第342話
カルヴスを囲むように布陣していたサンロジェル君主国とエルメニア帝国の軍が粛々と撤退をはじめたのは、ニコルたちが敵本陣に奇襲をかけてから三日後のことだった。
喜びに沸き立つカルヴスの人々とは対照的にニコルの方は驚くまでもないという表情をしている。
当然だろう。
総大将を討ち取り、後方の物資をあらかた焼き払ったのだ。
敵がまともな思考をしていればこれで戦いを継続しようなどと考えたりはしないはずだった。
当面の危機は去ったものの、この城に戻れば否が応でも責務に追われるのが王弟という身分である。
これまで好き勝手にやって来たのだから、こういう時くらいは国と家族のために役立とうという程度にはニコルも愛国心を持っている。
役目のひとつとしてアルディスが喜ばないであろう話を打診するくらい、いまだに自分を担ぎ上げようとしている馬鹿貴族の相手をするよりはよほどましだった。
「祝勝会?」
「まあ、勝ったんだから当然のことと言うか、それだけカルヴスにとっては喜ばしいことだという証しというか」
予想通り嫌そうな気配を隠そうともしないアルディスの反応に、ニコルは申し訳なさそうに弁解を口にする。
「勝利を祝おうって気持ちは古今東西変わらないものだし、今回に関しては国家存続の危機とも言えたわけだからな。で、祝勝会ってなると当然殊勲者がその主役になるんでお前さんとそこの嬢ちゃんのふたりが招待されているんだ。特に先日の防衛戦で活躍した嬢ちゃんの方とお近づきになりたいっていう人間が多くてだな……」
「正直そういうのは迷惑でしかない。マナーなんぞ全く知らないし、興味もない」
にべもなく断りを口にするアルディスに、ニコルはまあそうだろうなといった表情を見せる。
なんだかんだと長い付き合いである。そういう反応が返ってくるということは当然想定していた。
「そうだよなあ……。嬢ちゃんはどうする? ドレスや装飾品ならこっちで用意できるけど」
早々にアルディスの説得を諦めたニコルが今度は自称フィリアナのリアナに声をかける。
しかし当の本人はアルディスをチラリと横目で見た後、首を振って拒否するとその理由を口にした。
「アルディスが行かないなら」
見事に振られたニコルは大きくため息をつく。
「はあ……、仕方がないか」
「仕方ない、ですむのか?」
自分が袖にしておきながらニコルの立場を心配したらしいアルディスが問いかけてくる。
「本人の意思を無視して社交の世界に平民を引っぱっていってもろくなことにならない、って事例は掃いて捨てるほどあるからな。貴族だと社交も義務だからそうもいかないが」
もともとニコルにしても色よい返事が得られるとは思っていなかった。
この国の上位者にあたる兄たちから頼み事という名の命令を受けた以上、立場的にも心情的にも断れなかっただけの話である。
とはいえ請け負ったのは話を持っていくまでであり、是が非でも良い返事をもらって来いとまでは言われていないのだ。
それはもうひとつ指示されている言伝の内容からも明らかだった。
「その代わりと言ってはなんだが、兄貴たちがお前さん方ふたりとの私的な会談を求めてる。表向きはミネルヴァ嬢との会談だが、彼女の付き添いという形でふたりにも来て欲しいんだ」
これでカルヴス王家は譲歩した形になる。
もとより王家としてはアルディスたちを祝勝会に引っ張り出すのも、上手くいけば儲けものくらいの認識に違いない。
「……わかった。あくまでも私的な会談なんだな?」
「ああ、堅苦しいのはなしだ」
さすがにこれも断ってしまえば王家の面目を潰すことになってしまうとアルディスも理解したのだろう。
渋々ながら承諾し、リアナの方もつられる形で首を縦に振った。
「ふう、助かったよ。こっちも断られるとさすがに俺も困るところだったから」
やれやれと肩の力を抜くニコルへアルディスがからかうように問いかけてくる。
「魔物の相手をするのとどっちが楽だ?」
「どっちもやだね。俺はもっとのんびり暮らしたい。そこそこの規模の商会で用心棒をするくらいが身の丈に合ってるよ」
「その商会の女商会長が最近ずいぶん思い悩んでいるみたいだが? おかげで貿易関係の交渉が不利な方へ傾いているって文官のひとりが困っていたぞ」
「へいへい、お前さんに言われなくてもわかっていますよと。原因が俺だってこともね」
このカルヴスで再会した初日以降、ニコルはマリーダとろくに話をする時間を取れずにいた。
王族の一員としてカルヴス社交界で引っ張りだこになりながら、ウィステリア王国とのパイプ役として関係各所との調整に走り回り、つい先だっては自らアルディスたちと一緒に敵陣のただ中へ斬り込んでいったばかりなのだ。
マリーダもマリーダで文官の補佐兼アドバイザーとして貿易に関する折衝に携わっているため連日忙しくしている。
ニコルとしてはマリーダを騙していたつもりはないが、素性を隠していた負い目はある。
ましてやニコルにとって彼女はただの雇い主というだけの存在ではない。
彼女が誤解や不安を抱えているのなら一刻も早くそれを解消したかった。
