赤14
「おはようございます、貴台…」
「ん?ああ…おはよう」
使用人部屋から入ってきた玄武は、
まだ俺が寝ていると思ったのだろう
直ぐに寝室に向かおうとしていたが、
その足をピタリと止めた…
既に起きて制服への着替えも済んでいる俺の姿を、目に入れて愕然としている
まあ、当然と言えば当然か。
目に映った悲壮感ある玄武の姿は…あまり気持ちの良いものではなかった
一応、
今も罰の最中だから…
玄武が病まない程度にしか傍仕えとして動かす気はないし、
それに着流し姿の玄武にモーニング珈琲や朝食を用意させる気もない。
玄武も玄武で、
少なくとも俺に無断で行う気は無かったのだろう、
何時ものように給仕する物を手には持っていない
まあ…何も持っていないわけではないが。
せめて許されるであろうと考えたか、
玄武の右手には私物の湯呑みが握られ湯気が立っている…
苦肉の策で、白湯を入れて来たのだろう
…
対して
1人掛けのお気に入りの革張りのソファーに座っていた俺は、
玄武の声に読んでいた本から少し離して見やっている
昨日の夜片付けると言っていたから、
俺が早朝起きてきた時にはその言葉通り綺麗になっていた
この目の前テーブルに今、馬銜や鞭はない。
代わりに俺が広げた十冊程の教本や参考書…
普段棚に飾ってあるティーカップとポット、
お湯の入った白磁を並べてある
何もこの姿で使用人用の給湯室に行って来たわけではない
あまり利用はしたくなかったが、
アフタヌーンティーやサロンを開く際利用する…茶会で言えば水屋みたいな場所を利用して紅茶入れてきた
彼処であれば学園生が紅茶をいれることもあるからだ。
そして何度も淹れに行くのは面倒だと…
濃く煮出した紅茶をポットに入れ、
温度と濃度を調整するためのお湯を白磁のポットに入れて勉強の傍ら飲めるように準備したのだ
明日まで済ませておかねばならない殿下に教えるための予習を軽くした後、
今日と来週始め分までの講義の予復習を2巡終わらせたところ。
玄武が俺を起こしに来る時間は分かっていたから、
思った通りに切りの良いところで終えられたのだ。
後は朝食後…
固まった玄武を見ながら、教室で続きはしようと本を閉じる
…
「…玄武、それ冷めるよ?」
多分、折角用意して来た白湯は
俺が受け取ることはないと思ったのだろうな…
いつまでも足を止めたまま、
所在なく立ち尽くしているだけだ
まあ俺としても
こうして玄武が用意して来なければ、
白湯ですら頼むつもりもなかった。
…でも、折角給仕してくれたそれを無下にすることまではしない。
無駄にはしない
「只今御持ち致します」
傍に来て良いと、
目と口で示せば此方に向かってくる玄武
テーブルに置いてある空になったティーカップ達を傍目にとらえながら、
白湯の入った湯呑みを俺に差し出してくる。
「ありがと」
「いえ…」
玄武が気にしているこのティーポットには、
既に紅茶の残りはない
先程飲みきってしまっていた。
何か飲みたいとは思ったが
朝食まであと少し、
それも念頭にあったから我慢しようかと思っていたところ…
つまり
有り体に言えば、調度よかったのだ
左手で受け取った後、
まろやかで甘味のあるそれを口に含んでいく
ただのお湯であるにもかかわらず、
玄武の入れる白湯は旨い
…硬水のミネラルを上手く取り除いて軟水に近くする、
そして鉄瓶で沸かすことによって角が立つことがないからだろう
…
「川獺の様子は変わらない?」
「はい、
少し目の下に隈できたこと、疲れが出てきている点を除けば昨日と同じです」
飲み終わった湯呑みを玄武に手渡しながら問えば、
想定どおり。
身体的には安心出来る範疇にあるか…
「どんな表情だ?」
「少々虚ろではありますが、
話しかければ反応しますし、此方を見る視線も焦点は合っています」
「あまり良くないね…
俺が夕方帰ってくる迄は、川獺の傍についていてやってくれ」
「…畏まりました」
玄武の意向から、
胃に配慮した食事を此処のところ俺は食べていた
そして昨日の晩、
ジルコンの部屋で急にあれだけの食事をしたのだ。
起きてからずっと…少し重い胃からも、
負担は大きい自覚はある
それを見越した俺の傍仕えは
今日の朝食も
そんなメニューをと、十中八九考えていたに違いない
だが、
川獺の傍についてやってくれと俺が言った台詞は
この部屋で…その玄武の意向に沿った食事を食べないという意思表示
それを察した玄武は
表立って反対こそしないが確実に好ましく思っていない。
だが…
昨日のように身を投げ出してまで用意させてほしいとは言わないことは分かっていた
懸念される週明けの体調不良、
胃が弱れば食堂の食事が俺に大きな負担となる
そのために、
侍従としての矜持を保たせてくれと、
俺に食堂で食べないでくれと平伏した状況とは違う
俺の今の体調は悪くはないし、
食堂で暴飲暴食したところで受け付けない等という懸念も、
大きな問題も起こりはしない。
…
それでも
玄武は嫌だと感じている筈
大きな負担とならなくとも、
負担が無いわけではないから。
そもそも主人にそうすることが最善であるにも関わらず、
その必要な食事を給仕させて貰えないのだから不満たらたらだよね?
