第370話
ウィステリア王国と国境を接する旧ブロンシェル共和国領。
今ではアルバーン王国の支配下に組み入れられた辺境の小さな町に、何の前触れもなく突然神皇国軍がやってきた。
女神自ら率いる――という触れ込み通り、軍旗と共に女神の紋章を掲げたその一軍を町の人間たちは諸手で歓迎する。
「女神様の軍だ!」
「我々を解放するため来てくださったんだ!」
この地に住んでいるのはアルバーンに力尽くで服属させられたブロンシェル共和国の民だ。
彼らにとってアルバーン王国は侵略者であり、そのアルバーン王国軍を打ち破った神皇国軍はむしろ解放者、あるいは救世主と言っても良い。
ましてやその軍の頂点に立つのが女神自身であるとなれば、その進軍を喜んで受け入れるのは当然だった。
人々は自ら門を開き、道の両側へ笑顔で並んで神皇国軍を迎え入れる。
歓迎ムードの中、武装した厳めしい神皇国軍の兵士たちが列をなして行進していく。
軍を率いる指揮官と思しき男が、騎乗したまま町の中央にある小さな広場までたどり着くと、そこには町の有力者たちが顔をそろえて待っていた。
「ようこそおいでくださいました。皆様を歓迎いたします。憎きアルバーンの支配から解放してくださった女神様の御慈悲に心からの感謝を」
へりくだった態度の有力者たちを前に、先頭に立つ指揮官は笑みを浮かべて口を開いた。
「ほう、殊勝な心がけだ。ならば感謝はそれ相応の形にして示してもらおうか」
「も、もちろんでございます。まずは今宵、歓迎の宴を開かせていただきますゆえ――」
「いらぬ」
有力者の代表と思われる男の言葉を指揮官が愛想のない声で遮る。
「え?」
「そのようなものはいらぬと言った」
「そ、そうでございますか……、では皆様お疲れでしょうから身体を休めるための――」
厚意を無下にされた代表者は気を取り直してなおも続けようとするが、それすらも無視して指揮官は要求を口にした。
「明日の昼までに金貨八百枚と馬車五十台分の食料を供出せよ」
「は……? な、何を仰せで……」
思いもよらぬ要求に困惑した代表者が言葉に詰まったその時、突然指揮官が腰から剣を抜いて振るう。
その刃先が代表者の片耳を容赦なく斬り落とした。
「いぎゃあああっ!」
「聞こえぬか? 聞こえぬならその耳は不要だな」
耳を落とされた代表者の絶叫が響く中、指揮官は冷たく言い放ちながら鼻で笑う。
いきなりの暴挙に周囲の有力者たちが色めき立つ。
「な、何をなさるか!」
「役に立たぬ耳を取り外してやっただけだ。もう一度だけ言う、三度目はないぞ。金貨八百枚と馬車五十台分の食料を供出しろ。期限は明日の正午までだ」
有力者たちが向ける敵意のこもった視線も意に介さず、指揮官は一方的な要求を繰り返した。
「な、なぜ我々がそのようなことをせねばならんのだ!」
「そ、そのような大金と食料を明日の昼までに集めるなど、出来るわけがありません!」
「いくら女神様の軍とはいえ、無理難題が過ぎますぞ!」
有力者たちが次々と非難の声をあげる。
「どうやら悪いのは耳だけではなさそうだな」
指揮官はそう言い放つと、最も近い人間に向けて横薙ぎに剣を振るった。
その刃が瞬時に首を断つ。
ごとりと音を立ててその首が地面に落ちた瞬間、周囲の人間はようやく何が起こったかを理解した。
「こ、殺したっ!」
「きゃあああ!」
「うわああっ!」
今まさに目の前で人が殺され、その凶器が自分に向けられる可能性を想像した結果、人々は先を争って逃げ惑いはじめた。
「各隊手分けして徴発にかかれ。抵抗する者は斬り捨てて構わん」
「ははっ」
周囲の混乱など気にもならない風に、指揮官が部下たちに指示を下す。
それまで大人しく不動の姿勢を保っていた神皇国軍の兵士たちが一斉に動き出した。
商店へ押し入り、押し止めようとする従業員を片っ端から斬り捨てると、金庫や商品を持ち出しては広場の開いたスペースへと積み上げていく。
民家ひとつひとつをしらみつぶしに荒らしては、人々のわずかな財と食料をかき集めていった。
「お願いです! これを持って行かれたら私たちは冬が越せません!」
「そうか、では冬を越す必要がなくなれば良いのだろう?」
「ぐはっ!」
とある民家では、突然現れて越冬用の保存食まで持ち去ろうとする兵士にすがりついた若い男が無残に殺された。
「いやあ! あなたぁぁぁ!」
「女だけ残すのも可哀想だろう」
「ああ、ちゃんとこっちも……いや、せっかくだ」
夫を殺され、半狂乱となった若い妻を一瞥した兵士が同僚の兵士を促す。
再び剣を振るおうとした兵士はその手を止め、女の身体をなめ回すように見ると目をすがめた。
「あなた! あなたぁっ!」
大量の血を流し倒れ伏した夫にすがりつく妻の髪を兵士が掴んで引っぱる。
「ほれ、天国へ行く前にこの世の天国も味わわせてやるよ。来い」
「いやっ、やめて! 痛い、離してっ!」
家の奥へと妻を無理やり連れ込む兵士に、同僚の兵士は呆れた表情を見せた。
「まったく……先に行ってるぞ」
「ああ、すぐに追いつく」
町にある全ての商店が襲われ、全ての民家が兵士たちによって荒らされる。
そこに容赦はなかった。抵抗する者は即座に命を刈り取られ、兵士が立ち去った家には火がかけられる。
逃げ場を求めて人々が最後に向かったのは、女神を奉じる小さな教会だった。
救いを求める人々を受け入れ、教会は兵士の手から逃れた老若男女でひしめき合う。
だがそんな聖域へも神皇国軍は手を伸ばす。
教会を囲む兵士たちの前に、ひとりの若いシスターが毅然と立ち塞がった。
「女神様を戴くはずのあなた方がなぜこのような愚かな行いをなさるのです! このような蛮行、女神様がお許しになるはずがありません! 必ず天罰が――!」
「ははっ、天罰ねえ……。女神様のご指示で動いてる俺たちに天罰が下るわけないだろ」
「そ、んな……!」
そんなわけがない、信じられないとばかりにシスターの目に猜疑の色が浮かぶ。
「我が軍に協力しない者は不信心者以外の何者でもないと、女神様は仰せだ。不信心者は斬って捨てて良いとのお許しもある。我が軍の要請を受け入れなかったこの町の住民はもはや女神様の信徒ではない。むしろ神敵だな」
「神……敵……。私たちが……? そんなはずは……」
シスターの信仰を根底から覆すようなセリフを吐き、ひとりの兵士が強引にその細腕を掴みあげる。
「痛っ!」
「へへへっ、シスターには死ぬ前に贖罪の機会を与えてやるよ。我が軍の英気を養うという大役をな」
下卑た笑みを浮かべながら兵士は嫌がるシスターを無理やり建物の陰へと連れ込んでいく。その後をぞろぞろと数人の兵士がついて行った。
必死に許しを請うシスターの声が遠ざかって行く一方で、教会の入口が破られて中になだれ込んでいく兵士たちの足音が響いた。
悲鳴と断末魔の叫びが飛び交い血の匂いが周囲を満たす。
教会が炎に包まれるまでに、さほどの時間はかからなかった。
2025/03/11 誤用修正 卑下た笑み → 下卑た笑み
※誤用報告ありがとうございます。