第360話
アルバーン王国が支配する旧ブロンシェル共和国領土。
その最西端からさらに西へ進んだ先、かつていくつもの小国家が存在していたその地は大軍同士がぶつかる戦場となっていた。
開けた平原の東側に陣を構えるのはエルメニア帝国、アルバーン王国、サンロジェル君主国から構成されるロブレス同盟の軍。対して西に布陣するのは聖教国と呼ばれていた国を母体とし、新たに神皇国を名乗っている国の軍である。
ロブレス同盟軍はアルバーン王国のほぼ全軍である兵二万を中心に、エルメニア帝国の援軍八千とサンロジェル君主国の援軍七千を加えた合計三万五千という大軍。
一方の神皇国軍はその兵力わずか四千。
西方諸国において旧聖教国はひとつ抜きんでた存在であった。
しかしその旧聖教国ですら、エルメニア帝国やアルバーン王国に比べれば国土は小さく人口も少ない。
ましてや帝国が旧ナグラス王国領の半分以上を支配下に置き、アルバーン王国がブロンシェル共和国を吸収した今、国としての規模はことさら比べるまでもなかった。
戦場に布陣する両陣営の兵力はその差を如実に表している。
ロブレス同盟がこの戦いに勝てば、西方に残るのは国家と呼ぶのもおこがましいほどの小勢力ばかりである。
逆に神皇国からすれば、この一戦はまさに国の興亡がかかっていると言えよう。
しかしながら三万五千対四千という圧倒的な戦力差はどう足掻いてもひっくり返せるようなものではない。
見晴らしの良い平原で正面から戦う以上、九倍の兵力をそろえたロブレス同盟軍が負けることはない。
あるわけがない。
ありえない。
そう誰もが思っていた。
「それなのに、これは一体どういうことだ?」
ロブレス同盟軍の一翼を担っていたサンロジェル君主国軍。その指揮官たる細目の男は困惑を言葉に変える。
雄叫びと悲鳴と血の匂いが充満する戦場の真っ只中で、細目の男は必死に状況を把握しようとしていた。
「まさか味方が押されているのか?」
幾度も戦場で生死を共連れに戦ってきた経験が、肌にまとわりつく感覚としてそう主張する。
「伝令、伝令!」
浮き足立つ周囲の空気へ割り込むように伝令の使者がやって来る。
「申せ」
「エルメニア帝国大将軍リトレイル閣下より伝令です。『アルバーン王国本隊が敵の強襲によって後退中。立て直しの時間を稼ぐため帝国軍は王国軍の援護へ回る。君主国軍には敵の側面から陽動攻撃を行い敵攻勢の阻害を願う』――以上です」
細目の男はにわかに信じがたい伝令の内容を耳にして、その細い目を見開く。
「王国軍が後退!? 四千の敵相手に、二万の兵が?」
思わず問い詰めるような物言いをしてしまうが、一介の伝令にそれをぶつけても意味が無いことは細目男もわかっている。思わず舌打ちをしたくなるがそれをなんとか飲み込んだ。
「……わかった。我が軍はこれより攻勢を強めて敵側面を突く。帝国軍には承知したと返答してくれ」
立ち去っていく伝令を見届けた後、細目男は麾下の兵に向けて号令を下す。
「我が軍はこれより敵側面へ強襲をかける! 陣形を整えろ! 飛馬騎兵は突撃準備を!」
号令を受けて君主国軍が次第に紡錘陣形へと移行していった。
「行くぞ、続けぇ!」
声の限りに叫びながら細目男は軍の先頭に立って飛馬を駆り、神皇国軍の側面へと自軍を率いて突撃する。
勢いそのままに君主国軍は神皇国軍の陣を端からかすめるように攻撃を加えた。
決して敵軍の中へ突き進むようなことはせず、神皇国軍の表皮を削り取るように細目男は麾下の兵を指揮する。
陽動であるからには敵へ痛撃を食らわせる必要はない。
今君主国軍に必要とされているのは、反撃によって被る損害を最小限に抑えつつ敵の攻勢を鈍らせることだった。
細目男によって率いられた君主国軍はしっかりとその役目を果たし、神皇国軍の動きを減速させることに成功した。
