第362話
ロブレス同盟軍が敗走し、君主国軍が戦場を後にするよりも少し時間を遡った頃。
神皇国軍の攻勢がロブレス同盟軍を突き崩しつつある光景を、上空から観察する影があった。
「ロブレス同盟がふがいないのか、それとも神皇国の軍が想像以上に優れているのか……」
「十中八九は後者であろうが……」
「案外その両方じゃないの?」
地上からは人影と判別できないであろうほどの高度に浮かび、青い空に小さな染みを作っているのはアルディスに加え、情勢の変化に伴いカルヴスから帰還したばかりのネーレとロナだ。
そのそばを鳥の群れが通り過ぎていく。強い風をはらんでアルディスの服が裾を暴れさせた。
「ロブレス同盟が大軍を動員したというから偵察に来てみれば、まさかの劣勢とはな」
「うわぁ、一方的じゃないか」
ロナが思わずといった風につぶやく。
上空からの俯瞰では、少数の神皇国軍が多数のロブレス同盟軍を翻弄している様がよくわかる。
圧倒的劣勢のはずだった神皇国軍は、鎧袖一触という言葉がふさわしいほどに敵を蹴散らし、破竹の勢いで戦場を駆け抜けていた。
あまりにも一方的な戦いにロブレス同盟軍の練度が心配になるほどだが、眼下で戦っているのは紛れもない正規軍である。
アルバーン王国軍を中核としたその軍は、決して素人や新兵の集まりではない。
「それだけ神皇国軍とやらが強いってことだろうが……」
「案外ロブレス同盟よりも神皇国とやらの方が危険な存在なのかもしれぬな」
アルディスの考えを察したネーレがそれを言語化する。
「……そうかもしれないな。降りて前線の状況を確認しておくべきか」
「危なくない?」
「ロブレス同盟と敵対しているとはいえ、神皇国が必ずしも味方になるとは限らん。ある程度はその実力を把握しておいた方がいいだろう」
「ま、それはそうだね」
一応、といった程度だったのだろう。
ロナも一度は忠告を口にしたものの、アルディスの判断が変わらないとみるや、それ以上食い下がることはなかった。
「俺とロナが先行する。ネーレは後方の警戒を頼む」
「承知した、我が主よ」
ネーレに背後を任せると、アルディスはロナと共に両軍がぶつかり合う戦場へと高度を下げていく。
やがて高低差が縮まっていくと共に、ゴマ粒同士にしか見えなかった両軍の兵士たちが人の形を成し始める。
「そろそろボクらに気付く人間も出はじめるかな?」
「障壁は展開しておけよ。射貫かれるようなマヌケは放って帰るぞ」
「誰に言ってんのさ」
まったくもう、と口にしたロナが両軍の兵士たちを観察する。
「えーと……あっちが神皇国軍ってやつ? ところどころに凄いのが混じってるね」
ロナの言葉通り、神皇国軍の中に周囲の兵士たちとは明らかに実力の隔絶した者たちがいるようだった。
全身白一色に染まったその兵士たちは、ロブレス同盟軍の兵士たちを触れた端から蹂躙しているように見える。
神皇国軍の攻勢は常にその白い兵士たちが先頭に立っており、彼我の兵力差を埋めているのが彼らの存在あってのことだとアルディスにも分かった。
「特にあそこなんてひどいや。まるで泥汚れを水ですすいでるみたいだよ」
ロナが何とも言えない表現で眺める先にアルディスも視線を向ける。
完全武装の重装兵を中心としたアルバーン王国軍の中核部隊を、ほんの百騎程度しかいない神皇国軍がいとも簡単に分断し蹴散らしている。
同じような光景は戦場のあちらこちらで見られるが、他の場所とは異なる点がひとつだけあった。
先頭に立ち、無人の野を進むが如く駆け抜けるのが白い軍装に身を包んだ兵士ではなかったからだ。
「紅い……鎧」
高度を下げて近付いたとはいえ、まだまだ距離は遠い。
蠢いているのが人間だと判別はできても、その表情や容貌まではよく見えていなかった。
そんなアルディスの目には人物のまとう色が白ではなく、紅であることくらいしかわからない。
真紅の鎧に真紅の外套。
その不吉な色にアルディスの思考へ暗い影が落ち始める。
知らず知らずアルディスの身体が真紅へと引き寄せられていく。
「アル?」
