責32。
楽しい時間は直ぐ過ぎゆくものだ
マルコの食事の進捗に合わせて御茶を飲み終えれば、また友人としての束の間の時間は終わる
「オリゼ」
「何…?」
そろそろ、
そう言うマルコの声は友人としての色が既に薄れている
気持ちの切り替えはこいつの方が上手い
…寧ろ俺が下手過ぎるからこそ、
あえて主人としての色味をこうして滲み出させて見せてくれている。
仕切り直し、
俺が見習いとして直ぐに戻れるようにと気を回したのだろうな
マルコとしても名残惜しいと思っているだろうと、
何となく感じるのは気のせいか…
まあ、
そうだとしても…もう友人の時間はここで終わり。
この時間すら本来は俺は見習いとして仕える時間で、
食事を疎かにする俺の食管理のために主人として…そして友人としてそれを更にねじ曲げてマルコは俺と気の置けない過ごしたのだ。
これ以上の優遇はお互いの為にならないと、
主従契約から逸脱したこの場は手仕舞にすべきと私的な感情を抑えて…俺のためにそうしているのが
正解に近いのかもしれない
「…悠長にしてる程、オリゼは暇じゃないでしょ?
早く行きなよ」
ソファーから立ち上がり、
その言葉に背を向けていく
「ああ、分かってる…心尽くしで満たされた」
「それはそうでしょ、
俺が友人のために用意したんだから満足して貰わないと困る」
久しぶりに
漂った心地良い空気。
名残惜しみながら振り替えれば
俺が投げた言葉に
俺が用意したんだから当たり前、そう自信たっぷりに返して笑っている…
…
俺なりの感謝は伝えた方がいいと言ってはみたものの…
やはり少し蛇足気味だったらしい。
「くくっ…」
「何を笑うことがある?
オリゼが好むものくらい、俺が把握できていないとでも?」
こいつが自信たっぷりなのは当然
…驕りや満身ではなく
正真正銘実をともなった結果だ。
それを裏付けるだけの努力や準備も自分自身、納得するまでしているからこそ
マルコは俺のように己を疑いはしない…
だから俺が満足したとあえて口にしなくても、
自分が算段して振る舞った料理に俺が満足したことに確信を持っているのだろう
そして、
俺を友として理解できているという自信も、だ
「それもそうだな」
少し表情を柔らかいものに戻したマルコに今度こそ背を向けて、
使用人部屋へと足を進めた
…
…パタリ
音をたてないよう、
扉を背中で閉めて一息つく
「腹一杯、だ。
もう少し軽くしてくれてもよかったんじゃないか?」
計らいに感謝しつつも、
もう少し容赦してくれてもよかったんじゃないかと
俺以外居ない使用人部屋で、
マルコが目の前に居ないことを良いことに怨み節をぶつける。
直ぐに満足感を越えた胃の許容量だと、
身体が訴えてくる。
殿下に仕える週末で此処までの量を食べたのは初めて…
そして満腹中枢が認識するまで業務間にゆっくり食べたのも初めてだ。
「はぁ…」
空腹を覚えることはなくとも
これはこれでは問題がある。
満腹感で判断が鈍りそうだと、
あいつの心遣いは有り難くも
…食後の業務の差し支えになりかねないと溜め息が思わず漏れた
…
さてと、
切り替えるか…
先程の美味しい食事や、
久しぶりの歓談はつかの間のこと
もう、
あの友人として扱われる時間は次の食事までないし、
この扉をまた開ける時には友として入室するわけにもいかない
こうしてぼうっとしている暇もない
早く友人から
見習いに戻らなければと。
友としてではなく、
主人として相対する時間だと自身に言い聞かせつつ
急かされた事もあって、
着流しから再び先程脱いだばかりの侍従服へと、
手早く着替えていったのだった。
…
…食前よりも動きの悪い頭
それを稼働させながら見習いとして戻る
コンコン
「失礼します」
「入れ」
ノックの後、
一言入室の断りを入れれば殿下の許可する声
そして、心づもりが直ぐ様頓挫する光景が広がっている
せめて食器の片付け位はしようと
勇んで殿下の部屋へと見習いとして戻れば、
皿一つ、
