昇級14
漸く、
漸く…解放された。
自室から…
そして湯あみを終えて寝間着同然の姿のまま父上に謝罪するために執務室へと運ばれて…
それが終わって部屋に向かう今ですら、
情けなくも、未だに狢に抱き抱えられている。
そんな恥を晒しながらも思う…
あの後は基本的には甘やかされた。
兄上にとっては優しさであっても、受け取り手には失態を抉るような傷に染みる扱いにしか思えなかった。
…諭された。
怒っていると言ったのは本当だった…
俺を暖炉に押し込めることも、
凶悪な枷を施すこともなかった。
手付きも、表情も口調も普段の兄上に近い優しさが籠ったもの
━
"手当てし直そうか"
そう言って、
湯浴みさせてくれた狢を部屋から追い出して…兄上に包帯を巻き直された。
"素直に甘えて欲しい"
そう言って…ジェイデンに嫉妬したと、
兄上に優しい言葉を掛けられて夕食を楽しんでいたことを。
一緒に俺も、
食事を摂りたいと言わされた…
"オリゼが自身を大切にしない分、俺らが大切にする"
そう言って、食後には甘味を
式の余り物ではない…
玄武によって差し入れたれたと言う人参のパウンドケーキを兄上によって口に含まされた。
"式の余り物で良いと言った筈だって?
そう、玄武を怒ろうとしているのは分かるけど…オリゼを心配する傍仕えのその気持ちを無下にするの?"
そう言われれば…
怒る気等失せていく。そして差し出されるままにほのかな甘味のする美味しいそれを口にするしかなかった
"良い子にしていれば、
今度勉強の手伝いをしてあげるよ?戦術の考察…行き詰まっていたよね?"
そう言って…
起き上がられたと思えば、
目の前に用意されていく目の前には家紋の透かしが入ったステーショナリー
高級インクに兄上愛用の万年筆
"下書きの紙は此処にあるよ?
消耗品だ。無駄にはならない、過度に己を貶める行為は認めないよ?"
質の悪い、
俺のインクに雑紙を求めるように顔を兄上に向ければ…
勿体ないと、
高級なそれらを…惜しみ無く使えと。
動かずにいれば、終いには問答無用で兄上の万年筆を握らされた。
"書けるようになったんだね。
ここと、ここ。これを直せば清書、出来上がったら俺が父上に渡しておくよ?"
苦手な謝罪文を、
貴族の形式に乗っ取った文面で令嬢と伯爵家への手紙を書かされた。
"この前、
オリゼに似合うと思って注文しておいたんだ"
差し出されたそれ…
要らない、
そんな言葉が一目みて、出そうになる。
俺には似合わない…
高級過ぎる物だった…
綺麗な雫石、
カットが高度な職人技によってされたことで少し揺れるだけで…
まばゆい程に光輝く
俺の銀髪に似合う様にそれを装飾するのはプラチナか…
良く見れば小さくも細いそれには家紋が入っている、
…技巧とも言える紋様が掘られていたのだ。
"着けてあげるよ?"
受け取り拒否も、
仕舞い込むことも念頭には置かせないという兄上の言い様。
左耳を髪をかきあげられ、
晒されて…
小さな痛みで共にその高級ピアスが己につけられた事が自覚できた
それもこれも
兄上の策の中…狢によって
らしくなく長湯させられて更にぐったりとした身体は兄上のなすがまま。
身体を支えられながら食べさせられ、
プレゼントで甘やかされ…そして書かされた。
…そう、俺に無駄な抵抗力を奪わせるためだったと気付かされた。
己を大切に扱えと、
何度も含みを持たされて言われ続けたのだ
━
全て、
その優しさは厳しく俺を断糾させる一面を持つと…逆効果にもなると知ってそうしたのか…
そして、
兄上の言葉を復活する天邪鬼で否定しようとすれば、
いや…拒絶しようと思っただけで…
魔力を脅しのように纏うのだから勝ち目はない。
逃げようとする気も起こらないように、
少し身体を反抗的に動かせば…狢特製だと言う、
苦手な薬湯をその度に飲まされる。
どれだけ努力しても…やはり実力の差は広がったのか縮まったことすら分からないほど、
その実力差は
深く広い海溝のように…覗き込んでも深淵が見返してくるだけ。
そう、
つまりは掌で転がされ続けた。
勿論俺には享受する選択肢のみ…拒否権は
抗う術も力も元より無かった…
そんな思考に深く潜っていた…
狢によって、
抱えられた俺はもういつの間にか自室に戻っていたらしい…
「貴台?」
「狢…どうした」
「目が、もう…瞼が閉じかけています。
…このまま御休みになられますね」
「ああ、悪い…そうしてくれ」
言葉は侍従らしく柔らかいが、
問いでない断言…狢の中で既に決定事項なのだろう
疑問符のつかない
その言い回しは強制力を持っているように感じられる。
「…言霊の力はやはりありましたね。
こんなに早く"世話"をさせて頂くことになるとは思いもよりませんでした」
ポツリと、呟きが落とされる。
久しぶりに聞いた狢の声
