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選択を告げる十一頁



どれくらいの時間が経ったのだろう。



車窓から流れてゆく景色は、もう雪原ではなかった。


指先の温度が移った革の装丁を意識しながら、セイは、心が零れ落ちるような気がして息を詰めている。


目の前の男は優雅に寛いだまま、居眠りでもしているのだろうか。

あの圧倒的な眼差しの気配を感じない。



(………そうだ、私は確か郵便局に行こうとしていて)



色づいた歩道と、街路樹の赤い実。

吐いた息の白さに青空が霞んで見えた。



メーヘルから戻って暫くした日、あの日に列車の中でお世話になった人達に書いておいた手紙を出し忘れていたことに気付いて、外に出たのだ。


郵便局まで歩いた僅かな記憶は、澄んだ青空の色に塗り潰されている。



(この本の主人公の傍には、ずっと写本の管理者がいる筈………なのに)




目に映るのは、小さな子供の目線の一場面だ。


公園の大きな木の下で、セイは無邪気に遊ぶ子供たちを茫然と見ている。


なぜ、彼等と自分の欲求は違うのだろう、どうして彼らのように幸せでいるべき時代にすら無垢でいられないのだろうと、幼い心で必死に理解しようとしながら。


そうして、途方に暮れている彼女を抱き上げた、誰かがいた。


また違う切れ端の中では、真夜中に眠れずにいたセイに、星の名前を教えてくれた誰かの声が聞こえる。


思い出そうとしても輪郭の掴めない夢の欠片のように、ぼやけた記憶の残骸達。



(じゃあこれは、ただの夢じゃないのかな。でも、だとしたらここは一体何なのだろう…………)



この列車はそもそも何なのだろう。

どこの路線でどこへ向かい、いつの間に乗ったのだろうか。


そう思い至った途端、ぞっとして身震いする。




(ついさっきまで、あの歩道を歩いていた筈だったのに、)



郵便局に行こうとして。 



大きな交差点で、耳障りな破壊音が聞こえる。


人々の悲鳴と、固いアスファルトの地面を横滑りする重たい金属の音。


振り返ろうとして立ち止ったのは、手の中にあった端末に無視しきれない人からの魔法式が表示されたのを見てしまったから。


それが、彼女の足を止めた。



その瞬間に大きな塊に飲み込まれて、最後に見たのはどこまでも青い空。




「…………私は、死んだの?」



思わず茫然と呟いたセイに、目の前の男が薄く眼を開く。



「どうだろうな、まだ中間地帯かもな。でもまぁ、この列車は片道だ。戻り道なんぞとうにないから、今更戻れるとは思わない方がいい」



淡々としたその声。




(……………………あの時、)



あの時、立ち止った瞬間に、どこか遠くで彼が嗤うのを感じた。



「あなたが、……………………」



言いかけて言葉を飲み込んだのは、知ってしまうことが怖くて目を背けたかったから。



「入れ物がある方が、俺は干渉し難い。あちら側での人間というその状態で干渉を認められているのは鳥だけだし、ただでさえお前は、前歴の誰かのせいで影響というものを受け難い精神状態だったからな。あれでも、ぎりぎりだったんだ」



けれど彼は、自らの罪をあっさりと肯定する。

あでやかに微笑んで、当然の権利みたいに。



その自然さが、彼女を恐怖させた。



「あなたは、私を殺したの?」

「そんな線引きが重要なのか?そもそも、今の自分が死んでいると本当に思うのか?」



微笑みは綺麗で、くらりとする程暗い。


それは、彼の思惑の暗さというよりは、寧ろ生き物としての存在や心の在り方が違うのだという、異質さを際立たせる感覚だった。



「おまけに、鳥に加えて狼まで集めた所為で、あの界隈は大賑わいだ。過分な注目を浴びれば、また呼びもしないコレクターに煩わされるのは目に見えている。お前の周囲は、いつも厄介な収集家に溢れていたし、管理者は永続不変の役職じゃないからな」

「それは、本の話、だよね?私が、……………あなたに殺されたようだ、という話ではなくて」

「そう。俺の、本の話だ」



鮮やかな南洋の色の眼差しに覗き込まれ、セイは返答に躊躇う。


膝の上で行儀よく重ねた指先が震えないように組み直したのは、なぜだか、弱味を見せてしまうのが怖かったからだ。



(表面だけの会話じゃないみたいだ。……………この人は、私に何を気付かせたいの?)



「無事に本も回収したところで、あるべき場所に帰ろうと思ってな。お前も、元を辿ればこちら側の生まれだ。向こう側生まれの本とは違って、場に馴染むだろう」



(…………………っ、)



そこで、ようやくセイは確信した。



(彼の話している本って、………まさか)



「あなたの言う本は、………………わたし?」


ぐるぐると迷子だった思考がぱちんと音を立てて枠に収まる。

その途端に、忘れていた事も全て思い出した。



彼等は、猫で、鹿で、狼で。

そして時には、あちら側を管理する鳥達で。


本来あちら側にいない筈の者たちは、偶然に近い采配で、写本という特定の人間の人生を管理する権利を与えられる。


そんなおとぎ話めいたものを、ずっと聞かされてきた。



(これが、私?)