湯飲み一つなくテーブルの上は更。
侍従として食後にすべき仕事は何も無くなっていた…
流石仕事が速いというべきか、
この短い時間で既に膳はアコヤが片してくれていた様だ
殿下に軽く会釈すれば、
視線で食前の続きを促される。
待った無し、か…
予習が不安な科目になる、
その先延ばしに膳の片付けがあると目論んでいたのだが
そんな事がある筈もない。
あの優秀な側仕えが、
例え俺の着替えの時間が短いものでも
その間、殿下の前に終えた食器を放置するわけもないと理解していく…
仕方ない…
ならば自分に出来る残された役割をするだけだと、
書斎の机からテーブルへと
復習する教材を移動して用意していく
「…お待たせ致しました。続きは地理からですね」
「その前に、だ」
残りわずかの教本と、
要望の教科だろうそれらの準備をテーブルの上に終え
そして、
先程と勉強開始したときと同じ流れで万年筆を差し出したのだが…
一向に受け取ろうとしない様子に疑問を感じれば…掴まれて手袋をずらされる
「っ…」
「やはり見間違いではなかったな」
「…如何しましたか?」
何の凶行だろうか…
万年筆を差し出している俺の手首を凝視する主人…
片膝をついているとはいえ、
無理に引っ張られた状態…俺はその不安定に手を差し出したままの体勢のまま動きを止めざる終えない。
手首を掴まれた主人の手を振り払うことが不可能な以上、
引くことも叶わない。
まあ実際は、
引くことも許されないだろうから受け取って貰うまで…
この手中にある高級な万年筆を揺らすわけにもいかないらしい。
「この痕」
「…痕、ですか?」
「これは何だ、と聞いている」
指摘され、
その視線を目で追えば確かにある痕…
何故俺も気づかないこれに殿下は気付いたのだろうと、晒された手首を見ながら考える
これは休憩とは名ばかりのアコヤによる指導時間にこさえたもの、
それから今の間に目につく機会がある筈はない
肌を見せるなんて侍従の身なりでは考えられない…
始終侍従見習いとして過ごしているのだから、侍従服を俺は着ている。
侍従服の袖丈、
そして手袋をはめているから
俺の手首が眼前に晒されることはない
身なりが整っていないことも無かった筈で、気付かれる機会は無かった筈だ
…
とまで考えて、
食事の時かと府に落ちていく
「圧迫跡です…ね」
「見ればそれくらい分かる、
お前の事だ…また隠す気だったな?」
…着流しにするんじゃなかった。
洋装とは違い和装は大きく広がる袖の事を考えてなかった、と
心の中で思えば
その隠蔽したい気持ちは、直ぐにバレたのだろう。
意に返すと、
不快感を露にし…険すら籠っている声
顔を窺うことなく、
この状況の解消は納得のいく返答が出来るまで過ぎ去りはしないと
残念ながら多々ある俺の経験則が教えてくれる
「…今しがた、
御指摘されて自覚した次第です」
「そうか…だがこうして露見した上で性懲りもなく、また隠す気を起こしたか」
友人相手ならば、
後々面倒ごとになると分かっていてもあしらうことは出来る。
だが主人相手ならば
露見した時点で、隠せるわけもないだろうに…
憚ることや、
あしらうことも不可能だ
「引目を感じたのは事実です…が、御目に入らなければそれに越したことはなかったと存じます」
「どうやら、憚る理由があるな?」
「いえ…単に見習いとして主人の御目汚しにならないようにという意図で、申し上げました。憚る理由も御座いません」
…そもそも痕のことなんて気づきもしなかった
その程度の物、
見習いとしての業務に差し障りがなければ報告の義務はない
ばれたのも本来の業務時間ではあっても、
友人として過ごすために着替えた着流しのせい。
侍従服の着衣が乱れ、
見習いとして痕を隠しきれなかったとは責められない筈
それなのに此処まで弾糾じみて問われているのは、
十中八九…痕を作ったことではなく放置していること。
それこそがヤバイ…
自己管理が出来ていないと、
露見した以上…それを理由に侍従見習いとしても確実に逆鱗に触れる事になる