服装も侍従として、
適した物を着させて貰えないのだから…その心中は察せる
「玄武」
「…はい」
そして俺が今の玄武の立場にあるなら、
この心ない仕打ちは、
侍従として不適格であると主人から責められている為だと思うだろう…
そもそも着流し姿で、
俺の料理や服を扱わせるわけにはいかないのもある。
玄武の傷のために罰を延長したのであって、
病むまで苛ませることが俺の意図ではない…
…それも俺の命令のせいなのだがこの際それは棚に上げておく
だから…
玄武が着流し姿でも、
部屋では少しの世話くらいは許可しようか…と思っていたが
それも念頭から消えた
…川獺の様子を聞くまでは。
俺は今日1日…
玄武に侍従として任せる仕事は川獺の世話と報告だけと決めた。
…優先順位が変わったのだ
俺が一番懸念しなければならないのは、
…優先すべきことは
俺自身に少しばかり掛かるであろう胃の負担の軽減でも、
玄武への配慮でもなく…
何に置いても、
第一に川獺のケアだ。
…何かあってからでは遅い
「緊急を要する何かあれば、お前の判断で対処しなさい。
…必要だと思えば、川獺を好きに処罰することも認可する。
俺への指示を仰ぐのはその後で構わない」
「貴台…それはなりません」
「…もしもの話だ。
俺の威厳を守るために救える人命を取りこぼすことなどあってはならない。
取り戻せるものと、取り返しがつかないもの…
玄武、"人として"どちらが大事だ?」
川獺が何ともなければそれでいい
だけど川獺が自責で己の身を危うくする可能性があるならば、
その是正を玄武にさせてやった方が危険度は下がる。
俺としては、
川獺への罰を重くしたくはない…
だからといってその軽さに川獺が耐えきれなくなって病む様であれば、
鞭でも何でも与えてやった方がまだマシ
痛みを与えられれば…呵責からの暴挙は確実に防げるから
ならば、
俺が玄武から川獺に関する報告を受けて指示や対処をすれば良いだけと思うかもしれない。
だが、玄武は俺に報告が出来ない
普段許可していない学園講義中に、報告に来ることを許可したとしてもその穴は埋まらない
そもそも緊急性があることを、
目を離して俺に報告や指示を仰ぎにくれば
その間、他に誰も川獺を見張る人員はいなくなった川獺の身の安全は誰が確保するのか…
そして今日の夜12時からは完全に報告を許可出来ない
俺が殿下の侍従として、
使用人部屋に待機するからだ
禁足の終わりは明日の朝玄武に伝えるように指示した。
そして、
禁足が解けたからといって川獺が安定するとも限らない…
2日間俺は川獺の状況や玄武への指示を出来なくなる、
ならばどんな手を使ってでもその打開策は打つ
俺の川獺への権限を、
玄武に譲渡して代行させれば良いのだ
「…人間の倫理感から答えるならば、人命です。
ですが、禁足や主従関係の前提がなければの話…勿論、侍従としての解答は違います」
玄武が此処まで言及するのは、
川獺が憎いからではない
人間としての倫理観、
人の命が大切である事を軽んじているわけではない
その命を賭けてでも主人に尽くすことが侍従としての矜持とされる。
…この目の前にいる、
優秀な傍仕えも多分に漏れず…その矜持を持っている
美徳や上っ面ではなく、
本気で俺に尽くしたいからそうしているのだ
先程、
その尽くす行動を罰を理由に俺は取り上げた
主人の世話を任せられない事は、侍従として恥ずべき事。
白湯1つ俺が飲んでくれたからといって、
現状を鑑みれば玄武としては焼け石に水だ
…
そして、
その煮え湯を飲まされた上にこの俺の発言と来た
俺への不満はあるだろう
そして、
罰の最中であろうが口をつぐむことなく…形構わず玄武が俺に諫言している理由は1つ
主人が罰等の権限の行使を、
侍従に譲渡することは様々な制約があるからだ
「分かっている…
主人からの罰から逃げることなど許されない、許されたいのであれば…また侍従として仕えることを願うならそれに耐えることが大前提だってことも。
それも今回の川獺のは命令違反、
…現行で既に甘い処置であることも重々承知だよ?」
「貴台の御気持ちを否定はいたしません。
ですが…先程の御言葉がどのようなことを意味するのかは…御承知された上で、でしょうか?」
どのようなことを意味するのかも、か…
そんなこと言われずとも分かっている。
俺が"真"の主人としてその権限を侍従である玄武に一時的に譲渡したことになると。
…俺が"真"の主人でないことは、
俺も玄武も承知していることだ…
「当たり前だ。お前らの真の主人は当主である父上であって、
本来俺はその権限を持たない」
「不肖が貴台を真の主人として御仕えしていることも、
本来はあってはならないこと。
不肖の主人である御屋形様に貴台が反目していないことと…実子へのお目こぼしがあって黙認されているのです…
それを良いことに、本来御屋形様が持つ権限を貴台が不肖に対して譲渡すれば…心象が悪くなるどころではありません」
まあ…
心象が悪くなるとかそういう問題ではないよな
当主になるために、
兄弟姉妹で継承権争いをすることは今でも珍しくない
昔のように過激に、
他家に悟られるように大事にはしなくはなってきているものの…
それに、
本来は真の主人であっても軽々しく口頭ですることではない
限定的でも、
時間に限りがあるとしてもその力の行使を代行することは軽くない
任せた結果、
何があっても最終的な責任や事後処理をするのは譲渡された侍従ではなく主人だから。
侍従本人にも何かしらの沙汰はあるだろうが
痛手を被るのは主人。
だからこそ権限の代行や譲渡は主人の侍従への信用と信頼、
そして責任を取る覚悟があって初めて出来ること
自身の侍従に
他の見習いや下の侍従を指導することも権限の一部譲渡に当たる
殿下が傍仕えのアコヤさんに俺の指導を任せているのも
これに当たる。
殿下がアコヤさんを傍仕えとして信用と信頼を示すこと、
責任を取ることが出来るから成せる事
だが…
俺と玄武、川獺の関係は違う。
俺が傍仕えの玄武に信用と信頼を示すことまでは良い、
だが責任を取ることが俺には出来ない
アコヤさんは殿下の侍従だが、
玄武は俺の侍従じゃない…厳密に言えば俺の担当侍従であるだけで父上の侍従
だから俺がその玄武の真の主人に伺いも立てずに、
無断で権限の譲渡をすれば咎められる。
それだけですめば御の字、
何かあったとしてもそれはそれでいい。
俺は一応父上の実子で可愛がられているから、
まだ許される余地がある
余地がなかったとしても、それは承知の上だしな…
だが玄武は違う。
その譲渡された権限の下、
仮に俺にそれを行使する権限が仮にあるとしても過ぎたものだ…無効なそれと知りつつ
好き勝手したと見なされれば…
玄武の身が一番危ないのだ
「己の言葉には責任を持つ」
「貴台」
玄武が一段低めた咎める声に怯みはしない
