赤16
しくじった
気づかされいたときには心拍数が跳ね上がって心臓が痛いほど拍動した
それは今も同じ
並足よりもずっと速く足を動かしているせいもあって、
心臓がバクバクと…
煩く俺の胸を内から叩き続けている
食後の、
ティーブレイクが問題だったんだ
珈琲や抹茶の銘柄、
あつらえやら…何が良いかと考え込んでいれば
時間のことをすっかり忘れてしまっていた…
その俺の様子に、
オニキスは両手を上げてしめしめと思っていたらしい
何故かって?
思考に潜っていた俺は、
無意識のうちに菓子と紅茶を口にしていたから。
今、思い返せば…
菓子っぽくない物も食べたような気がするが、
何を皿に盛られたのかはジルコンは勿論…カルサイトですら教えてくれなかった
はぁ…俺は何をやっているんだ
ジルコンが、
もう選択講義の時間じゃないかと言ってくれ…なければ、
予復習の時間がなくなったとかそういう次元じゃ済まなかった。
それでも10分位の余裕しかくれなかったので…
急ぎ足で、
今特別講義棟に向かっている最中だ
並足で講義開始10分前、
普通の講義ならばそれで用足りる。
でも、選択講義は違う…
やる気がないなんて思われたら講義して貰えなくなる、
普段は俺が早く席に着いている事もあって
定刻ではなく…時には30分も早めて始めることも多い。
…つまりはだ、
10分そこらでは…教授の方が早く教室についている可能性が大きいのだ
その結果
こうして…冷や汗をかいている
こんな筈ではなかった…
俺の立てていた予定では今頃…
選択講義の教室に居て机に向かっていて。
そして、昼食を食べ終わって当に勉強の目処が付いていた頃合いの時間
だけど現実は逆
そんな計画性も余裕もなく、
慌てている様
つい先程まで昼休憩一杯までオニキス達と食堂に…
俺は侍従でもある、
時間の確認など常に習慣付いているのに大失態だ。
それもこれも…
皆といたお陰で気が緩んだせい。
だけど皆…
意地悪く教えてくれなかった訳じゃない。
どんな理由であれ、
俺が教本や参考書にかじりつかず…
ゆっくりしているのを、
呆けていたとも言うが
…これ幸いと、
寧ろ推奨したものだから責めるに責められない。
作為的な面は、
不満がのこるものの、だが…な
…
…
そんな…忸怩たる想いを馳せながら、
拍動を高めながら進めば
俺の急く気持ちに応えてくれたかのように、
…やっと建物が見えてきた
行きすれ違う人達はみな食後であるからかゆるりと歩いていた
基礎講義も終わり気を緩めているのだろう…
話に花を咲かせ、
流行や気になる同姓異性について情報交換していたり…
そんな様子を傍目に、
必死に先を急ぐ俺は
不思議そうに振り返られたとしても構う暇もない
競歩並みの速さで来た…
人目が完全になくなった講義棟内では
階段を全力で駆け上がり、
廊下を走り抜けて漸くたどり着いた。
目的地、
その教室の後ろ側の入り口に
来る際に
教授の姿はなかった。
すれ違ったりみかけることもなかった。
だからもしかしたらと希望があるのかと…
間に合うと信じて…
最後には無風の棟内を、
まるで逆風が吹いている様に感じながらとその風を切るように走ってきたのに。
そんな俺に救いの手は差し伸べられず、
女神は微笑まず…
無情な現実がよこたわっているだけだった。
…
そこに立てば信じたくなくとも、
既に扉越しに人の気配がした…
懐中時計を確認すれば15分前…
5分巻けたもののこれでは意味がない
間に合わなかった
…必死の抗いも報われなかった
っ…終わった
駄目だった
途端に勢いよくひく筈だった目の前の引戸が、
堅牢な重い防弾壁に見えてくる。
開けることを、
躊躇する…
もっと早く来ている予定だったのに、
どうして遅刻等してしまったんだと…
そんな俺の気落は、なんの役にも立たないと知りながら。
失態からの此処での俺の立ち尽くす感情も
…教室の中にいる教授には興味などないだろう。
それでも
そんな俺の後悔や気後れはぐずぐずと俺の動きを鈍くする。
こんなもので免罪にならないし、