「…業務に支障はないな」
「はい」
それに…
これに気付いていたならば、
非常に面倒ではあるが念のため消毒してサラシ位巻いただろう。
自主的にではない
それでも手当てしなければ、
その一手間が些末に感じる程の面倒になることを俺は経験してきた
だから先程の食事に、
結局和装を選んで着たとしても
友人のマルコの目につく事を甘味したとしても…
侍従見習いとしての立場から、絶対に痕のついた素肌で姿を見せはしなかった。
その危険を犯さないだけの
失態は自慢じゃないが近々でも大きなものを踏んできた
あれ程の苦渋を嘗めさせられて
同じ轍を踏む程、
…俺とて何も学ばない馬鹿ではない。
「放置していたのではなく、本当に気付いていなかったのか」
「はい」
「…それで?」
「部屋を辞した後、手当てを致します。
…御心配御掛けして申し訳ありませんでした」
そう痕があるのはまだいい、
何が理由かなんて事も二の次だ…
怪我を心配されるのも、見習いとして至らなかったとして次回から直せばいい
…仕方ない
痕は治るし、
初めての失態に関してはお目こぼしも多分ある。
取り返しはつく
が、隠して
バレたと判断されれば危険
過去と同じ過ちを繰り返す事になる。
この手首の痕に気付きながらも放置していたと見なされれば、
更に過重となる。
…いかに未熟であれど、
見習いであれ…俺に甘い主人であったとしてもだ
再三の不始末にはそれ相応の対応を下す、
そこをあやふやにするような人間ではないと知っている
だからこそ、
その疑惑を振り払うことが何よりも急務だと
隠し立て等していないと口を開いたのだが…
…どうやら芳しくない
至らなかった点は謝罪した
支障はきたさない、
つまり痛みもないし軽度だと暗に申し上げた。
傷の放置も故意ではないと理解してくれたと言うその返答にも、
安心出来る点が見当たらない。
傷も軽症
隠す気はないことも、手当てをする意思も伝えた。
…が
その返答にも殿下から発しているひりついた空気は一向に霧散しない
なら、考えたくはないが…
濃厚なのは俺の友人としての怒りか?
見習い侍従としてではなく
体裁は主人…殿下として保っているものの
どう考えても、
本来の業務時間に見習いとして肌を晒して傷を見咎めた
その失態の程度で主人として
此処まで叱責してはこない…するとしても多分アコヤに任せる筈のレベル
ならば何故そうしないのか…
ねちっこく、
この話をそれらしく持っていくのは?
まどろっこしい手法を使ってでも…主人の力を悪用してでも俺から何かを聞き出したいらしい
気づいた時に、
俺が友人としての立場の時に聞かなかったのは
…マルコではなく殿下としての立場からでないと俺から聞き出せないと判断したからか
そんなことをしなくても、
聞かれれば答えたし…実際侍従見習いとしても嘘偽りなく答えた
それなのに
白いサラシが目につくから、
手当てを怠ったとかと疑われ…その上、何か更に悪い疑惑を持たれているような嫌な視線を目の前から感じている
「で…自傷行為をしたか?
そうでなくとも、手当てを疎かにしているのかと俺は聞いている」
「違います」
「ほう…?」
何が聞きたいのか、
測りかねながら矢継ぎ早に浴びせられる質問に答えてきたが…
成る程、
地雷はこれか
また性懲りもなく、
俺が自傷を繰り返したと見なされたらしい。
「教育的指導の為お願いしただけです。
殿下が御疑いの…自傷の意は私にはありません」
「アコヤにか?」
「はい。
手当てについては傷の認識がなかった為、決して故意に放置したわけではありません」
「それは100歩譲って理解しているが、
自傷でないのは甚だ信用に欠ける」
「無意識で作った傷であると、申されるのですか?」
「…」
傷の認知がないならば、
自身の意識下で自傷行為をしていないと言うことになる。
無意識で自傷行為を行う程、
旗から見ても…俺自身の自己判断でも精神状態が悪くはない筈だが?
