第361話
本格的な撤退に移った君主国軍は、細目男の指揮下ですみやかに戦場からの離脱を目指す。
しばらくすると細目男の進路に倒れ伏した君主国兵士の骸が見えはじめた。
散発的に見られたその数は進むにつれて増えていき、やがて飛馬の進行を妨げかねないほどになっていく。
もちろん飛馬は本能的に地上の障害物を避けて駆けているが、万が一にも蹄が骸を引っかけようものならあっという間に馬上の人間は体勢を崩して落馬してしまうだろう。
自然と細目男は兵士の骸に注意を払わざるをえない。
それは必然的に自軍が今まさに被っている損害を見せつけられているに等しかった。
「これは……ひどいな」
「簡単には見逃してくれないようですね」
思わずこぼれた細目男の言葉に大柄な男が律儀にも返答した。
大柄な男はカルヴス攻めの際に千剣の魔術師に右腕を斬り落とされている。
通常なら前線から身を引いてもおかしくない負傷だが、大柄な男は傷口が塞がるやいなやその右腕に小型の盾と固定剣をくくりつけ、本来利き腕ではない左腕に剣を握って戦場に立ち続けている。
それが細目男にはなんとも頼もしく、同時になんとも不器用な生き方に思えた。
だがそんな生き方ができる人間など極少数だろう。
この戦いで命を落とさず戦場を離脱できたとしても、兵の中には四肢の一部を失う者や深い傷で満足に動けなくなる者も出るに違いない。
そういった兵は生きてこそいるものの、当然ながら戦力とはなり得ないだろう。
圧倒的な兵力差で完勝間違いなしと思われていた戦いの、思いもしなかった結果に細目男はめまいがする思いだった。
「どれだけの兵が離脱できるのか……」
飛馬に乗っている騎兵は逃げ切れるかもしれないが、徒歩の兵はかなりの数が討ち取られてしまうだろう。
この様子では予想以上に……いや、むしろ想定外といってもいい被害を受けると覚悟しなければならなかった。
そんな細目男の苦悩を読み取ったかのように大柄な男が憤りを口にする。
「業腹です。王国軍と帝国軍がもう少し持ちこたえてくれれば、ここまでひどいことにはならなかったでしょうに。これでは彼らの殿を我々が買って出たようなものです」
大柄な男の言い分は細目男にも理解できる。
しかしロブレス同盟全体が神皇国軍の実力を見誤っていたことは否定できず、その責任の一端は君主国軍を率いる細目男にもあった。
「敵の強さが予想外だった。それについては我々も予期できなかったのだから責めようがない」
理性では自らの不才を認めつつ、それでも感情は大柄な男同様に穏やかではいられない。
「とはいえ帝国の要請に応じて攻撃に出た結果、我々がこうして窮地に陥っているのも事実。帝国から何らかの援護があってしかるべきだと主張しても、それを非難されるいわれはない」
援護するどころか味方を置き去りにしてさっさと戦場から逃げ出すなど、無責任にもほどがあるだろう。
「同意します。彼らは我々の存在を軽視しすぎです」
「そろそろ関係を見直すべき時期に入っているのかもしれないな……」
もともとこの地に足場を築くまでに必要としていた現地協力者がエルメニア帝国であり、その流れで参加したロブレス同盟である。
すでに都市国家連合を半ば平定し統治も安定してきている今、無理に帝国と歩調を合わせる必要はなくなってきていた。
君主国の入植地として本国からの移民受け入れが進みつつある以上、補給や兵力補充も今後は自力でまかなえるようになるだろう。
いずれ戦力を回復して足もとの基盤が確固としたものになれば――。
「敵です!」
細目男の思考が大柄な男の喚起によって中断される。
次の瞬間、細目男の直前まで迫っていた飛翔物が不可視の障壁に弾かれ、あさっての方向へ飛んでいく。
「魔法攻撃か!」
飛馬という生き物は生まれながらに魔法障壁を展開する能力を持っている。
騎馬として純粋に優秀なだけではなく、まるで飛んでいるかのような跳躍力と護りの障壁。サンロジェル共和国において飛馬が重宝されているのもその能力があればこそあった。
飛馬を走らせながら細目男が剣を抜く。
あわせて魔法攻撃の飛んできた方角を警戒するため目を向ける。
そこに異常な人間がいた。
馬に乗っているわけでもないのに飛馬の足にあわせて並走し、十歩分の距離を一足で駆ける人間が味方の中に割り込んできていた。
どこからもぐりこんできたのかはわからない。