遅刻の同情を惹くことにも…
あの教授の歓心を買うことには役立ちはしない。
寧ろ邪魔で悪影響を及ぼす物だ。
こうして俺がその心地よい負の感情に浸って感傷を味方に付けることが、
二の足を踏むことになっている
よって今も、
俺は教授を待たせている時間を更に増やしているのだ
後悔するくらいなら、
はじめからするなと…注意しなさいと怒られるかもしれない
遅刻しないように、
何か方策をしておくべきだったと魘される
…最悪、
講義をして貰えなくなるかもしれない。
嫌な想像ばかりが増してくる…
それでも、
教室に入らない選択肢はないと
…重たい気を無理に上げながら
ガラリ…
少し立て付けの悪い引戸を引く
「…教授」
「珍しいね、こんな時間にくるなんて」
引戸の音と、
俺の声に顔を此方に向けて反応する
窓枠に腰を落ち着かせ、
普段通りの声と表情を向けた教授に…
一瞬願望から来る淡い期待を抱くも、
返ってきた言葉に絶望する
「…遅れてしまい、申し訳ありません」
「ああ、確かに待った」
少し待ちくたびれた様な感情がのる声音
待ったのだろうと言う、
その言葉に疑問を抱くことはないが
見れば、
講義に使うであろう準備はされていない
俺の定位置の机にも、他の机にも何一つ物はない…
待ったのであれば、
俺が来るまでにそれくらいの時間はあった筈
普段俺が先に来ている時は、
時間が惜しいと入ってきて直ぐに教材の準備をし始める
それは俺に講義をする気があるからだ…
でも今は…
ただ、何も持たず腕組みして窓枠に腰掛けているだけ
その姿に最悪のシナリオが頭に過る
「っ…講義を、受けさせて貰えないでしょうか」
「あのね…オリゼ君?」
「はい、課題ならば何でもします」
扉の縁を握りしめながら、
教室にはいることもなくその場で頭を下げる。
追加の課題だって、
俺が努力してなんとかなるようなもので済めば何だってやる
やる気がないのであれば、
教える気はないと言われたことも…
去年この講義を受け始めて数回目かに言われたのは耳に残っている
「確かに偏屈で研究者的な気難しい面もある教授だと、自覚している。
…勿論君にもそう思われている様だけど、
15分前に来る生徒を遅刻扱いして叱責するような人間ではないよ」
「教授…あの」
「気にはしてない、だが萎縮する程私は君に恐れを植え付けた覚えはないんだけどね…其方の方が気がかりだ。
何でかな?」
「…この講義は、課程があれど進捗や難度も私個人を踏まえて進みます。
その為得られるものも多く、私のレベルも出来る限り引き上げられるように教授がに頂いていることも分かります。
この講義を受講出来なくなれば、その教授のお心遣いや手間も…そして私の失うものも大きいと自覚しているからです」
失言した…
偏屈で気難しい面もあると思っていたことは事実
だから一層気を付けてきたし、
予習復習にも力を入れてきたんだ…
教授が俺から感じて推測したことは
…事実だ
そう、確かに恐れがなかった訳じゃない
いつか俺が失態をおかして、講義を受けられなくなるのではと危惧していたから…
俺にとってこの講義が…
他の選択講義に関しても言えるが、
自身の学習において…
とても貴重で意義のある時間だから大切にしてきた面からの意味もあるのだ
単に機嫌を損ねることを忌みしたのではない、
教授本人を恐れたからじゃないと…
己なりの言葉で弁解する
「…そう、時間は有限だ」
「申し訳ございません…」
「…オリゼ君、そんなところで立っていることが時間の浪費だと言っている。
時間は有限だって意味は、私より早く席に着いていなかったから責めているわけではない」
「…っはい」
駄目か…
有限な時間が失われたと、
折角早く来たのにそのチャンスを逃した…そう言われたと解釈して肩を落とせば
想像よりも優しい言葉が返ってくる
講義を今から…そして今後も、
俺にしてくれると言う意味だと鈍くなった思考でも理解できたから…
伏せた面を上げれば教授と目がかち合う
そして…何故か視線を机に、
俺の定位置に目をやった教授に誘導されていると気付く。
