第382話
百……いや二百に届いただろうか。
混乱を通り過ぎ、むしろひとけの少なくなった城内をヴィクトルはなんの躊躇いもなく歩き続ける。
その道中では命乞いをしてきた貴族、激憤と共に斬りかかってきた騎士、職務を忠実に果たそうと道を阻んだ衛兵、それらをすべて冥府へ送ってきた。
どれだけの命を奪ってきたか、数えるのをやめてしばらく経つ頃には城の一階にたどり着く。
そこから今度は地下に降り、同じく敵を殲滅しながら地上へ上がった。
「きっとろくな死に方はできませんね……」
正門に続く中庭へ出ると、ヴィクトルは誰にも聞かせられない弱音を吐きながら振り向いて城と対峙する。
すでに部下たちは城外へと手を伸ばし、城から近い場所に広がる貴族街で暴れ回っているようだった。
周囲の音を拾い上げると、建物を揺るがし崩壊に導く轟音が部下の数だけ聞こえてくる。
ヴィクトルはたった今自分が出てきたばかりの、ほぼ無人となった城をじっとりと眺めると手をゆっくり上げて城へ向けた。
次の瞬間、城の基部を支える壁や柱がひとつまたひとつと割れ、折れ、崩れていく。
その影響はすぐに現れた。
となりの壁が連動して崩れ、折れた柱によって歪んだ梁が落ち、支えを失った天井が割れ始める。
少しずつ、だが確実に崩壊の連鎖は続き、次第に音量を拡大しながら城全体が形を失っていく。
周囲すべてを包み隠すような砂煙を巻き上げながら荘厳だったはずの建物が崩れていく。
さらにヴィクトルの追い打ちが襲う。
「弾けなさい。恐れられるほど盛大に」
そう宣言したヴィクトルの魔術によって中心へ巨大な爆発が生じる。
膨大な瓦礫と化した巨大な構造物がその衝撃を受けて四方八方へと飛び散っていった。
それでもなお残っていた瓦礫に向けて今度は無数の火球を生み出してぶつける。
破壊するための火ではない。燃やし尽くすための火だ。
その火は瓦礫の合間に挟まっていた可燃物に飛び移り、またたく間に広がると業火の海を作り出す。
やがて炎が空へと立ちのぼる。その炎が帝都中から見えるであろうほどの大きさになったのを見届けると、ヴィクトルは背を向けて立ち去っていく。
火の手が上がっているのは城だけではない。
城の周囲からも複数の火が上がっていた。
まず間違いなくヴィクトルの部下たちによるものだろう。
足並みを揃えるようにヴィクトルも城に近いエリアから帝都の外周に向かって、手当たり次第に建物を破壊し、同時に火を放つ。
城で起こっている異変はとうに帝都中から見えているはずだ。
勘の良い者、危機察知に優れた者はとっくに逃げ出しているだろう。
危機意識の低い者、判断の遅い者であってもさすがにこれだけの事態を目にしていれば避難を始めているだろう。
もちろんそれでもなお楽観的な者、決断しきれない者はいるだろうが、さすがにヴィクトルはそこまで面倒を見るつもりなどない。
この期に及んでまごついているようなら、それはそこまでの人間だろう。
気付く機会はいくつも与えた。逃げる時間とて十分とはいえないながらも与えた。
あとは個人の才覚と行動力である。
正午を過ぎ、傾いた陽が長い影を落としはじめた頃、かつて栄華を誇ったエルメニア帝国の帝都は見るも無惨な光景と化していた。
敗北して隷属を強いられているとはいえ、もとの世界ですらヴィクトルの実力は他者を凌駕していた。
ましてやこの世界においてはもはや天災レベルの強さと言っていい。
そしてヴィクトルが率いるのはかつて仲間であった傭兵たちの生き残りである。
強大な軍事力を誇るとはいえ、先の敗北で大きな損害を出した上、帝都に常駐している人数だけではエルメニア帝国側に勝ち目があろうはずもなかった。
