第86話
レイティンの防衛戦から二ヶ月が経った。
アルディスが王都に帰ってきた頃はこちらでも人々の話題に上がることが多かったが、さすがに二ヶ月も過ぎれば口にする人間は少なくなる。
帰ってきた直後は家でゆっくりと昼寝三昧の日々を過ごしていたアルディスも、一月前から仕事を再開していた。
「お断りだ」
アルディスがそっけなく答える。
王都グランの表通りにある宿『せせらぎ亭』。
その一階に併設された酒場のテーブルにふたりの人間が座っていた。
ひとりはアルディス。もうひとりは傭兵への依頼を仲介する顔役の男だ。
「そう言うなよ」
馴染みの顔役であるジャンが呆れたような表情を見せる。
「そりゃ、俺だってアルディスが教会を嫌ってるのは知ってるよ。でもさ、指名依頼だし話くらいは聞いてもいいんじゃないか?」
「どうせ話を聞くだけで終わる。時間の無駄だろ」
とりつく島もないアルディスの返事に、悩ましげな顔でジャンが食い下がる。
「教会の依頼を理由もなしに断るのはまずいよ。俺にも立場ってものがあるんだからさあ。大して難しい仕事じゃないし、指名だから報酬はかなり弾んでくれるみたいだぞ?」
そう言いながらジャンが依頼内容の書かれた紙を差し出してくる。むしろ押しつけるかのような勢いで。
「護衛の仕事なんだけどさ。護衛対象もアルディスと同じくらいの歳だし、なにより可愛い女の子だぞ?」
「それ、逆に面倒くさいじゃないか」
あきれ顔を見せるアルディスだったが、ジャンはその言葉を華麗にスルーした。
「それに護衛対象は将来聖女候補と名高いシスターソルテだぞ? お近づきになってれば、後々アルディスにもメリットがあるだろう? というか、俺がお近づきになりたいくらいなのに」
「ソルテ?」
それまであくびをかみ殺しながらジャンの言葉を聞いていたアルディスが、護衛対象の名前に反応した。
「ソルテって、あれか? もしかして髪の毛が桜色の、ちっこい女の子?」
「何だ、知ってるんじゃないか。教会は嫌いなくせに、シスターソルテのことはちゃっかり目をつけてるんだな」
からかうようなジャンの口調。
「そうじゃない。以前仕事で会ったことがあるだけだ」
ソルテという名を聞いて、アルディスは思い出した。
まだトリアで活動していた頃、テッドたちと一緒に請け負った仕事。
コーサスの森へ入ったマリウレス学園の生徒捜索と救出の依頼だったが、その時捜索対象の学生にソルテという名の少女がいたのだ。
確か教会のシスターでありながら学園への入学を許可された才女だとか、若いながらも癒しの術を会得した天才だとか聞いたような気がした。
五人いた学生たちの中で印象に残っているのは、悪い意味でプライドを持っていた貴族の少年と、五人いた学生たちの中で唯一マシな受け答えをしていたソルテである。
教会からの依頼、そしてソルテという名前。たまたまそのふたつがアルディスの記憶を呼び起こしたのだ。
「顔見知りか? だったらなおさら断る理由なんてないだろう? 一応教会からの依頼ってことになってるけど、多分これ本人の希望だぞ?」
「本人が?」
「ほれ、依頼主のところに小さくサインがある」
渋々と依頼書をのぞき込んだアルディスは、依頼主の欄へ目を落とす。
確かに依頼主自体は教会となっているが、その右下へ小さくソルテのサインが残っていた。
通常ならわざわざ個人の名前まで書いたりはしないだろう。
「知り合いに頼られて、しかも仕事としてお金までもらうってのに、いつまでもゴネ続けるのは人としてどうかと思うぞ、俺は」
どうにも断り難い雰囲気を醸しだしてジャンが言った。
結局アルディスは「受けるとは言ってない。直接本人へ話を聞いてから決める」と告げてジャンを帰らせた。
本来は教会がらみの依頼など、絶対に拒否するところだろう。
だが相手がまんざら知らない相手でもない上、ソルテ本人の印象は決して悪くなかった。
それがアルディスに妥協という決断をさせた一番の要因である。
翌日、普段なら決して近寄ろうとしない教会へとアルディスは足を向けた。
王都中心部にほど近い一角。街の中央広場から通り一本離れた場所にその建物はある。
選び抜かれた白岩石だけを積み重ね、二百年前に建てられたという教会。
シンプルで装飾の少ない外壁は素朴さを感じさせると同時に、その荘厳なたたずまいは見る者へ圧倒的な印象を焼きつける。
入口の門は開放され礼拝に訪れる人は自由に出入りができるが、不届きな輩――例えばアルディスのように――を警戒するための門番が常駐していた。
アルディスが門番へ用件を告げると、しばらくして中からひとりの神父が案内役としてやってくる。
