帰省36
「貴台、御時間になります」
「そうか…」
時計を見ればこんな時間になっていたか…
戦術書を読んでいれば、
早く起きたというのに母上との約束まで後少し
後ろ髪を引かれながらも
栞を本の中程に、
玄武の声に閉じて立ち上がる。
…
母上の居室に伺わなければならない、
昨日茶室でそう指示を受けたからな…
仕方ない…
そう思いながら既に玄武によって開かれた扉に足を向ける
急かされている、
いや…母上に礼を失しないギリギリ迄本を読ませてくれたからだろう
時間に猶予はないと示しているだけ…
その言外の玄武の行動を察して足早に廊下へ出た
…それにしても己の未熟さには辟易とする
早朝…
素振りや魔力の練度を上げる練習をしてからは
湯浴みも湯に浸かること無く手短にした…
既に朝、昼食も簡単に、
昼下がりには形骸化させたティータイムも済ませた。
ここ最近慣れた苦味のピールが含まれたマーマレード、
スコーンを両手で割り
バターナイフを使い玄武達が過度に心配しないように間食も紅茶も…
時間は有限だ、
本来ならば数冊、いや数頁…少しでも知識を増やす為に読書の時間を確保したい。
唯でさえ剣術の練習に、
体力作り…魔力の鍛練と学園の予復習に時間を割いていて少ないのだ…
…早く続きを読まなければ、
居室の本棚にあるということは父上が用意された物は私にとって身につける常識で、理解出来て当然…
貴族に類する者として求められる物なのだろうから。
だから…
居室にある礼儀作法関連を読み終えた、
今日からは戦術のカテゴリーのものを手に取った
それなのにだ…
危惧していた通り、体たらくに時間を浪費していたせいで、
長々読み進める事すら難しい。
難しい内容ではない筈、
父上が理解して当然だと求められたレベルの本である筈なのに…
やはり理解能力も知識も足りず、
回転の悪い頭で読み進めるのに時間が思いの外掛かっている
そう…
今日は朝からあの一冊、
それも読み終えてすらいない…のだ
参照用の難易度を落とした物を、
専門語は辞書を引き、解説書代わりに教本や入門書を傍に用意して何度も見ながら読み進めているせいで。
…続きを早く、
本棚にはまだ触れてすらいない場所がある
歴史書や家系図も手に取っていない
早く読まなければと、
気が急いているにも関わらず中断しなければならない。
それもこれも…
…母上が兄上らしくもない姿を見るため、
そう仰った、地下牢に行かなければならないのだから仕方ない…
あの言い方であればあの独房に居るであろうことは察している。
そこに共に行く約束だが…
既に…
見たことも無い程取り乱し、
自身が知りえる限りらしくなかった…麒麟に連れられて行った姿を見ている。
兄上のらしくもない姿を見させるためであれば…
それはどの様なものであるのだろうか?
…
態々母上が足労して下さる…
つまりは何か別の意図があってだろうが、
日を改めて迄、私に何を見せようというのだ?
…
ココン…
「…母上、オリゼが参りました」
「あら、もうこんな時間?…御入りなさい」
そんなことを考えていれば、
既に玄武が私の来訪を伝える。
扉を俺の代わりにノックをしていた…
それに意識を戻し、入室許可の言葉を口にすれば
内側から…麒麟によって開かれた
…
そこには見慣れた母上らしい、
いつもの通り上品な和の国の落ち着いた調度品で設えられた居室が広がっている
「オリゼ、少し座っていて?」
「…はい」
指し示された場所に座る
そこは小上がりになった和室
畳の上に敷かれた座布団の上に正座する…
黒檀の、
足付きの将棋盤の前に…
「もう…意地悪ね、
時間になっていると知らせてくれても良くて?」
その盤上を挟み向かい合った、
片手に持ったそれ…手なりに本を畳に置くと…そこに座る母上が立ち上がり麒麟に振り返り言葉を発する
「…私は御伝えしました」
「麒麟」
「貴女様が…棋譜や、詰め将棋の本を片手に盤上から意識も視線も離されなかったのですよ」
「…そうだったかしら?」
呆れ気味、
そんな感情を隠すこともなく麒麟は母上に憮然として言い放つ
そんな事言われた記憶はないと思い返す母上に対して…
更にその表情は溜め息と共に諦めのものになっていく
「口答えとされるのでしたら御好きになさって下さい…」
「そんな意地悪を言わないでくれるかしら?」
「口が過ぎました、御許しください」
「まあ…意地悪と言った意匠返しかしら?
