までは、二か国を繋ぐ汽水域だと思えばいい」

「でも、あの駅からもうこちら側だったのでしょう?戻れないって………」

「戻れないさ。だが、ここからまた、密度がまるで変わる」


指先で顎を持ち上げられて、視線を合される。



(………あれ?いつものヴィネアだ)



先程までの沈み込みそうな暗さは、いつの間にか霧散していた。



「…………ヴィネア?」



今後は手を片方ずつ持ち上げられ、手の甲で頬を撫でられる。

検分されているのはわかったが、その執拗さの理由がわからない。


疑問符だらけだったが、彼の妙な切実さに大人しくしていると、ややあってヴィネアは深く深く息を吐いた。



「……………生き延びられそうだな」

「どういうこと?!」



さすがに無視しきれない一言に、セイは柳眉を逆立てる。

圧倒的に説明が足りない。


「港で、周囲からの憐憫の眼差しに気付かなかったのか?特殊加工をしての写本の持ち込みはあるが、人の姿のままの持ち込みは例がない。幾らあちら側の入れ物は脱ぎ落としてきたとは言え、本に落とし込んでおかないと、境界線を渡る際に死んでしまうからな」


あまりの内容に愕然としたセイを、誰も責められないだろう。



「この、圧倒的な説明不足感をどうにかしていただきたい…………」


セイなりに怒りを溜めた低い声で唸ったが、なぜだか不思議そうにされたので弱った。


「お前は、自分ではないものにはなりたくないのだろう?こちら仕様に装丁すれば、気質や体質も変わるぞ。感覚そのものも、同じではいられないだろう」


その声のどこかに、単純に優しかった頃の彼の過保護さが垣間見えて、セイは不快感を慎重に静め直す。


どうやらもう、何事も、今までの感覚で読み分けてはいけないのだ。



(そうだ。少しずつでもいいから、そういうことを学ばなければいけない)



ここにいるのは、自分達とは違う生き物なのだと知らなければならないのだ。



「だから何も手をかけないで、あえて危険を犯したの?」

「向こう側で生まれたお前が、こちら側で生きるとなれば、致命的な弊害が出る可能性も理解していたさ。お前が、境界線を越えた途端に動かなくなる可能性だってあった。けれど、それでも良かった。お前は、それでもいいからこちら側に来たかったのだろう?」



ここではないどこかへ。


そこはとても美しく見慣れない世界で、胸に染みるお伽話への憧れのようだった。



(それだけの為に?)



だから、ヴィネアの言葉の、あまりの迷いのなさに愕然としてしまう。



「そんな子供染みた私の願いを、あなたは叶えてくれようとしたの?」

「お前の願い事を、叶えてやると約束したからな」

「私は死んでも満足かもしれない。でもあなたは?あなたの手元には何も残らない。身も蓋もない言い方だけど、苦労の対価には見合わない。それでもいい暇潰しだったって思える?」

「そうだな、俺はお前を喪う。でもそういうものだ。写本は管理者の心を慮る必要はない。俺がその後どうなろうと、お前が満足すればそれでいい」



ああ、彼は優しいのか。

けれど、とても勝手だ。


優しい言葉で近付いてくる悪意のようで、勝手に殺し、勝手に殉じてゆく。



この会話を持ち、違う国の不可解な生き物だといっそうに感じた。



(しかもこの人は、その感覚の相違すら理解した上で強行するんだ。私が意味もわからないと知った上で忠告だけはしておいて、私の願い事すら決めつけてしまう)



気を付けろと言ったその日の内に、まさかのこの仕打ちなのか。



(汲み上げることに慣れていなくて、もうその労力を割くのもうんざりだってことね)