傷の認識がなかったと、
殿下が認めるならば…故意的な自傷行為や傷があることは理論的に破綻する
黙ったということは、
俺は殿下を論破したのか…
はたまた
論破されていないと感じているのかもしれない。
最悪、無意識で自傷行為を行う程だと思われている
「私の言葉に信が置けないのであらば、側仕えに御確認を」
「…聞けば分かる、か」
「御好きになさってください」
もう、
それこそ好きにすればいいと
己の堪忍袋が当に切れかけていることを自覚しつつも
立場を省みて声を粗げなかっただけ誉めてほしい。
勿論…見習いとしては不適格だろうから、
そうではなく当社比としてだ
…
…コンコン
その静まり返った部屋に入室の合図のノックが響く
「ああ、…入っていいぞ」
「失礼します…
殿下、見習いが何か致しましたか?」
そうして、
この張り詰めた空気の中入室してきたアコヤは
主人の目線を辿り状況判断をしているのか…
そして
万年筆を差し出したまま、
その腕を主人に掴まれ不自然な形で俺が固まっているのを、
訝しく思ったのだろう…
「見習いのこれを問い詰めていたが、
聞けば自傷ではないと言い張る」
「痕ですか……それならば先程の自由時間に出来たものでしょう。
指導した折にあまりに聞き分けが無く、私が手元にあった紐で戒めたのです」
「そうか」
「殿下の目に触れさせるに相応しくない物を晒す振る舞いをしたオリゼの失態と、指導の為とはいえ痕をつけたことが御気に触ったのであれば
私が謝罪を致します」
手首に視線を向け事となりを察し、
膝をつこうとするアコヤを片手で止める主人
そのお陰で離れた手は…
漸く万年筆を受け取ってくれた
それを確認して俺はやっと手を引き、
体勢を整えることが出来る
「治るならいい。
ただ、聞き分けが無かったとはどういうことだ?」
「…侍従として目に余る行動の数々…自室にて指導しようとしたところ、逃げて反抗致しました」
「オリゼ」
「っ…相違、御座いません」
やぶ蛇にも程がある、
殿下に確認して欲しかったのは傷がアコヤによってつけられたものであることだけ
それだけ分かればいいだろうに…
聞き分けがなかったからだとか、
気になる単語を含ませて主人に説明したこの側仕えは意地が悪い。
報告の義務が生じて
何故つける羽目になったか、
俺が暴れて反抗したからだと迄教えることになるのは…
頭の良い出来る侍従様であれば分かってた筈だ
何も、
殿下の注意を引く言い回しをしなくても良いだろうが…
「まあいい…戒めるにしろ今後は痕の残らないように」
「畏まりました」
呆れた顔で結論を下した、
話はこれで終息したのだと察することは出来るが
跡が残らなければ何をされても許可すると聞こえる発言も、
それに快諾して応じる側仕えも
俺からすれば、
その息の合った会話は好ましくない。
今後もアコヤに
指導中少しでも歯向かえば戒められる…
それはまあ、
反抗した俺が悪いと溜飲を下げるしかない。
だけど、
異論は呈しはしないけど…
二人とも、
俺がまた何かしでかさない可能性は0だという断定の元にこの会話が成り立っているのが問題。
…一縷の疑問も持っていないことが俺にとってとても好ましくない案件になる
つまりは
俺が問題児扱いされている。
そしてその前提で対処の許可まで、
本人の前で繰り広げてくれるのは…二度と同じようなことをするなと俺に釘を刺すためか?
「丁度いい。
オリゼ、そう言うことだから分かったか?」
「え…ええ…今後は痕が付かなくなるということでしょうか?」
一難去って
話も終息…後味は俺的には悪いものだが終わったと思っていた
が、
殿下からこちらに向かって言われる台詞
俺本人に確認されるようなことはなかったよな?