本当に、麒麟は私に厳しいのですね…」
そう言いながらも、
空気は穏やかなもの…
麒麟が歯に衣など被せなくとも、その言葉に咎め等しない証
この屋敷の多分に漏れず侍従にある程度の自由を許す風潮は此処にも健在、
傍仕えである麒麟に母上がそれを許しているからだ
…
…
暫く…
奥の部屋に麒麟と
言い合いにも似た会話をしながらはけて行った…
軽く身なりを整え直したらしい母上と、
見たことのある景色のなか歩いている
橙…薄い山吹色に近い絹の打掛…
その揺れる裾を追いながらも
連れられ、
たどり着いたのは記憶に新しい突き当たり
薄暗くなっていく…
底冷えする石畳を音を立てながら行き止まりに向かっていけば、
開けたままの格子戸から
何やら話し声がする
…兄上だけではない、
父上と…白虎らしい二人の姿
そして声が鮮明になっていく…
「反省したか?」
「父上…」
「殺魔石も札も施していない、
もう実力的には私を越えているだろう…抵抗するならばして良いぞ?
当主を殺せば決定は裏返る、弟に継がせることもない」
「…出来るはずがありません、
それにオリゼが皆が悲しみます」
私?
継がせる?
当主を…父上を兄上が殺す?
どの様な会話の流れで、
このような会話ををしているのだろうか…
数歩前に立つ…
部屋を出てからは何も言われない母上
先程その母上と麒麟による口論、
そこにあった穏やかさは無い
…やり取りとも言えない言葉による闘いだ
そんな異なる空気
真逆で双方が魔力も…
兄上に至っては霊力も惜しみ無くその体から発せられている
緊迫、
びりびりとした殺気にも似た張り詰めた空気がここに充満していた
「そうか…人形が人の心を手に入れたか。
その為に弟の、人の心を壊した。そしてまた人形に戻るつもりか?」
…人形、
もしかして父上は兄上のことをそう表現しているのだろうか…
それならば
茶室で、あの時話して下さった兄上の物語はなんだったのだろうか?
他の人たちと比べ感情が希薄でも
畏怖もせず、疎外することもなく慈しんで見守っていたという両親は?
父上は…
もしや兄上のことを何処かでそのように見ていた…?
悲劇か喜劇かと聞いた答えが、
明瞭でなかったのは本当はやはり…人形であると父上達に思われている事を察しごまかすものであったのか…
…
今まで隠してきたそれが、
怒りを切っ掛けに遂に発露してしまった。
…とすれば筋は通るものの
父上がその気持ちを隠していれば、そもそも頭の回る察しの良い兄上がそれを普段から感じない筈はないのだ
それに釈然としない
今の今まで隠して来たそれを父上が…
理性的で厳格な1面も持つ貴族の当主を務めている人が、
怒りに任せ…
感情を抑えることもせず果たしてこのように吐漏するだろうか?
「弟に代償を払わせてまで手に入れたもの、
手放したくとも手放せるはずもありません」
「そうか、てっきり戻ると言うのかと思っていたが…」
「…父上、本来器ではないことは分かっています…ですがオリゼに三男に負担を掛けたくはありません。
過ちは二度と犯しません…後継ぎとして再び認めて頂けませんでしょうか」
代償とは何だろうか?
