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その日は、朝から霙混じりの雪が降っていたので、セイは列車に乗ってゆくことになった。



どうしても行かなければいけなかったその場所にどうしてその日に行くことにしたのかは思い出せなかったが、到着する頃には天候も回復するような気がしたのだ。



先程からずっと、いい気分で真紅のビロード張りの座席に座り、窓の外ばかり見ている。


白く細やかに輝く樹氷と雪原がしばらく続き、幾筋かの凍った渓流を超えてゆく内に、外の景色は雪深い森へと転じた。


オーロラの見える国の森のように清らかで静謐な美しさを目で追っていると、空が淡く光を落とし始める。


視線を上げれば、灰色に重たく曇っていた空は乳白色になり、空から落ちる雪も水混じりの重たいものではなく、花弁みたいな軽やかな白い結晶になっていた。


窓際に寄せた頬は冷たいが、ヒーターをたいた足元は暖かい。

結露を滲ませることもない窓を指でなぞりたくなって、そんな子供染みた衝動に少し微笑んだ。



こんなに美しい景色の中を走っているのだから、隣に誰か大切な人が居てくれれば良かったのに。



一瞬、リリアナの顔が浮かんだが、彼女にはきっとマリアがいるだろう。

そう考えると今度は、端整で生真面目なローヴァーの顔が浮かんだ。



(………こういう情景に、興味はあるだろうか?)



いささか失礼なことに、そう考えてしまう。


彼が、冷静さの下に生き生きとした情深さのようなものを隠していることは充分に理解していたけれど、このように繊細で美しい光景をもの言わずに堪能するパートナーとしては不向きなように思えるのだ。


恐らく、彼はこの足跡一つない雪深い森の中を全力で駆け抜けたいという欲求を抱きこそすれ、何もせずに滾々と見ているだけでは苦痛だろう。


けれどもきっと、彼はセイの欲求を汲んで動かずに隣に座っていてくれるような優しい人だけれど。



「………………あ、」



そんなことをつらつらと考えていたら、不意に思い出した。


そんなローヴァーは、なぜか今回ばかりはセイがこの列車に乗るのをひどく嫌がったのだ。


ホームの改札を抜けても尚、こちらへ手を伸ばしていた彼の強張った表情を思い出す。

半分眠りかけていたのかもしれないが、そんなことを忘れてしまっていたのは迂闊だった。


また会うことがあれば、自分の強情さを謝りに行かなければ。




けれど、どうして誰もわかってくれないのだろう。


この先の向こうに行く事がセイの人生には必要だったし、その欲求を殺して生きていこうとすれば、それはもうセイではなくなってしまう。



楽しみにしていた列車から降ろされた幼き日の思い出が、どれだけ彼女を惨めにしたのかを、あの優しい狼ならば理解してくれるだろうと思っていたのに。



これで最後になっても構わないから、あの場所へ行きたい。



(どうせ、部屋に閉じこもって震えていても先は長くないんだ。だったら、どうしても行きたかった場所へ行ってもいいじゃないか。狼のくせに、どうしてだか彼は心配性過ぎる)



目的の駅に着いたら、そこは晴れているといいなと思う。

晴れた日にしか、あの船は出ない。

おまけに、どうしてもあの美しい帆船に乗りたいのに、無事に出航に間に合うかどうかもわからなかった。


微かな焦燥感に身じろぎすると、片手に魔法を宿した通信用の端末を持ったままでいることに気付く。


何の装飾もない黒一色のその存在に、セイは眉を顰めた。


元々、このような連絡端末はあまり好きではなかった。

こんなものがあるから、大切な人は帰ってこなくなったのだ。


すぐにでも鞄に放り込んでしまおうとしてからまた、どうやら手ぶらで列車に乗ったらしいぞと眉を寄せる。


仕方なく、どう考えても窓の外の景色を見ていたい気持ちの方が強いのに、手紙のように文字でのメッセージを送ってきた誰かの届けた魔法式に触れてみた。



(ローヴァーさんからは幾つか、………珍しいな、公演先で会ったこの同業者なんて三年ぶりぐらいだ。どうして今日は、こんなに連絡が重なるのだろう………)



ピアノを弾いていた頃の関係者からのメッセージを開くと、その才能が惜しい、戻って来てくれというような内容だった。


その他にも、なぜか思い直しを期待する連絡ばかりが届いており、セイは少し不機嫌になる。



誰かのようになりたかった。


誰かの様になるために、育ててきた筈の心だったからこそ、今はもうセイ自身の感情を剥き出しにして、こんな些細なことにも腹を立てていい筈だ。


結局のところあの人とセイは同じではなかったのだから、ここから先は自由に過ごそう。



(そう言えば、……………私は、誰になりたかったのかしら……………)