俺だって、
考えなしで言葉にした訳じゃない。
父上から担当侍従として与えられた玄武と川獺を、
俺は今…傍に侍らせている
つまり、
真の主人から仮の主人として玄武達への権限の行使を俺はできる
父上から俺への権限譲渡は暗黙の了解でされている、
認められているのだ。
だから、
俺がその暗黙の了解で譲渡されて得ている権限を
玄武に譲渡することも可能…
その理屈でいけば、
話の筋だけは上部だけは通る
が、大穴だらけの理論だ。
玄武が俺を放置して川獺の世話をすれば、本末転倒
真に権限が譲渡されようと代行されようとも、
主人を二の次にして良い理由にはならないからだ
それも仮の権限で、越権…ないに等しいそれでは言うまでもない
そして
それら全てを知った上で俺は行使する
もし川獺に何かあって、玄武が不始末を晒したとしても、
父上からの責は全て俺が被る。
己の言葉には責任を持つ
そう俺が言った言葉はそこまで重い物
玄武もそれを察しているからこその、この猛反発である…
「なあ…玄武、大前提や世の通例だから常に正しいと言えるのか?」
「…いいえ」
「特殊な状況も、例外だってある。
俺はそんな主従を望まないし、
その俺の担当侍従である玄武達にも…例え侍従身であったとしてもその解答を是とすることはない。
俺が川獺に与えている罰への介入も、
人としての倫理観を優先させることも…俺がそれを望むならどうなる?」
「侍従の心得として、主人の御心に添うのは大前提で世の通例です。
"世の通例"を重んじられる"通例"から見れば不適正であるこの様な"特殊な状況"も、
"例外であられる"貴台を主人にもつ不肖や川獺達から見れば…正しくもなるのでしょう…
こんなことを言わせて、ご満足ですか?」
そう…
玄武が己の保身のために…命が惜しいから、
口を酸っぱくして俺に譲渡を止めろと言っているのではない
俺が川獺や、
そして己を守ろうとすることで被る痛手を案じて、だ…
「満足だよ…
川獺も馬鹿じゃない、ほぼ一日中自身の傍に玄武がいればおかしいことに気付くかもしれない。そして権限委譲を察した上では、どんな行動を取るかも…」
「甘いと言う言葉では収まらないのですよ?」
「それでも俺はそうしたい。
リスクを背負ってでも川獺の安全を、玄武が川獺の凶行を止めてくれると信頼している。
そして川獺を守ってくれた玄武のことも必ず守る」
「御屋形様への反心となれば、不肖の命は御座いません」
俺が川獺の身を案じて此処までの事をするのだ…
玄武の身も案じていることは目の前にいる傍仕えにも伝わっていないはずもない
俺を止めるために、
自身の命が惜しいと受け取れる言葉すら吐いた
…そんな心意気を持った傍仕えを、
悪いようにはしない
玄武が嫌がろうとも、俺は俺の我を通す…
「現行では、その権限も俺に仮とはいえ譲渡されている。
仮であろうと、父上が反心と見なすならばどんな手を使ってでも俺はその権限を返上しない」
「…畏まりました、
そこまで言われるのであれば何事も起こらないように致します」
俺の父上が、
反心を抱いたと見なさない可能性の方が大きいと分かっていても0ではない。
それでも、
俺がどうあってもこの決定を覆さないと分かったらしい
本気の俺に逆らえば、
左腕の従属紋が作動する
だから俺が反心と感じて失神する。
だから命は危ぶまれないが、玄武は権限委譲された川獺の世話を出来なくなる
だから、
返事は是とするしかないのだ
…
「玄武、この湯呑みを片す次いでに救急箱を持ってこい。
出発する前に、背中を見てやるから」
更に玄武へと加えた指示は、
侍従の己のために俺の手を煩わせるもの。
仕事をさせて貰えない上に、
こんな無理を通された
そんな玄武に俺は更なる追い討ちを掛ける
「…はい」
返事は普段より力なく小さいもの。
そして部屋を辞す動きも何処と無く渋々だ、
そんな空気を纏いながら
出ていった玄武の背中は…何時もより小さく見えた
さて、
救急箱を置くためにテーブルの上を片すかと
ティーセットを浄化魔方陣で簡易的に清めた後、
ソファーから立ち上がって元の棚にしまう。
本来ならこんな雑な扱いをしないが、
帰ってきたらまた使うことになる上に明日にはきちんと手入れを玄武がしてくれる。
まあ、まず痛むことは無いだろう
積み重ねておいていた教本や参考書も、
数冊を残して必要な物だけ肩掛けバックに仕舞っていく。
勿論インクやガラスペンも清めてから入れ込んだ
後は手当てして、
久しぶりの食堂で朝食だと
肩掛けをテーブルの上に置いて方向を変えてからソファーに沈む
時間帯としては
少し遅いか…?
運が良ければオニキスとラピスと食べられるかもしれない、
まあ、彼奴らも俺が食堂で食べる可能性は低いと見て部屋で済ませているだろうが…
コンコン…
そんなことを考えていれば、
玄武が控目にノックする音。
思ったより早く、
戻ってきたな…
渋々だろうが、受け入れ難かろうが…
俺に手当てを受けることは昨日時点で分かっていたことだ
救急箱の
準備は事前にちゃんとしていたらしい
「入れ」
「失礼致します、お待たせ致しました」
「いや、救急箱はテーブルの上に置いて。
…俺に背中を向けてそこに座ってくれる?」
「はい…」
ソファーに座る俺の目の前に、
膝立ちして背を向けて座る玄武
着流しの袖から腕を引き抜いて
背中を露にするのを横目で見ながら、救急箱から必要な物を取り出す
ゴミ袋用に紙袋
アルコールにガーゼ
軟膏と包帯と…
本と肩掛けバックに救急箱
手前に少し空いたスペースに使う順番に並べていく
「痛みは?」
「ありません」
包帯を解いて、巻き直してテーブルに置く。
少し張り付いているガーゼのうえから消毒液を含ませていけば、
染みたらしい玄武が僅かに身動ぎする。
こうすることで、
肌から剥がれやすくなる
乾いたまま、
膿やかさぶたと癒着したガーゼを剥がせば…あまりよろしくないからだ
アルコールでヒタヒタになったガーゼは紙袋に捨てて、
露になった背中の傷を見る。
良かった…
膿んではいないし、傷も浅かったお陰で殆ど塞がりかけている
みみず腫に関しては後二日もあれば完全に治るだろう…
軟膏を洗い流す様に新しいガーゼで拭き取り、
全体を消毒して…
再び傷やみみず腫に厚く軟膏を塗ってから、清潔な包帯に巻き直した
「はい、終わったよ。
夕方帰ってきてからもするからね?」
「有り難う御座います…貴台」
救急箱に軟膏とアルコール、
最後に使用済みの包帯は浄化魔方陣で清めてから同様にしまって蓋を閉める。
紙袋は…流石に玄武に任せるかと、
そのままにしておいた
その間に袖を通して、
襟元を直し終え…傍に立って控える姿勢になった玄武から一応の感謝はされたが…
オニキスみたいに上手くないから素直に喜べはしない。
「紙袋と救急箱は片しておいてくれるかな?
