第376話
ウィステリア王国の首都トリア。その城では女王のミネルヴァを頂点とした政治が執り行われている。
とはいえまだ若く経験も少ない女王ひとりが一国の舵取りを行うためには、領地経営の経験豊富な諸侯や専門的な知識を持つ文官の補佐が欠かせない。
ミネルヴァ自身が独裁での統治を望まなかったこともあり、ウィステリア王国の政治は女王を最高意思決定者としながらも合議制のような色合いが濃かった。
「ふぅ……」
「どうしたソルテ? まだ御前会議の雰囲気には慣れないのか?」
城の一室でラウンドテーブルを囲んだ椅子に座り、出されたお茶の器を両手に持ったままソルテがため息をつくと、となりに座ってくつろいでいたアルディスが気遣ったように問いかけてくる。
「慣れるわけがないでしょう。私はただのシスターですよ? どうして毎回御前会議に出席しているのか、いまだに意味がわかりません」
「そりゃ仕方ないだろう。エルマーだって面倒だとぼやきながらも出席しているんだ。建前だとしても会議の場に教会の人間がいることに意味があるんだよ」
そんなアルディスの答えに、ソルテは以前、文官のカイルから言われた言葉を思い出す。
『たとえポーズだとしても、政治的には教会側の意見も無視はしないという意向を形にして見せることが大事なのですよ』
そう言っていた本人は持ち前の事務処理能力を買われ、本人の意図とは裏腹に今や宰相のような立ち位置に就きつつあった。
彼は彼で諸侯からの突きあげに苦心しているのだろうが、それに巻き込まれるソルテとしては良い迷惑だとこぼしたくもなる。
もちろん実際にそのような愚痴を言って回るわけにはいかない。
ソルテが心中を吐露できるのはアルディスやエルマーといったごく一部の人間だけだ。
「教会の意見を拾い上げるのならエルマー様だけを呼べば良いでしょうに……」
「それだと公平性に欠けると判断されたってことだ。ま、誰もソルテに政治的な発言を求めているわけじゃないんだ。どうしても譲れない話にだけ声を上げて、それ以外は黙って聞いていればいいんじゃないか?」
そう言い放ってアルディスはお茶を口にする。
「……それはさすがに無責任が過ぎるのでは?」
「ソルテが責任を負うべきは国に対してじゃないだろう?」
「それは……そうですが」
言いくるめられた気がして、ソルテは意趣返しにアルディスへ言い返す。
「アルディスさんこそ立場が立場なのですから、もっと積極的に会議で発言するべきなのでは?」
「下手に口出しをして貴族共と揉めるのはごめんだね」
当のアルディスとて会議ではソルテと同じく座上の置物と化している。
即位前の最高権力者と個人的に交友があり、軍事の長であるムーアとも昵懇の仲、しかもこの城を単身で攻め落とした建国の立役者だ。
本来ならばもっと功を誇ってもおかしくはない人物である。
諸侯もそれは意識しているらしく、会議中も議論が紛糾する度にチラリチラリとアルディスの顔色を窺う者がいた。
だが実際のアルディスは会議において求められない限り発言することはない。
彼にとって大事なのは庇護下の双子であり、ウィステリア王国に協力しているのもミネルヴァやムーアという個人的なつながりがあるからに過ぎない。
日々王国の中で自らの勢力をどう伸ばそうかと暗躍している諸侯には、それがわからないのだろう。
諸侯の誰かが何らかの手段でミネルヴァを引きずり下ろしでもすれば、アルディスはきっとあっさり国を出て別の場所へ安住の地を探しに行く。
それがわかる程度にはソルテもアルディスを理解していた。
「それにどうせ俺にしろソルテにしろ、求められているのは会議での発言じゃなくて会議後のこれだ。ソルテだって別にこの時間は嫌じゃないだろう?」
「それはまあ……否定しません」
ソルテとアルディスは会議後に別室へ通され、しばしの時間ミネルヴァとお茶会のような席を設けるのが定例となっていた。