私が払ったものなど無いと言うに…
廃嫡になるような事を兄上が、
何をしでかしたというのだ…
昨日の今日で、
このような事態になるような過ちを犯す時間も無かったように思う
そして、
安直でその様な失態をする兄上でもない
何があった…
「当主が下した過ちによって皺寄せを受けるのは領民や部下、使用人…失策によって被害を受けた者たちに2度目はない」
「…申し訳…ありませんでした」
「オリゼの心が戻ることもない」
「っ…」
謝罪の言葉、
そしてその後の父上の言葉に表情を引き吊らせ
兄上が父上に低頭した。
そこは冷たく、
濡れている石畳だと言うのに躊躇無く膝と掌を付いてひざま付く
父上も私が戻らないと言う
心…ね。
こうして何の不自由無く思考も体も動く
少し以前より冷静になれているだけで、
このように大事に…
ん?
もしや代償、失態…俺に払わせた
そして被害
兄上が此処に来た理由は、
まさか本当に…
いさかいが起きている原因は…俺が人形になったから、
それだけだと?
私を戻せないから兄上は父上に叱責されて…
勘違いであるのに、
冤罪であるのに兄上も私が心を失ったと思い込み低頭している…
「戻ることもないのだから、負担にはならないのではないか?
手は尽くしたのだろう?それでも戻らなかったのだ、どちらの人形に継がせても大差はない」
「…父上、オリゼは戻ります。
そして戻った時…壊れます。何故そのような判断をされるのですか?可能性が無いわけではありません、
その可能性があったとき、心を取り戻したときにすぐに潰すような事は…
同じ…人形であるならば私を…」
「決定は変わらない」
「父上…ならば死を賜りたく」
膝を折り…
より一層体躯を低く侍させる
床に額付く兄上…
今なんて言った?
言葉の意味が分からない
靄が掛かったように頭が回らない、
理解…出来ない
兄上は今、
何を懇願した?
何を…
「そうか、矛盾しているな…
弟には許さず自身は良いと言うのか…私を殺さないのも心が戻った時の為、自身が当主を継ぐのもオリゼ達の為、それが叶わなければ死ぬと?
可能性とやらを信じるのであれば、心を取り戻したときお前の命が尽きていたら、それこそオリゼは泣くのではないか?」
「…どうせ出れないのであれば、
管理や維持費に手間も時間も掛かります。
代替わりすればそれはオリゼの仕事になります、そんなことはさせたくないのです」
「無気力でも、自堕落でも生きているだけでそれで良いと
私に向かってオリゼを擁護したお前がか?
…世話を人一倍したお前が?
牢に居ようと世話になろうと、命だけは捨てずにいるのが道理ではないのか?」
「…申し訳ありません」
目の前で起こる悲劇が、
劇のように止めることも出来ず舞台から遠い劇場の席でそれを見ている
そんな非現実なやり取り…に見えるそれは、
俺は…理解しかけつつも受け入れられていない
言葉を失う
止めることも出来ず、
ただ呆然と台本が進んでいく…
そして結末だ
抜刀の仕草…
初めて父上が帯刀している事に気づく
シュィ…
鞘から刀身が抜かれる音がする
綺麗な銀色が、
残酷な命を刈り取る武器が…この暗さの中でも鈍く光って
「そうか、自分勝手だな。
ならせめて最後の我儘として慈悲をくれてやる、覚悟は良いな?」
「はい」
やめろ…
やめろ…なんで父上が兄上を殺そうとしている?
何故抵抗しない
床に侍ったまま、うなじを見せたまま…
足枷1つ
抵抗できない筈がない
この前俺が此処に入った時、
手足の自由は…魔力も封じられていた。
…だが兄上は違う!
自衛できる…
父上が言っていた通り抵抗も反撃も出来る。
それなのに!
このままだと兄上が…
兄上が切られてしまう!
本当に死んでしまう!
それは駄目だ、
いやだいやだいやだいやだいやだ!