本はそのままで良いから」
少し軟膏とアルコールの匂いがついた手で、
バックを掴み肩にかけて立ち上がる
「…その様に致します、
貴台、もうお出になられるのですか?」
「ああ、扉は開けなくていいから。
行ってくる」
「行ってらっしゃいませ」
歩きだした後からついてこようとする、
そんな行動をいなし
きっとその場で見送りの声掛けと姿勢をとっている玄武を振り替えることなく…
久しぶりの食堂へと、
俺は部屋を出ていったのだった
…
…
さて、何を食べようか…
と、足を踏み入れた食堂には、バイキング形式になった料理がズラリと並んでいる
そして運良く、全く人気もない。
これは気楽で良いなと、
少し重い肩掛けを奥の方の席に置いてから取りに向かった
プレーンヨーグルトにシリアル、
そして蜜漬けになったカットフルーツとブルーベリージャムをその上からたっぷりと乗せていく。
シリアルをミルクで浸すのは
ふにゃふにゃになった食感と…ミルクに染み出した味がどうも好きになれない。
ヨーグルトは酸味が強いから単体ではあまり食べない
だからシリアルにはヨーグルト
そしてそのヨーグルトにはカットフルーツとブルーベリージャムをたっぷりかける
それで俺好みの豪華シリアルが完成する
…まあフルーツヨーグルトの食感要員ともいえるかもしれないが。
後はカスタードとラズベリーのデニッシュ、
メープルシロップをたっぷりかけたフレンチトースト…どちらも粉砂糖が降り積もっている代物だ。
後は珈琲はブラジルを濃い目に…
今回の長期休みは弟の誕生日パーティーに、
兄上からの折檻…俺自身の侍従講習と査定で目まぐるしかった。
その上、
この休み明け一週間は玄武の管理のもといに優しいものだったから…
こうして甘味を思い切り食べるのは久方ぶり
さあ、
食べようかと荷物を置いた席に振り替えれば…
いつの間に?
座っている見慣れた顔が1つ
オニキスが軽く手を上げて
…よっ
とでも挨拶している姿があった…
「…おはようございます、オニキス様」
「はよ…俺もなんか取ってくるわ
先に食べてて良いぞ?」
「ええ、そう致します」
チラリと、
すれ違い様に俺のトレーの上に並ぶ…甘味尽くしを見てから立ち上がって行った
むふぅ…
少し焦げ目のついたフランスパン、
フォークで切って口に運べば…表面に掛かった粉砂糖の甘味とメープルシロップの香りが口に広がる
噛めば、濃厚な卵液の旨味が染み出していく…
…幸せだ
苦く深みのあるブラジルを一口
交互に食べ進めれば、
珈琲の苦みとフレンチトーストの甘味と旨味が引き立てあって…永遠に楽しめる
「くくっ…幸せそうな顔してんな、そんなに旨いのか?」
最後の一口を頬張って、
咀嚼しようとしたところでオニキスが戻ってきたようだ
目の前に座ったオニキスの方を見れば、
ニヤリと口角を上げて俺の顔を観察している
そんなに変な顔してないつもりだったのだが…
「…ええ、美味しいですよ」
「まあそれなら良いけどな、偏りすぎだぞ?」
そう俺に言う権利は確かにある様だ…
俺の甘味尽くしと打って変わって、
オニキスの選んだ朝食はお手本のようにバランスがいい
サラダに
ビーツジャムを添えたクロワッサン
ハムを数種類とチーズ
茸と野菜のコンソメスープ
リンゴのコンポートに、
ミルクたっぷりのカフェオレだ
「食べたいものが、
不足している栄養素を含むと言われるではないですか」
「ほぼ脂質と糖だな…
かろうじて乳と卵のたんぱく質があるくらいだ」
カフェオレをごくごくと飲んだ後…
サラダを食べながら、
にべもなく言いやがる…
「その通りです、が?」
何か問題があるなか?と…
そんなオニキスに軽く目を細めて、
食べる間は黙れと睨みをくれてやった
胃が少し重いのもあって、
がっつりとした食事や肉を避けたかったのもある
それに甘いものが
何より食べたかったんだから仕方ないんだよ…
ラズベリーの甘酸っぱさと、
バニラビーンズが薫る濃厚なカスタードクリーム
デニッシュ生地はのバターの香りにサクサクの食感…
…旨い
ヨーグルトの酸味とブルーベリージャムを纏って、
ゴロゴロと蜜漬けのフルーツが口の中で様々な味を醸し出す…
それらを噛み締めるごとに、
ザクザクと歯触りの良い食感と香ばしさをシリアルが添えてくれる
脳髄に染み渡る程
…ひたすらに旨い
腹が満たされると言うより、五感が満たされていく感覚
食べたかったものを思い切り食べているのだ
スプーンで掬いながら、
一度も休むことなく食べ進めていった…
…
「…なあ、オリゼ」
「何でしょうか」
俺が珈琲に口をつけて、
一呼吸置いたのを見計らってオニキスが話しかけてくる
オニキスはまだ食事中、
ゆっくりとフォークをハムに刺そうとしているところだ
「誕生日プレゼント有り難うな、凄く嬉しかった」
「喜んで頂けたのであれば何より…
ですが、二年あまりも遅れてしまって申し訳ありませんでした」
「謝るな…あれが普通の代物じゃないことは分かる、
今日のアフタヌーンティーはあの菓子を皆で集まって楽しむ予定だ」
「それは良かったです」
楽しそうに、
オニキスは破顔しながら話す
皆で集まってってことは、ジルコンと殿下も巻き込まれるのか…
昨日の晩の光景が、脳裏に過っていく…
喧嘩しないと良いがと少し不安も覚えながらも、
楽しそうに落雁を囲んで談笑する光景もしっかりと想像できる
「多分各々の傍仕えは今頃試作に苦心してるだろうけどな、
…ビショップも落雁なんて始めて作るって言ってたし」
「水分量を間違えれば、固まらないかべっとりなるかの二択ですね
…固まらなければ足して…あまりお勧めはしませんが乾燥魔法陣を使えば取り返しは一応利くかと」
「分かった…お前は、来れないのか?」
「アフタヌーンティーでしょう?
