第380話
ロブレス同盟を構成する三国のひとつ、大陸の南東に位置する国の名をエルメニア帝国という。
神皇国軍との会戦ではアルバーン王国ほどではないにせよ、帝国も大きな損害を出していた。
戦いの最中で好戦派の貴族が多数戦死し、その後強行されたウィステリア王国への侵攻でも大敗北を喫したため、純粋な戦力という意味では大幅に低下している。
帝国上層部は戦力を回復するための雌伏であると主張するが、度重なる敗北と軍事力の低下は隠しきれず、国内の世論にも影響を与えていた。
当主や跡取りを失った好戦派貴族の混乱を横目に、穏健派貴族は神皇国との融和と和平を模索しはじめる。
一方の好戦派貴族ももはやアルバーン王国は頼りにならぬとばかりに手の平を返し、「逆に神皇国と手を結んで大陸に覇を唱えるべし」と主張する者まで現れるほどだった。
サンロジェル君主国が同盟からすでに離脱してしまった今、帝国は双国同盟と名乗るウィステリア・カルヴスの両王国に対抗するための新たなパートナーを求めていた。
かくして双方の打算と策謀が入り混じった結果、帝国は秘密裡に神皇国へ接触を図るに至った。
対する神皇国側は頑なな態度を取るかと思えば、意外にまんざらでもない反応を返す。
表向きは『女神は争いを望まず』と公言しつつ、平和的な交渉を受け入れるべく帝国へ使節団を派遣する。
しかしながら――当然それはただの建前、偽装でしかなかった。
神皇国が送り込んだ十名ほどの使節団一行。その中には使節の一員に扮して同行してきたヴィクトルの姿があった。
神皇国の使節団は他国どころか帝国の民、さらには大多数の貴族にも知られることなく密かに迎え入れられる。
半日の休息を経て、ヴィクトルがその身を置いたのはエルメニア帝国の帝都にそびえ立つ城の一室である。
交渉の場となったこの部屋には、護衛を含めて二十名ほどの人間がいた。
その中でテーブルについているのはわずかに六名。両国の代表とその補佐役二名ずつである。
ヴィクトルはその補佐役のひとりとして椅子へ腰掛け、目の前で行われる交渉を無言で見守っていた。
「ほうほうほうほう、つまり我が国と行く行くは同盟を結びたいとおっしゃったりー?」
国と国とが交渉する場にもかかわらず、奇っ怪な口調を貫き通すのはとなりに座る神皇国の使節代表。初老にさしかかった小身の男である。
その人物へちらりと冷ややかな視線を送りつつも、ヴィクトルは口元の笑みを保ち友好的な表情を崩さない。
どのみちこの場でのヴィクトルは何の権限もない補佐役のひとりでしかない。
いや、実のところはそれすらもただの偽装であって、本来の役割は全く異なる。
「概ねそう受け取ってもらって構わぬ。無論、今すぐ公にとはいかぬが」
対する帝国側の代表者は使節代表の奇っ怪な口調にも戸惑いを見せず、落ち着いた雰囲気を保ったまま答える。
その佇まいには自然と他者を従わせる風格と威厳が備わっていた。
帝国の貴種、それも国を束ねる次代の皇帝ともなれば納得であろう。
その事実は帝国にとって今回の交渉がそれだけ重要であると同時に、いかに現状余裕が無いかということを物語っている。
いくら国の未来を左右しかねない大事な交渉とはいえ、最初から皇太子が出てくるとなればそれだけ帝国側の焦りがうかがえるというものであった。
「しばらくは秘密裡に、ということですかなー? 貴国の立場はわかるのですが、アルバーン王国はどうなさるおつもりだったりー?」
「理解を得る努力は惜しまぬ。だが今しばらく時間はかかろう」
先の会戦で受けた損害はエルメニア帝国よりもアルバーン王国の方が大きい。
援軍として一部の兵力を派遣し被害を受けた帝国と違い、アルバーンは全軍に致命的な損害を被っているのだ。痛手という意味では帝国の比ではないだろう。
当然ながら帝国が神皇国と手を結ぶと言ったところで、はいわかりましたと賛同するわけもない。
むしろ帝国を裏切り者と責め立てる方が想像に難くなかった。
帝国はいざとなればアルバーンを切り捨てて生き残る道を探るつもりなのだろう、とヴィクトルは推し測る。
それも仕方がないと思えるほど帝国は追い詰められているようだった。
表面上はまだ大国としての体裁を整えているが、その内情はボロボロだ。
国中から教会関係者がごっそりと逃奔しているのも大きな原因のひとつだろう。