…
悪夢が蘇る
"兄"と"父"に殺されたあの時…
この場所で起こった廃嫡後の処分
申し訳ないと歪んだ兄の顔
道端の塵を見るように…恐怖しか感じなかった父の顔
俺を…最後まで見捨てなかった、
労るような目が思い出されていく…
辛かった
やるせなかった
そんな目で見ていた父と
悲しみで後悔と無力感で悲壮その物だった兄の表情は…
フラッシュバックした光景と
目の前の景色が重なって見えた
…
瞬間
体が勝手に動く…
「っ…やめて!殺さないで!」
「!…どうして此処に」
「どうして?そんなことどうだっていいでしょう!」
開いていた格子戸を走り抜け、
ぎらつく温度の無い鋒の前へと躍り出る
父上のその刃が、
兄上に届かないようにと
その一心で両手を広げ
兄上を自身の身体で…背に隠すように立ち塞がった。
「オリゼ!…こんなところで何してるの?
危ないから部屋に戻ってて?」
「兄上こそ何をなさっているのですか!
兄上が危ないならば尚更!俺は此処を動きません!」
「オリゼ…何をしている、 下がりなさい」
「父上!兄上は悪くありません。少し…冷静さを欠いているだけです!」
「オリゼ、退きなさい」
怖い…
鋭い視線が槍のように射ぬいてくる
だが、
俺は退けと言われた。
父上が俺を少なくとも害する、
その剥き身の剣で傷つけられる恐れは低い
兄上を守れるのであれば、
その恐れがゼロでなくてもこうして身体を盾にすればいい
「嫌です、父上」
「退きなさい」
「退きません、父上が考えを改めて下さるまでは絶対に退きません」
「最後だ、退きなさい」
「オリゼ、父上もその様に仰られているよ?
ほら…こんなところで何してるの、危ないから部屋に戻ってて?」
「兄上こそ今何をなさって、何を言っているのか分かっているのですか…
俺は此処を動きません!」
「オリゼ駄目だよ…言うこと聞いて?」
「父上は誤解しているんです、話せば理解してくださる筈…」
「…何も間違いは言われていないよ?
だから「煩い!兄上のわからず屋!」…オリゼ?」
「人形なんかじゃない!兄上がくれた優しさはまやかしではない。そんな風に自身を見ないで、言わないで下さい。
人の心を持ってる!こうして震える身体を折って乞うまでに私を心配してくれるのですからそれが何よりの証拠でしょう!?」
「…これは、」
「兄上は黙っててください!」
…
「…だそうだ。
良かったな、アメジス」
「…はっ?」
「オリゼの心が戻ったようだ、本望だろう?」
深い溜め息が狭い空間に響き渡る
父上の不可解な言葉に頭を上げれば
簡単に引かれていく刃
小さな背中、
盾になるには父上の姿全て覆えていないそれは…
あまりにも脆弱
俺を守ろうと脆い盾であろうとそうなろうとする弟は震えている
…俺が震えている訳じゃない
震えているように見えるのはオリゼが揺れているから…
いつから立ち聞きしていたかは分からないが
外から俺を見た際に景色がぶれて見えただけだ
そう、
俺にはそんな豊かな物は…生来無かった
感情等抑えるのは容易い
…そう、それくらい簡単に抑えられる…
出来る…筈なのにね
この弟が絡むと、それも上手くいかなくなるようだ…
「父上…兄上を許して下さるのですか?」
「毛頭殺す気など無い…白虎、外してやれ。
どう拗らせればこうなるのか…本当に手の掛かる息子達だ」
「父上?兄上?」
おろおろするオリゼに構わず、指示を出す父上を
ただ眺める
父上の後ろに控えていた当主の傍仕え…
兄上の枷を外しに来る白虎も淡々とした様子だ
それでも、
白虎が脅威になると
俺に手出しすると疑念を抱いているのか…
オリゼは立ち塞がったまま
白虎を俺に近付かせないようにして立ち塞がっている
仕方ないね…
「オリゼ、父上はそう仰っている。
俺の身に危険はないよ?」
「兄上…ですが」
「安心して、父上は悪いようにはされない」
「っ…」
お…わったのか?