そこまでしてもらって情けないが、
それでやっと…俺は根が生えるように立っていた位置から、
そこに座るために教室の中に足を踏み出せたのだった
…
…席について、
俺が講義の教本やインクを肩掛けから取り出していく。
教授が目の前から移動するのを、
視界の上で認知したから少し手を止めて目を向けると
入り口からは影になって見えなかった教壇の上で紙擦れの音をさせている。
何も用意していないわけではなかったようだ、と人心地ついて待っていれば
教授が何やら手にとって此方に向かって戻ってきた
「さて、これが昨日の結果」
「…採点有り難うございます」
机に置かれた紙は、
昨日受けた筆記の…採点済みの俺の答案だ
「目を通しなさい」
「はい」
…言われた通り、
それに目を落とせば
思った通りの失点を重ねた結果がそこにはある。
そしてバツがついた欄には、
正解と模範解答が教授の綺麗な筆跡で赤が入れられていた…
後悔したところで何も変わらない
変えられるのはこれを踏まえて復習することだけだと、
それを何度か通して見た後、
覚えるために何度かメモ紙に書き取っていく
直ぐにこうした方が記憶の定着がいいと…
俺は分かっているし、
今までこうさせて貰ってきたから、
教授も何も言わずに待ってくれている
そして二枚目
これは魔法陣を発動させた実技の評価
…此方は思ったより悪い
乾燥度合いを思い出せなかった物と、
対人に始めてかけた最後のあれは想定していた通り不可だった
でも、
その他の出来ていると思っていたやつが…
想像していたよりも少ない。
それに出来も誇れるものは半数を切っている…
規定の水分量に飛ばせていなかったり、
水分含有率が正しく出来ていても発動速度のせいで薬効が規定以下に損なわれているもの、
浄化しなくていいものをしていたりと…
自身の感覚と出来には大きな誤差があった
全体としては
合格は貰えていたとしても、
実用性に欠ける。
薬の材料として使うとして、
出来上がりの薬の効能が一段…酷いものは三段程落ちるだろうか…
「…完璧に出来るまでやらせてください」
「ならばこの後筆記と、実技は課題点が多かった3陣をやろうか。
名前を忘れたのが一つ、
もう覚え直しただろうから規定値を目指して発動させること」
「はい」
「次のこれは名前は覚えてたが…乾燥させ過ぎだ。
失敗した原因は、取り扱いに難がある薬草であることを失念してたからか?」
「…勉強不足でした」
「…まあいい。
兎も角…
乾燥させ過ぎると薬効が落ちるから、水分量は他よりも高めに抑えるこの薬草の特性を一つ忘れてたことを踏まえてやり直し。
それと対人俺にかけたのも、もう一度やってみようか…
緊張からか操作も練度も少し甘かった」
「留意します」
返事をしながらも
覚えていなかった薬草の特性と、
名前を忘れていたものの学名と説明を頭に入れていく。
そして失敗した原因と
今教授から注意されたことを、書き取っていく
後で見返す為、
そして練習するにも役に立つ…
…
それにしても…
俺は果たして完璧に出来る域まで到達するのだろうか?
教授から見れば難易度だって高くない筈の課題
それでこんなに不出来では…
「何かおかしな点があったかな」
「…いえ、不出来だと思っていただけです」
俺の変化を察知したのか、
声を掛けてくる。
採点に疑問はないし、
模範解答に分からない点もない
ただ、
己の出来の悪さに辟易としているのみ…
「出来は悪くない」
「…更に精進致します」
「これでも誉めているんだけどね…
魔力操作と練度も良くなってきた、証拠にあれだけの魔法陣を発動させても補充なく事足りた。充分、効率的だった」
慰めか
落ち込む俺にそんなことを言ってくれるだけで、ありがたいとは思う
厳しい教授としても、
合格ではあるから…そう言ってくれるのだろう。
だけど、
それはこの学園のカリキュラムに乗っ取った最低限のものをクリアしたと言うだけ…
出来は悪くないよって、
悪くないだけで良くはないって意味だ。
事足りた?
