プロローグ
「ウッ、アッアッ、、ガハッ」
あまりの激痛に叫び声すら上げられなかった。
ただただ、苦痛に喘ぎ、目尻に涙を浮かべて蹲るしかなかった。
どうしようもない『詰み』だ。
ここから『生』に浮上することはなく、ただ『死』に溺れていく―――そんな確信が彼にはあった。
彼の涙で滲んだ視界の正面に映り込むのは、腹部に突き刺さった全長三十センチメートルほどの刃物だった。柄には精緻な意匠が凝らされ、そこと腹部の間からは漆黒の刀身が覗いている。
さらに認識できたのは、刃物が突き刺さった個所から夥しい量の血が溢れ出ているおぞましい光景だった。
致命傷だった。主観的にも、客観的にも理解できる。誰の目にもそれは明らか。
(俺、やっぱり……死ぬ……のか……?)
分かり切っている。もう、助からない。本能がそう告げている。
だが、あえて疑問形で誰ともなく問うたのは、認めたくないからだろう。
『死』というあまりに唐突に突き付けられた非情な現実を。
しかし、絶えず彼の身を蝕む激痛が逃避を許さない。
「もう、お終いだ」と。「助からない」と。耳元で囁かれる。
否が応でも、『現実』を認識させてくる。
(なんで……こんな思い、俺が、しなくちゃいけないんだ!)
それを理解した瞬間、マグマのような激しい憤りが腹の底から沸き上がってきた。
突如身に降りかかった理不尽に対し、自分をこんな風にした奴に対し。
憎しみ、恨み、怨嗟。それら負の感情が胸を埋め尽くす。
だが、そんな感情ですらほんの数瞬で失ってしまった。腹から流れ出る血はそんなものも一緒に体外に排出しているようだ。
絶えず流れ出る血に比例して、自分が空虚になっていく感覚に陥る。自分を人間たらしめる機能が働かなくなってきた。既に視界は二重三重に揺らぎ、呼吸は速く、四肢にうまく力が伝わてくれない。
つまり、それはより『死』が近づいたという証左に他ならなくて。
「……ち、くし……ょう……、もう……」
彼は嗚咽交じりにそう呟いた。頬に幾筋も涙が伝う。
何もかも外へぶちまけて空になった彼に残ったのは、たった一つの願いだった。
その願いとはつまり。
「死にた、く……な、いなぁ……」
そう言った彼の表情はきっとひどく無様で情けないことだろう。あらゆる体液で濡れたその顔は醜悪だろう。震えたその声はとても女々しいだろう。
しかし、だからこそ、彼の願いの強さが痛いほどよく分かった。
まともに動かない右腕を緩慢な動作で自分の前方に持っていく。深紅に彩られた右腕はフルフル小刻みに震えて、弱々しい。
だが、それでも彼の右腕は彼の意図した位置に到達し、そこで彼の右掌は見えない何かを掴み取るように、空中でゆっくり握られた。
しばしの静寂。その間、彼の双眸は握られた右掌を捉えていた。そして、ふと自虐的な笑みを浮かべた。
―――何かあるかもしれない。―――ここで手を伸ばせば、何か変わるかもしれない。そんな荒唐無稽な妄想に駆り立てられた故の行動だったが、当然のことながら何も変わらなかった。変わるわけなかった。その証拠に、今もなお、彼の意識は加速度的に闇に吞まれ続けている。
(はは、何してんだろ……俺。恥ずかしい……)
と、内心で自嘲気味に呟いた直後だった。
「ッ!!」
それまで何とか保っていた意識が急に遠退いた。身体の制御が聞かなくなり、一切自分の命令を受け付けなくなり、視界は徐々に暗転してきた。どうやら、時間切れのようだ、そう彼は悟った。
(もう限界みたいだ……あぁ、酷い最後だな。……父さん、母さん、京香、ごめん、本当にごめん)
最後にもう一度。
(本当にごめんなさい)
ゆっくりと瞼を下ろす。
そして、彼の意識が二度と抜け出せない漆黒の海へと落ちる。
その刹那―――
誰かが血みどろに塗れた腹部に触れたような気がした。




