第332話
「本当に良かったのか?」
「何がですか?」
かつてトリア王の執務室だった場所も今ではその主が代わり、無駄にきらびやかだった内装もおとなしめの物に入れ替えられている。
新たに部屋の主となった教え子に向けてアルディスが主語を抜いて問いかけると、お返しとばかりにミネルヴァは端的に問い返してきた。
「国名のことだ」
「良い名前ではありませんか。『ウィステリア王国』というのも」
「そういう意味で言ってるんじゃないんだが」
困ったアルディスが顔を横に向けてムーアを見る。
「もう決まったことだろう。それよりも決めなきゃならんことが山積みなんだ。いつまでも国名を巡って議論を続ける余裕はないぞ」
ひょうひょうと言ってのけるムーアにアルディスは恨みがましい目を向けた。
前回の会議を終えた後、ウィステリアの一件について説明を求められたアルディスはそれがかつて所属していた傭兵団の名であることをミネルヴァとムーアのふたりだけに明かした。
しかしどうもそれがミネルヴァの何かに触れたらしい。
『そういう事情なら好都合ではありませんか。かつての戦友方がもし師匠と同じようにこちらの世界へやって来ているのであれば、きっとウィステリアの名に興味を持つでしょう。師匠と戦友の方々との再会に役立つのならそれを国の名とするのも十分意味のあることです』
そう言って彼女は積極的にその名を推しはじめ、さらにそこへムーアまでもが便乗するようになった。
一応会議を開いて出席者の意見に耳を傾ける形をとってはいるものの、ナグラス王家の継承権を持つミネルヴァと志願兵たちの束ね役でもあり王都脱出時から行動を共にしているムーアの意向が一致すればそれに否と言える者はいない。
新しい国の名称にはナグラス王国はもちろんのことロブレス王国やコーサス王継国などといった候補も挙げられたが、結局最終的にはミネルヴァの主張が通る形でウィステリア王国に落ち着くこととなった。
「これまで再三にわたって命を救っていただいたにもかかわらず、まだ何ひとつお礼もできていません。せめてここでひとつくらい恩返しをさせていただいても良いのではありませんか?」
アルディスとしては恩を売りつけたつもりなど毛頭ないのだが、そうまで言われては強く拒否するのも気が引けた。
実際、ミネルヴァの言うことにも一理ある。
先日遭遇したヴィクトルのように、アルディス同様に向こうの世界からこちらの世界へと飛ばされた、あるいは自分の意志でやって来たかつての戦友たちがいるかもしれないのだ。
闇雲に探し回るよりもウィステリアの名に引き寄せられてくる相手を待つ方が再会の可能性は高いかもしれない。
今になって考えてみれば流れの傭兵として情報を求めて動き回るよりも、こちらの世界でウィステリアを名乗り新しい傭兵団を立ち上げても良かったのだ。
もっともそれもロナに言わせれば「アルが団長? 性格的に無理じゃない?」と鼻で笑われそうだが……。
「そういうこった。女王陛下のご意向には素直に従っておけ」
「女王陛下はやめて欲しいのですけど……」
おちゃらけた口調のムーアへミネルヴァが困惑気味に返す。
「そうは言ってもいつまでもお嬢様呼びってわけにはいかんでしょう? この場だけならまだしも、『公式の場では体裁を考えてください』ってカイルにもうるさく言われてますし」
「対外的な体裁は整えなければなりませんが、私たちだけの場では今まで通りで良いのではありませんか、グレイスタ将軍?」
「うわぁ、そう来ますか」
意趣返しで将軍と呼ばれたムーアがうんざりといった風に表情を崩す。
国としての体制を整える必要に迫られる中で、小さいながらも軍権を一手に握るムーアは当然ながら将軍職へと据えられることとなった。
本人は「もっと気軽な役職がいい」と主張するが、周りがそれを許すはずもない。
「もしかして、俺もグレイスタ閣下と呼んだ方がいいのか?」
「ほう、お前もそういう冗談言うんだな。なんならもうひとつ将軍職の席を用意してもいいんだぞ、アルディス卿?」
ミネルヴァに乗じてムーアをからかったアルディスは手痛い反撃を食らってしまう。