ここは彼の領域だから、合わせることもしようとしない。


一度きちんと説明しないと今後も事故りそうだと考えて、セイはどっと疲労感を覚える。



「……………あのね、ヴィネア。あの列車にもう一度乗ってわかった。私がこちら側に焦がれたのは、あの日、あなたが私の手を離してしまったからだよ」


小さな子供の前に現れた見たこともないくらいに綺麗なひとが、見たこともない美しい場所へ連れて行ってくれる。


記憶の裏側で見ていたあの人の物語のような特別なことが、突然手の中に落ちてきたのだ。



「でもあなたは、連れていってはくれなかった。手を離された私は、がっかりして悲しくて、でもその先を望むのはいけないことだとわかってしまった」

「あの時、お前を引き止めたのは鳥だった。最終停車駅で、家族を悲しませるなと言われて、お前は泣いたんだ」



そうか。

あの背徳感と失望は、そういうことだったのか。



ぼんやりと、正しいことをしなければいけないという激しい苦痛を思い出す。


その為に、欲しくて欲しくて堪らなかったその手を離されても、幼いセイには、止められなかった。



「帰らなきゃいけないとわかったから、私は泣いたんだ。自分ですら気付けずにいたけれど、あの時からずっと、私の欲しい断崖絶壁の花はヴィネアだったんだ。あの人は、………竜はただ、美しい物語で私を慰めてくれた優しい過去で、私は愚かにも、悲しい事に背を向ける為にそこに沈み込んでいただけだったんだよ」



セイの言葉に、ヴィネアは少し驚いたようだった。


一拍の間を置いて、そうかと薄く笑う。

それからもう一度、そうかと呟いた。



境界線を越えたことで凪いでいた瞳に、熱っぽい残忍さを認めて、セイも心をざわつかせる。



「馬鹿だなお前は。まだ手に入れることに慣れていない今の内なら、お前の願いを聞いてやれたのに。俺はいつか、その言葉を免罪符にしてお前に鎖をかけるぞ」

「今更そんな遠慮をするくらいなら、綺麗なものに目がなくて、影響を受けやすい、あんな小さな私を誑かさなければ良かったんだ」

「竜の物語で意識の肥えた子供の気を惹くのに随分苦労した」

「竜の写本の物語。それが私の題名なんでしょう?」

「ああ…………?」



麗しい竜と、その花嫁の物語。

笑いながら歩いた、リリアナとの帰り道。

鍵盤の手に触れた恩師の大きな手。


マリアの歌と、罪深くて優しい狼。

色とりどりの章節があるけれど、セイの本の題名はただそれだけだから。



「だから、その思い出はきっとずっと私の中にある美しい景色なのだと思う。でもあなたは、だからこそ私を見付けてくれて、私を見てくれているのでしょう?」



だからもう、いいのだ。

この名を呼び、その手を離さないでくれれば。



「私は、あなたの写本なのだから、もう二度と投げ出してみたり、置いて行ったりはしないで。今度、理由も説明しないで手を離したら、私は怒り狂うからね」



(………………ん?……あれ?)



生まれて初めて心からの告白をした筈なのに、ヴィネアはなぜか、眉を顰めてとても嫌そうな顔をすると、いやに深い溜息を吐いた。


片手で顔を覆い、満開の流星雨の下で頭を抱えてしまった管理者に、セイはぎりぎりと眉間に皺を寄せる。



「………………お前はほんとうにタチが悪い」

「…………これだけのことがあってその返答だけで済ませる気なら、いい加減に私は怒ってもいいと思う」



けれども、セイが低い声でそう言うと、彼は声を上げて幸せそうに笑った。







雪原を切り裂くように、列車が走ってゆく。



ここは彼のお気に入りの席だった。

かつて幼い彼女が座ったその席の窓の外は、どこまでも清らかな白の配列。

彼女の生まれた季節を留めている。



彼女は、クリスマスの朝に生まれた。



彼が災厄として滅ぼし、ばらばらにしてしまったお伽話の日付で生まれた。



“向こう側には鋭い塔が連立した、鳥が管理する下賎な国があるらしい”