その冷たく事務的に言い放たれた言葉に…
兄上が狢に怒られろと言っていた理由が分かった。
いや、
想像していた通りだと言うべきか…
体調を崩す事を予測して狢を休ませたわけでは決してない。
ブラックジョークで言ったものが、
現実になっただけのこと。
…それもこれも、全ては俺のせいだとは分かっている
理由を素直に言えば、こんなことにはなっていない。
原因も…
少し立ち回りを、
言動に留意すれば父上の手を煩わす事もなかった
それが心の何処かで否定仕切れないからこそ、
皮肉その物の狢の呟きに…
異論も誤魔化す気力もおきては来ない
…この仮面の下で、
例えその様子が垣間見えもしなくてもだ…
狢が俺のことを心配していることは想像に固くないからだ
「迷惑…いや、心配かける。
…そういえば今は夜か?あれから…何日経った?」
「ええ、今23時を過ぎましたね。
…一日です、当主様の書斎に詰問されに向かわれたのは昨日の午後の事に御座いますよ」
「そうか…
てっきり3日は経っているのかと思い込んでいたな」
「…左様で御座いますか」
体力が落ちきっていると思ったが、
ただの疲労らしい。
…
あの暖炉に居たのは一日にも満たなかった…
今後の俺の予定まで考慮して行う兄上の手腕には…
ある意味感心もするが、
今もまだ何処か畏怖の方が強く残っている気がする…
疲れたな…
眠そうであることを指摘されて更に眠気が強くなってくる。
湯に浸かったお陰で冷えは芯から温められた一方
無理な体勢と緊張で疲弊した体は倦怠感を顕著に訴えてくる
…
厳しい顔をした狢に、
表情とは正反対に背中に薬を塗り包帯を巻く手付きは…
ベット迄運ばれていく振動の抑えられた足運びも、
…狢らしいとても優しく労りのあるものだった。
…
担当侍従達に怒られること数日…
そして
夕食を共に出来なかった御詫びに一日…
予定を空けて、
邪気の無いジェイデンの相手も終わった…
…
学園の勉強も剣の練習も滞りなく進んでいった
やることは、終えた。
後は…
侍従の短期講習と査定を受けるだけ
今日はその出発の当日だ。
が、
あれから何日も経つというのに狢の能面は剥がれていない…
手当ても受けたし、軽症だったみみず腫もとうに消えた
薬だって…飲んでやったし、
睡眠時間ですら言うことを聞いてやったにも関わらずこれか?
「御無理はなさらないで下さい」
「…分かっている」
「何がお分かりなのですか」
「無理をしなければ良いのだろう?
お前らがいない上に侍従の立場なら自己管理くらいするに決まってるだろ」
「それは…私め達が居るが為に、
"安心して"無茶をして体を壊すような事をされると言うことで宜しいでしょうか」
「悪かった」
「根を詰めて課した課題をこなされていたでしょう…」
「…日があまり無かったんだ。
その余裕を無くしたことも、自身が招いた事だと理解している」
「お分かりになられていて…何故そ「狢、そこまでにしといてやれ」…烏?」
「狢、立場を考えろ」
「烏…なれど」
「…甘えて体調管理が疎かになるのは我等に頼っている証拠だろう?心配かけるし己を大切にしろとも思うが…
言い換えれば信頼されているんだ、それと管理するのは本来侍従の役目だ」
「…責めを負うのは侍従の役割を全うできなかった私め達ですね」
「ああ、責める相手が間違ってる」
少し離れた場所から黒い笑みを浮かべる烏、
そしてそれを見返し薄く笑う狢
眉をしかめながらも、
軽く頷く玄武に…
縮こまってる川獺、どうやら俺の援護は来ないようだ。
「成る程…流石烏ですね。
では私めの力が及ばなかっただけの話…そういうことですね」
「我等の力がな、それを責め問われ無いだけ有り難いことだと思わなければ」
「ええ、幸せなことで御座いますね…
更に"心配事"が減れば、尚良いとは思いませんか?」
…
これ以上狢が自身を責めるような事はされては困る
それを示唆する烏の思惑は…
そうさせたくないのであれば、手に余る無茶はするなと…
結局は俺自身に体調管理をしてくれと言うことに他ならない。
それが出来ないのであれば、
侍従の自身達の責任になると脅しているのだ…
そしてその責を俺の手で払わせろと
立場を逆手にとって、
良いように解釈し始めた烏
その意図に気付き、煽り始める狢…
…こうなれば結果は見えている。
ある意味…経験則でもあるのだが…
狢より知略に長ける分、
攻撃に転じられたら俺は言い訳じみた主張を議論をすることすら出来ない。
烏と同じ土俵に上がれはしないのだ。
「…そうやって間接的になぶるのは止めてくれないか?
充分言いたいことは分かったから、玄武も黙ってないで二人を止めてくれ」
「御命令であれば黙らせますが?」
極寒の、
命令されれば動きはする。
つまり…この玄武も八咫と同様の意見?