そう言えば、誰のようになりたかったのだろう。


気付けば、そんな事すら忘れてしまっている。

                



(どこにも行かないで)



どこにも行かないで、傍に居て。

ただ、そんな強烈な切望だけが、胸の中にぽつりと残されていた。


それは多分なりたかった誰かの願いで、長い時間の中で身に馴染み、セイ自身のものにもなってしまった強い強い願い。



(………………おかしなことだ。私の人生に、そこまで触れたいと思う人なんて、一人もいなかったのに)



最初から誰もいなかったのに、行かないで欲しいと願うだなんて。



(何て、………………虚しい欲求だろう)



セイとて、自分には誰も居なかったのだと訴える程に、恩知らずで薄情ではない。

沢山の素敵な人に出会ったけれども、この指先で触れて抱き締めたいと思う程に愛おしい相手を得ることは出来なかったというだけだ。


きっと今生は、そういう星周りなのだろう。



「あの船に乗れたら、………………」



晴れた日にだけ現れるあの真っ直ぐな道の先にやって来る美しい帆船に乗れた者は、ずっと会いたかった人に会えるのだと誰かが言っていた。



ぼんやりとあの場所に立ち尽くしていたとき、声をかけてきたのは懐かしい笑顔を浮かべた老人だった。



“久し振りだね、セイじゃないか。勿論、あの船に乗りに行くんだろう?”



久し振りに顔を合わせたのは、かつて懇意にしていたマルクスという名前の調律師だ。

セイが引退するより前に高齢を理由に引退し、今は南の方にある保養地で、のんびり暮らしていると聞いている。


一瞬、船が何のことだかわからずに困惑してから、遠い記憶を手繰り寄せた。


そうだった。


あの船に乗りさえすれば、こんな侘しい人生だった自分でも、きっと懐かしい誰かに会えるに違いない。


“雨じゃないだけマシだが、雪が降っているのは難儀だねぇ。列車かい?馬車かい?”



そう尋ねられ、列車の方が楽しそうだなと思ったのだ。

馬車も好きだが、ここはやはり、もう一度あの列車に乗らなくては。



“わたしは、あの子を待ってから出ようと思ってねぇ”


愛おしそうに目を細めたマルクスが語るのは、腰を悪くしてからも欠かさず毎日散歩していた白い飼い犬の名前だ。


大きな肢体を持つ犬が主人の足取りを案じて、慎重に隣を歩いていた微笑ましい光景を思い出す。

きっとその犬も、自由に駆け回るよりも主人の隣を歩くのが幸福だったのだろう。


どこかで嬉しそうな犬の声が聞こえ、それに混じって小さな子供の笑い声も届いた。

最後に孫に会えて幸せ者だったなぁと、マルクスはまた笑う。


そちらは馬車を使うと聞いて、セイは手を振って別れた。




(………………私も、誰かと一緒に行きたかったな)



誰かを指し示すでもないとりとめのない願いを胸の奥で呟いて、セイは、窓辺に頬杖をつくようにして目を閉じる。


トンネルに入ったのか瞼の向こうの視界が暗くなり、しばらくしてもう一度淡い光の温度を感じれば、規則的な列車の振動に深い呼吸が重なり、漠然とした寂しさが冴えわたった。


(あのとき、………ローヴァーさんの手を取っていれば良かった?)



その列車は駄目だと伸ばしていた手を、逆に引き寄せてみればよかったのかもしれない。



一緒に。


けれども、不意にその言葉を思い浮かべてしまい、胸が鋭く痛んだ。

その痛みの深さにひやりとしてから、セイは唐突に気付いてしまう。




(……………ああ、………ああ、そうだったんだ)



その言葉こそが、セイという人間が、祈るように待ち焦がれてきたたった一つのものだったのだった。


賛美されるのではなく、引き止められるのではなく、ずっと誰かにどこかに連れて行って欲しかった。


もうどこにも行かないから、今度こそ一緒に行こうと差し伸べられる救いの手を、ずっとずっと待ち続けていたのだ。



(でも、そんな人は誰もいなかった)



この列車に乗ってからは、ずっとふわふわとしたいい気分だったのに、そう考えた途端に、胸の内側が暗くなる。


結局セイは、どこまで行ってもこの孤独から離れられないのだろうか。



(ずっと、一人ぼっちで誰かを求めながら、旅を続けて行くのだろうか?)