手の中には、実際にその形を取るとは思っていなかった美しい本がある。


怖々と手を離せば、膝の上から取り上げられて、彼の手の中でふわりと消えた。



「あなた達にとって、人間は皆、本として映るの?」

「写本に成るのは稀だな。俺達にとって、目を惹く価値のあるものが写本として成るんだろう。お前の場合、元々の素材そのものはこちら側だ。前例のない希少な写本だよ。……………もし、それだけの理由でお前を欲するコレクターがいるのだとしたらだが」



胸がきりりと痛むのは、無機物扱いされたからだろうか。

自分も写本だったら良かったと思っていた筈なのに、事態はまだ複雑だ。



「あなたの理由は、………私の素材が、あなたの古い友人だから?」



あの特別なひと。


それだけでも、こんな残骸にも失い得ない価値があるのかもしれない。

でも、またそんな扱いだとしたら、自分はいつだって彼にとって、何かの代理のようなものだ。


そう思えばまた胸が痛んだけれど、目の前の男は心底嫌そうに顔を歪めた。



「あいつは友人だ。そんな気味の悪い執着心は持ってない。むしろ、お前の前歴があいつだったせいで、ことさらに厄介な障害だった感もあるしな。本来、写本は管理者の手に容易く馴染む筈なのに、お前の目線は自分の前歴に釘付けときた」



(………違うの?心の底から、うんざりしているように見えるけど、本当にそうなのだろうか。…………この人の表情は、読みやすいように見えるのに、いつだって本音が上手く読み取れない)



「お前の為にどれだけの手を打ち、苦労して道筋を整えたことか。記憶を精査し、執着の濁りを取り除く為に、友人の伴侶まで利用する羽目になった」


だとすれば、この胸の痛みは、少しは報われるのだろうか。


困惑したまま何かの確証を欲しがるように見上げれば、不意に伸ばされた手にはっと息を詰める。


けれども彼はただ、彼女の長い黒髪を自分のもののように一筋すくい上げてから、はらりと落としただけだった。



「そうだ。確かにこれでいい。お前がまだ、誰の真似もしていない、まっさらな頃で」


その言葉には、かじかんだ胸を殴るのに充分な熱があった。



「お前だからだ。言っただろう?俺達は、滅多に選ばないのだと」



大きな手を頭の上に乗せられ、わしわしと頭を撫でられれば、子供にするみたいな仕草なのに妙に甘い。


その温度になぜか、わぁっと声を上げて泣きたくなった。



ああそうだ、この人のことを覚えている。

ずっと、側にいた人のことを。



「俺は元々、ここまで丁寧に解説する程にまともな性格じゃないんだがな。とは言え、今は追手もいることだし、不安要因を残す程に愚かでもない。飲み込みの悪さで散々俺を苛立たせたお前には、幸運なことだ」

「えっ?!………何?ちょっと、待って」


言うなり立ち上がって、ぎょっとしたセイの背中に手を回すと軽々と体を上げる。

馴染んだ列車というものの感覚で首を竦めたが、天井は高く頭が擦れる気配もない。



「さてと、観光気分はここまでか」

「………鳥?」



屋根の下にいても、ふっと視界が陰るような圧を感じて、セイはぞっとする。


それなのに彼は、……………ヴィネアは、鋭く酷薄な笑みをいっそうに深めた。



「…………っ、」



窓の外がぎらりと光って、セイは小さな悲鳴を上げた。


もう雪景色はどこにも残っていない。

ただ、天地に映したような澄明な青空がどこまでも広がっているだけだ。


異国の塩湖の有名な景色で、たしかこんな情景があった。


でも、ここまで鮮烈な青は一度も見たことがない。



「やはりこの国境域できたか。鳥が干渉出来る最後の区画だ。高階位を出してくるぞ」



(私は、こんなに頼りなかったっけ?)



体重をかけてしまうことを恐れて、そっと彼の肩に乗せた手首は不安になるくらい細い。


しっかり抱きあげられた体はぐらつかないけれど、抱き包まれた体が脆く頼りなく思えた。


甘やかされるのも嬉しいけれど、ふと、自分はこんな状態でいいのだろうか、と不安の滴がぽそりと零れる。



(この体、…………私の年齢は、三年くらい前のものだろうか。それとも、もっと前?)



自由に旅券を発行される年齢がだいぶ引き下げられてもまだ、自分の力だけではどこにも行けなかったあの頃。


もう少し身長が伸びればいいのにと思っていて、早く自分で自分を守れるようになりたかった。



(……………怖い)


一度手にしたはずの武器を取り上げられたような怖さに竦む。



(こんな体格じゃ、抱えあげられたら逃げることも出来ない)