そんなことはない…俺の力量を教授は知っている、
今回も事足りる様な課題にしてくれたから足りただけ…
そして止めに、
充分効率的だったなんて評価は…
本当に効率的だったなら言われない、使わない言葉だ
「教授であれば、
後何陣…発動出来ましたか?」
「70%まで高麗人参を乾燥させるのであれば、後20位だ…」
「ほぼ倍ではないですか…」
「ただそれが出来たとしても
最後のあれは、どうあがいても魔力量不足で出来ない。
こればかりは…私には補給無しには叶わないが、
オリゼ君が私と同じ位の効率になれば20増やした上に対人にかけたあれも余力を残して可能だ」
「…半分…ですか」
魔力量のランクから…
単純き教授と俺の魔力量の差を簡易で見積もると最後の魔法陣分になる。
つまり…
後、乾燥魔法陣を20発動出来ると言うことは
俺の練度や魔力操作の効率が…
教授の半分程度だと示している…んだ
全然足りてない、
簡単な陣ですらこの出来映え。
これから剣術の講義でもそれが要になるのに…
この体たらく
俺より魔力量が多い奴なんて沢山いる。
それに勝るには魔力操作と練度を限界まで引き上げなければ勝負にすらならないのに…
同じ土俵にすら上がれないのに…
半分程度じゃ…
太刀打ちどころか爪痕も残せやしない
「さて、何を考えて落ち込んでいるのかは分かるが…
筆記と薬草の名前の再テストをするよ?
その後魔力操作と練度の練習、分かったかな?」
「お願いします」
…筆跡の再テスト、
書き終わって見直しを終えてガラスペンを置けば
教授が直ぐにそれをかっさらって確認していく
そして実技
…先程教えて貰った事、
魔力操作と練度により留意しながら一つ一つより丁寧に発動させた
そして今は、
その出来を確認していく教授を
席に座って待っている
「前回よりも良くなった、
新しい課題に付け加えて…講義の度に数陣ずつ反復復習していこうか」
「はい」
羊皮紙に、
再テストの結果と課題のある部分をサラサラと走り書きしてくれた
それを俺に渡してくれる。
確かに…マシにはなっている、か
感覚的に何か掴めそう、
もう少し練度はあげられそうかな…?
と、
前期迄何度も描き慣れた火の魔法陣を、
ひっくり返してその羊皮紙の裏にかいていく
うん、
魔力を注げば完全燃焼の青白い炎が立ち上る
2年次にこの練習を始めた時の小さな物ではない、
今ではこの魔法陣に関しては教授と同じくらい位の大きさになった。
色も日々少しずつ改善されていくからこの練習は楽しい
努力が報われていると、
力に変わっていく指標としてすっかり気に入っている
「私よりも上手く発動させているね。
…前期の最後に、
他の教授に攻撃魔法陣を学ぶように言ったね?」
「口を添えくださると、
確かに教授が前に仰っていましたね」
「ああ。
快い返答を貰っているから、楽しみにするといいよ」
「楽しみにしています…ですが、乾燥と浄化魔法陣が完璧でない内から先のステップに進んでよいのでしょうか?」
「どちらも練度の操作の鍛練になる、
平行して進めた方が成長する。定着も速くなる」
「分かりました」
「それとね。
君は先程…私の半分だと凹んでいたようだけれど、
ここに至るまで研鑽を積んできた年月は3年其処らではない。
オリゼ君は限られた時間でまだ一年少しだ、
それでここまで出来るなら私レベルにはもっと早く追い付ける」
「…教授のレベルですか?」
「だからといって、
無理をしてはならないよ?
昨日は全力を見るために限界近くまで魔力を使わせたけど、それが毎日であれば身体に害になる。
魔力の発露に障害が起きることもあるから留意しなさい」
「充分、気を付けて行います」
思ったより濃密で、疲れたものの
普段より幾分早めに講義が終わった…
…
…
「ふう…やっと終わった」
さて、
少し脳を休めてからと
講義の後…取りかかった自習
予定を巻き返すための勉強は思いの外、満足のいくものになったと
満足してガラスペンを机に置いた
凝り固まった身体を、
座ったまま背伸びしてほぐしていく
「暗いな…ああ、
もうこんな時間だから、か」
殿下…
あのときはマルコとしてだったが
睡眠時間を削るなと言われた手前…勉強に当てる時間は限られている。
徹夜や夜遅く迄するわけにはいかない、
その時間を有効活用しなければ…
時間は有限
善は急げ
時間が許す限りはやらないとと、
昼休憩に出来なかった分…
殿下の範囲の仕上げと来週の予習、