あとは態勢を立て直した王国軍と帝国軍が反転攻勢に出れば、君主国軍とで敵を挟撃することも可能だ。
もともと味方の兵力は敵の九倍と圧倒しているのだから、もはや勝ちは揺るがないだろうと細目男は考えたが――。
「なぜ王国軍は反撃しない! あれではただの敗走ではないか!?」
態勢を整え、機を見て反転攻勢に出るべきアルバーン王国軍が、後退の勢いそのままに戦場から遠ざかり続けていた。
さらにその援護へと寄せていた帝国軍までもが一緒になって後退しつつある。
加えて理解不能なことに、わずか四千しかいないはずの神皇国軍が君主国軍に対して反撃に移り、想定外の圧力をかけてきていた。
「敵の大部分が我が軍に向かって反撃してきています!」
「だとしてもどうして四千の兵に押される!? こちらの方が兵は多いはずだぞ!」
部下の報告を受けても細目男の疑問と苛立ちは解消しない。
不可解な王国軍の敗走。それに引きずられるかのような帝国軍の動き。兵力で圧倒しているにもかかわらず押されている自軍。
困惑する理由はいくらでもあった。
「くっ。戦場からいったん引いて態勢を立て直す! 敵に向かって右手に抜けるぞ、遅れるな!」
細目男が退却の指針を部下に伝え、軍全体が次第に動きを変化させ始めたところで、左右から二騎の大隊長が自らの駆る飛馬を寄せてきた。
大隊長のひとりは陽光を反射して輝く銀髪を短く整えた男、もうひとりは人一倍立派な体格をした大柄な男だった。三騎の飛馬が声の届く距離を保ちながら並走する。
「おい大将。圧倒的有利な戦力差だったのにろくな戦果もなしに逃げ出すのか――とは言わん。正直その判断は正解だと俺も思う」
先に口を開いたのは銀髪の男だった。
不満をにじませながらも、素直に細目男の判断を認める。
「なんだ、そんなことを言いにわざわざ来たのか?」
冗談じみた物言いで言葉を返した細目男に、銀髪男は神妙な顔つきを見せる。
「いや、どうも敵にとんでもないバケモンが数人混じっているみたいでな。注意を促しに来た」
「化け物?」
突然湧いて出た物騒な表現に細目男は馬上で眉をひそめる。
そこへ反対側から大柄な男も銀髪の男に同意してきた。
「肯定します。そいつの言う通り、人外と言われても納得するような者が幾人か敵軍に混じっております。腕に覚えのある分隊長格が何人かやられました」
「こっちの方が兵力多いからって甘く見てると危ないぜ。こっちが優位にあるとか思わない方がいい。負け戦だと思って気を引き締めろ」
共に死線を幾度もくぐり抜けてきた戦友ふたりの見立てに、細目男は確かめるように問いかける。
「そんなにか?」
「ああ、以前カルヴス攻めの時に本陣へ乗り込んできた『千剣の魔術師』と同レベルのバケモンが複数だ」
「……冗談を言っているわけではないよな?」
「冗談だろうが真剣だろうが、笑えねえことに変わりねえよ」
銀髪男が真顔でそう告げると、大柄な男の方も状況のまずさを指摘する。
「事実です。兵数はこちらの方が圧倒的に多いものの、質があまりにも違いすぎます。敵はたかが四千人ですが、その戦力は数だけで推し量れません」
「ってことだ。敵は帝国軍と王国軍の追撃もそこそこに俺たちへ兵を差し向けてきてる。本気で逃げないと本当にまずそうだぞ」
銀髪男の言葉が本心からの危惧だと理解した細目男は、ほんの短い時間を思考に費やしただけで考えを切り替えた。
「……わかった。一時撤退などという甘い考えは捨てよう」
「んじゃ、撤退路を切り開くのは俺の部隊が引き受ける。ふたりは迷子が出ないようしっかりと部下の手綱を握っておけよ」
そう言い残して銀髪男は先行すると、速度を上げ駆けていった。
2025/03/11 誤字修正 共に視線を → 共に死線を
※誤字報告ありがとうございます。