だってこの人は、セイを殺したものなのだ。



「セイさん!!」



ものすごい轟音を上げて、片側のドアが蹴破られた。


ぎょっとしてそちらを振り向けば、眩しすぎる青空に逆光になった精悍な男性のシルエットがあった。


窓から見るより遥かにスピードが出ていたのだろう、コートが風に千切れんばかりにはためいている。


煙色のフード付きの丈の長いコートは胸元に弾帯があり、腰から下に多めにタックを取ってふわりと広がる。

以前に偶然に遭遇した祭で見た、山間の国の民族衣装に似ていた。


纏う空気のあまりもの違いに、セイは、ああやはりここは見知った世界から外れかけている場所なのだなと痛感する。



「………ローヴァーさん……?」

「おいおい、走って追いかけてきたんじゃないだろうな」

「生憎だが、最後尾からですね。ここまで来るのに数時間程走らされたのと、このボックス席に入るドアがないのには苦心しましたが、」


想定外な闖入者に茫然としたままのセイに気付いたのか、まだ何かを言いかけたローヴァーが、小さく息を詰めてこちらを見る。



「あ、ええと、何故だかこんな姿になってしまって………」


慌てて説明すると、はっとしたように小さく首を振った。



「俺達には、姿形はあまり識別に響かないんだがな」

「……………何で私が事故ったみたいになるのかな。ええと、いくらなんでも変わり過ぎだって言いたいなら……」

「いや、無駄な厚着がほとんど変装に近かった個体から、剥き出しの色が見えたんだ。あらためて欲しくなったとか、そんなもんだろう」

「……………え、変装?」


眉を顰めたセイの視界にはなぜか、うっかり頷いてしまった律儀なローヴァーがいる。



(何が………?別に服飾センスはシンプル寄りだったとすれば、人間性的な意味で?それって演出過多で面倒な奴だったってこと?)


ぎりぎりと眉間の皺を深くしてしまうけれど、不愉快さよりも傷付いた感があった。



「褒め言葉だぞ。素でいいと言われたら、女なら喜べ」

「ちょっと!!」


断りもなく額を合わされて、睫毛の影さえ見える距離に頬が熱くなる。

子供のように表情から何でも汲み上げられてしまうから、冷静に頭が働かない。


また一つ救われて、それに重ねて流されてしまうことに不安になってゆく。



(………今は駄目だ。この全てが終わるまでは、私は私のままでいないと)



だってこれは、リリアナの死から始まる自分だけの物語で、セイには不器用な人生なりにも自分の矜持もある。


目の前にいるローヴァーだって、そんな自分が居たからこそ得た友人なのだから。


剥がれ落ちてゆく、彼ら曰く変装だという自分の装丁が失われる事にぞっとしてしまい、セイは本能的に体を引き剥がした。


一度裏切られた恐怖が蘇り、心を頑なに縮こまらせる。




「セイ?」



突然抵抗されて、ヴィネアが目を瞠る。



「どうしてここにいるの?もう、充分じゃないか」



死んでも構わないと言ったくせに、自分で殺したくせに、どうして彼は今まで通りの顔で微笑みかけるのだろう。


自分の写本だと言うならば、だからこそ心なんてどうでもいいのか。



(……………………あ、)



だから、手を離して床に下されたことに、また息が止まりそうになる。



(そうだ。………………あなたはいつだって、引き留めてはくれない)



彼は、何の執着も見せずにあっさりと体を引いた。



ああ、あの時と同じだ。




「セイさん!こちらへ!」



目も眩むような青空から吹き込む風がごうごうと鳴り、長い髪が掻き回される。


たった今までいたヴィネアの腕の中ではどれだけ守られていたのか、すぐさま痛感する羽目になった。


それでも、必死に伸ばされたローヴァーの手は目に入る。

いつもは鋭い眼差しが、懇願めいたものを湛えてこちらを見ているのも。



「戻りなさい!終着点まで行ってしまったら、もう同じ所には戻れなくなるんですよ?!向こう側へ行ったところで、あなたはもう、違う場所で生まれてしまったんです。その場所は、あなたが在ってはならない場所でしかないのだから!!」



短い時間の中で、心の中で幾つもの言葉が駆け巡る。

遠い青空に染みのような、鳥の影が見えた気がした。


ヴィネアは、手を離してセイを自分で立たせた後、何も言わない。



(どうするの?ローヴァーさんの手を取って、それから?)



彼の手を取れば、戻るのはあの元の世界だろうか。


ヴィネアもまだ中間地帯だと言っていたし、狼がついていてくれるなら戻れるの可能性もあるのかもしれない。


もし間に合わなければ、死んで鳥達の輪に戻されてゆくばかりだろう。



(私はどうしたいの?)



怖さは色を変えただけで、減りも増えもしなかった。


だから結局、あるべきものの形だけを思って、こちらを必死に見ている狼に向かってのろのろと手を伸ばす。


ローヴァーが一定以上こちらに踏み込めないのは、何か理由があるに違いないとか、そんなことを考えながら。



「…………………時間切れだ。まずは、鳥をどうにかした方がいい。ほら、」



割って入ったのは、ひどく静かなヴィネアの声だった。その声の起伏のなさに、背筋が冷える。



「最終経由地だ」




風がぴたりと止んだ。



減速の予感もなかった筈だったのに、どこまでも続く青空の中に、列車はいつのまにかひっそりと停車している。



世界は静かで温かくも寒くもなく、きぃんと響いた静謐さが異様なほど。



「     、」



駅名を誰かが口にしたのだろう。それがわかっても、その響きの意味まではわからずに、見慣れたようで読めない駅名の表記を見ていた。


青空を透かしたガラスめいた素材の看板に彫りこまれた文字は、優美で白く鮮やかだ。



「天国みたいだ」


思わずそう呟いたけれど、なんて無機質で寂しいところだろう。



「そう思っていただけるのなら、戻り道は短く感じるでしょうね」



そう返したのは、ホームに立っている見知らぬ男だった。


セイから視線を剥がして振り返ったローヴァーが、鋭い拒絶を叩き付ける。



「迎えは結構だ。彼女はまだ、繋がっている」

「無理を言わないでいただきたい。あなたがたコレクターは、思い遣ることもせずいつも奪い合いばかりだ。……………もうご苦痛でしょう。彼女はあなたがたの嗜好品などではなく、ただの人間なのですよ」