それから先程の選択講義の復習を軽く…最低の休憩を挟みながら頭に詰め込んでいった。
まあ…そんな気迫で
遅れを巻き返していったのが功を奏したのかもしれない。
思ったより、
集中力が増して
進みも記憶の定着も普段より良い気がする
が…
その集中力のお陰で、
窓から射す日が落ちた所で漸く気づく羽目にもなったのだが…
時間を把握する習慣等、
未々…身に付いているとは言えなさそうだ。
「はぁ…」
誰も見咎める人がいないことを良いことにして
溜め息を盛大に口から漏れていく
此処まで部屋に帰るのを遅くするつもりはなかったと、
集中して済ますことのできた勉強に悔いはないものの
これだけ日が落ちれば、
川獺の世話をさせている玄武も心配しているに違いないと
急いで帰らなければと焦る気持ちを抑える。
もう過ぎた時間は巻き戻せない、
心配させていてもそれをなかったことには出来ないと己に理解させて気を落ち着かせる
「すっかり…遅くなってしまった」
机の上を片付けてから
教室を足早に出たものの、
絶えず増える独り言を、
夜に変貌し駆けている外気に落としていく
講義棟から出てて食堂に…
マナーを失しない程度に夕食を掻き込んでから寮に帰ってきた
…
…
「お帰りなさいませ、貴台」
「玄武…遅くなった」
部屋につけば、
黒い着流し姿の玄武が迎えてくれる
俺の遅い帰りに、
何も思ってはいない事はなさそうだが…
あえてそれを口や顔に表すことはしなかった
それに制服の上着を受けとることも許されないと学んだお陰か、
一定距離を保ったままだ。
こちらに近づいてくることも、
俺が脱いだ上着に手を伸ばすこともない
俺としてもまだ、体裁上は罰を与えている期間内だから
玄武に侍従としての働きをさせる訳にはいかない…
こちらに注視している玄武の視線を認めながらも
脱いだ制服の上着を自らの手でクローゼットに仕舞っていく。
ついでに、
藍染めの着物に着替えた後
使用済みの肌着は纏めて…丁度良く用意されている適当な籠の中に入れ込んでから
クローゼットの扉を閉める。
「…全く、考えたものだな」
「どうなさいましたか、貴台」
着替え終わって、
何時ものソファーに腰を降ろせば口から漏れていく言葉。
その呆れ混じりの俺の言葉に、玄武が反応する
俺が気付いたことがわかっていて、
そう惚けるのか…
出来る侍従だと、
誉めたい一方…で行動を見透かされて掌握されたことが憎たらしい
多分、籠の中のものは
日が変わったら玄武が後で洗濯してくれるのだろう。
見たこともない籠がクローゼットにあったのは、
俺が着替えを手伝わせないことも
制服を此処に仕舞うことも見越した上で…
確かに罰が終われば、
俺は傍仕えとしての業務を玄武に許可する。
つまり…
今日は許されなくとも日が変われば侍従としての行動は許されるますよね?…と
此処に汚れ物を置いておいてくだされば、
後で不肖がやりますと言う意思表示その他ならない。
流石にシャツや肌着、
下着の洗濯まで俺にさせることは認めないらしかった
「…俺のとる行動は何でもお見通しだとでも言うように置かれたあの籠はなんだ、嫌味か?」
「この程度の行動を読めずに、
傍で侍る侍従が貴台をお世話できますでしょうか」
傍仕え程になれば…
主人の趣向や行動パターン、
体調や求めるものを察することも出来て当たり前。
玄武も俺の傍仕え、
この程度の俺の行動は…見越した上で動く技量を身に付けていて当然なのだが
…見越した上、
掌で転がされている様で嫌な気分になるんだよ
「お前の手中にあることが気にくわない」
「何を申されるのですか…
貴台の手中にあるのは不肖でしょう」
昨日はあれだけ不満を示した着流し姿も、俺の我が儘だからと受け入れている。
そのせいで侍従としての働きをさせて貰えないにも関わらず、
今は対して堪えていないように振る舞う…
そして、
己が着替えを手伝うことを禁じられることを見越して
俺がどう着替えのために動くかを把握した上でのこの篭だ。
餓鬼の意地を年上の玄武が仕方なく見守ってくれているようで、
上から目線に感じるから癪なんだ。
俺に頭を垂れながらも、それは玄武が俺に従わされてるわけではないから。
玄武が玄武の意志で、膝を折ってくれているから俺が主人として振る舞えているだけ…
俺に主導権があるように、
甘んじているだけだと痛感したことは今まで何度も経験していた
「己より劣る主人に、手玉にとられるお前か?