あの男が、笑いながら話した未開の小さな国。



「お前も行ってみないか?」

「まさか本気で言っているのか?俺が足を下ろすだけでひび割れてしまう、脆弱なばしょだ。薄氷を踏むような注意を払ってまで、鳥の国など見たくない」

「お伽話の国だぞ?この国を模倣して育てた箱庭だ。気に入った物語があれば、取り上げて自分のものにすることも出来る。俺はな、いつか自分の写本が欲しいんだ」


自由な男だった。

気安く、美しいものに目がなく、老人のような叡智と、子供のような残酷さを持つくせに、からりと笑って不思議な程に誰からも好かれた。



「実はな、あの魔法使いが残した望遠鏡で見ていたら、心を奪われる者が出来たんだ。お前も一度は見て見ろよ。目まぐるしく雑多で美しい。いい退屈凌ぎになるぞ?」



思えばその時、竜はもう、あちら側に逃げ出す算段を立てていたのだろうか。



「やれやれ、お前まで宣伝に一役買っているのか。昨今の商人達のしたたかさといったらない。本を斡旋し、渡航費で荒稼ぎをしているせいで、本の虫の鹿達には随分な被害が出ているらしい」

「その呼び名が定着したな」



そう言えば、あの仮面舞踏会の夜に、最初に仮面をかぶったのは、この男だった。



「あの夜、お前が節操なく口説いて回った者達は皆、自分こそがお前と同じ猫だといって憚らない」

「はは。どれもこれも猫ならば、お前も猫でいいじゃないか。王座なんて重いばかりだろ」




あれから、どれだけ経ったのだろう。



向こう側で斃れた竜が本になるようだと彼に知らせたのは、傲岸不遜な商人の一人だった。


幸い暇を持て余していたし、あの男が誰かの所有物になるのが忍びなく足を向けたそこで見つけたのは、竜でもあの男でもない子供だった。



(適当なところで魂を解いて捨ててしまおうとしたが、煩く名前を呼んでくる)



初めて声をかけたときは、大きな菫色の瞳を見開いて震えていた。


少し考えてから、僅かばかり竜を真似たのはただの懐柔手段だったが、どこに行こうとしても付いて回る豹変ぶり。


その煩わしさに早々に回収しようとしたら、今度は鳥の囀りに惑わされて声を上げて泣くのだ。


だが、その声にふと、こんな小さな子供の体では、越境出来ずに壊れるだろうなとぼんやり思った。



それは嫌だった。



そのことに気付いたとき、なぜ自分が、早々に彼女を壊してしまわないのかも理解したような気がする。




気が付けば、雪原は夜になっていた。


一日に何十の往復、積み重ねたのは何万か、何億か。



災厄の揺らぎが収まってきてからは、彼女の住む向こう側を安定させる為に、彼は殆どの時間をこの列車に揺られて過ごしている。


戻るのは他のコレクターを払う時と、彼女が自分を呼ぶときだけ。



でも、もう少し待てばこの写本も章節が変わる。




この路線でも繋ぎっ放しの端末が震え、向こう側に残る淡い魔法が、彼女の名前を表示した。




ああ、やっとお呼びがかかった。










この物語は、随分と古い作品を修正加筆して上げさせていただいたものです。


セイは、凛々しくて弱く、迷いやすくて真っ直ぐな、これまでに書いてきた主人公とはまるで違うタイプの少女です。

向こう側とこちら側で言うのなら、完全に向こう側の気質を全く持たない人間でした。


そんなセイがヴィネアを選ぶ事がヴィネアにとっては最上の意味を持ち、その為に彼が沢山頑張った日々の最後の選択だけを切り取った物語なのかもしれません。


拙い物語でしたが、ここまでお付き合いいただき、有り難うございました!

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― 新着の感想 ―
めっちゃめちゃ良かったです…! 物語の世界観と雰囲気が好きです。この世界の物語が終わってしまうのが寂しい…。まだ終わらないで、もっと浸らせてと思いつつ先が気になって読むのを辞められませんでした。 虚実…
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