侍従講習10
…
べしゃり…
一気に排水すれば床に落ちるその姿
水を吐くこともなく、
糸の切れた操り人形のように静かに横たわったまま
少し長くし過ぎたか…
冷や汗が背中を一筋伝っていくのを感じながらも
呼吸の確認のため、
密閉効果を…魔方陣を手早く解除して中に急いで入る
…
「…っ」
…ない
仰向けにして鼻に手を当てるも、
呼気が感じられない。
危惧した通り、
呼吸が止まったようだ
水に濡れた服、
その増した重みにも冷たさにも構うことなく
背中側から抱き抱えるようにして
合わせた手をあばら骨の中心より少し上で組む。
…持ち上げるようにして圧迫する
「がふっ…げぼ…うっ…」
止まっていた呼吸が、
首筋に人差し指と中指を押し当てて確認すれば
オリゼの止まっていた脈が、心臓の拍動が戻る…
これで一安心だ…
それにしても
魔力を封じていない、
枷を外すことも禁じていないのにも関わらず外さなかった…
ただ魔力の方は…陣を発動させていることは分かっていた。
抑制する部類のものであろう、
講習の初めからそれは分かっていた…が
此処まで発動させ続けるとは、
魔力操作と練度が保つとは思っていなかった。
最初こそは水面に向かって泳いだ。
遊びのある足枷があれど、
上に空気を求めて格子を掴み、呼吸を確保していた…
それを、
俺の悪癖に乗ることを決めたらしい
ロフトのように上がれる水牢の天井に同僚が登って、
手を離せと言ったのだったか?
…
素直に離すと沈んでいった
回を重ねる毎に上に上がる努力もそぞろに…
先程に至っては頭上まで水位が上がればただ水中で漂うのみ。
普通限界であるだろう時間になっても暴れない、
苦しさから喉を掻くこともない
陣の効果を保ったまま、
ただ耐え忍ぶ。
…まあ、全く兆候が無いわけではない。
暫く経てば、
魔力の発現が消える気配。
その後…力なく少し暴れるだけで、それ以外の目立った動きはない
限界を察するシグナルはあるにはあるが
魔力操作も出来ずになるまで…
陣の効果が切れるまでは静かで指針となる材料に乏しいのだ。
それにしても
魔力が練れなくなる、つまりは意識が正常に保てなくなる程の脳の酸欠…兆候とレッドライン迄の時間が短い。
だから、留意はしていたのだ
命の危険があるからこそ排水の見極めには細心の注意を払っていたのだが…
…
「ごほっ…はっ…」
更に注意を払いながら沈めた。
そして水を抜いてやれば咳き込み続ける様子…
その反応に、やはりもう限界かと思い確認すれば…
生気の戻った目に宿るのは、
生理的な涙
それと剣呑な視線
…まだ屈することも落ちることも無さそうだ
「やはりまだ足りないか…」
充分に御座います…
囁くような音量で溢された、
哀願するその言葉に耳を貸すことなく
魔力によって鎖を、足枷の遊びを無くすためにそれを巻き取ってていく。
オリゼの意思は反映されなくなった。
実行せずとも、試さなくとも水が張られても手足は床から浮くことはもうないことは明白。
足枷に繋がる鎖を巻き取る毎に体が床を引き摺られていく、
それと同時に…正座を強制させる。
数本ある内の、
まだ使用していなかった床に這っている鎖を操作したからだ。
更にそれに加えて…
太股の上から床にビタリと張り付いていた水に濡れた革のベルトも
操作してオリゼを床に縫い付けていく
圧迫感に…
恐怖か…
殆ど可動域の無くなった拘束に
歪む顔…
呼吸が整っているか…
身体に異常は見られないかと、その確認の為に
手を添えて覗き込めば…
明確に反抗心だろうな、
理不尽な、査定にしては行き過ぎた罰への抵抗か…
口で従順に見せ掛けたとしても、その目が語るのは…
剣呑を通り越して熾烈な抗い
…その物だった。
「言い忘れてたが、次に水を張るのは僕らが君の進言を受け入れないと思った事に対して。責任を取れる取れないに関わらず言わなかったのは、
…やはりそもそも父や僕を信用していないからだろう?」
「そのよ「御託を並べていたが…僕には聞き届ける事が出来ないと、深層心理ではそう思っていたのではないか?何処かで父や僕を疑わなかったか?」…そのようなことは…」
「そのようなことは?
…本心からそう言えるか?」
「っ申し訳ありません…」
「言えるかって聞いてるんだ」
「…申し上げられません」
語尾を強めても、
頑として認めない…
認めにくいのは分かるが、
頑固な性格が仇となっているのだろう。
どうしたものか、
あまりやり過ぎれば査定の域を逸脱することになる。
既に…超えているか?