帝国からすれば教会からの破門が解かれるか否かは国の未来を左右する最重要事項のはずだ。皇太子は口にこそしなかったが、間違いなくこの交渉でもそれを求めてくるだろう。
とはいえ交渉初日から踏み込んだ内容が俎上に載せられるわけではない。
その日の交渉は双方の提案や条件を提示しただけで終わり、神皇国側の使節はそれぞれ割り当てられた城内の客室へと戻っていった。
「ひゃっひゃっひゃっ、なかなか使節ごっこも面白いものですなー」
奇っ怪な口調の使節代表がソファーに深く腰掛けて嬉々とした表情を見せる。
「……」
彼の部屋へ呼ばれたヴィクトルは代表の前で感情を殺した彫像のように直立し、無言を貫いた。
先ほどまでの交渉を『ごっこ』と言い放った彼の頭はクセのある縮れ毛に包まれている。
普段は研究所の所長をしているという男が、なぜ国家間の非公式外交などという重大な役目を務めているのか。
それは彼が口にした通り、神皇国にとってこの交渉が『ごっこ』でしかないからだ。
「さてさてさてさて、隊長殿。天隷どもの準備は万端ですかなー?」
「……問題ありません」
ヴィクトルは今回自分が指揮を取らねばならない非道な作戦を脳裏に浮かべ、胃の中に重苦しい罪悪感を落とし込む。
返答の前にあらわとなった短い沈黙を、所長にして代表である男がここぞとばかりに突く。
「おやおやおやおや、隊長殿はこの作戦が気に入らなかったりして?」
「気に入る、気に入らないの問題ではありません。将軍閣下のご命令を滞りなく遂行するのが私と我が隊の役目です」
「ひゃっひゃっひゃっ、そうですなー。隊長殿の立場ではそう言うしかないかもしれないかもー」
「……」
耳障りなその声と言葉を無言でやり過ごそうとしたヴィクトルへ、所長は楽しそうに話し続ける。
「でわでわ明日、日の出と共に開幕とかですかねー」
「いえ、深夜の方が相手も混乱しますし、こちらが主導権を握りやすいでしょう。今夜大半が寝静まった時間に――」
「ノンノンノンノン」
万が一の損害も許容したくないヴィクトルの抵抗は、あっさりと所長に切って捨てられる。
「天罰は人目に触れてこそ畏怖を呼び起こすとかなんとかー。寝ている間に死んでしまっては皇帝も貴族も平民も、後悔する時間すらないですなー。将軍閣下ならそれは面白くないとか言ったりするような気もしないでもなかったりー」
「………………承知しました。日の出と共に作戦を開始します」
長い沈黙の後にヴィクトルはそう言葉を返す。
上官である女将軍の気質を思えば所長の主張を否定できないからだ。
ジェリアという名の上官であればたぶん――いやほぼ間違いなくヴィクトルや部下たちの被害など意にも介さないだろう。
帝国人への天罰と称して圧倒的な暴力を見せつけることを望み、その結果生み出される悲嘆と慟哭を楽しそうに眺めるのだろう。
だが今は耐えるしかない。
たとえわずかな隙であっても見せてはならないのだ。
今はまだ反抗の気配を悟られるわけにはいかなかった。
自らに割り当てられた客室へ戻ったヴィクトルは、部屋の中で待機していたふたりの部下へ声をかける。
「作戦は予定通り決行する。決行は明日の朝、夜明けと共にだ」
その声を聞くふたりの部下は身じろぎすらせず直立不動のまま立っている。
いずれも鍛え上げられたことがひと目でわかるほどの迫力を持つ、戦に身を置く者特有の風格があった。
だがその瞳には意思を感じさせる光がうかがえない。
その人間離れした様子は、巨石を掘り込んだ石像がただ置かれているようにすら見える。
ふたりは金色に輝くそろいの頭環を身につけていた。
装飾品としては無骨な、しかし防具としては物足らないそれが壁に掛けられたロウソクの炎を鈍く反射した。
ふたりの頭環から自らの目を逃がすように、ヴィクトルは部下へ背を向ける。
「……すまない」
掠れるような声がヴィクトルの口から絞り出された。
部屋の中に沈黙が訪れる。
ロウソクの燃える音ですら拾い上げられそうな静寂は、ヴィクトル自身の声によって終わりを告げた。
「ふたりとも部屋に戻れ」
それまで微動だにしなかったふたりの部下が指示に従って部屋を出て行く。
残されたヴィクトルは上着を脱ぎ捨ててベッドへ倒れこむと、両腕で目を覆い隠して大きくため息をつく。
万全の状態で明日を迎えるためには眠らねばならない。だが眠れない。
拭いきれない不快感と焦燥感に押しつぶされながら、長い時間をかけてようやく眠りに落ちていく。
どうせなら、すべてが悪夢であれば良いのにと願いながら。