口にしなかっただけで、
いや…黙っていただけ我慢していた?
俺を責め立てないように手加減しているのだと…その声音に脳髄に水を掛けられたように理解が至る
「…いや、玄武?」
「申し訳ありません。
そろそろ参りましょうか…川獺、荷物を」
「はっ…はい!」
後ろ髪を引かれながらも、
玄武に急かされて馬車に乗る。
日も上っていない早朝、
父上達には昨日の夜挨拶は済ませてある
これが終わればこのまま、
…結果がどうであれ学園生活に戻るからだ。
「で、玄武…どうした?」
「申し訳ありません」
「理由を聞いている、不敬に取らないから言ってくれ」
「…何を好き好んで主人を侍従にしようと…進んで行動をする傍仕えが居りますでしょうか」
「成る程ね、ただの送り迎えの付き添いだと思えばいい」
「…左様で御座いますか」
「納得出来ないなら、今からでも一人で向かうよ?」
「貴台!」
「冗談だ。それが出来るならそうしてる、ああ…する気はないよ?皆に…特に玄武と川獺には無理をさせて申し訳無いと思ってる」
「…悪ふざけが過ぎます」
「玄武」
「ただ業務を遂行致します」
「まあ玄武はそれでいいか…川獺、気にしなくていいからね?」
「貴台…僕は」
「そもそも俺の立場は何なんだろうね?
馬車で乗り付けて、侍従を引き連れて侍従になりに行くんだから。その地点で査定をクリアできる気がしない」
「…本当の意味で主人の立場に立って考えられる侍従がいても…僕は良いと思います」
「成る程ね、その練習とでも思えばいいのか、主人ごっこか…」
「貴台はまごうことなく、主人であられますが?」
「分かってる」
川獺のフォローを、
一線を越えてまでされた気遣いを一蹴する玄武に溜め息が漏れる
…この信者めいた言動と行動は、
俺には身に余るんだけれど…それを否定すれば、
どうなるかも経験から知っている
「あの…」
「川獺気にするな…玄武もそろそろ普通に戻れ。
傍仕えが部下を困らせるな、割り切れとまでは言わないけれど呑み込めるだろう?」
「…不出来な侍従で申し訳ありません」
「…玄武、俺の傍仕えは何処に出しても恥ずかしくないと思っていたが?」
「御意に…」
不出来な侍従と言うことで、
割り切る気はないと言いたいのだろうことはありありと分かった
だが、それを認める気はないと
暫く…視線を強めながら玄武にそう言えば、
漸く…
了承する言質が取れた。
…
穏やかな田園風景もとっくに過ぎ、
街並みが続く
もうそろそろか…家々の作りが次第に城下の物に近づいていく
窓の外を行き交う人々の身なりも良くなり、
先程通った騎士も階級が高そうだった。
つまり…
城下近くまで、目的地は後幾ばくの時間もないだろう…
こうして馬車に揺られながら乗っているのも少し
いよいよだと…
そう考えてふと思った
「で、川獺…どんなところなの?」
「貴台?」
「川獺も通ったことがあるのだろう?どんなところだ?」
「…その」
「川獺…どうした?」
「」
「玄武?」
「…貴台、不肖の口からはとても…御無事を御祈りするのみで御座います」
「…いや、死地に向かう兵士じゃないんだけど?
ねえ、川獺?」
「…あの、正気を保つには心を無にしてください!」
「二人とも…本当にどうしたんだ?ただの講習と査定に大袈裟すぎないか…心配してくれてるのは嬉しいけれど」
「「…」」
らしくないな…
顔を見合わせて、
黙り混む目の前の侍従二人に眉を潜める
知識はあった方がいい
それが思わしくなく、筆舌に難しい物であればあるほど
…講習と査定の障害となり得るならば尚更
「…玄武吐け」
「貴台、申し訳ありません」
きっぱりと断る様子に、
流石に青筋も立つと言うものだ…
聞き出さなくて良いものであれば、
些末な物であればここまでは…こいつらの意思に反して口をつぐむ内容を聞き出そうとは思わない
が、もし聞かず、知り得ず…
それが要因で査定をクリア出来なければ、
…俺が俺を許せなくなる。
兄上に申し訳が立たなくなる
家や殿下に迷惑をかけることになる…
だから、
だから利用できるものは利用する。
仮の主人の立場を使ってまで…意思を通すべきだと思う事にした
「玄武、お前は俺に御随意にと言ったな?
川獺…俺の求める情報を持ちながらも、命を無視して秘匿するのは侍従としてどうなんだろうな?」
「…分かりました」
「川獺も…言えるな?」
一文字に結ばれた口元が、
拒否反応だとしても…玄武の頑なな様子に溜め息が漏れる
…そして川獺はというと
馬車の隅に、返事もせず項垂れた小動物のようにいるが
容赦するわけにはいかない…
玄武に要求したものを川獺に免除する気はないと示せば
…僅かに身じろく
そして、小さく頷いた様子を確認してから、
玄武に視線を戻した




