第349話
フィリアたちの生まれ故郷である村には昔から代官がいない。
人口は少なく、これといった特産もないため経済的な価値は低く、国境にあるわけでもなく、街道の要衝に位置するわけでもないため、支配者たちが目をかけるほどの価値もない場所である。
そのため昔から村長をはじめとする数人の有力者が村の舵取りを担ってきた。
村の中では一番大きな村長の自宅。
食卓としても使われる長方形のテーブルを囲んで座っているのは、家主である村長とその他数名の老人。
「また出たらしいのう」
「またか……」
「今月に入って何度目だ?」
「三度……いや四度目か」
村の代表者である彼らはみな眉間にしわを寄せていた。
ウィステリア王国の特使一行として姿を現した悪魔の子を追い払ってから、ふた月が経っている。
今彼らが頭を抱えんばかりに窮しているのは、村を囲む状況が不穏さを増しているからだ。
「だが一頭だけであろう?」
「頻繁に、というのが問題なのだ」
「おそらくは斥候……だな」
「獲物として見定められているということか?」
「その可能性は高いのう」
楽観論はすぐさま否定され、重苦しい雰囲気が部屋を包む。
「小さな群れであれば良いが」
「五、六頭の群れならばなんとか……」
「しかし前のように大きな群れだったら……」
二ヶ月間に村を襲ったグラスウルフの群れを思い出し、幾人かが身を震わせる。
あの時はたまたま村へ立ち寄ったウィステリア王国の一行によって撃退されたが、本来なら村人たちの手に負えるような相手ではなかった。
同じような規模の群れが再び襲ってくれば、今度こそ村人に多数の被害が出てしまうだろう。
場合によっては村自体が壊滅してもおかしくない。
「今からでもウィステリア王国の庇護下に入るべきではないか?」
「馬鹿を言うな! お主は女神様の教えに背くつもりか!?」
「しかし他に助けを求める相手など……」
「ならんならん! 絶対にならん!」
感情的に村長が怒鳴る。
とはいえ当の本人も効果的な対案を持っているわけではなかった。
この一ヶ月、村を取り巻く状況は悪い夢でも見ているかのように悪化している。
周囲の村は不信心者ばかりなのか、どこもかしこも早々にウィステリア王国の庇護下へ入ってしまった。
各村には王国が雇った傭兵が派遣され、その彼らが半月ほどの間周辺の危険な獣を討伐して回ったため、一時的とはいえあたり一帯は辺境の村とは思えないほどの安全が確保されたという。
その結果、今が商機とばかりに行商人の往来が増え、それぞれの村はにわかに活気付いているらしい。
逆にこの村へ毎月やって来ていた行商人が今月はまだ姿を見せていない。
その事実が村長の背を冷たくする。
まさかウィステリア王国が行商人にこの村へ立ち寄らないよう、圧力をかけているのではないかという疑念が湧き起こる。
行商人が来ないからといって、途端に生活が成り立たなくなるというわけではない。
だがもしこのまま行商人が立ち寄らなくなれば、今の生活水準を維持するためにはこちらから町へ人をやって物資を調達する必要があるだろう。
不安要素はそれ以外にもあった。
時期を同じくしてこの村の周囲では獣の目撃が増えはじめたのだ。
傭兵たちが獣を討伐したとはいっても、すべてを狩り尽くすことなど物理的に不可能だ。
当然その網から逃れた個体は危険を避けて別の場所へと逃げていく。
しかし逃げた先でもウィステリア王国の派遣した傭兵が獣狩りをしていれば、再び落ち着きどころを探してさまようことだろう。
流れ流れて行き着いた先が、近辺で唯一傭兵たちによって獣狩りをされていないこの村周辺であったとしてもなんら不思議ではなかった。
意図してか、あるいはただの偶然か。ウィステリア王国の庇護下にないこの村が、逃げて来た獣たちの避難所になってしまっているのだ。
