第364話
ヴィクトルに叩きのめされボロ雑巾のようになったアルディスは、ロナの背に乗せられてネーレの支援を受けながら戦場を脱するとそのままトリアへ帰還する。
全身に火傷を負い、傷だらけという見たことのない姿にアルディスを知る者は皆声を失った。
すぐさま城下町の教会からソルテが呼び出され治療へとあたる。
幸い見た目よりも傷は浅く、ソルテの癒やしによってアルディスの傷は表面上何の問題も無く消えた。
「アルディスさんでも傷を負うことがあるんですね」
「俺をなんだと思ってるんだ」
ベッドの上に横になったアルディスは、苛立ちまぎれに言いながらもそれを八つ当たりだと自覚する。
本来その苛立ちをぶつけるべきはヴィクトルか、それとも無力な自分自身か――。
自嘲気味にアルディスは鼻を鳴らす。
アルディスとて無敵ではない。まして相手はヴィクトルである。それを今さらながら突きつけられただけの話だった。
そんなアルディスをソルテが優しく諭す。
「陛下も心配しておられましたよ。アルディスさんの強さは十分存じ上げていますが、それでもご自身をもっと大事にしてください。彼女たちのためにも」
ソルテの視線が向いている先には、青い顔をして治療を見守っていたフィリアとリアナの姿がある。
ロナとネーレがアルディスを運び込んでから治療が完了するまでの間、ひとときも離れずにそばに寄り添っていたふたりの目には不安と心配の色がありありと浮かんでいた。
「傷は治りましたけど体力は消耗しているでしょうし、せめて今日一日くらいは安静にしておいてくださいね」
傷が塞がっても失った血や体力までもがすぐに戻るわけではない。
釘を刺したソルテが部屋を出て行くと、フィリアとリアナがアルディスへゆっくりと近付いてくる。
「アルディス……」
消え去りそうなか細い声でアルディスの名を呼ぶと、顔を伏せたままふたりが抱きついてくる。
アルディスの身体に顔を押し当てながら、声もなく双子は泣き始めた。
涙も見せず、声も上げず、静かな室内にふたりの洟をすする音だけがこだまする。
フィリアもリアナももはや子供ではない。
負傷したアルディスに飛びついてくるようなことはしないし、大声をあげて泣くようなこともなかった。
そこに年相応の精神的成長を感じながらも、今のアルディスには言葉を飲み込んで悲しみを内に押し込めるようなその姿が、泣きわめかれるよりもよほどこたえた。
「心配させたな、悪かったよ」
ふたりの頭をアルディスが撫でる。
そうしてしばらく、アルディスは彼女たちのしたいようにさせた。
落ち着きを取り戻したふたりに自室へ戻るよう告げて送り出すと、部屋でひとりになったアルディスは改めて自分の敗北を見つめ直す。
確かに仇敵を目にして冷静さを失っていた自覚はあった。
それでも前回のグロク防衛戦時と違って油断を捨てて本気で立ち向かったにもかかわらず、今回も同じようにねじ伏せられてしまったのだ。
否が応にも力不足を痛感させられたアルディスの脳裏で、ヴィクトルのセリフが繰り返される。
『君は――――弱い』
明確に突きつけられた事実と結果。
周囲に自分と対等に戦える存在がほとんどいなかったことで、いつの間にか自分が強くなったつもりだったのか。
自分の強さが幻想でしかなかったことを、アルディスはヴィクトルに思い知らされた。
驕り。
勘違い。
自惚れ。
増長。
思い上がり。
『ずいぶんぬるま湯に浸かっていたようですね』
ヴィクトルの言葉は腹立たしいほどに反論の余地がない指摘だった。
ただでさえアルディスはこの世界に飛ばされてから弱くなっている。
全盛期の力を取り戻してすらいないのに、仇敵ジェリアと戦って勝てるわけもない。
ジェリアはあのヴィクトルですら膝を折るような相手なのだ。
ヴィクトルに歯が立たないアルディスがそのジェリアに挑もうなどと、冷静に考えれば無謀そのものである。
一度ならず二度までもヴィクトルに完敗したアルディスでは、何度挑んでもおそらく勝てないだろう。
一矢報いることくらいはできるかもしれない。だがそれで終わりだ。
「足りない……」
力が――敵をたたき伏せるだけの強さが足りない。