選択講義の時間と被りますから…申し訳ありません」
「悪い…失念してた」
多分そこまで期待はしていなかったのだろうが、
やはり断れば肩を落として残念だと気を落とす様子に…
やはり落雁には抹茶がなければと、
此方も少し考え込む
あのプレゼントに抹茶を添えたところで点てるのは難しい
オニキスとラピスなら、
あの苦みも覚えがあるだろうけれど…
紅茶や珈琲の文化のこの帝国ではあまり馴染みのない味だ
薄く点てるにしても…
泡立ちが悪くなるし更に点てにくくなる
緑茶のように砂糖を入れるのは
茶器に悪い上に、溶けきらない…流石に無いな。
俺も上手くはないが…
薄茶位なら、
人様の前で振る舞える
生菓子だって簡単なものであれば作れるし…
「…時間が取れれば、
生菓子と落雁を御用意して、抹茶も点てて差し上げますが?」
「は?
いいのか?お前…」
手で千切ったクロワッサンが、
ポロリとオニキスの手から皿に落ちていく
そんなに意外か…
まあ、ここ最近はずっと張り詰めていたし…
オニキス達との時間も殆ど取って来なかったから、それも当然の反応かもしれない
「盆手前で構わないのであれば、あまり場所は選びませんしね」
「いやいや、嬉しいしオリゼの抹茶飲みたいけどよ…
まさか、睡眠時間を削る気か?
無理するくらいなら、俺は両手を上げて喜べはしないぞ?」
「…それくらいの時間は取ります」
今はGクラス
来年度には最低でもFクラスに上がら無ければ兄上が暴走する
学園の学長室にでも乗り込む勢いだったのを、
今度はFになるからと説得した。
そして最終的にはEクラスを目指せと、
オリゼの実力なら当然の評価だよねとも…
兄上は俺の力量を凄まじく買い被って来るものだから、
こちとら汗水垂らして釈迦力になっている
でも…
たまには昨日のような息抜きも、
俺の友達との時間も大事であることに気付いたから…
「…楽しみにしてる、
で…右手のそれ、どうした?
…軟膏の匂いもするし、昨日はなかったよな」
「実習とテストが後が有力ですね…少しは時間が取れるでしょうから。
それとこれは此方の都合です、殿下にもそれ以上は言いません」
「分かった…訳は聞かねえが、
それ…冷やさないならテーピング外して湿布した方がいいぞ?」
そう言うと
オニキスは気を取り直して、
皿に落ちたクロワッサンそしてチーズを食べるのを再開する
そう
あの後手首を酷使する様なこと…
単にひねったのでないことはオニキスから見ればすぐに分かる。
剣の素振りを千回でもしない限り痛めない、
そしてその可能性もあの後部屋に戻って休んだ筈の俺の行動としてはおかしい
殿下にも言えない、
その言葉で家、つまり侍従に関することだと匂わせれば
それ以上はオニキスも言及はしてこなかった
加えて、すぐに身体を休められなかったとしても、
それを咎めることは出来ないだろうから
…
…
「オリゼ…何処に行く?」
「珈琲のお代わりをしに行くだけです」
…さて、行くか
と席を立ち上がれば何故か止めるオニキス
オニキスはカフェオレを何時も通り先に殆ど飲み干していた、
習慣化しているそれは、
こいつにとっては欠かせない…多分目覚めの2杯目なのだろうことも知っている。
もう少しすれば、オニキスも食べ終えて食後に一杯欲しくなる頃合いだ…
そして俺もカップが空いた
俺がオニキスより早くに来ている場合、
自分のお代わりを継ぐ次いでにお前のも持ってくるのは何時もの流れだと思うのだが…と
「あ、なら俺の分…いや自分で取りに行くわ」
まあ、久しぶりに朝食を共にしたからかと、
俺の何を言ってるんだと言う視線からオニキスも何時もの流れを思い出したらしい
頼み掛けるまでは良かった…
俺の右手首に視線をやって、
両手にカップを持つことになれば負担になるだろうとオニキスは考え直したらしい
が、要らない気遣いだ。
まだこの食堂にはオニキスと俺以外に人気はないのだから…
左手でトレーを持つことに、
何の抵抗もない。
侍従としてのサーブ技術の1つを使えば、
右手首が痛むこともない
「ご心配なく、お代わりもカフェオレでよろしいですか?」
「あ、ああ…」
持って来るから食べて待っていろと、
そう言う意味で念押ししただけの台詞に…
少々
何故か気圧され気味になっているオニキスに、
疑問に思いながらも…
今度こそ止められることなく、席を離れていく
俺も二杯目は甘い珈琲がいいな…
カフェオレでもいいけど、
あまりミルクの気分じゃないし減らそうかな
んー
既に落としてある…
ドリップしてある珈琲でも良いけど、
薄まるよね…
そもそも酸味の強いキリマンジャロならカフェオレ向きじゃない
オニキスは手間を掛けないでこれにミルクをいれたのだろうけれど…
まだオニキスが食べ終わるまで時間はある
先程のブラジルも豆から引いて抽出したし
二度も豆から引いて、
ドリップするのは面倒だけど…
彼奴に美味しくないカフェオレを飲ませるくらいなら
二手間位掛けてやるか…
俺も飲むんだ
どうせなら旨い方がいい…
そもそも今日に限って、
普段置いていないトラジャがあるのだ…その濃厚な苦みはカフェオレには最適だ
…本当に致し方ない
先程のブラジルの豆が混じらないように、
軽く払ってから
ガリガリと、
ゆっくり豆を引いていく
それを
マグカップの上にセットしたフィルターに規定量の二倍入れ
…沸騰させた湯を少し回し掛けて、待つ。
ゆっくり蒸らすために豆をまず湿らせるのだ
それが終わったら、