ざあっと風が車内を吹き抜ける。



「え?」



あの圧迫感は微塵もなかった。


言われた言葉のまっとうさに驚いて、セイは間が抜けた声を上げてしまう。


貴族のような装いに不似合いな純白の大きな翼を持った男は、美しい翼らしからぬ印象の薄い顔をしていて、淡々と語りかける。



「ほら、彼女はもう、逃げることの意味すらなくしかけているじゃありませんか」


じっと見つめられると、拍子抜けして頷きそうになってしまう。



「あなたはまだ、逃げることに意味を持っておられますか?その先に行ってどうなさるんです?御苦労の上で、あの船に乗り、その先に会いたい誰かがいらっしゃいますか?」

「船………?そっか、そうだったっけ。私は、あの船に乗ろうとして」


ヴィネアが現れてからすっかり忘れていた。あの船に乗ろうとしたのだ。


でも、何の為に。



(会いたい人に会えるって、そう聞いていたから?)



「お伽話の入り口には暗い森があって、よくない怪物が潜んでいるのが常。子供のようなあなた達は、いとも簡単に、見目麗しいお伽話に飲み込まれてしまう」



なぜか、鳥が喋り始めた途端にヴィネアもローヴァーも口を噤んだ。

意外な事だが、対話を赦し、セイの判断を待っていてくれるのだろうか。


スカートの裾がぱたぱたと風に揺れて、羽ばたきと同じ音になる。



「これは、お伽話なんですか?」

「ええ。その船の話は、無垢なあなた達用のおとぎ話だ。勿論、船はあります。とは言えその先にあるのは、言葉騙しに引き摺り出され、空腹を抱えたコレクターに刈り取られ、航海の先にある異国に持ち込まれるだけの現実だ」

「…………言葉騙し?」

「あの船はただの連絡船です。本来のお伽話の筋書きは、せいぜい、この世界のものではない何者かに出会えるというくらいのものだったのですよ。しかし、数百年程前、甘い誘い文句で鼠が大勢の子供達を船に乗せようとした陰惨な事件がありました。それ以降の、お伽話が誤って伝わってしまってからは、大人達までもが騙され、この列車に乗るようになってしまった」



そっと額に手を当てた様は、妙に実感が籠っていて痛ましく、言葉のどこにも嘘の欠片も見当たらない。


鳥は、大人とは言え、我々からすれば幼子のようなものですがと微かに笑った。



「その先は理の違う場所。魅力的な異国のような簡単なものでもない。おまけに個としての価値も成り立たず、あなたはただの写本として所有される。行きたいですか?」



すいと伸ばされた手の先になぜか、真っ白な病室のイメージが浮かんだ。



「我々の管理に戻るのだとしても、あなたの尊厳は損なわれませんよ。それに、もうとても疲れたでしょう?あなたは、かの方の犯した罪の残響に巻き込まれただけの、哀れな迷子なのだから」



(……………巻き込まれただけ?)


ふと、その言葉に嫌な予感がした。



「巻き込まれた?」


茫然と呟いたセイに、鳥は憂鬱そうに頷く。


「ええ、最初から。だからあなたは我々を知らず、恐れはしなかった。それなのに、我々の目先からあなた達を掠め取る者に上手く言いくるめられ、こんなところまで連れてこられてしまったんです。思い出して御覧なさい。誰があなたを逃亡者にしましたか?そして、誰があなたをこんなところまで連れてきてしまいましたか?」

「待って下さい!………あなた達は、私を…………その、正しい形に戻そうとしたのでしょう?一度終わらせて、まっさらな状態に戻そうと……………」

「我々は庇護者なのに、法を犯していない者を、どうして道から引き落とす必要があるのでしょう?確かにあなたの素材は異端だが、漂白を経て正しい規定で生まれ落ちたものなのに?」



(…………どういうこと?)



また、あの得体の知れない不安がひたりと落ちる。



見知らぬ記憶の欠片に、いつの間にかするりと引き込まれていた奇妙な世界。

そして、あの冬の交差点でセイの足を縫い止めた魔法式の羅列。



そこ全てをゆっくりと繋ぎ合わせると、膝が震えてそのまま座り込んでしまいたくなった。



「でも、あなた達は私を追っていた」

「我々が追っていたのは、希少な写本ばかり盗み出す、密猟者達です」

「そんな、まさか。…………じゃあ、」


(………………その認識自体が、最初から間違っていたということ?)



“私は鹿で、狩りではどちらかと言えば弱者だから”



リリアナの言葉を、ずっと曲解していたのだとしたら。



(私は、鹿が鳥に狩られた話だと思っていたけど、鹿自身が、狩る側だった?)