理性ではそう理解していてもなお、心は今すぐにでもあの女を討てと急かし続ける。
「わかってる……今の俺じゃ……」
認めたくない現実を受け入れるため、アルディスは自分自身を呪う。
教えを請う師は失い、背中を追いかける先達も居らず、アルディスと対等に渡り合える者と言えばロナと魔獣王シューダーくらいのもの。
戦いの中で自らを磨こうにもそれにふさわしい相手がいない。
だが今のままジェリアやヴィクトルを相手に戦えば、敗北が待っているだけだ。
落命の危険を顧みずに戦ったとして、今回のように相手が見逃してくれるとは限らないだろう。
「くそっ!」
拳を握りしめ、それでも力のぶつけどころを見出せず唇を噛む。
そんなアルディスの部屋へ、招いてもいない客人がやってくる。
ノックもせずにずけずけと入り込んできた人物をアルディスは睨みつけた。
「何の用だ、ネーレ」
「ヴィクトルとかいうあの男、我が主の昔なじみだそうだな」
アルディスの視線を涼しい顔でやり過ごし、ネーレはベッドのそばまで歩み寄る。
「なかなかの手練れであった。頭に血が上り冷静さを失っていたとはいえ、我が主を赤子扱い」
アルディスの視線が鋭さを増す。
その目には薄い不信感が宿っていた。
普段、従者だなんだと言っておきながらヴィクトルとの戦いでは傍観者に徹していたネーレである。
もちろんロナでさえ戦いに割って入るのに苦労するような相手だ。
ネーレの実力では参戦したところでどれほどの助けになるかはわからない。
それでもやはり傍観に徹していたネーレに対して芽生えた不信感は無視出来なかった。
「強くなりたいかね?」
だからこそ、ネーレの口から飛び出した唐突な問いかけにアルディスは警戒心を抱く。
「……どういう意味だ?」
「あの強者を凌駕するほどの力を求めているのではないのか?」
「答えるまでもない……」
目をそらして壁に顔を向けながらアルディスは言い捨てる。
「だがそれがネーレに何の関係がある?」
若干の苛立ちと怒りが込められたアルディスの問いかけに、短い沈黙を挟んでネーレは口を開く。
「なまじ力があるために相手取るのは常に格下ばかり。戦えば勝つ、それも圧倒して。当然の帰結として強さへの希求も渇望もさほど感じられなんだが……。今の我が主ならば、また異なる思いに至ったのではないかね?」
互いに探り合いながらの会話にうんざりして諦めを見せたのはアルディスの方だ。
「悪いが今はネーレの言葉遊びに付き合うような気分じゃないんだ。言いたいことがあるならはっきり言ってくれ」
「ならば告げよう、我が主よ」
そう宣言する天色の瞳に喜悦の輝きをアルディスは見たような気がした。
「我がセーラ様ならば我が主をさらなる高みへと導けよう」
「セーラ? カノービスの村にいる?」
その名を耳にしてアルディスはとっさにネーレそっくりの黒衣をまとった女性を思い浮かべる。
「いや、彼の方ではない。彼の方は展見を司るお方。我がセーラ様が司るのは練能、人間を高みへと導くのがその使命。我がセーラ様ならば我が主の求める道を指し示してくださるであろう」
セーラが誇らしげにそう告げるが、対照的にアルディスは胡乱な目を従者に向ける。
「……ネーレが何を言っているのか、正直さっぱりわからんが」
出会ってから十年近く。ネーレは常にアルディスへ付き従っていた。
戦闘時のサポートのみならず、アルディスが行方知れずとなっていた間にも双子を見捨てず世話を続けていたネーレのことは、つい先日までそれなりに信用していた。
だが彼女の生い立ちや過去に立ち入ったことは一度もない。
それはアルディス自身が自らの過去に踏み込んで欲しくないからだった。
ネーレもそのあたりを察していたのか、これまでアルディスの過去を探るような真似は一度たりとしていない。
互いに過去を詮索せず、利害の一致だけを求めて続いてきた関係だったが、どうやらそれも終わりを迎えたようだとアルディスは感じた。
「――それが俺を主と呼んでいる理由なのか?」
中途半端に保ち続けてきた距離感をあえて縮めるため、アルディスは一歩踏み込む。
その問いかけを受けて、ネーレは珍しく笑みを浮かべる。
「然り」
鈴の音を思わせる明朗な答えが部屋の中に響いた。