獣たちにとっては避難所でも、そこに住まう村人たちにとってはいい迷惑――いや、大変な脅威である。
先月はまだそれほどの変化を感じなかったが、今月に入って村の近くで頻繁に獣の姿を見るようになった。
いずれも単独行動をしているグラスウルフやコヨーテであり、今のところ群れの存在は確認されていない。
しかしコヨーテはともかく、グラスウルフは本来群れをなす獣だ。
一頭だけで生きている個体も中にはいるかもしれないが、こうも頻繁に一頭だけのグラスウルフが現れることなど普通は考えにくい。
群れの斥候と考える方が自然だった。
知らず知らずのうちにこの村は危険な場所となりつつある。
そう気付いたとき、村長はヒヤリとした死神の鎌を首にそえられたような気がした。
時間が経てば経つほど王国の手を振り払ったこの村だけが追い詰められていくことになる。
この村だけが獣の脅威にさらされ続け、行商人の足が遠ざかれば村から人を出して町までの道を往復しなければならなくなるのだ。
しかもその道はこれまでよりもさらに多くの獣がうろつく危険な道となっていることだろう。
このままではまずいと理解しながらも誰ひとりとして有効な手立てを提案することもできず、会合は何ひとつ成果を上げることなくお開きとなった。
会合が終わった後、村長の家を出た老人たちは空の隙間から漏れてくるわずかな明るさをたよりに各々の家へ向けて歩き出す。
ひとりまたひとりと行く先が分かれ、最後に残った初老の男が村はずれの自宅まであとわずかという距離にまで近づいたとき、突然視界が揺れた。
何事かと驚く間すら許されず、男の足が強く後ろに引っぱられる。
「痛っ!」
バランスを崩して顔から地面に倒れこんだ男は、起き上がろうとして失敗する。
何か締め付けられているような強い力によって足の自由が奪われていた。
原因を探ろうとした男は、自分の足首に白く細い糸の束が巻き付いていることに気付く。
「何が……ひぃっ!」
白い色を視線でたどり、暗がりに向けた目がおぼろげに浮かび上がるその姿を捉えたところで悲鳴を上げる。
薄明かりに照らされ、男の眼に映ったのは八つの赤い目。
「ハ……ハンター!」
それは辺境の山岳地帯に生息する体高二メートルほどの大型肉食獣。
赤い八つの目と細長い八本の足を持ち、強靱な鋏角は板金鎧すらも容易く切り裂くほどだが、その最大の脅威は体内で生成され腹部から放たれる糸のような物質である。
細くしなやかに見えるその糸は非常に強固でしかも粘着性を持っている。
燃えやすいという弱点はあるものの、鋭い刃物でも断ち切るのが難しく、この糸に捕らえられれば脱出は困難であった。
ハンターはこの糸を用いて獲物を遠距離からからめ取り、自らのもとへ引き寄せて捕食する。
その危険度はグラスウルフなど比べものにならず、一介の村人では到底太刀打ちできない。
出会ったなら糸でからめ取られる前にわき目もふらず逃げるしかない相手である。
まして初老の域に入りつつある男が武器も持たずにどうこうできる相手ではない。
男の頭を埋め尽くす恐怖の感情。
周囲にある人家といえば自分の家だけ。住んでいるのは男と同じく初老に入った妻だけである。
当然助けを呼んだところでどうにかなる状況ではない。
どうすれば、という考えを巡らせる時間も与えられず、ハンターは男の足を糸で引き寄せる。
「ひ、ひいいいぃ!」
ひと呼吸ごとに近付く恐ろしい姿のハンターと死へのカウントダウン。
やがてその距離はハンターの足が届くところまで縮まる。
次の瞬間、ハンターの鋏角が男の頭部を左右から挟み込んだ。
「あががが」
とうとうまともに声を上げることすらできなくなった男は、薄れゆく意識の中でただひたすら女神に救いを求め続けた。