敵が撤退を開始するに至り、ようやくニコルの方も時間的な余裕を持つことができたのだ。
十分働いたのだから、そろそろ王弟という立場よりもニコルという個人の事情を優先させても許されるのではないかと思いはじめていた。
「だからこの後でちょっとお嬢の援護射撃しに行ってくる」
アルディスにそう言い残してニコルは場を立ち去る。
その足で両国の担当官が交渉の場として使っている部屋のひとつへと向かった。
ニコルがその部屋へ足を踏み入れると、途端に場の空気が固まった。
王宮の中にしては小さめの部屋には立派な会議卓が置かれ、その両側に二国の代表者が腰掛けている。
カルヴス側には財務担当の文官がふたりと国内の商人を代表して大手商会の会長がひとり、ウィステリア側にはミネルヴァと共にやって来た文官と商会代表としてマリーダのふたりが席に着いていた。
彼らが驚くのも当然だろう。国同士の折衝が行われているとはいえ、細かい条件をつめる実務者レベルの会議に王弟が姿を現したのだから。
王位継承権を放棄し長年出奔していたとはいえ、それでもニコルが王族であり現国王の弟であることに変わりはない。
「ああ、構わない。座ってくれ」
慌てて起立しようとする面々に向かって鷹揚に告げ、ニコルは自ら部屋の端に置いてある椅子を一脚持ち運ぶ。
「で、殿下。そのような雑事は私どもにお申し付けくだされば」
「今の私は王弟としてこの場にいるわけではない。この程度は自分でする」
「は、はあ……」
あっけにとられたままの文官をよそにニコルはマリーダの横へと歩み寄ると、持っていた椅子をそのとなりに下ろして当たり前のように座った。
「……殿下?」
その場にいた全員がニコルの行動に困惑する。
カルヴス側の文官がその意図を計りかねて問うた。
「その……なぜ殿下がそちらの席に?」
そもそもこの場に王弟が混ざっていること自体がおかしな話だが、それを抜きに考えても普通ニコルが座るべきはカルヴス側の席だろう。文官の問いは至極当然のものである。
それに対するニコルの答えは彼にとって予想もつかないものだっただろう。
「私はリッテ商会の一員なのだからここに座るのが当然だろう?」
「は、い……?」
「商会で世話になってもう十年以上が経つ。この会議の結果いかんによって自分の商会が浮きも沈みもするとなれば、無関心ではいられぬのが人の心というものだ」
「殿下の……商会……」
ニコルの言葉を曲解したのか文官のひとりが顔を青くし、同席しているカルヴスの商人も渋面を浮かべた。
「心配せずとも交渉の内容に口を出すつもりはない。私のことは気にせず続けてくれ」
「………………承知いたしました」
ニコルの無責任な宣言に、もうひとりの文官が気丈にも返答する。長い沈黙を要した無礼にはニコルも言及しない。
その後の交渉は完全にウィステリア側優位で進んでいった。
ニコル自身は約束通り口を挟まなかったが、だからといってカルヴス側の人間にしてみれば全く配慮せずにもいられない。
勝手に忖度した文官たちが努めて公平さを保とうとした結果、両国の間に交わされた条約は平等を絵に描いたようなものとなる。
まだろくに国の形も出来上がっていないウィステリア王国からすれば上々を通り越して出来過ぎといえるほどの成果であった。
精神的疲労から憔悴しきったカルヴス側を残して部屋を出た後、ウィステリアの文官はミネルヴァへの報告をするため立ち去っていく。
残されたふたりは通路を言葉もなく並んで歩いていたが、その沈黙に耐えかねたマリーダがらしくもなく遠慮がちに口を開いた。
「いいのですか? あんなことをしてはニ――殿下の立場が悪くなるのではありませんか?」
「なんだよお嬢、今さら他人行儀に?」
対するニコルは涼しい顔で答える。
レイティンで護衛をしていたときとなんら変わらないその口ぶりに、マリーダの顔から固さが取れた。
「ニコルがカルヴスの王弟殿下だったとか……こっちはつい先日初めて知ったばかりなんだにぃ」
「黙ってたことは悪かったよ。ただ、言い訳をさせてもらうとこんなことが起こらなけりゃ戻るつもりはなかったんだ」
ようやく調子を取り戻したマリーダの不満にあっさりとニコルは謝罪の言葉を口にする。
王族にあるまじき行為だが幸いこの場に他の人間はいない。
「カルヴスの王弟がレイティンの商会で用心棒なんかしてるって知られたら、いろいろ面倒が起こるのは目に見えてたし、それでお嬢に迷惑をかけるのも嫌だったんだよ」
「他の人間はともかく私には教えてくれてたって良かったんじゃないかにぃ」
「五年くらい経った頃には話そうと思ったこともあるんだけどな……。お嬢から距離を取られるかもしれないと思ったら……どうにも切り出せなくて」
「…………私がニコルを遠ざけるわけないでしょ。……馬鹿」
照れ隠しに悪態をつきながら顔をそらすマリーダへ追い打ちをかける気にもなれず、ニコルは黙って彼女のとなりを歩き続ける。
長い通路にふたりの足音だけが響く。
半分沈黙したかのような状況の中、ニコルは不思議とその空気に心地よさを感じていた。