「お待たせいたしました。依頼を受けてくださった方ですね。シスターソルテも喜ぶでしょう」
「いや、まだ依頼を受けるかどうかは決めてない。とりあえず話を聞かせてもらおうと思ってな」
「え? ……そ、そうですか」
アルディスの答えが予想外だったのだろう。
福耳が印象的な神父は一瞬あっけにとられ、その後で詰まらせながらも言葉を続けた。
「ま、まあどうぞ、こちらへ。シスターが直接依頼の内容をご説明したいとのことですから」
神父に案内され、アルディスは教会の中へと足を踏み入れる。
建物の内部は吹き抜けになっており、開放的な空間が広がっていた。
入口から正面になる場所へ配置されているのは、純白の石材を彫って作られた一体の女神像。
それに向かって多くの人々が跪き、祈り捧げる光景をアルディスは憎々しい表情で睨みつけた。
「どうかなさいましたか?」
「……いや、なんでもない」
訝しげな顔で問いかける福耳神父へ、アルディスは無表情を装って取り繕う。
「よろしかったら後でお祈りされてはどうですか? 今日はもう礼拝の受付時間も過ぎてしまいましたが、教会の依頼を受けてくださる方なのですから特別に取りはからいますよ。本来はあまり褒められたことではありませんけれども、寛容な女神様はきっとお許しくださるでしょう」
(いや、あの女は寛容などという言葉からかけ離れた世界に生きる存在だけどな)
アルディスは思わず出そうになった言葉を飲み込む。
代わりに出てきたのは飲み込んだよりは穏当な、しかし十分に不敬な言葉だった。
「そんなにすごいのかねえ。女神様ってのは」
「もちろんですとも。神界戦争において邪神の軍団からこの世界を守り、我々に魔法という英知を授けてくださったのは女神様です。我々がこの世界に生を受けたのも、日々こうして穏やかに暮らせるのも、女神様の恩寵あればこそですとも。だからこそ、全ての人間は女神様への感謝と敬愛を捧げなくてはなりません。それが女神様のおかげで生を全うできる我々の義務ですから!」
話すうちに次第に声量が大きくなる神父。
神父の言葉が熱を帯びるのに反比例して、アルディスは冷ややかな感情に包まれる。
同時に言いようのない怒りともどかしさに襲われた。
「見てください。あの壁画を」
そんなアルディスの感情に気付いた様子もなく、福耳神父が壁を指さす。
「神界戦争を描いたものです」
神父が指し示す場所には、壁を丸々覆うほどの巨大な壁画がある。
そこに描かれているのは戦争の風景。
だがもちろん人間の戦争を描いたものではない。
描かれているのは神々の戦いだ。
世界を守る女神と世界を破壊しようとする邪神の戦い。
子供でもわかりやすい善悪の対立構造だろう。
最も大きく描かれているのは純白の衣に身を包み、手に光り輝く一振りの剣をもった女神。
その周囲に女神の率いる天使たちと、それらによって構成される聖軍の描写があった。
一方で壁画の隅に描かれているのは教会が邪神と呼ぶ存在、そしてその軍団である悪魔たちだ。
「禍々しい邪神を女神様が成敗する一幕です。ああして女神様が邪神を倒してくださらなければ、我々はきっと暗黒に包まれた世界に生きていたことでしょう。もしかしたら世界そのものが破壊されていたかもしれません」
アルディスは邪神に目を移す。
そこに描かれているのは、頬まで裂けた口の端から鋭い牙を生やす悪魔たちの首魁だった。
邪悪な光を宿す瞳。
長く鋭い爪。
獣のような毛深く浅黒い肌。
背中から生えた十本の腕には、それぞれ剣や槍、斧や棍棒といった様々な武器が握られていた。その全てが赤い血で濡れている。
禍々しいその姿は、見る者の嫌悪感を否が応にも掻き立てた。
(好き勝手にでっち上げやがって)
粉々に破壊したい衝動を、アルディスは必死でこらえる。
そんな事をしても現状は何も変わらない。単に教会を敵に回すだけだ。
しかしそれが分かっていても、アルディスにまとわりつく屈辱感は耐えがたいものだった。
「おや? どうかしましたか?」
「……いや、何でもない」
「そうですか。シスターソルテが待ちくたびれているでしょうから、そろそろまいりましょうか」
アルディスの瞳へ宿った怒りに気が付いた様子もなく、神父は前を歩いて案内を再開した。
2018/01/03 誤字修正 案内を再会した → 案内を再開した
※感想欄でのご指摘ありがとうございます。
2019/05/03 誤字修正 案内を再会した → 案内を再開した
※誤字報告ありがとうございます。(前回直したつもりが直っていませんでした)