細目男が目にしたのは全身白い装備に身を包み、額に金属製らしき頭環を身につけた三十半ばの男だ。
見てくれは傭兵のようにも感じられるが、少なくとも傭兵はこのような無謀な戦い方はしない。
周囲に神皇国軍の兵士はひとりも見えず、相手からすれば周囲敵だらけの中に孤立しているようなものだからだ。
水切り石のごとく地面に並行して低く跳躍し、その跳躍を繰り返すことで飛馬に匹敵する速度で追従してくる白い神皇国兵は、その手に奇妙な形の剣を握っている。
刃波打つその剣が飾りではないことを細目男はすぐ知ることになった。
「相手はひとりだ、左右から挟み込め!」
細目男の周囲を固めていた部下の中から、小隊長のひとりがそう号令を下す。
しかし味方の飛馬騎兵が突き出した槍を神皇国軍の兵はあっさり弾くと、反撃のひと振りで飛馬ごと馬上の騎兵を両断した。
「馬鹿な!」
防具をまとった人間を両断するだけでも異常だろうに、その一太刀で飛馬もろともである。しかも斬る側も斬られる側も走りながらとくれば人間業には思えない。膂力がどうなどという話ではなかった。
その光景を実際に目の当たりにしておきながら、それでもなお細目男は幻でも見ているかのような感覚に陥ってしまう。
白い神皇国兵が剣を片手に持ち替え、空いた腕をぐるりと振り回す。
その周囲に無数の氷塊が現れ、間を置かずに飛馬騎兵へと放たれた。
ほとんどの氷塊は飛馬の魔法障壁に阻まれる。
しかし運悪く魔法障壁が発動しなかった数騎がその直撃を受けて落馬していった。
魔法による攻撃がさほど効果を発揮しないと理解したのだろうか。
白い神皇国兵は攻撃の手段を剣に戻し、近場の飛馬騎兵を手当たり次第に斬り殺し始めた。
飛馬騎兵たちが次々と斬られ、落馬し、そのまま後方へと置き去りにされていく。
厳しい訓練を耐え抜いた選りすぐりの者たちが、難関と名高い昇格試験をくぐり抜けて飛馬に乗ることを許された精鋭たちが――まるで子供扱いだった。
その理不尽な光景に細目男は思わず叫ぶ。
「なんだコイツは!?」
「例の敵です!」
となりに並ぶ大柄な男がその答えを明確に返す。
「こんなのが……幾人も敵にいるというのか……?」
細目男の表情が驚愕で彩られる。
その間にも白い神皇国兵は攻撃の手を緩めることなく、次々と飛馬騎兵が討ち取られていった。
「敵の相手をせずに駆けろ! 飛馬の足を止めるな! 戦場から離脱することを優先しろ!」
振り切って離脱しようにも、相手は自らの足で飛馬に追従してくる人外である。
だが足を止めてしまえば神皇国軍の追撃から逃れるのはさらに困難になるだろう。
幸い敵の魔法攻撃は飛馬の魔法障壁でほとんど防げている。
近づきさえしなければ敵の攻撃にさらされることもない。
敵に狙われた者は不運としか言いようがないが、逃げの一手に専念することが最も被害を最小に抑える道だと細目男は結論付けた。
サンロジェル君主国軍はその後、神皇国軍の追撃を受け多大な被害を出しつつも、かろうじて戦場からの離脱に成功する。
しかし兵力七千のうち、未帰還者二千以上、負傷者は軽傷者重傷者あわせて四千を超えてしまう。その戦力は大幅に低下して、以後カルヴスに対する攻勢は停滞することとなる。
アルバーン王国軍、エルメニア帝国軍も神皇国軍の追撃を受け、君主国軍よりも大きな損害を被っていた。
アルバーン王国軍は二万名のうち未帰還者一万三千以上、負傷者三千以上。報告を受けた本国の人間が『報告内容が明らかに間違っている。桁を見直せ』と一蹴するほどには非現実的な数字となった。
エルメニア帝国は八千名のうち未帰還者四千以上、負傷者二千五百以上とサンロジェル君主国軍以上の被害を出している。
追撃した神皇国軍は五百にも満たない人数だったが、その中には君主国軍に襲いかかった白い神皇国兵と同じ装いの者が多数確認されていた。
また、赤い鎧に身を包んだ妙齢の女将軍が一騎でアルバーン王国軍を壊滅させたなどと、馬鹿げた流言が両国の間で飛び交うこととなる。
結果だけを見れば君主国の被害は他二国に比べればまだましと言えよう。
しかしそれは戦場へ置き去り同然にされた君主国にとってなんの慰めにもならない。
大敗北の要因となった二国への不信と不満は日を追うごとに大きくなり、君主国と両国との間に大きな隔たりを生むこととなった。