円を描くように少しずつ
少しずつ落としていく…
ミルクも、
保温されているものではなく冷たい物を。
…既に砂糖を加えて鍋に掛けて適温に温め直していく
その間に、
ゆっくりと珈琲の最後の一滴が落ちたのを見計らって、
ドリッパーを退かしてミルクを注ぎ入れた
手早く洗い物を、
魔方陣の上に全て並べて魔力を注げば片付けは完了
後は冷えないうちに、
これをサーブするだけ
銀トレーに乗せて、左手だけで運んでいく
「お待たせしました」
「…悪いな」
少し待たせてしまったか
オニキスは食事を終え…
僅かに残っていた一杯目のカフェオレも完全に飲み終えた後
それほど待たせた訳でもないが、
少し時間を計り間違えたようだ…
別にオニキスは俺の主人でもないし、待たせたところで何の支障もないのだが
目測ではきっちり間に合うはずだったから少し悔しい
「少し失礼しますね。
まあ、自分の分も兼ねてますし…前払いは必要かと思いまして」
「くくっ…なら遠慮なく貰うわ」
オニキスの食器をトレーごとに少しずらして、
淹れてきたばかりのカフェオレを手首に負担が掛からないように
目の前にサーブすれば
豆から引いていることを、
察している悪友は…少し楽しみだとそれにてを伸ばしていく
…
…自分の分も席の前に置いて、
トレーをもとの場所に戻しに行って戻ってくれば…
既に半分ほどオニキスは飲んでしまっていた
「あー、うま。
お前淹れるのこんなに上手かったっけ?」
「そもそもオニキス様に、淹れたことはありませんが…」
自分も席に座り直して、
一口含む…
うん
オニキスにあわせて控えたから甘味は少ないけど
濃度といい豆とミルクの相性と言い…なかなか上手く行ったのではなかろうか
誉められて悪い気はしないが…
それにしても、
オニキスは何を言っているのだろうか?
お代わりを次いでに持ってきたことは多々あるが…それは落としてあるお手軽なやつを注いで持って来てただけ。
そもそも食堂で豆から引いてドリップしたことなど一度足りともない。
今回が始めてだ…
「昔、一週間だけ淹れてくれたことあっただろ?」
「…ああ、そんなこともありましたね」
思わず遠い目になる
あれば一年半ほど前になるのか
二年生、
殿下の侍従になって数日と経たないうちに…
罰の代替えとしてオニキスに貸し出されたのだ
とても良い思い出とは言えない
自分の怪我を直すためにこいつに薬の調合をさせられて、手当ても監視された
侍従としての仕事は、
ほぼ素人の腕でこなしたベッドメイキングから部屋の掃除、
服の支度
そして日に何度も命じられて淹れた珈琲…位か
確かにオニキスに豆から引いて珈琲を淹れたことは、俺の記憶にもあるな…
「まあ、あれから二年経つもんな…
でもマルコって珈琲あんまり飲まないよなあ?」
「殿下は紅茶の方が御好きですよね…」
あのねえ、オニキス?
まるで二年間
俺が殿下を練習台にして腕を上げてきたような人聞きの悪いことを言うな。
そもそも主人に
半端なものを出すのをアコヤさんは許さない…
紅茶に関しては、
給仕することが多く…
一定以上のレベルまで、取り急ぎ腕を上げてきたしサーブもしてきた
が、
珈琲の出番は殿下の好み上あまりない
たまに珈琲を頼まれる時は、
俺に任せることはなくアコヤさん自らがこれまでは淹れていた
だから…
俺が珈琲を上手く淹れれるようになったのはアコヤさんの指導も少しはあるけれど、殆んどはこの前受講した侍従講習の成果だ
…
「…なんだ、不味い思いしたのは俺だけか」
少し面白くなさそうに、
あの時の美味しくない珈琲の味を思い出したのだろう
オニキスの眉間に、
…少し寄った皺に、今となって後悔が押し寄せる…
「大変申し訳ございませんでした」
「おい、オリゼ?」
「誠に…申し訳ありませんでした」
「あー、許すから頭上げろ。
…冗談だから、その…真面目に謝られると困る」
「お許し、感謝致します。
…まあ、今となっては侍従としての矜持も御座いますので」
見習いになって数日、
アコヤさんに一連の仕事の流れを教えて貰ったのも一度のみで
がむしゃらに仕えたのだ。
侍従としての心構えも矜持も持たず、
オニキスに命じられたことを形だけでもこなすだけで精一杯、
…あの時、
普通の珈琲1つ満足に淹れる腕もなかったのも道理と言えよう…
あの時、
殿下には別の趣旨があったし
オニキスも俺に、侍従としての働きを求めていたわけでもない。
…
だが、
それらがオニキスに不味い珈琲を飲ませたり
不自由を感じさせる言い分けになることはない…
あの時の俺は見習いとつけど侍従
殿下の命令の元、
オニキスは仮にもその俺の主人であったのだ。
見習いになって数日であろうが、
未熟であろうが何だろうが…
仕えるのであれば、侍従としての仕事は出来て当然。
…何一つ満足に出来ず、
主人に不愉快な思いをさせるなど…言語道断。
本来ならあってはならないし、
あってはならなかったことだ
「らしくないよなあ…
でもある意味これはこれで、お前らしいか」
オニキスは、
昔のことなのにと…
馬鹿真面目だとでも言いたいのだろう
だけどけじめはけじめ。
あの時の不始末を指摘されれば、
今主従関係でなかろうと…
親友として会話していた最中であっても
その非礼を、
俺は殿下の侍従として謝罪せねばならないのだから
「あの頃の私なら、
らしくもないと思われるでしょうね」
今も侍従として、
己を評価することはない