目を閉じてやり過ごそうとしたけれど、閉じた瞼の隙間から涙が零れた。


念願叶ってこの列車に乗ったばかりなので、どうにかこの涙を無視しようと努めたのだが、すぐに我慢が出来なくなって、涙を払う為に目を開いた。



「どうして、泣いてるんだ?」



穏やかな声には苦笑が滲んでいて、セイは、驚いて目を瞬く。



こんな予期せぬ展開に対応するだけの世慣れた返答は幾らでもあった筈なのに、何も言えないまま、目の前の人を凝視していた。



淡いシャンパン色の髪は緩やかなウェーブがあり、ふわりと首筋にかかっている。長めの前髪の下からこちらを真っ直ぐに見ている瞳は、南洋の海を結晶化したような硬質の青緑色だ。

驚く程鮮やかなその輝きと、怖いくらいの透明感に目が逸らせなくなってしまう。


いつの間にか目の前の座席に座っていたのは、はっとするぐらいに美しい男性だった。


どこまでも整っているのに繊細な脆さを感じないのは、視線の強さと唇の端に浮かんだ微笑みのせいだろう。



(………このひとは、………誰?)



思わず周囲を見回せば、いつの間にか幾つかの座席が埋まってはいるものの、まだ空のボックスもある。


それなのに、なぜ彼は、こうも親し気にこの席に座っているのだろう。


ボックス席は、ゆとりを持った作りにはなっているが、長身の彼にはどうも窮屈そうだ。

一人で一つのボックスを占領した方が、この長い足を伸ばせるに違いない。



「おまけにその姿か、その頃から迷子になってたんだな」


そう言うと男は、遮る間も与えず片手を伸ばすと、セイの頬に留まったままだった涙を当然のように指先で拭った。


あまりにも馴れ馴れしい行為に当惑して息を飲んだセイに気付かない筈もないのに、また意味のわからない言葉を呟いている。


その言葉すら、セイに向けられたものではなく独白のようだ。



「屋根付きの移動手段を確保したのは上々だ。まぁ、雪が降っている間は大丈夫だろうが、空が晴れてきたからな」

「………………あなたは、誰?」


そう問いかけると、綺麗な瞳をふっと瞠る。


「………………さぁな、どう説明するのがいいものか」


一瞬、瞠った瞳の奥に深い感情の織りを見た気もしたのだが、また飄々と微笑んで読めない表情になってしまう。

過ぎった感情が苛立ちだったような気がしたセイは、この人物と共にいる事に、微かな不安を覚えた。



(黒一色の装いだから、きっと高位の方なのだろう)



赦された色彩の階位を思い、続けざまに、そう言えばこの知識はどこで得たのだろうと考える。



(どこかで学んだ?それとも、そんなことは常識だったのかも)




記憶のその向こう側で、誰かの見る短い夢を見ていた。



漆黒の豪奢な王座に座っている人を見ていれば、かすかな畏れと同時に、成程退屈なのだろうとも思った。


王座とその系譜を示す席の漆黒の装いの者だけが、あのふざけた仮面を被っていない。


馬鹿馬鹿しい遊びだが、そんな遊びにも触れられない、線引きの向こう側の孤独さはどうだろう。


彼らだって、もっと何かに執着するべきだと、この自分ですら思う。



(これは、いったい誰の夢だったっけ…………?)



窺った目の前の人の片流しの長いケープの織の美しさに、ちらりと羨望を覚える。


繊細な刺繍や織り模様、飾り紐に帯のある、軍服めいた服を着ていて、長靴までの色味を違えた色とりどりの黒の装いは、一つの色彩が持つ豊かさを完璧に現わしていた。



(青味の織、金の艶のある刺繍、紫がかった黒羽色。光沢があったり、透明度が高かったり、奥行きがどこまでもあったり。この人の持つ色彩は、なんて美しいんだろう)



しかし、震える程に美しいにせよ、残念ながら、不審さとは別問題なのだった。



「あの、他の席も空いてますよ?」

「案内人は、同じボックスに座るべきだろう?」

「案内人?………………ええと、本当にどなたなんですか?」



ふと、セイは自分の声に違和感を感じて自分の姿の映る窓に視線を転じた。



(………………あれ?)