彼らも自分たちの実力を過大評価していたわけではないだろうが、そもそもの基準が違いすぎるのだ。
瓦礫の山と化し、方々から火の手が上がる帝都は昨日までの栄華が嘘のようなありさまである。
生き残った人間はどれほどだろうか。
せめて身の危険を感じて逃げ出していてくれれば――そうヴィクトルは祈らざるを得なかった。
暗い気持ちに沈むヴィクトルのもとへ、戦闘行動を終えた部下のひとりがやってくる。
部下は無言のまま、表情もなく、ただ命令を完遂したとその行動によって示す。
かつて肩を並べて戦った仲間が今ではただ力を振るうだけの物言わぬ操り人形だった。
その額には金色に輝く頭環がはめられている。
こんな物が無ければ……とヴィクトルが手を伸ばす。
それまで微動だにしていなかった仲間が突如俊敏に動き、頭環に伸ばされたヴィクトルの手を自らの手で掴んだ。
操り人形のようでありながら、頭環へ触れられぬよう対応する動きだけはしっかり組み込まれているらしい。
「おやおやおやおや、頭環に触れちゃったりするのはだめですよー」
不意にヴィクトルへ向けられたのは耳障りな口調の軽薄な言葉。
「……所長」
声の主が物陰から現れた。神皇国の使節代表として同行してきた男である。
一体どこへ隠れていたのか、飄々とした態度で所長はヴィクトルのもとへ歩いてきた。
「……ご無事でなによりです」
「ひゃっひゃっひゃっひゃっ! 心にも無い配慮の言葉でも、言わねばならぬは哀れなのか滑稽なのかー」
「……」
いちいち癇に障る所長の言葉に、ヴィクトルは感情を隠すため仮面の微笑みを被らざるを得ない。
「どのみちその頭環は外す方法がなかったりー。むしろ無理やり外すと……ねえ?」
「……別にそんなつもりはありません。ただ砂汚れを払おうとしただけです」
「まー、そういう事にしておいたりしなかったり?」
所長は下から覗き込むような姿勢でニヤリと嘲笑うと、クルリと後ろを向いて肩越しにまたヴィクトルを振り返る。
「ここもすっかり綺麗になったわけだしー」
そう言って瓦礫の平原となった帝都をわざとらしく見回す。
「用事は終わったのでいったん帰りますよー」
「神皇国へですか?」
あまり相手をしたくないヴィクトルだったが立場上の義務として問いかける。
「いえいえいえいえ、帰るのは向こうの世界だったり。どうやら周辺諸国がきな臭い動きをしているとかいないとかー」
「……承知しました」
最低限の言葉で対応したヴィクトルに、所長は「そうそうそうそう」と思い出したように付け加えた。
「そういえば忘れてたり忘れられたり忘れなかれりたりたりたり」
相変わらず意味不明な口調とは裏腹に、わざとらしく神妙な表情を作った所長が確認してくる。
「ウィステリア王国にも刺客は送り込んでるはずだったりしますよね?」
「……はい。将軍の指示通り、三名ほどを密かに送り込んでいます」
ヴィクトルがそう答えると、所長はあっという間に破顔してまた声を弾ませる。
「そーですかそーですか、天隷隊が三人もいれば女王と大臣たちの首くらいは取ってきてくれるはずだったり。まーさか失敗して返り討ちにあったりなんてことは……、まあそれもまた一興だったりー!」
さすがに聞き捨てならず、ヴィクトルが所長に物申した。
「所長。差し出がましいことを申し上げるようですが、味方の失敗を望んだり面白がったりするのはいかがなものかと」
それに対して所長は両手を広げて満面の笑みを浮かべる。
「そーですねー、味方ですもんねー! あなたが自分で選んだ結果ですもんねー、ひゃっひゃっひゃっ!」