どうも会議への出席とやらはただの口実で、自分は女王陛下の息抜きに付き合わされているだけなのではという疑念を拭えないソルテだった。
「陛下がおいでになります」
ふたりのいる部屋に前触れがあり、しばらくしてミネルヴァがムーアを伴ってやって来た。
先ほどの会議では厳かな装いに身を包んでいたミネルヴァだったが、ソルテたちが待っている間に着替えたらしく今は空色のドレスをまとっていた。
ドレス自体は簡素なデザインにも関わらず、着ている人物の華やかさはそれを補ってあまりある。
その姿はまるで花畑を舞う妖精を写し取ったようだ。
控えめながらも品の良い装飾が生来の美しさと調和し、秋の空を思わせるドレスの淡い青が菖蒲色の長い髪を際立たせる。
「お待たせしました、師匠。ソルテさん」
ムーアと共に腰を下ろし、侍女や護衛が部屋を出て四人だけになると、途端にミネルヴァの口調が砕ける。
第三者の目がないこのお茶会ではミネルヴァも女王という重い役柄から解放されるのだろう。
たとえそれが自ら選んだ道とはいえまだ十代の少女だ。
自分が彼女と同じ歳の頃を思い起こした後、連なって引き出された記憶――アルディスとの出会いにつながった過去の愚行にソルテは恥じ入る。
重責を担うミネルヴァの心理的負担を考えれば、この程度の息抜きに付き合う程度ソルテにとってはなんの苦でもない。
きっとアルディスも同じ思いなのだろう。
相手がミネルヴァでなければ、たとえ女王だろうと王女だろうと「知るか」と一蹴して去って行くに違いない。
アルディスというのはそういう人物だとソルテは思っている。
「へぇ、さすが生まれながらのお嬢様。そのドレス、よく似合っているぞ」
普段なら女性のおしゃれに一切興味のなさそうなアルディスが、ありきたりな表現とはいえそんな言葉を贈るのもきっと相手がミネルヴァだからだ。
「師匠にそんな褒め方をされると複雑な気分です」
そう答えながらもミネルヴァは満更そうでもない様子だった。
軽くのせられた頬紅の下が少しだけ赤く色付いたのをソルテは見た。
着替えてきたミネルヴァの装いは豪奢でこそないが、全身隙間なく調えられている。
男のアルディスにはわからないだろうが、同じ女のソルテだからこそ気付くことだ。
執務や謁見の場では決して見せない、会議後のお茶会だけで見せるめかし込んだその姿にソルテはミネルヴァの乙女心を感じた。
「それよりも師匠、見てください! やっとマメが潰れなくなったんですよ!」
「一国の女王に手マメが潰れなくなったと嬉しそうな報告をされる俺の方が、どういう反応していいのかわからんよ」
照れ隠しのように話題を変えるミネルヴァと、その内容に困惑するアルディス。
仲の良さそうなふたりを見るソルテの頬も自然と緩む。
交わされる会話は政とも戦いとも無縁のたわいもないものばかり、四人だけの部屋に陽春の木もれ日を思わせるほんのりと温かい時間が流れていく。
とはいえソルテ個人としてはその様子を微笑ましく見守っていれば良い、というわけにもいかない。
今の彼女は頭の痛い問題を抱えていた。
それは女神を指導者として戴くという神皇国の存在である。
ソルテは今、エルマーの下で新しい教えを受けている。
それは彼女が今まで信じていた教義とは少しだけ異なっていた。
だがエルマーの教えは旧来の教えをすべて否定しているわけではない。
教会の教えとは部分的に違いがあるだけだった。
その違いというのも決して受け入れがたいものではない。
むしろ双子を悪魔の使いとするのは誤りであるといったように、ソルテ自身がかねてから疑問に思っていた点に光を照らすようなものもある。
しかしだからといってこれまで信じ続けた教えを簡単に捨てることなどできようはずもなく、迷いが生じ、心が揺れていたところに届いたのが神皇国を統べるという女神の話だった。
ソルテの耳には様々な噂が聞こえてくる。
ある信者は神皇国に女神が降臨し、争いの絶えない世を憂い自ら陣頭に立って荒れた地を保護下に置いているのだと言い、ある旅人は神皇国軍が統治下においた西方諸国で圧政を敷いているとにわかには信じがたい話をしてくる。