貴族の子息相手だからと…無条件に掌で転がされるほど堕ちてはいないだろうが」
「劣ると思ったことは御座いませんし
侍従となった今でも、不肖は権力に対して頭を下げることはありません。
…貴族子息にかしずいているのではなく、貴台に侍っていることはお分かりの筈です」
人間としての器も、洞察力も能力も俺は玄武に何一つ勝てていないのに…
そんな相手に対して不条理な命令や罰を与えられても従うし、
必要でないならば己のプライド等些末だと捨てられる。
俺に義理立てして、
敬うようなことをしてくれている。
その姿に
俺は…負けたように感じんだ
「もし…俺が平民であればどうしたんだ?」
「形は異なれど、傍で支えていたでしょうね。
そしてその為に資格や技能が必要であれば…迷いなく会得します」
俺が貴族に縁する者だから擦りよったのではない、
恩義を感じたから
俺の傍で力になりたいと言っているんだよね?
形が異なれどってことも…
俺が平民であらば、
生活面での支えをしていたと?
生活費を工面する必要に迫られれば、
それを稼ぐために資格や技能も会得したと当然の事だと口にする
「俺が望めば、
玄武は何でもすると?」
「貴台が本当に望むことであれば、何でも致します」
俺は平民じゃない。
…血塗れで息が絶え絶えで倒れていた玄武をアレが誕生日プレゼントに欲しいと父上にねだった、
あの年場がいかない年齢でも俺はそれを自覚していた
玄武を傍に置くには、
父上の許可が必要だと。
そして最低でも屋敷に勤務する使用人として…その身の自由を奪わなくてはならなかったこと。
玄武に制約を与えると知っていても、
俺が玄武を本気で手に入れたいと…助けたいと願ったから。
…
…だから、
俺に恩義を感じている玄武はそれに応えてくれた。
スパイから寝返って、
今後裏切らないことを証明するためにラクーア卿の拷問にも耐えて。
俺の希望に沿うために、
…屋敷の使用人になる条件として父上に従属紋を刻まれた上
そして使用人から侍従に、
侍従から俺の担当へとなってくれた。
そして一番傍にいるために、
傍仕えにさえなってくれたのだ…
玄武は優秀だ
俺の傍に置くには勿体ないし、
その能力を過分なく発揮させてあげられるほどの器を俺は持っていない。
だから
そんな己が悔しくて、
情けなくて…
それでも、あの時救われたからと
それだけの理由で俺を見下げることもない。
こんなに尽くして何でもしてくれる、
辛酸を嘗めてまで傍にいてくれる玄武が憎く感じるんだ
何でそこまでするのかと、
そしてそんな気持ちを受けとるに見合う人間に俺自身がなれていないことが不甲斐なくて
俺が玄武を手中にとどめているんじゃない
玄武が俺の手中にとどまってくれているだけだと、
それくらいは馬鹿な俺にも分かるんだよ…
「何でもはしなくていい…で、何でお茶を淹れているんだ?」
「給湯室からこの姿で給仕していることが露見しなければ、
貴台は御許しになられるかと」
これ以上、
玄武が自身の身を削る行動を俺は望まない。
俺が一歩間違えば、
喜んで炎の中でも身を投じそうな玄武の物言いに疲れも覚える
そして同時に
己の未熟さに辟易としていれば、
いつのまにやら部屋にほうじ茶の香ばしい匂いが立ち込めているのに気付く
何故だと、
テーブルに肘を付いて頭を抱えて
…落としていた視線を玄武のほうにやれば
何時のまにか…当然の様にお茶の用意をそこでしている
「玄武、許した覚えはない」
「…御飲みになられませんか?」
そう言いながら差し出された、
織部焼の湯呑みには湯気を立てた粗茶
急須も茶葉も
多分玄武が普段使っているものだろう
自分用の茶葉や茶器であれば、
そんな着流し姿で俺に給仕していると見られる危険性はない。
俺に咎められない可能性があるならば、
飲んで貰えるならばと…
格を落としたお茶でも何もないよりもましだと玄武は踏んだのか?
「無駄にはしないが、
それ一杯だけだ」
「ありがとうございます」
夕食後もゆっくりとティーブレイクすることもなく、
部屋に帰ってきた。
もし、
勉強に集中して日が落ちてしまうことも
俺が玄武を心配させたと
急いで帰ってきたことも全てこの傍仕えが見透かしているのであれば。
…一息つくために、
今何か飲みたくなるかもしれないと考えての所業かもしれない
…
…もしそうであれば、してやられたな
そもそも、
既に準備して淹れて貰った飲み物を捨ててこいと言える程
…俺は冷酷になれない。
昨晩も確かに白湯くらいならばと、
玄武があまりに悲しそうにするものだから受け取ってしまった
そして、
なし崩しに二杯目もお願いしてしまった…のが不味かったか?