ずっと昔、赤毛の帽子職人の姿をした鹿が、鳥の管理する世界に住む水の都の歌姫という写本を、こちら側から盗み取ろうとした。

そういう話だとしたら。



「でも、…………マリアは、………彼女はリリアナを」

「コレクター達は、老獪な誘惑者でもあります。人間は、それが破滅への手引きになると知っても、美しいものや力を持つものにとても弱いという幼さを持っている。だからこそ我々は、誘惑の実からあなた方を守る義務を持っているのですよ。マリアを裁いたのも、彼女が誘惑に負けて、離反を扇動しようとしたからに他なりません」



奇跡の歌姫にとって、鹿だという帽子職人は抗い難い誘惑だったのだろうか。


確かに、向こう側の住人達は、皆一様に美しく心惹かれる。


生まれ変わって一人の少女になったリリアナでさえも、セイは、彼女なりの美しさと特別さ持っていたと知っている。



「彼等は一滴ずつ毒を注ぐように、あなた方を狂わせてしまう。厄介な害虫なのですよ。あなたを救い出そうとした同胞が、何人犠牲になったことか」

「…………犠牲?」

「心優しく、才能のある者が何名か、あなたを救い出しにいったことをご存知ない?」

「もしかして、…………あの庭の、……寝室にあった羽ってまさか」



思い当たる痕跡は確かにあった。



「ああやはり。お前達の階位では、猫の領地には入るなとあれほど忠告したのに」

「その人たちは、死んでしまったの?」

「猫は悪食です」



柔らかで均一な声であったが、選ばれた言葉には侮蔑が混じる。


そこでようやくセイは、流石に背後の静けさがおかしいことに気付いた。


慌てて振り返った先では、見えない壁のようなものを叩いて何かを訴えているローヴァーと、その向こう側で何も言わずこちらを見ているヴィネアがいる。


ヴィネアの眼差しの強さに気押されながらも、鳥がなにかの介入を図ったのだとようやく理解した。



「二人に何をしたの?」

「可哀そうに」



初めて、鳥の囁きに微かな憐れみが混じる。



「あなた方人間は、人間としての領分でしか生きられない、脆弱な生き物なのに」


遮られて視線を戻したセイに、鳥は何の感情も伺えない黒い瞳で何かを問いかけてくる。



「惑わされ、生きることも出来ない場所への憧れを植え付けられ、どれだけの人間が、道筋から零れ堕ちて壊れていったか御存じですか?」



静かな声に潜んだのは、憤りだろうか。

それとも義務感だろうか。



(そうだ。確かに私は、鳥側の言葉を一度も聞くことなくここまで来てしまった)



ローヴァーは何度も、自分たちの常識とセイの常識は違うのだと言ってくれた。


その意味を一度も冷静に噛み砕けないまま、ヴィネアの裏切りを受け、今度は鳥と対面している。



(このひとは、私の為に自分の仲間が犠牲になったのに、私に憤りもしない)



それはまるで、知識に馴染んで深い、聖書にある天使のように。



「とても疲れたでしょう?」



その一言は、ずしりと堪えた。


薄く繋がったものを断ち切れば、セイという写本の物語は終わる。

でも、こんなところまで迷い込んだけれど、漂白されるのとぐっすり眠るのとでは同じようなこと。



(けれど、彼等には、騙しているという自覚すらなかったんだろう)



握りしめた手のひらから、力が抜け落ちた。



(これはただの、収集家と、本の所有を巡るだけの物語なんだ)



悲しくて惨めで、高揚感も期待もあっさり消えてしまった。 



「………確かに、もう疲れた」



ぽつりと、装いようのない本音が零れれば、ぎょっとしたのはローヴァーで。

その様子を感じてしまったセイは、もうそちらを向けなくなる。


前提から勘違いしていたのだと知らされて、理想とか、理屈をつけるのにも疲れてしまった。


ただ、ただ、ぐったりと疲れた。



(私はただの迷子で、あの船に乗ってもどこにも行けない。それならもう、ぐっすり眠りたい)



彼等と自分は違う生き物で、心の在り様も違ったのだ。


そしてそれは、最後まで鹿としての立場で助言をくれたリリアナも同じだった。


引かれた線のこちら側には、セイしかいない。



「では、…………な!」



無個性に整った鳥の表情が、不意に驚愕に歪んだ。


勝利を誇るでもなく淡々とセイの手を掴もうとしていた彼は、ひとつ大きく羽ばたくと素早く後退する。



(なに?)



鳥に何があったのか。


怖くて振り向けなかった背後を、セイは、そうっと振り返る。



「おいで、」



低く甘く、よく通る声。

その音に撫でられて、視線をそろりと上げてゆく。


視線の先にいたのは、眩い程に暗い微笑を浮かべた人だった。



「………………ヴィネア」



茫然とその名を呼べば、彼は艶然と微笑んだ。


「やっと、俺の名前を思い出したか」


鳥が展開していた障壁のようなものを感じさせない動きで前に出ると、先程の鳥の姿の影絵のように、片手をこちらに差し出す。



「一緒に行くんだろう?…………行くぞ。お前がもう一度この手を取るのを、俺はずっと待っていた」

「………………!!」



胸が潰れそうになって、セイはひりついた吐息を吸い込んで喘いだ。




(…………ずっと)



ずっと欲しかった言葉を知っているなんて、やはりこの男はとても狡い。



「お前が納得して、あの代役の舞台を降りるまで待っていた」

「…………代役の?」

「あれは、お前が演じ切った、お前ではない者の為の追悼の舞台だ。演じることを選んだのはお前だから、俺はずっと待ち続けていた。もういいだろう?これから先は自分の欲しいものを選べ。いくらでもどこへだって行ける」



一緒に?



「おいで」



セイの心の中の切なる問いかけが聞こえたのか、ヴィネアは再びそう繰り返す。


甘い、甘い囁きで。



「アレックスとユージィニアの舞台の幕は下りた。お前はもう、舞台から降りていいんだ」



(それが、あの人の名前?)