俺の対処法についても、
話は二人の間で完結しただろうし。
何か聞き逃したかと、
話の流れを反芻してみても何の事だかさっぱりわからない…
「本当にピンと来ていないのか」
「御教授願えるならば教えてくださいませ…
殿下の御考えになることを、私ごときが察せるでしょうか」
少なくとも、
痕が残らないように今後は戒められるのだとは理解したが
それに関して安心していいぞと確認しているのだろうか?
それしか思い浮かばす、
それをそのまま言葉に出せば
みるみる殿下は頭を抱えていく…
「…駄目だ、調子が狂う」
「お気持ち、お察しします」
そう相槌を打ちながら、
アコヤによって流れるような手捌で給仕がされていく…
労るように食後の紅茶だろうか、
…先程の夕食で緑茶を飲んだのは自身のみ
殿下にとっての食後のお茶は今淹れられていると、
それは理解できるが…変だ。
友人として知り得る好みは食事は大抵ミルクティーで…
ハーブの匂いにハーブティーだろうそれをアコヤが用意したことも、それを用意しろと指示された記憶も見習いとしてない。
…
それなのに
疑問なく当然所望だと見込んで用意した傍仕えにも、
要求通りだとばかりに口をつけて飲んでいる主人にも疑問が増える
「…察しが悪い。俺が袖口から見えるそれに気づいていたのを痕をつけた当人のアコヤが気づかない筈ない。
そして詰問するのも、そしてお前の察しの悪さも予測して俺が疲れる事をからこれを選んで淹れてきた。そうだな、アコヤ?」
「その通りでございます」
つまり、
サラシを巻いた様子もない先程の俺を見て
殿下がどう行動するか、
食事の間詰問する素振りを見せなかったことから
今、
主人として問い詰めることをこの傍仕えは見越していた
「その問いの過程で俺の疑いを晴らせないことに、あろうことか苛ついたな?
大前提として、疑われる事をするのが悪い
その次にそれを払拭するとしても、その裏付けを主人にさせたり投げるなどあってはならない。
主人の身の回りの世話だけが業務だと思っているなら勘違いも甚だしい。判断に必要な資料集めも、手間や略せる思考を極力負担させないためにも侍従はいる。当主やそれ以上の役割を担う貴族には判断を下すことが山程あるからな」
「…」
「オリゼ、まして今回は己の不始末からくる疑念だった。
払拭に必要な証拠や材料は自身で用意して、俺に提示するのが道理だろう?」
「…」
指導役として抜けがあった?
傍仕えは俺が殿下にされる詰問の過程で…
また心労を掛けさせる可能性を考えた上、それを放置したか…?
違う…
期待を裏切ったんだ。
俺は心労を掛けさせることはあってはならないと、
先程この痕をつけられながらこんこんと説教されたばかり。
その舌が乾かない内に…
同じ過ちを犯すなどとは思わない。
いや…思ったとしても、
それ以上の失態は犯さないと俺を信じてみたのかもしれない
「…申し訳、ございません」
「まあ…嘘もつかなくなったようだし。
謝罪も一応、出来るようになっただけ進歩か…」
「進歩がこの程度であれば不足でしょう。
後程、再度言い聞かせます」
「そうしておけ。
…そもそも主人である俺に何度も要らぬ心配をさせた見習いに、
何の沙汰も出さない筈がない」
「仰る通りで御座います、
初めての失態ではありませんし看過することは私としても出来ませんね」
側仕えの鋭い視線がこちらに向く、
優雅に給仕をし終えて一歩下がる際に突き刺すような眼光が俺に当てられる
痣についてもつけた側仕えが悪いわけではないのに、
気分を害したのであれば俺ではなく…
指導を任された己の責だと被ろうとしてくれた
先程も庇われた…
今回も、
と流石にはいかないようだ。
「私は…」
「信賞必罰。
その上、主人の考えを察することも出来ず言葉を重ねさせてるこの状況も誉められたものではない。
その自覚があるのか?」
「…至らず、申し訳も立ちません」
アコヤの期待に応えられず、
主人である殿下に要らぬ心労と手間をかけさせた事態
そもそもそんなことがないのが大前提だろうが、
失態をしたならばそれを償うのは当然で…
かつ、それを主人から促されることは良くないことだろう。
それは、
見習いの立場の
罰を受ける側の俺から本来ならば乞わなければならない
アコヤには
俺を庇う理由がないのだ
見習いの教育を任されていたとしても、
その責任はあれど…
指導不足だからと肩代わりするべき時と、
そうでない時があるを
今回は…多分指導を飲み込んで物に出来なかった俺が悪いんだろう
「お前の友人が俺に献上するんだったな、手枷か何だかを。どうせ貰うならば活用しなければ悪いだろう…お前の身体にぴったりであれば痕もつかないだろう?」
「…は…」
「この短期でこれだけ罰も責も何度も受けている。
今後鞭傷や痕が増えるのも想像に固くない、ならば圧迫痕だけでも度重なれば軽症で収まらないだろう?