いや、これは…罰であって、拷問ではない。
が…
こうも意地を張られてはな…
「そうか、やはり…私も侮られた物だな」
ずっと黙っていたと思えば、
遂に口を開いた同僚。
その声がロフト、水牢の上から響く
「そうですね…百歩譲ってそう考えていても、父や僕に悟られるようでは侍従足り得ない」
「…!」
助け船
当主役の同僚からの発言に、
言葉を重ねれば目を見開いて言葉を失っている姿
平静を保つためだろう…
先程から度々魔方陣が発動しているのは知っている
今は、
覚醒したばかりで掛け忘れているらしい
そのお陰か、感情の機微は面白い程に顕著…
驚愕の表情を浮かべる様子は、
先程の頑固な性格が垣間見得る人物とは別人のようだ
…漸く、堅牢な城が落ちる
体が限界だろうにな…
後1、2度で済ますことが出来そうだと胸を撫で下ろしたのは秘密だ。
「さて、反省できるように水を張ろうか」
「はい」
「ほら…震えてないで。侍従としての初歩の初歩が出来て無いんだ、教育し直してもらう機会は要らないのか?」
「…おねがいします」
気落ちしたのだろうか?
侍従になれないと、
まるで査定の不合格を通達された様に…
陣が発動していたとしても
ガックリと肩を落として頭を垂れる様子はもはや憐敏。
先程の頑固な、熾烈な…そんな燐片もない、
同情すら誘う姿だった
…
水がまた張られていく
足元が、
強制的に正座させられた腿の半分以上がもう浸かっている
信用…信頼か、
この短期間で育まれるはずもないもの。
それでも、
主従関係において一番重要である事
…それに疑念を抱いたと、
そう示した行動を取った事を悟られないとでも思ったのかと
責められれば何も言えなくなる…
…
査定の結果云々の問題だ。
それ以上に侍従見習いの資格すらないと…
先程の詰問の中でも言われなかった言葉
…遂にそう判断され、言われたに等しいのだ
嫌でも何でも、
侍従足り得る機会があるならば受けるしかない。
この様な評価を受けたまま…
このまま終わる訳にはいかないんだ。
短い間でも…
殿下の傍仕え補佐役として仮にも仕えてきた。
…己が許せない
指導してくれているアコヤさんの顔に泥を塗った
何より
何よりも…殿下に申し訳が立たないじゃないか
既に鎖に遊びはない
泳ぐことも、浮くことも叶わない。
座位以上の水位になれば…
呼吸は出来なくなる
押し殺した感情が、掛け直した筈の陣の効果を上回ってくる
それでも状況は待ってくれない…
下げた顔の視界
濡れた服…が
座したままに固定された足が、
身体が再び水に呑み込まれていくのをただ見るしかなかった
…
「けほっ…」
「辛そうだね?」
「…そうでなければならないはずでしょう」
「懲りないか…
まあ僕の気は済んだけど、父はそうでないみたいだね」
「…申し訳…ありませんでした」
外からガラス越しに、咳き込む姿を観察する…
口が過ぎるのは治らないようだが、
そこには険や嫌みなど含まれていない。
当然だとでも思うような口振り
…もしや、
本当にそう思っているのかと疑念を抱く
実際此処までの罰を与える酷烈な状況ならば、
単に首になるか
私刑で終わらない役所に突き出す問題。
査定の一貫として、
何事も極端に執り行っている…
まさかな…
上級貴族の子息でもあるのだ。
蝶よ花よとまではいかないが、
この様な事は家業にしていない限り畏怖する…
はずだ…よな?
邪推、
思考に浸っていると後ろから衣擦れの音
振り返り…
役割を譲るために半歩退いて見せた
「精神力が強いな?
死の恐怖に抗ってまで拘束を解かなかった理由は?」
「反乱狂になるまで、毎度水を張り続けられた訳ではございませんし、限界を越える前に必ず呼吸は出来ました。
繰り返し命を奪う事が目的でないことは示して頂けていましたので…」
「…一度は呼吸が止まったようだが?」
「自制出来る限界でした、
それが罰足らしめる…加減なのでしょう」
実際に魔力操作出来なくなるまで、
魔方陣の効果を上回る感情に翻弄され…る
更に薄れていく効果、切れて暫くすれば水は抜いて貰えた。
意識が完全に飛んだのは最後から何番目かの一度だけ
呼吸が止まった時だ。
それでも…完全に反乱狂にならずに済んだのは、
きっと講師に加減がなされていたから
水中で暴れまわったことは事実。
働かなくなる思考と、
舌の上に刻まれた魔方陣が発動して魔力操作が出来なくなった、魔方陣が度々失効した
感情抑制しきれなかった分…
皮肉なことにそのお陰で、今は抑え易い。
後で、魔方陣を解いたとしても取り乱さず、平静も自我もなんとか保てるだろう
「ふっ…まあそうとも言うな。
いつも何処か生気の無い目をしている君にはそちらの方が効くだろう?
限界以上に溺れさせて呼吸を制限させても良かった、手法としてはそちらもあるのだからね」
「…はい」
「今日はもうこのまま下がって良い。休みなさい」
「畏まりました、感謝いたします」
次はない
そう言われた台詞と共に
外された枷。
開放される扉に、なんとか立ち上がって御前を辞したのだった…