とうとう知ることの出来たその名前は、拍子抜けするくらいに耳に馴染んだ。


けれど、大事に反芻する気にもなれずに、情報過多の脳はただの事実として処理してゆく。



(私が舞台に立っていたのは、華やかな舞台を見ていれば、惨めな現実を見ないで済むからだ。心が割れないように、竜の物語を間借りしていただけ)



あの日ほどけた手が、また差し出されている。



「セイ。お前はすぐに迷い込むからな。最後にせめてと、鳥の話も聞かせてやった。だからもういいだろう。俺と、あちら側に行くだろう?」



ヴィネアがそう言って微笑んだ瞬間、がくんと視界が揺れた。


走り出そうとして床に爪先をひっかけたのだと気付く間もなく、セイは倒れるようにしてヴィネアの腕の中に駆け寄る。


上手く走れなくてその胸に倒れ込んだセイを、彼はしっかりと抱き締めてくれた。



(………………ああ、初めてだ)



それは、眩暈がするような感覚だった。


みんなが持っていて、羨ましくて、羨ましくて溜まらなかったものを初めて、今こうして自分の腕の中に納めている。


身長差があるので彼の胸に強く顔を押し付けた鼻が潰れそうで、不整脈かと思うくらい息苦しいけれど、目が眩みそうな程幸せだ。



微かな苦みが混じる夜明けの森の香りに、思わず口元が綻ぶ。

とてもありふれたことだけど、あまりの切実さに泣きそうだった。



(やっと捕まえた)



ああ、ずっとこれが欲しかった。

間違えていてもいいのだ。

それでもずっと、これが欲しかった。



(やっと、)



切実さを宥めるように頬に掌を添えられて、その温度に身震いする。



「……………愚かなことを。あなたは、もう少し冷静かと思っていたが」



セイの密かな喜びに割り込んだのは、鳥の声だった。


自分を抱きしめる腕の隙間から覗けば、意外なことに鳥の眼差しにあるのは怒りではなく、何か不可解な畏れにも似たものだった。



「ごめんなさい。私は無知で、何もわかっていなかった」

「そうです、愛しい子。私たちは裁きもするが、守るのが本来の役割なのだから」

「それなのに私は、あなた達が悪役で、追手で、生き延びる為にはその手から逃げなければいけないのだと信じていました。あなた達が天使のようなもので、人間の庇護者だったのだと、教えられて知っていた筈なのに………」

「ええ。そう教えられ育ったあなたを、私達はいつも案じていました」



(狩りにきたわけじゃない、こんな所まで迎えにきてくれたのに)



逸脱の裏切りに、後ろめたさでいっぱいになる。



「でもごめんなさい、私はヴィネアがいい」



きっぱりと言えば、頭上でしたりと微笑む気配があった。



(傷付けられた。狡い人だ。この人の優しさや美しさに、私はまた振り回されるだろう)



それでも。



「私が欲しいのは、いつだって断崖絶壁の花みたいなものなんだ」


セイがそう言い切ると、鳥は無念そうに目を閉じる。



「そうですか」

「十八年前にあの大災厄を引き起こしたのは、あなたか」



茫然とそう続けたのはローヴァーで、セイはそこで初めてヴィネアの顔を見上げる。


けれども彼は薄く微笑むばかりで、罪悪感めいたものは微塵も示さない。



(十八年前の災厄?…………それって、)



「まさかこの道に、災厄からの戻り道の猫より厄介なものがいるとは」



そう呟いたローヴァーの言葉は平淡で脅威を覚えるのには難しかったが、言われた内容を理解して首を捻る。



「猫より厄介なもの?…………猫ではなくて?」


それが多くのものを括る言葉ならば、彼が何者なのか知るには今がチャンスだ。



(十八年前の災厄、あれがヴィネアの仕業なら、この人はどんなものだというんだろう)



「いいえ。彼は、………恐らく、人型です。厳密には猫でもない、………王に並び、名無しと呼ばれるものだ」



そう教えてくれたのは、ローヴァーだった。

複雑そうにこちらを見て、セイを拘束する腕を緩めもしないヴィネアの表情に何を見たのか、何とも言えない顔を一瞬だけ見せた。



「人型?…………猫ではなくて?」

「配達人でもなく、虎でもなく、竜でもない。大きな力を持ち子供のように遊ぶ、最も稀有で長命高位の存在。そして殊更に悪しきもの。我々の管轄する側には、決して立ち入ってはならないと約定を結んだにも拘らず、文明や国を滅ぼしかけてきた大いなる災いのもの」



鳥が補足し、遅れ馳せてその声がとても美しいことを知る。



「それは、鳥の見解だろう」

「いいえ、居住を同じくする私も、こればかりは同じような意見ですよ」

「狼三位が良く言う。最初に足を踏み入れたのがお前なら、同じような災厄が起きただろう」

「だからこそ、私はそんな真似はしない」

「本を持たない者にはわからんさ」



淡い風に、ヴィネアの髪が揺れる。


まっすぐな眼差しが見据えているのは向かい合った他の者達で、セイはもうその腕の中、こちら側だ。


あの木の下で、あのユージィニアの家で、彼と向かい会った時の切なさを思い出して、セイは、そんなしょうもないことに安堵する。



(でもあなたは、あの時の私がどれだけ孤独だったのか気付いていただろうに)