今回はアコヤからの鞭や説教ではなく…枷を調整して貰え、それが罰代わりだ」
「…っ」
「オリゼ、
何故黙っているのですか。主人に返答をしなさい」
「…御随意のままに」
力なく足を崩すように
もう片足も地につけて座り、頭を下げる。
…誰が好き好んで手枷を欲しがらないといけないのか
だが、
異論も反論も許されない
罰が気に食わないからと言ってこの状況下では…変更も効くまい
「…不満そうだな」
「好き好むような沙汰が…沙汰になるでしょうか」
頭を下げる前、
顔に不満な思いが出てしまったかと気づかされる。
やってはならないことを己は更に重ねたのだと、
そして気付かせるための言葉もまた言わせたのは愚行以外の何物でもない
沙汰に対する苦痛や拒否の感情がなければ、
それは罰足り得ない。
だけれど、
それを嫌だとあからさまに顔に出すことは許されはしない
何でもないと無表情でやり過ごすことが正解ではないだろうが、
一般的には
沙汰を下された側が強い嫌悪や拒絶を示せば更に反省が足りないと思われても仕方がないのだろうと…
それを好む悪食もいるのは知ってはいるが、
もし殿下がその類いの相手だとしてもこれは悪手であることには代わり無い
…
…
悪いのは俺だと
そう思い頭を下げ、
追加の咎めがあるのかと戦々恐々と耐える。
耐えるが、
それ以上は何の声すら掛からない
ただ、
ただ…面をあげろと許しの言葉すらなく無言がこの場を支配していく
「申し訳、御座いませんでした」
「…」
堪らず、
再三の謝罪を繰り返すものの状況は変わらない
僅かにシュガーポットの蓋と、
微かな水音
角砂糖をハーブティーに落としたのか、
その後に聞こえるティースプーンをソーサーに静かに置く音が聞こえる
俺に対する怒気を落ち着かせる為
甘味を加えて、
鎮静効果を増したハーブティーで気分をなだらかにしているのかもしれない
とにもかくにも、
硬化したこの状況の打破は謝ることだけ
それ以上の対処は俺の事典には載ってない
更に低頭して、
非礼を詫びるが此方を故意に放置している挙動しか察することが出来ない
「申し訳…っぐ…う…ぅ」
「三度目の謝罪はくどいですよ、オリゼ」
「…ッ…」
この状況の打開を目論んで、
せめてもと…主人の注意を引こうとしたのがいけなかったらしい。
許されるまでは黙っていろとばかりに…
隣に立っていたアコヤの足が、
両膝をついて低頭していた俺の腹に突き刺さる
鳩尾を避けてくれたらしいが、
それでも頭を下げて屈んでいた腹を蹴りあげられたに等しい
力の入っていない部分を予兆無くやられたのだ。
身構えることも出来ず、
呼吸も一瞬止まり掛けた…
痛みと恐怖でうずくまりかけるが、
奥歯を噛み締めて我慢する。
…後ろに手を組んでいたそれも、
痛みを慰めるように放し掛けたが何とか踏み留まれた
両膝を付くと共に背中に回して組んでいた手を、
謝罪の姿勢を崩せば…
あるのかも分からない状況の打開へ続く光は完全に失う
痛みを訴える腹を庇う為に
手をそこに回わして押さえることは出来ない
額に滲む汗と、
また蹴られる恐怖
この場から逃げることも、
避けることも…
そして視野を落とした俺にはその暴力の予備動作すら見ることも叶わない
「…俺の前だぞ、アコヤ」
「ええ、申し訳御座いません」
俺を指導するとしても、
殿下の許可や指示がない状態で
品の無い所作を側仕えが…主人の目の前でする行為ではない。
そう殿下に諌められるも、
当のアコヤは気にもしていない様子