一介のシスターでしかないソルテには、何が事実で何が真実かを確かめる術がない。
確かなことはウィステリア王国が神皇国を敵国と断定し、確固たる覚悟で対処するという方針を定めたことだけだ。
神皇国と敵対することがあっさりと決まったことにソルテは困惑した。
異を唱えるべきかと考えが一瞬頭をよぎったが、彼女には御前会議の場において諸侯の議論に口を挟む勇気もなく、同時に神皇国の女神が本物であるという確信もなかった。
『神皇国に降臨したのが本物の女神であれば、軍を率いて他国へ攻め入るようなまねはせんよ』
エルマーに相談した時に返ってきたのはそんな言葉だった。
言外に彼は神皇国の女神が偽物だと主張しているようにソルテは思えた。
理屈ではソルテも理解している。
しかしそれでも幼い頃からずっと信じ続けていた教義を簡単に否定はできない。
それはソルテにとってもはや血肉となって不可分になっているも同然だからだ。
エルマーの唱える新しい教え、耳に入ってくる様々な噂、自分の根本を構成する教義……。
何が本当で何が嘘偽りなのか、ソルテにはもうわからなくなっていた。
「神皇国と手を取り合うことはもうできないのでしょうか……?」
だからなのかもしれない。お茶会が始まってからそれなりの時間が経ち、話題が途切れたタイミングで思わずソルテの口から場にふさわしくないつぶやきがこぼれ落ちたのは。
「は……?」
となりに座っていたアルディスがその言葉を拾ってソルテに鋭い目を向ける。
「ソルテ、今なんて言った?」
アルディスの声に冷たさが加わった。
ミネルヴァは静かに目を閉じ、ムーアが細めた目でソルテを見た。
「神皇国軍がウィステリア王国へ攻めてきたという話はソルテも聞いていたはずだろう? なにより実際に部隊を率いて神皇国軍を撃退したのは目の前にいる俺とムーアだ。俺たちが嘘をついているとでも?」
する必要のない確認をアルディスが口にする。
「その話は……会議で確かに聞きました。それにアルディスさんたちが嘘をついているとも思っていません。ですが……何かの行き違いがあって戦闘に至ってしまったという可能性は考えられませんか?」
アルディスとムーアが大きくため息をつく。
「今さら何を。それにこの場で疑問を投げかけて何の意味がある。それこそ会議の場で発言すべきことだったろうに」
アルディスの声には呆れ八割、怒り二割といった感情が含まれていた。
「それは……はい、そうです……」
ソルテ自身、愚かな行為であることは自覚していた。
だがたとえ愚かなことだとはわかっていても、ソルテの中のどこかに女神を戴く神皇国を信じたいという気持ちがくすぶり続けていたのも事実であった。
アルディスとて言われなき罪で異端者とされ身の置き所を無くしたことがある。同じように罪無く悪評を広められることは往々にしてあるだろう。
もし本当に神皇国に女神が降臨しているのであれば、麾下の軍がそのような暴挙を行うわけがない。
ソルテは女神の正義を信じていた。いや、信じたかったのだ。
「すみません……今のは忘れてください」
和気あいあいとした空気をまたたく間に重くしたソルテが引き下がる。
やはり口にすべきではなかったと後悔するソルテだったが、そんな彼女の逃げをアルディスは許さなかった。
「今さら会議の決定を覆すことは無理だが……そうは言ってもソルテだってこのままじゃ納得はできないだろ」
「……」
うつむいて返答しないソルテにアルディスが告げる。
「もちろん俺の言葉を鵜呑みにしろと言うつもりはない。他人がどうこう言うよりも自分自身の目で確かめてみればいい」
「自分の目で……ですか?」
思いもよらぬ提案に、顔を上げたソルテがアルディスを見る。
「そうだ。近いうちに旧ブロンシェル領へ行く予定がある。それについて来い。神皇国軍が通った町や村が今どうなっているのか見せてやる」