兄上の危険は去ったのだろうか…
目先の危機は、
仕舞われた凶器に今更ながら足が震える
膝が笑う…
まだ、
父上は兄上を許すとは一言も言っていないのに
悪いようにはと言うことは、
何かしらの叱責を兄上は覚悟されている…
それなのに…兄上の柔らかい声に絆され、
勝手の利かない足は、
遂に自身の体躯を支えきれず崩れ落ちた
…
オリゼがより一層震えて、
そして緊張が緩んだのか床に座り込む
今すぐにでも抱き締めて宥めてやりたい…
が、視界は完全に開けた
父上の視線を遮るものが無くなった
オリゼのその背中に伸ばしかけた手、
それを降ろし握り締めて床に置く。
…その丸く縮こまり震えているそれに、触れることはまだ許されないと。
そう、
俺に向けられた父上の目は険を孕んでいたからだ
まだ終わっていない、
今も話の途中…投げ出す事はもう失態を重ねる余地はない
オリゼを甘やかす事も、
落ち着かせる動作も今の俺には無いと仰りたいのだ
「…父上、申し訳ありません」
「オリゼの事は"自らの始末は手を尽くして収めます"どうにもならなければ…沙汰をだったかな?アメジス」
「そ…の通りではありますが」
そう…出来なかった。
これ程事態の収拾に着手するのが遅れた、
次期当主としてそれは屋敷を管理する者としての責務を負えない証明の他ならない。
だから解決して見せますと豪語した、
そうするしか道は残されていなかったからね…
が、それも履行することに失敗
…俺は次期当主としての資質を示せなかった。
つまりは…
まだオリゼ達に次期当主の重責が回ってくる可能性は消えていないまま
不味いね…
責務を負えない証明に、
失態を重ねすぎて自身の首を更に絞めている状態
可能性が跳ね上がった筈だ
オリゼには安心させるため、
悪いようにはされないと言ったが…
今それをあえて今父上が問うのは…
あまり良くない兆候だ
「昨日夜遅く、書斎でお前はそう啖呵を切った筈だな」
「…力、及びませんでした。
オリゼならばすぐに元に戻せると何処かで慢心がありました」
やはり咎める為
己の過信、落ち度を確認させるため…
「ここまでだとは思わなかった?
…そうだろうな、驕り以外の何物でもない…万全の策も練らず失敗した。
その上、自身の失態を丸投げし罰まで乞うた…己を責めて貰って気持ちよくなる為だけに。
当主の手を煩わせる理由としてそれは適当なものか?」
「いいえ。
オリゼの状態を把握せず解決出来なかった事、
失敗して父上に責められれば死をもって逃げようとしたこと、
どれも私の甘えからの物の他ありません」
「才能だけでこの世が回っているのなら苦労はしない、努力は認めたのだったか?…それでも足りないな、泥や毒まで飲む覚悟や決断力、実行に移す気概がなければ何の役にもたたん」
「心に刻みます…」
そう、一理ある
父上はオリゼを守る為に取れる手段はまだあった筈だろうと、
選ぶ余地はまだあったと言うのだ。
当主を、父上を廃せばいいと…そう言葉に含みを持たせて俺に示した
何を捨て置いても守るのであれば父上を殺すまではいかなくとも幽閉すれば良い
傀儡とするのも良い
後継ぎの決定を先伸ばしにすればオリゼが戻ってくる機会も時間も稼げる
戻らなくとも、俺が当主を継げば良い
戻れば…
全て侍従や使用人の口を塞いで…嘘をついて
オリゼに不振に思われようと今まで通りに振る舞えば良いだけ
それでも…
俺自身何の感情も持っていない筈もない。
父上に手出し等出来ない
その様な策を選びとって…万が一にもオリゼに嫌われたくない。
感情を取り戻した弟に嘘もつきたくない
そう…
己の手を汚すことを躊躇った
守ると言いながら俺には覚悟も決断力もない
人としての器の違い
俺を正すために…