僅かに夕闇の気配を感じさせる藍色の光を纏い始めた雪景色の中に、髪の長い少女の困惑した表情が写り込んでいる。


それが自分だと認識は出来るものの、妙な違和感が残った。



(夢の中で随分と大人になったような気がしたけれど、そっか、夢だったんだ)



身長がすらりと伸び、自信を持ち、颯爽とした女性になったような気分だけが、残り香のように漂っている。


だが実際には、中途半端な背格好の少女しかその窓には映らない。


自分の容貌では、いっそ男性並みの長身になった方が見栄えがいいと自覚していたので、この半端な身長が嫌だったことを思い出した。


長く胸の下まで伸ばした髪は、せめてものバランス取りのつもりだった。


髪の毛のヴェールに隠してしまえば、悪目立ちするものも少しは覆い隠せる。



「強いて説明するとしたら、仮の立場は猫だ。猫は貴重なものらしいから、大事にしろよ」

「………………猫?」


鬱々としたもの思いから引き戻されただけでなく、意味のわからない宣言をされたセイは、眉を顰める。



「………猫って、………あの猫?………動物の?」

「猫は猫だが、あの短命な獣たちとは一緒にしないでくれ」

「その獣の猫以外にも、猫が………?あ、もしかして何かの比喩ですか?」



意味のわからない会話を続けているのにもかかわらず、男は、どこか呆れた表情で小さく溜息をついた。


本来なら、溜息をつきたいのはこっちだと言い返してもいいのに、セイはますます困惑する。




「道中で四足以外の猫がいる可能性はまずないからな、あまり離れないようにしろよ。狼はいるかもしれないが、奴らは片道通行だ。おまけに鳥の方が狡賢い」

「………………………鳥って?」

「鳥も鳥だ。大きな白い翼に、黒い瞳をしている」



セイは内心首を捻る。

鳥に関しては、どうやら少し具体的な描写があるようだ。

瞳の色が限定されるということは、ある特定の種を指し示しているのだろうか。



「これを読んでみるといい。時間ならいくらでもあるし、まだ当分は同じような景色が続く。平坦な雪景色なんぞ、もう見飽きただろう?」



そうして彼が差し出したのは、古い革張りの装丁の本だった。


このような装丁でこの小ささは珍しいような気もするが、不思議と手に馴染み妙な懐かしさを感じる。




「竜の写本の物語…………?」

「それが、本と、本の持ち主の題名だ」

「本の持ち主の題名?…………この本の題名というだけではなくて?」

「それは写本だからな。そこに書かれた人物の運命の写本となれば、そういう表現にもなるさ」



その言葉が理解出来ずに眉を顰め、手の中の本を観察する。


頭文字を飾った、藍色の繊細で優美な文字。

装丁の皮は紫がかった黒で、見事なカットを施した青緑色の宝石が一つ、背表紙に埋め込まれている。



「じゃあこれは、誰かの人生を記したものなのね。あなたの本?」

「長命の者には、時折、偶然にも近い采配で写本の管理の権利が回ってくることがある。興味深い物語があるがどうだろう、といった風にな。拘束時間も長く細やかな作業な上に、回収の際には危険も生じるとあって請け負う者は少ない、厄介な役目だな」

「………確かに古書の管理は厄介そうだけど。でも、あなたはその役目を請け負ったのね?」

「ずっと昔、古い友人が一つの本の管理を任された瞬間を、隣で見ていた。あいつの性格で、何でまたそんな暇潰し始めたのか不思議で仕方なかったが、あいつにとっての幸福はそこにあったのだと、途中で理解した。………結末は、不幸だったとしてもな」



古書管理の結末が、不幸というのはどういうことだろう。

説明を飲み込み損ねたものか、セイは、その奇妙さに首を捻る。



「その人は、どうなってしまったの?」

「死んだ。そうなるとは思ってもいなかったが、今ならわかるような気がする」

「………………死んだって、………本の為に?」



思わず茫然と反芻したセイに、目の前の男は少しだけ笑ったらしかった。



「俺達は、滅多に選びはしない。時間ならいくらでもあるし、ほとんどのものは何でも手に入れることが出来る。よって、手間ばかりかかる写本の管理は、酔狂な趣味の一つだとされてきた。でも、だからこそ、………その管理をすると決める時には、最大の執着を持ってその本を選び出すものだ」

「でも。………本でしょう?」

「言っただろう、人生だと」



その意味はわからなかったが、嗜好者というものは、そこまでの愛情を持って己の嗜好品に接するものなのかもしれない。


そう考えたセイは、手渡されたその本を、開いてみることにした。



「………え?」



ざわりと、胸が震える。

仄かな歓喜と、ずしりと重い絶望。

そうしてまた、あの切望感。




(これは、私の物語………………?)




その物語は、そんな風な言葉で書き出されていた。







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