白湯を持ってくるのは、
その着流し姿でも違和感がないからと許したが
それは目溢しで俺に給仕していいという許可ではなかったし
…取り違えることなど、
玄武ならないとおもっていた。
が…白湯がゆるされたのならばと
それを分かった上で、
俺の甘さや隙にこうも堂々と付け入ってくるとは思わなかった
「川獺への世話だけを命じた筈だ。
それ以外の行動は俺はお前に禁じたと、伝わっていなかったか?」
「…では何故白湯は御許しになられたのですか?
そして今回も飲んで頂けましたが…」
「俺の行動パターンを把握した上での暴挙だろう?」
「…貴台のためならば、
不肖は何でも致しますと先程申し上げたばかりです」
俺の行動を掌握していると、
そう示すための行動ではないらしい。
俺が喉を枯らせば、
それを潤すために行動するのは当たり前であると主張する
そしてその行動も許されると思った、
俺が罰することもないと。
玄武は…
自身が俺を思った行動であれば、
酷いようにはしないと信じているのだ。
お茶の一杯程度で目くじらを立てる程、
器が小さい主人でないと俺を見なしている。
その確信があったからこそ
命令違反になるとしても玄武はこうして振る舞うのだ…
呆れた
此処まで見せつけられては何も言えない
言ったところで、
俺が自身を貶めるだけだ
「まあいい…
川獺はどうしている」
仕方なく、
ほうじ茶に口をつければ
人心地つけた
少し冷えた身体が、
内から暖められていく
…優しい焙煎の香りが鼻をぬけていけば、
少し気を張っていたのも緩んでいく
玄武が、
白湯ではなくこれを用意した理由が
嫌でも分かっていく
確かに、
今の俺に必要なものであったようだ…
「変わらず床に座しています」
「そう、精神的には大丈夫そう?」
「それについても御安心下さい。
少し会話をしたところ…持ち直しましたので」
俺がほうじ茶効果によって少し落ち着いた
それを察して、
玄武が質問に答えていく
少し会話を…ねぇ?
持ち直したのではなく、持ち直させたのではないのか?
俺に対しては甘い玄武だけど、
川獺に対して同じ顔を向けることはない
が…同時に過剰に傷つけることもしないだろう
それは俺が川獺を大切にしているから、
川獺を傷つければ俺が心を痛めると玄武も分かっているからだ。
だから心配しなくても、
血も涙もない言葉で責め立てはしない
そう判断はしているのだけど…
「…へえ、
どうやって落ち着かせたのかその会話の内容は気になるところだね?」
「懸念されている内容ではありません」
具体的な内容は答えない
如何様にもとれる言葉、
隠しだてをしているようにも思えるけど…
少なくとも悪いようにはしなかったらしい。
俺としては
玄武が俺の負担にならないようにと、
無理に川獺を律したのではないと分かれば十分
残りのお茶をあおって、
湯呑みを空にする
うん、
美味しかった…
「それならいい、お茶…ご馳走様」
「お知りにならなくて宜しいのですか?」
「玄武が懸念することはないって言ったんだろ、
…それで背中の傷は痛むか?」
「心配される程では御座いません」
湯呑みを俺から受け取って、
片付けようとする玄武に川獺に関する話しは終わりだと言った
次はお前の背中の手当てだと
そう言葉にすれば、
手当て等必要ないとでも言いたげな態度をとってくれる
「…玄武、
救急箱持ってきて」
「…貴台」
知らないふりをして、
茶器を片付けている玄武の背中に止めを刺す
此処まで俺に言わせて、
察しがつかないなんて言い訳は通らないと
玄武にも分かっているから
全く…
心配しなくてもいいと言ったのは、
それは痛みだけでなく傷自体のことを指しているんだよね?
俺に手当てされたくないと、
そんな拒絶する本心が見えているよ…
「俺、手当てするって言った筈だけど?