本気で、もしかすれば手を下させるまで…させてしまったかもしれない。
面と向かってくれた父上に、
気概は何たるかを見せつけられた。
失敗した
何事もうまく進む、
こなしてきたからこそ、こんな失態を今までしたことはなかった。
だからどうしたらいいか、
父上の言う悪手しか解決策は残されていないと分かった時…
そこからどう動けばいいか分からなかったのだ
感情を取り戻したばかりで、
父上の殺気に恐れながらも立ちはだかった。
心理的な負担は相当であるのだろうに、
それでも目の前で事の成り行きに耳を傍立てている、
目の前でおれの身を案じて震えて続けている弟に…
努力の他に見習う点はあるのだと、
そうやってぶつかれば良かったのかもしれない…
全身全霊で、
恥も外部も無く許しを乞えば…
そうか…それだけの覚悟を、
俺を…兄上を守る気概を見せつけたのだろうから
父上も剣を引いたのかもしれない。
例え目的が…
オリゼの感情が戻ったからと言って、
人形でなくなったオリゼに継がせない理由はない。
俺を次期当主として認めなければ、
剣を引く理由は無いのだから…
「アメジス」
「はい、父上」
「お前が何を考えているかは、察する…
こうすればオリゼの感情が戻るであろうことも分かっていた。
…だからな、取り返しのついたお前のたった一度の失敗で廃嫡にする気などないぞ?」
「…ですが」
「…それと機微は薄くともあった、達観した目ではあったが…人形等と思ったことは一度もない。
昔のお前も、無論先程までのオリゼのことも」
「…っ」
「アメジス、鍛えてやるから来なさい。
後継ぎとしてはまだお前は心が弱すぎる」
「…有り難う御座います」
よろりと、兄上が父上に付いていこうとする。
それを止めようと振り返り手を握り止めるも、
俺を退かして引き剥がし立ち上がった兄上
そして父上を見比べる
…話についていけない
此処を出たとして…
溜飲が下がったとしても父上は兄上に酷いことをするのではないかと、
そんな想像しか出来ない
「父上?兄上をどこに…」
「少し鞭打つだけだ、心配要らな「付いていっても良いでしょうか」…信用ならないか?」
「…このまま何処かに隠すおつもりだと」
俺を丸め込んでいるのではないかと、
父上の言葉を信じきれない。
兄上を止めなければ…
知らないところで兄上が幽閉されるなんてことになれば…
俺は…
「…アメジス」
「私は構いません。元より言える立場にはありません」
「…辛いぞ?
良いと言うならいいが…オリゼの前だからと手加減はしない」
「承知の上です」
「ならオリゼも付いてきなさ…無理だな」
仕方がない、そう言いながらも
伸びてきた手に、
父上に持ち上げれ抱えられた
後ろからついてくる兄上を腕の中から見れば、
頭を振るだけで
まるで断頭台にでも行くような顔
「父上?」
「どうした」
「あの…兄上がこうなったのは私のせいです。
だから、許してやってくれませんか?」
「許していないわけではないが…優しいのと甘いのは違う。私に裁量を投げたけじめはつけないといけない、そうだなアメジス」
「その通りです」
「母上?兄上を…」
「なりませんよ、オリゼ。貴方、私はこれで失礼しますね」
「合い分かった」
母上が離れていく…
ならば最後の頼みの綱
そう思い白虎に目を向けるも、
甲斐はなかった…
諭すような目で見つめ返されただけだった
…
着いた先は見慣れた父上の書斎
だが、何時もの空気はそこにはない
和やかに朝食やティータイムを過ごすテーブルやソファーには一瞥もくれない
父上の腕から白虎に身が渡された後、
普段にまして重厚さを増した執務の為の机に座る当主然とした姿
その前に…
力無い兄上が頭を垂れる
「当主心得の第3章」
「…当主足るもの、己の命を軽々しく捨てるな。