呆れた声の殿下から、
本気で咎められている訳ではないと思っているのか…
傷む箇所を擦ることも出来ない、
隣からの威圧感に潰されそうになりながらも会話の内容を把握していく
「で、何か進言でもあるのか?」
「…少々御座います」
「ハーブティーに砂糖は合わないと言いたいのなら…何故シュガーポットを用意した?」
「…特に今は甘味を御所望になられるかと思いまして、御用意致しました。
好みは千差万別、
主人の舌に合うのであれば私に異論は御座いません」
やはり先程の音は、
殿下が角砂糖をハーブティーに落として溶かした音
香りや抽出時間を
俺としても緑茶に砂糖を入れるのは、
邪道だと思いながらも…美味しく飲むために必要であるなら仕方ない。
茶の飲み方に、
王道はあれど間違いもない
飲む個々に正解があって、
適切な淹れ方や砂糖の追加も…それも確かに好みだと認めるべきだ
それを
「それについて文句がないならば、そのお前の物言いたげな空気は何なんだ」
「この見習いのために本来不要な御手間を労したことや、
許しの乞いが無かった件について御怒りになるのはごもっとも。ですがそろそろ…御許しになられては如何でしょう」
「お前の顔に免じて、か…
らしくもなく見習いの擁護をするもんだな?」
「擁護等、致しませんよ。
ですが…主人の貴重な御時間がこのような未熟者に費やされる事が勿体無く、
諫言した次第です」
「くくっ…お前のそういうところ、辛辣さは変わらないな」
「お褒めに預かり光栄に御座います」
「で、続きはどこからだ?」
「…っ……は」
「オリゼ」
「…自国…北東部の国境沿いからです」
突如かけられる質問
俺に対する物とは瞬時に飲み込めず、反応が遅れた
頭をあげて良いと…
許しと、
そうとれる促しに面をあげていく
「何をもたついている」
「…只今」
「で、これは?」
「隣国の要です、」
じっとりと濡れた…
先程から半分脱がされたままだった手袋を直し、
地理のノートと教科書の頁を開けば矢継ぎ早にかけられる質問
冷や汗をかいたまま…
腹の痛みと額に滲む脂汗もそのままに
立ち膝からほぼ座り込んだ状態。
それでも姿勢を維持しながら力の抜けた手で項目を指し示す
また礼を失すれば、
今度は何処を蹴られるのかと…
そんな隣からの恐怖も意識から追い出し、無理矢理に切り替えて
頭の片隅に押しやって、
講義の内容を伝えていく…
…
…
その後も、
予習や復習に付き添い慣れないのも手伝って精神が削られていった。
唯一、
気を抜ける筈の夕食時も…
うまく緊張を解くことが出来ず、マルコには苦笑されっぱなし
使用人部屋に戻る頃には精魂尽き果てていた。
何とか夕食後も殿下への業務を終え、
アコヤさんに付き従い仕事を終えれば…部屋に返して貰えるなどと甘い考えは通用しなかった。
そう、
殿下の就寝後に待っていたのは…
へとへとになった俺に待っていたのは、アコヤからの指導で。
アコヤの部屋に引きずり込まれ、
蹴られた腹に痣が出来ていないことを確認され…
手首の手当てと左肩の傷も有無を言わせず処置された。
それが終われば、
手を縛られることは無くとも正座させられ、
侍従心得を復唱。
先程の失態と組み合わせて説教されること一時間
精根尽き果てた俺は、
休んで良いと自分の使用人部屋に下がれた後、
着替えることもなく…
何をすることも出来ず、ましてやオニキスによって解禁された行水も出来ずにそのまま布団に倒れ込んだのだった