だけれど、少しはましになったことも事実。
二年前は侍従として、
見習いとしても風上にも置けない有り様だった…
…あれから何度もアコヤさんから、
指導や指摘を幾度となく受けてきた
侍従としての心構えを早朝から復唱させられた時期も…
床に正座させられたことも数多い、
罰として左腕に
杖によるみみず腫と痛みが絶えないことも度々
思い付く限りの、
叱責や罰は一連…経験してきた筈
それにしても不思議だ。
アコヤさんも、
殿下の命令があるとは言え…
よく見捨てずに此処まで俺の面倒を見てくれたものだと…
「侍従としてとか、
そういうのじゃなくて…お前自身の性格上って意味だ
天邪鬼で片意地は張るけど、
重要なところは素直じゃなくても謝るって俺は言いたかったんだが?」
「…飲み終えたならば、お先に失礼しますよ」
そこまで考えて、
思い出した…
今度こそアコヤさんに身限られているのだという事実を
侍従査定での俺の行動を、
今後殿下の侍従として侍らせるには危険だと見なしただろう
昨日浴場からジルコンの部屋を辞するまで…
殿下の身を俺から守るように注意を払っていた視線に圧力
珈琲や紅茶を淹れる腕が上がったところで、
今更それが役に立つ訳ではない…
あの頃から比べれば、
幾分ましになった矜持も…意味を成さない
主人に害成すと留意されているのだから…傍に侍る資格すらない
俺は…
アコヤさんに侍従として不適格と印を押されたのだと思い出した
「おい、オリゼ?」
「…何でもありません」
オニキスが俺の変調に気付く
先程迄は特に急ぐ気配もなく、ゆるりと談笑しながら食事をしていた
その俺が性急に、
何かに切迫感をもった雰囲気を醸し出せばおかしいと思うだろう
だがオニキスに話す事はしないし出来ない
アコヤさんに身限られていても、
殿下の侍従として投げ出せないことがある…
査定の内容を見ても、殿下は変わらず俺を侍らせる意思を示した。
勉強の予習時間も足りないと勘づかれ配慮を頂いた…
だから朝食を悠長に食べている暇はない
殿下の勉強を見る…その教科の予習位、
今から入念にしなければと呆気に取られているオニキスを置いて
一人席を立ったのだった
…
…
食堂を足早に出て、講義棟に向かう
呆けて隙が出来たのを良いことに、
俺はオニキスを置いてきた筈だった…が
何故か背後から気配がする
追い付いて来る足音もする、そしてそれはもう俺の背後に迫っている
「待てよ、オリゼ」
「っ…」
先に失礼すると暗に断った筈…
それでもオニキスは俺についてくる
誰も周りに居ないから良いものの、
オニキスが俺の後ろを歩いているという状態は好ましくない
いつもなら半歩後ろを歩くのは俺
不味いな…
いつこの光景を見られるかと戦々恐々
既に早朝とは言えない時刻
少し遅めに、そしてゆっくりと食事を済ませたのだから…
朝食を取るために人がそこらを通らない保証はない
そう思って走り出そうかと、
そう思った瞬間
オニキスに強く肩を掴まれ、後ろに引かれる
「逃げるつもりか?」
「…その様な意図は御座いません、単に先を急いでいるだけです」
がっちりと肩を掴まれて、
走り出さないように留められる
オニキスも俺も本気ではない
逃げようと思えば俺はその手を払えるし、
オニキスだって単に少し力を込めて肩を掴んだくらいで俺を止められるとは思っていない
オニキスは、
この程度の抑止力で事足りると…
俺が足を止めると信じているからだ
「何でもないようには見えなかった、下手な言い訳も癪に障るけど…まあいい。
手当ての前払いは受け取ったんだ、このまま教室に行くんだろ?
あそこで嫌ってんなら、付いていってそこで診てやる」
「前払いのつもりではありましたが、
不味い珈琲のツケを払っただけになりましたので…治療の対価は払っておりません」
「対価?
そんなもん要らないことくらい知ってるだろ…」
「…御厚意だけ受け取ります」
先程迄は時間に余裕が無くとも特に急ぐ気もなかった
だけど、今は気持ちが急いている…
早く予復習をしなければと、
それだけが侍従として許されていることならば…
せめてそれだけは完璧にこなしたいと
手首が使い物になら無い訳じゃない、
多少負担を掛けても治りが悪くなるだけ
どうせ明日迄直りはしないし、
殿下の目に止まることにも変わりはないのだから
今は、
こんな手首のことなどどうだって良い
「…全く、何に焦ってるんだ?」
「肩の手を、離して頂けないでしょうか」
「逃げないか?」
「逃げませんから」
「そうか…オリゼ、しのご言うな。
なにも今から俺の部屋に来いって言ってるわけじゃない。
お前の時間は取らせない、常に手当て出来るように応急キットならこうして今も持っている」
こうして足止めを食らっている時間ですら惜しい、
逃げないと本気で言ったわけでもない。
本気で肩から手を離したオニキスを振り切ろうかと考えていた…がその気も霧散した
オニキスは俺に最初から配慮していた。
一旦オニキスの部屋に来いという気がなかったのだと…
時間に余裕がないことも…そして今は更に幾秒でも惜しいと俺の気が急いていることも全て察している。
手当ての道具は携帯している、
俺が教室で勉強する前…少しの時間手当てに当てさせろと
それ以上お前の時間は取らないとオニキスは言った
取り乱した理由も聞かないで…
俺が手当てせずに放置しようとしていることも腹に収めて
オニキスは俺の心身を心配している…
「…備えあれば憂いなし、ですか?