第1に貴族家としての責務を果たすこと」
「理由は」
「領民、使用人等への影響を無くすため。
陛下や国に対する責任の放棄
1貴族として混乱を起こすことと同義
やむ終えない場合を除き、その義務を果たすこと。己が命も私ではなく公のものと心得よ」
「当主心得12章」
「…後継ぎの決定は元当主のみ。
裁量やその決定に異論や反旗を抱くものは処罰せよ」
「理由は」
「お家騒動の防止。
継ぐ次期当主の命、施政を守るためのもの
そこに肉親の情を持つな、芽は摘み取っておく事」
「お止め…を」
始まったやり取り
あまりに辛い
当主として
…言わなければならないことなのだろう父上の言葉に
辞退せず、
後継ぎとしてそれを俺に回すことがない様に身代りなっている兄上に
「オリゼ、口出しまでは許していない」
「なれど!」
「白虎」
「畏まりました」
「な…んっ…」
背後から白虎に押さえられる
大きな手で口を抑えられ…抱き締められるように身体を押さえつけられた
「大人しくせねば追い出す」
「…う」
本気だ
…追い出すだけで済まない
次男としてこれくらい聞けなければ…
そんな目で威圧的にこちらを見てくる父上に
体の力が抜けた
抵抗しても駄目なのだと、
兄上とこの場に一緒にいるのは…
いることを許されたのは俺が兄上を心配していたから、
それだけの理由ではない。
己の心の弱さ…
それは兄上だけではなく俺にも言えること。
兄上を困らせた…
兄上の弟である限り、弱味になってはいけないのにだ。
だから…
次期当主でなくても、
それを支えられる覚悟も知識も持たねばならない。
そして次男としても当主として何が求められるのかと知らなければならない…
次点でも、
俺にはこの男爵家を継ぐ資格はあるのだから…
「再開するぞ…第21章」
再び始まった問答
どれもきっと…兄上が違反したこと
そんな
終わらない様に思える時間が終わった。
…終わった筈だが、
兄上も父上もその姿勢を崩さない…
そう、思い出す…
確かに鞭打つと言っていたかと
と思い出した時
重く腰を上げた父上
その手には杖や乗馬鞭など生温い…
太く革が編み込まれた一本鞭を手にしていた
…
「うぐ…」
「アメジス、言えぬのか?」
「…言いたく、ありま…っぐぐっ」
「何度でも言えるまで打つぞ?」
「…」
鞭打つ"だけ"ではない…
先程の心得を…
具体的な例に当てはめて問う父上
人質にとられそうになれば身代りを立てろ
侍従や使用人を犠牲に時間を稼ぎ逃げろ
言い淀む兄上に、
明瞭に復唱できるまで鞭を打つ
既に50回は…
意思のみで腕を差し出し続ける兄上に
無情なほど現実に起こりうると例を出し続ける…
…そして
俺がもし当主を狙った時の話
先程のように自らの命を捨てようとするのかと問われた
明瞭に致しませんと兄上が言った次の瞬間
…ならばオリゼを殺せるな?
そう…
夢か幻想だと信じられない言葉
他の貴族なら分かる
でも父上は…違うと思っていた。
当主だけど…
だけど…
遠くなりそうな意識を
噛んで噛んで繋ぎ止める
言えません
そう頑なに言って口を閉ざした兄上に
何度降り下ろされただろう
心得から暗唱させ、
それに当てはまる可能性のある人物名を上げさせ
そして…俺を殺せるのか
その質問に何度も辿り着く
何度も…
何度も
そして弱々しく紡がれた言の葉は
…四肢を切り捨てても…どんな手でも使います
命だけは奪いません
及第だな、
後10打って終いにしよう
そう再び無慈悲に再び降り下ろされた
…知る名前、信頼している侍従を、母上をまだ幼い弟も
仮であれど殺すと、沙汰を下すと言わされ続けた。
己の命を守るために…
その体に
兄上にこれ以上の鞭が要るのかと…
繋ぎ止めたはずの糸が意識が
ついに切れてしまった