不審に思ったロナの声も耳に入らず、アルディスはゆっくりと真紅の人物へと近付いていった。
いまだ矢が届くか否かという距離であったが、それでも距離が縮まるにつれ少しずつ相手の輪郭がはっきりしていく。
長い髪だ。
軍装へ溶け込むように鮮やかな真紅の髪。
馬上にあるその人物は駆け抜ける際に髪をなびかせ、時折馬を止めては武器を振るっていた。
さらに距離が縮まる。
それは女だった。
真紅の鎧は胸部が膨らんでおり、男が使うそれよりも大きな曲線を描いている。
豪奢な作りの鎧は明らかに周囲の兵士たちよりも立場が上であることを示していた。
やがてその表情を読み取れるほどの距離にまで近付いた。
真紅の女は愉悦の笑みを浮かべている。
武器を振るい、アルバーン王国軍の兵士を薙ぎ払うように血祭りに上げ、無数の骸を生み出しながらも楽しそうに笑っていた。
その瞳は髪色と同じ真紅。
瞳の色まで見える距離ならば、アルディスが見誤ることなどありえない。
「ふふっ、獲物はよりどりみどりよ! さあ蹴散らしなさい!」
その邪気にまみれた悦楽の声が決定的だった。
忘れたことなどない。
アルディスが生きる理由。
果たさなければならない、成し遂げなければならない、魂に刻み込んだ負の渇望。
何をおいても討たなければならない、アルディスの仇敵がそこにいた。
「あ、の……女……!」
世界を渡らなければ剣を届かせることもできないと思っていた敵。
いつ果たせるか分からなかった仇討ち。
それが今、アルディスの目の前にある。
アルディスの仲間を踏みにじり、アルディスの居場所を奪い去り、アルディスの最愛を穢した憎き存在。
尊厳も、温もりも、帰る場所も、愛情も、ささやかな幸せも、何もかもを失うことになった元凶。
『凶蝶のジェリア』と呼ばれていた人の形をしたそれを知覚した瞬間、アルディスの中で何かが爆発的に目を覚ます。
戦場の喧騒が消え、視野が急速に狭まる。
色を失った視界の中で、ただジェリアの真紅だけが鮮やかに存在を強調していた。
同じくジェリアの存在に気付いたロナが目を剥く。
「アル、あれって……」
その言葉に反応もせず、アルディスは瞬時に戦闘態勢へ移行する。
ロナを置き去りにして遮るもののない空中を一直線にジェリアへと飛び、同時に『門扉』を開いて『蒼天彩華』『刻春霞』『月代吹雪』の三剣を手元にたぐり寄せる。
「ダメだよアル!」
制止するロナの声も耳に入らないアルディスは、怨念の矢と化して憎むべき敵へと突き進む。
だが――。
「うぐっ!」
距離を半分にまで詰めたところで突然の衝撃を食らう。
まっすぐ飛び込んでいたアルディスの横合いから尋常ではない力がぶつかり、勢いが一瞬にして殺される。
さらに間を置かずして二度目の衝撃がアルディスを襲った。
視野の狭まったアルディスは、自分がどこから攻撃を受けているのかも分からず、空中から叩き落とされてしまう。
幸い両軍がぶつかる最前線からは距離のある場所へ落ちたが、強く地面へ叩きつけられた。
「かはっ……が……あ……!」
一気に肺から空気が失われ、瞬間的に呼吸困難となったアルディスが苦悶する。
それによってアルディスはようやく自分の周囲を知覚できるようになった。
「見敵必殺と言えば聞こえは良いですが、君のは単なる後先考えない特攻ですね。そんな醜態で彼女とまともに戦えるとでも思っているのですか?」
地面に這いつくばって息を整えようとするアルディスへ、聞き覚えのある声がかけられた。
次いで地面に降り立つひとりの人間。
視線を上げたアルディスの目に、懐かしくも忌ま忌ましい知己の顔が映った。
「ヴィクトル……」
それはかつてアルディスが所属していた傭兵団の重鎮であった男。
団長グレイスの片腕として強烈な存在感を周囲に与えていた傭兵。
アルディスへ剣術の手ほどきをしたこともある旧知の人物。
そして今や憎むべきジェリアの軍門へと降り、その尖兵に成り下がった裏切り者だった。
「あんな不意打ちも防げないとは情けない。昔の君はもっと慎重で、賢明で、強かだったはずですよ」