此方としては憂いだらけですね…」
そうこうしている間に、
…何事かという視線が刺さった
俺が侍従としてではなく普通の学園生として振る舞うことも、
殿下から望むと昨日言葉にされたばかり…
俺も男爵家次男として自覚を持つと、
必要以上に己を卑下することはないと…各家紋の木型をプレゼントすることでオニキス達に示すことに不本意ながら示したばかりだ
だから権威付けをするなと俺に侍る事を禁じていた、
それを破っても玄武への罰は軽くした
その覚悟をする前だった川獺への罰は重い
俺の意思1つ…不平等な事をしたと後悔も押し寄せてくる
まあ、
今後も侍らせる気はないが…
何か理由があるならば権威付けになろうとも許そうと今、覚悟が決まったのだ
「オリゼ?」
「何でも御座いません。
…ではお手数でしょうが、そのようにお願い申し上げます」
「…っ、おい?」
そう言うなり…
オニキスに構わず歩き始めた俺に、焦った声を出す
手当てをするとしても、
俺がオニキスより早く歩き出すことは有り得なかったからだろう
いつもなら…
オニキスの半歩後ろを歩くために俺はオニキスが歩き出すのを待つ
「何でしょう?」
だけど今は違う
俺は既に数歩歩き始めている
オニキスは俺が一目を気にすると分かっているから
何事かと興味津々の視線は、
先程よりも近い位置から刺さっている
それに、気づいたオニキスが
俺を追うことに躊躇いが生じたのは…
足を止めたままなのは、俺への配慮だと俺も分かっている
今更見られているのだから意味は成さないと
…溜め息混じりに
背後から掛けられたオニキスの声に足を止めて答える
「何でしょう…って、お前…」
「はぁ…勝手についてくれば良いでしょう?
友人が友人を追いかけることに、何の憚りもありません」
愕然として立ち止まったままのオニキスを振り替えって、
付いてくるのも構わないと口にする
俺がオニキスの目の前を歩くこと、
学園生…同じ立場として振る舞うと意思表示をしたことに
やはりオニキスは目をしばたいて驚いていた
俺を追いかけることも、
後ろを歩く形になったとしても止めない…と
俺はそう、言ったのだから
…
「…オリゼ、いいのか?」
「構いません、覚悟を致しましたので」
疑問を呈しながらオニキスは
こうして追い付いてきて俺の横を歩いている…
俺もオニキスの半歩後ろを歩くためにと、歩みを遅めはしない
こんな状況を一目に晒すことになったとしても…
既に玄武を普通の学園生として公然と侍らせた昨晩の前例もある
それもこの光景も…直ぐに噂になることも分かっている
遅かれ早かれ覚悟を決めなければならないと分かっていた、
ならば致し仕方ないと諦めが漸くついたのだった
…
…
その後、
特に会話をすることもなく講義棟に入り教室の自身の席に着いた。
オニキスは目の前のカルサイトの席に後ろ向きに座って、
俺の方へ向いている
手当てするための道具を俺の机に並べてから…
俺に手を差し向ける
「…ほら手出せよ」
「はい」
大人しく、
そのオニキスの手に右手て差し出せば…
珍しいとばかりに眉をひそめる
なにも俺はオニキスの言葉に
…素直に従ったわけではない
時間は惜しい…
その切迫感は消えたわけではないのだ
手当てしてくれることに有り難さを感じないわけではないが、
早くすませてくれるに越したことはないからだ
「…やっぱり腫れてるな、
お前の今日の講義…剣術あるんだろ?」
「…御座いますね」
俺の手首を観察して、
処置をしながら言うことがこれか…
剣を持つには、
宜しくない状態だと俺に言いたいらしい
先程カフェオレを少しの距離、
運ぶことすら懸念したオニキスのことだ…当然といえば当然の発言か
「悪いことは言わないから休め。
万年筆…いやガラスペンを持つのも、本当であれば俺は勧めないからな?」
「…」
「オリゼ、次いでだから左も見せろ」
「…不要です」
もう治り掛け
それに…過保護だ、手当てするつもりだったのは右手首だけではなく左も?
先程珈琲をサーブするためにトレーを支えることは看過したのだから、
気にしていないだろうと、
手当てしなくても良いだろうと高を括っていた
が、
とんだ思い違いだったようだ
「なんか言ったか?
治り掛けで油断してるだろ…」
「…油断ではなく不要です」
本当に不要なのだ
昨日処置されてから、状態は悪くない
だからこそ今処置が必要がないこともオニキスは分かっている筈
面倒でしていないのもあるが、
今日の晩…侍従服に着替えるついでに自分で手当てしようと思っていた
「…昔のように無茶しないと分かっているから、俺も最近はあえて口や手だしはしない。
が、マルコに告げ口したって良いんだぞ?」
「…分かりました」
散々既に迷惑を掛けている、
そんな殿下の気を使わせることはしたくない
新たな右手首の負傷を隠し通せなかったとしても、
侍従業務に支障はないと…処置や管理は侍従として出来ていると言うつもりだ。
それが、
事前に重症であると…
治り掛けの左腕は手当てしていないとオニキスの言葉が殿下に伝われば、
侍従として体調管理を故意に怠ったという話になり…面倒な問題に発展する
まあ、
左はともかく…晩まで右手首を放置しようとしたのは
紛れもなく事実だから…言い逃れは出来まい
「これでよし。夕方まで薬よ効能は持つが慢心するなよ?
…絶対に剣術は休め、走るのも駄目だ」
「畏まりました」
剣術の時間…休むとすれば、
その間勉強すれば良い
無理をすれば、次の剣術の講義も欠席しなければならなくなる可能性は否めない
評点が下がるのは阻止したいし…
オニキスとラピスとの夜の練習の再開も、
また延期になってしまった…
だから、流石に講義を休む選択肢は、俺としても…
言われなくても一応はあったのだ
「…俺は部屋に帰るからな」
「手当て、有り難うございました」
「ああ…あまり無理はするなよ。
言ったところで効果は少ないと知ってはいるけどな…」
「…承知しました」
素直に手当てされる、
そして先程の一目につくと知った上で隣を歩いた行動…
その俺の変化に、
少し戸惑いを残しながらも
俺が予復習の準備をし始めるのを見て、オニキスは教室出ていったのだった