他に優先するものがあったから、彼は手を差し伸べてはくれなかった。

セイを一人で帰らせ、大切な人の元に留まることを選んだ。


常に優しくはなかった。


だからきっと、ローヴァーや鳥の言う悪しきものという響きも、少しわかるような気がする。


彼と行くことを選ぶなら、その危うさも一緒に飲み込まなければいけない。



「あなたが来たせいで、たくさん死んだのね?」

「せめて、違う国に下りる配慮はするべきだった。だが、あの時は少し急いでいたからな」

「何かあったの?」

「お前が生まれた朝、そこには数多の蒐集家が押し寄せた。貂が最初でもなければ、最後でもない」

「でもあなたは、最初は私を憎んでいたのでしょう?」


率直な問いかけに、ヴィネアは笑った。



「いや、最初から目は惹かれた。それが不愉快だった。だから俺が、真っ先にお前を掴んだのはそういう理由だ。そうだな、多分そうだと思い込んでいただけかも知れないが」

「その欲求に晒され、どれだけの人間が命を落としただろう」



酷薄な眼差しを鳥に戻して、ヴィネアは更に笑みを深める。



「俺が降りなくても、俺と同じものが降りただろう。或いは、似たような騒ぎを引き起こすだけの有象無象が。あれは、竜の魂を惜しんで、こいつを人間として生み直してしまった鳥の咎だ」

「詭弁ですね。あなたと階列を並べる者が競合にいたとしても、王座のものまでが降りてくる筈もない。であれば、あなたはただの防壁になることも出来た筈だ」

「やれやれだな。向こう側を知らないお前達らしい」

「あなたは、竜の花嫁さえ、自分の写本の為に利用していたではないか」



その次の鳥の言葉は、セイの心を大きく揺さぶった。



「…………え?」

「向こう側からだが、生まれた日からの守護は与えてある。あいつの伴侶に相応しいだけの恩寵は与え続けてきた。この、がんじがらめの目を覚ます手伝いをするくらい、返す貸しとしては安い方だろう」

「だから死んでも構わないと言葉にする非情さは、悪しき者の身勝手です」

「お前達こそが、比較の天秤に乗せておいてよく言う」


(あの時の言葉は、…………彼女に向けられていたというの?)


セイを殺しかけたあの残酷な言葉が、こちらに向けられたものではなかったとしたら。


「ユージィニアはあなたを赦したが、罠にかけた者を無傷で捕える為だけに利用された懊悩は如何程でしょうか。邪な願いを叶えてやる為に、人ではないものを息子とまで詐称した」

「あれはただの、抜け道のようなものだ。自分の写本でもない者の寿命を延ばすのは、厄介だったからな。とは言え、こいつが育つまでは生きていて貰わないといけなかったからな」



淡々と無感情に戻されて、鳥は悲しげに首を振った。



「議論をするだけ、無駄なようですね」



ばさり。


背丈をゆうに超える大きさの翼を開いて、鳥は飛び立つ姿勢に入る。

純白に見えていたが、風切羽だけが淡い黄金色になっていて、高位の鳥だとヴィネアが言っていたのを思い出した。



(このひとは、聖典に名前のあるような鳥なのだろうか)



そんな鳥が、最後の一瞥をセイに向ける。


「残念なことだ。イリダルは、あなたをただの人間として生かそうとしていたのに」

「待って下さい、その名前って!」



懐かしい名前に声を上げる間もなく、鳥は振り返りもせずに飛び立ってしまった。


タイミングを図ったように、連結部分がぶつかる重たい音がして、ゆっくりと列車が動き始める。


忙しなく振り返ったセイを、ヴィネアは目を細めて抱き寄せる。



「ヴィネア!今の名前を憶えてるでしょう?!」

「忘れるわけがない。お前を連れ出したあの音楽家の名前だな」

「もしかして、先生は鳥だったの?」

「かもしれないな」


これには答えないらしい。

だからセイは、もう一つ厄介な確認ごとに怖気付きそうになる。



「…………あの時、あなたが死んでも構わないと言ったのは、ユージィニアだったの?」

「基本的に、俺たちは自分の写本意外にさして興味はない。あいつの花嫁とは言え、もう次の世代でもある彼女を手元に置いたのは、お前のふざけた執着を絶つのにいつか必要になると思ったからだ。厄介な拗れ方をしやがって、どれだけ不愉快だったことか」



(そうか、怒ったんだ)



無関心ならば、振り下ろす必要のない刃を受けたことを思い出す。



「だからあなたは、私があなたの言葉を取り違えたことに怒ったのね?」

「さあね」


言う気がないのだと悔しい気持ちになったが、それも、あたたかな腕の中では長続きしなかった。


窓から断続的に揺れ落ちる陽の輝きが、少しずつ、ダイヤモンドダストみたいな煌めきを帯びる。


先程から無言でドアの横に立ち尽くしたままのローヴァーの影が、くっきりと落ちた。

無言のままの彼を案じた視線に気付かれたのか、先に口を開いたのはヴィネアだ。



「まさか向こう側まで付いてくるつもりか?アンゼルに会いたくないのだと思っていたが」

「私の階位を知っているのなら、知らない筈もないでしょうね。確かに、調査派遣の理由はもう明かされてしまった。戻るのにこれ以上の機会はまたとない」



何も言えずに、ヴィネアの問いに身を固くしたローヴァーを見ている。

狼の事情は、どうやら有名な話だったらしい。


ここまで来てくれた彼に何かを言いたかったけれど、セイは、その手を取れないのであれば何も言うべきでないと思った。


瞠目したまま深く息を吐く彼は、今まで以上に狼じみて見える。

そして、深い逡巡の後、彼は諦めたように笑った。



「私は、この列車から降り、向こう側に戻ることは出来ません。セイさん、この選択を後悔しませんか?」



(ああ、…………これが、この人とのお別れになるんだ)