刹那、ヴィクトルの表情が歪んだ。
その一瞬を見逃さず、所長はさらにニヤリと嬉しそうな顔を見せると背を向けて歩き出した。
「さー帰りましょったらそーしましょー! 麗しの我が世界へ! ひゃーっひゃっひゃっ!」
自分勝手な不快さを撒き散らしながら、高笑いと共に所長が遠ざかって行く。
その後ろ姿を一瞥すると、ヴィクトルは部下たちへ指示を下して先に行かせる。
「……あなたたちは先行してください。私もすぐに追いかけますから」
ひとりその場に残ったヴィクトルは目を閉じて心を落ち着かせると自問する。
「『自分で選んだ結果』ですか……確かに否定しようのない事実ですね。……ですが、…………他にどんな選択肢があったというのでしょうね?」
自嘲の衝動にかられ、だがそれすらも許されない気がした。ヴィクトルの端正な顔から表情が消える。
元の世界でヴィクトルやアルディスが所属していたウィステリア傭兵団は、ローデリア王国将軍のジェリアという女を誅殺するため乾坤一擲の戦いを挑み、そして無残に敗れた。
かろうじて生き残った仲間が捕らえられ、怪しげな頭環をつけられ、意思を持たない戦奴にされていく中、ヴィクトルは自らジェリアへ降る決断をした。
心にもない言葉を口にし、地に這いつくばり、靴を舐め、無様に請い願い、汚名をかぶることでなんとかかつての仲間たちのまとめ役という立場を得たのだ。
そうしなければ、きっと『天隷』などという蔑みに満ちた名を与えられた仲間たちは都合の良い道具としてあっという間に使いつぶされただろう。
ヴィクトルはそれを許したくなかった。だから屈辱を甘んじて受けた。後ろ指をさされてもよしとした。
たとえこれが仲間たちに対する裏切りだとしても、たとえこれが愚かな選択だとしても、それで構わなかった。
恥辱にまみれても最後まで足掻き続ける生き方を自ら選んだのだから。
ウィステリア傭兵団を裏切り、それによって得た立場を使いジェリアを裏切り続ける。
従うふりをしながら、いつか牙をむき突き立てるその日を待ち望みながらこれまでずっと機を窺い続けていた。
だがそんなヴィクトルがここにきてようやくわずかな希望に遭遇する。
その希望はなぜか若い少年の姿をしていた。
黒い髪と黒い瞳を持ち、ウィステリア傭兵団の団服をまとい、グレイス団長直伝の飛剣を使いこなす剣士だった。
かつてヴィクトルが剣の手解きをした男、多少なりとも目をかけていた男、死んだとばかり思っていた男、そんなひとりの人間を思い起こす。
戦う理由と未だ折れぬ心、そして可能性を持ったその希望はアルディスという名の男だった。
ヴィクトルにすら及ばぬ未熟な戦士とばかり思わせておいて、この短い期間に驚くほどの成長を遂げていたアルディスならば、いずれジェリアへその刃を届かせることができるかもしれない。
そこにヴィクトルは希望を見出した。
もちろん今のアルディスでは到底勝ち目など見込めない。
ヴィクトルを驚かせる程度の実力ではなく、圧倒するほどの力を身につけなければジェリアには届くわけがないのだ。
戦う相手はこの上なく強大である。勝ち目は薄く、分は悪い。しかしそれでも――。
「もし君が諦めないというのなら」
ヴィクトルが命令を受けてウィステリア王国へ差し向けたのは、ダーワットを中心とした元ウィステリア傭兵団の精鋭三名。
ロナが共闘したところで、おそらく勝ちきるのは困難だろう。
だが勝てはせずとも負けない戦いくらいはできるはずだ。
ヴィクトルすら力の及ばないジェリア相手に挑もうというのであれば、そのくらいは期待しても良いだろう。
「――この程度の襲撃は凌いでみせなさい、アルディス」