嫌でも俺を安心させるために玄武がとるべき行動は一つしかないんじゃないの?」
「畏まりました」
傍仕えとして、
主人に不要な心配をかけることもあってはならないことの一つ
命じられたことに従うのも玄武の義務だ。
渋々救急箱を持ってきて、
俺に背を向けて着流しをはだけさせていく
嫌々でもなんでも構わない。
玄武の傷を手当てできるのであれば、玄武がこの状況を快く思っていなくても…
丁寧に包帯を外して、
手当てを施していく
…
「…放置しないでね、
俺の腕では満足な手当てはさせてやられてないから」
「自然と治りますが…」
一通り出来ることをして、
包帯を新しいものに取り替えた
これで俺が直接手当てするのも最後、
後は禁足が解ける川獺に引き継ぐ手筈だ。
でも、
玄武が川獺に手当てをさせるか
その点に不安を覚えて言葉にしたけれど…不安を増すだけの答えが返ってくる
自然と治る。
その言い分もわかる…
傷自体、玄武にとってはかすり傷程度なのも承知してる
元々深くはないものだったし、
今診た限りでも傷は治りかけている
破傷風にならないように
包帯や消毒もしたからこのまま放置したとしても、
ほぼ悪化することもなく治るだろう。
でも、
ほぼ悪化することもないと分かっていても、悪くなる可能に目を瞑りたくない。
打てる手は、打ちたい
何より…玄武の背中に傷痕を残すことは、
俺の本意ではない
「その理屈、認めてあげてもいいけど俺も利用するよ?
今後俺が手首を腫らせても
風邪を引いて寝込んでも…寝れば治ると玄武を遠ざけても文句言わせない」
「…理屈にもなりません。
まだ身体の出来ていない貴台と不肖では条件が違います、
手当てや看病なしに放置すれば悪化します」
確かに理屈にはならないかもしれないね…
危険から見れば、雲泥の差だろうか。
玄武のこの傷と俺の体調不良では同等と評することは出来ない
でも、
俺が言いたいのはそこじゃない
「俺がまだ身体の出来ていない子供だから危険?
大人の免疫や耐性があるから玄武は大丈夫だって理論がまず間違ってる。
悪化する可能性を無視して、放置させることにどちらも違いはない…そうだよね?」
「口が過ぎました…御許し下さい」
病や傷の
危険度が低い高いではない
手当てを拒否するってことは、
心配しなくてもいいと案じる相手をはね除けることだと俺は知ってる。
それを何よりもしてきたのは俺で、
その俺にはね除けられて傷付いてきた周りの人間なら…その痛みがわかる筈
兄上を始め…俺の担当侍従ならその災禍に何度も晒されてきた
つまり、
その立場に今俺がいるんだと玄武に言えば…
傷の手当てをすることを受け入れざる終えないのだ。
「…傷痕一つなく治ったことを確認したら許すよ」
「傷痕一つ残すなと…仰られるのですか?」
何を驚いているのか、
まるで治れば俺が満足するとでも思ってたみたいだね?
そんなわけないだろ…
好きで傷付けたんじゃない、
玄武の上に立つことを誇示するための鞭じゃない
気にしてないと、
許すと…
たったその一言で罰を与えずに済ませられるのならば
俺は主人の面など被らない
「これ以上、
玄武の身体に裂傷痕は要らないでしょ?
どこぞの所有欲にまみれた主人なら、傷付けて上書きするかもしれないけどね…生憎俺にはそんな醜い物で玄武を繋ぎ止める気はない」
「御意」
少し怒りを伴った視線で諫めれば、
玄武も俺の感情を受け取ってくれたらしい
…
…
そして静かになった
玄武を川獺の部屋に行かせ、俺は続きの勉強に戻ったのだ
予定していた来週分の予習を終わらせた後、
再度退室させていた玄武を呼びつけて川獺の様子を報告させる
予定調和
これで21時前だ、
明日は休日
侍従として早起きしなければならない
…3時前に起きるとしても5時間強は寝れる
最低限の睡眠時間は確保したことになると、
殿下の侍従として控えるために使用人部屋へと自室を後にした…
そして、
もう一つの俺の部屋につけば
…暫くしていなかった部屋の掃除と、
侍従服や使用品の手入れ。
その他準備等、必要なことを手短にこなしてから横になるためにベッドへと梯子を上る
やっと、
漸く長い一日を終えるために…
疲れた身体と精神を癒すために、
久しぶりの固いマットレスと少し肌触りの悪いタオルケットに身を包み込ませたのだった