彼がひとつの選択をしたことを知り、寂しさに胸が苦しくなる。



「わかりません。でも、私ももう戻ることは出来ません。自分の望みを殺して、自分まで殺してしまうのは嫌です。ローヴァーさん、最後までご心配をかけてごめんなさい」

「そうですか、…………残念です。あなたが残るなら或いはと思いましたが、とても残念だ」



けれども鳥とは違って、ローヴァーの笑みは穏やかだ。

厄介な選択をする年少者を見守り、仕方がないかと許してくれるような、あたたかで寂しい眼差し。



「名無しにうんざりしたら、狼を頼りなさい。私たちは一族の結びつきが強固な種です」

「戻らない腹心の名前を出されて、王が庇護を与えるとは意外だな」

「あなた方とは違い、狼は血の結びが強い。罪が成るのだとしてもそれは私と彼との問題で、私の庇護そのものには支障がない」



どこからか、遠いざわめきが聞こえる。


人影は見えても声や気配がしなかったせいか、他に誰もいないように思えていたけれど、この先は港なのだから大勢の人がいるのだろう。


今までは陽炎のようだった他の乗客達も、荷卸しをしたり、切符の確認に入り始めたようだ。


ヴィネアに抱き上げられて少し眉を顰めたが、この先は不慣れな土地ということもありそのままの状態に甘んじることにする。

正直なところ、やはり少し怖い。



「困ったときは、灰色、あるいはアスティナの名を出しなさい。きっと、…………アンゼルは、あなたを気に入る筈だ。あなた方は、とてもよく似ているから」



声に響いた感情の深さに、いつかの彼の言葉を思い出した。



「戻らないんですね。どういう形にせよ、その人を愛しているから」

「ええ、アンゼルは、私がこの命を捧げる唯一の王です。だからこそ私は、二度と戻ることは出来ない。……………お別れです。どうか、お元気で」



最後の一言で、ローヴァーの視線はヴィネアを掠める。


その視線の流れを不審に思いながらも、セイは万感の思いを込めて出来たばかりの友人に微笑む。


どれだけ寂しくても、残すのは微笑みがいいだろう。



「今まで有難うございました。ローヴァーさんも、どうかお元気で。あなたは、私の生まれた世界で出会った最後の、そしてとても大切な友人でした」

「…………そうですね、私も良い友人を得ました」



淡い微笑みに苦みが混じったが、ローヴァーはそのまま身を引いて通り道を空けた。

悠々とその横を歩いてゆくヴィネアに、ローヴァーは低く問いかける。


「…………あなたは、後悔しないのか?」

「さて、言われている意味がわからないな」

「わかっているでしょう。……だが、そうか。願いを叶えるというのは、…………そういうものなのか」



(言葉の温度が変わった。これが、向こう側のローヴァーさんなんだろうか)



第三位と言えば、かなりの高位だろう。

会話の内容はわからなくて、眼差しで何のことか問いかけたけれど、ローヴァーは小さく首を振った。


最後までどこか寂しそうな灰色狼の横顔を見て、セイは衝動的に手を伸ばしてしまう。



「…………!」

「……………おい、」


咄嗟にセイの手を掴んで引込めさせたのはヴィネアだ。


「ごめんなさい、失礼だとは思ったけど、つい」

「つい、で他の男の頭を撫でるのは、金輪際最後にしてくれ」



(もっと固いかと思ったけど、柔らかい)


ヴィネアに抱えあげられて体の位置が高くなったのをいいことに、手を伸ばしてそっと撫でた狼の髪の毛は柔らかかった。


ずっと抱えていた欲求が一つ満たされて、セイは満足気に笑う。



がたんと音を立てて、列車が止まった。



「さようなら」



この寂しくて優しい狼が、またいつか大好きな白い王様に会えればいいのに。



「…………困った人だ」



ヴィネアがタラップを降り、後ろに通り過ぎてゆく彼と、ちらりと目が合った。


耳が少し赤く困惑したままの顔。大好きだと思えた友人が一人、向こう側へと戻って行く。



列車を降りてホーム出たところで、少しだけ泣きたくなった。



「あの人のこと好きだったな。もっと早くに、友達になれていたら良かったのに…………」

「戻りたいのか?」



静かな問いかけに、ううんと首を振った。



「戻らないよ。ずっとこの先に行きたかったんだ」



(ヴィネアと二人で)


だから我儘は言わない。

どちらも手にすることが出来ないのだから、こちらで充分だ。




いつの間にか周囲の季節は夏だった。



さらりとした潮の香りに、真っ白な帆を上げた大きな帆船が目に飛び込んでくる。


白蝶貝の甲板には大勢の人が並び、木の籠に入った極彩色の鸚鵡や、籠いっぱいの香辛料のようなものが所狭しと並んでいた。


空を見上げれば、見たこともない鳥がたくさん飛んでいる。



(鳥だけど、動物の鳥?こちら側にも、こういう生き物は普通にいるんだ)



最後に一度だけ振り返ったホームにはもう、あの列車はどこにもいなかった。












 


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