「やめてくれ、それ。俺は貴族じゃないぞ」
「そうは言うけどな。このままウィステリア王国が成立すれば、どう考えても建国の功臣だぞ、お前。グロクの町が大きくなったのもこのトリアを落としたのもアルディスの力あってのことだからな。ナグラス王国の前例に照らし合わせれば伯爵か侯爵への叙爵が妥当なところだろう」
ムーアの言葉も決して口からでまかせというわけではない。
どこの世界でも建国の功臣というのは厚く遇される。叙爵というのはその顕著な例だ。
眉間にしわをよせると、アルディスがムーアの言う未来に無言で不服を申し立てる。
アルディスは貴族になること自体が嫌なのではない。
確かに貴族としての特権や権威は使いようによっては大きな武器になるだろう。
しかし貴族としての権利には当然ながら貴族としての義務がついてくる。
それはきっとアルディスが目的を果たすための足枷になってしまうに違いない。
「グレイスタ隊長、それくらいで許してあげてください。師匠が困っています」
ミネルヴァの助け船に救われたのはどちらだったのだろうか。
「……まあそうですな。確かに今はどうやってこの状況を生き残るか考える方が大事ですね。なんせ周りは敵だらけですから」
ムーアが話を切り替える。
「北のアルバーンに南の帝国。あとは君主国の占領地がグロクから見れば近いな。味方になりそうなのは……都市国家連合くらいか?」
アルディスの問いかけにミネルヴァが答える。
「はい。さすがに大陸の西端に位置する聖教国とは距離がありすぎて人の交流もほとんどありませんので」
「せめて都市国家連合とは手を結びたいところなんだが……。あちらさんもいよいよ追い詰められつつあるみたいでな」
ムーアの言う通り、君主国と帝国の軍に攻められている都市国家連合は西方に位置する最大の都市国家カルヴスのほか二、三の都市国家が生き残っているだけで、そのほとんどが君主国の支配下に置かれているという状況だ。
両軍の戦力には大きく開きがあり、このままではカルヴス陥落も時間の問題と思われた。
今さら手を組んだところでどうするのか、という意見も当然ながら出ている。
その一方で他にウィステリア王国が手を結ぶ相手がいない以上、たとえ頼りない相手であっても貴重な同盟国となりうるのは現時点で都市国家連合だけだ。
「都市国家連合の存在は我々が生き延びるために必要です。黙っていてもロブレス同盟はいずれこちらへ攻めてくるでしょうし、都市国家連合にはできる限り耐えてもらわねばなりません」
カルヴスが陥落した後、帝国と君主国の矛先が向くのはさらに西方の聖教国かアルディスたちのいるウィステリア王国のどちらかである。
指をくわえて都市国家連合が滅ぶ様を見ていては状況のさらなる悪化を招くだけだろう。
それはアルディスにもわかる。
「ですから我がウィステリア王国は建国を宣言すると同時に都市国家連合――厳密には都市国家カルヴスと手を結び、共同してロブレス同盟にあたりたいと思います」
「方針については承知したが……」
ミネルヴァの言葉に一定の理解を示しつつも、アルディスは浮かぶ疑問を口にする。
「カルヴスは陥落間近なんだろう? 悠長に使節を行き来させて同盟締結、というわけにはいかないんじゃないか? そもそもグロクからカルヴスまでの道のりは敵の占領下だろう」
「事情が事情ですから形式張ったことは極力排除して合理的にいくつもりです。送り込むのは少数の人員だけにとどめ、その人選も使節であると同時に対ロブレス同盟の援軍となりうる人材だけに絞ります」
少数精鋭の戦力という時点で自分の力が求められていることは理解できるが、同時に外交官のような交渉能力を求められるというのはいくらアルディスでも無理というものだ。
「…………俺に同盟締結の使者は無理だぞ」
ハッキリと言い切ったアルディスにミネルヴァが説明を続ける。
「それについては私自身が参りますのでご心配無用です。師匠には援軍の方だけ担当していただければ――」
「ミネルヴァがカルヴスに行くのか!?」
教え子の無鉄砲な考えにアルディスが途中で言葉を差し挟む。
「悠長に使節を行き来させられる状況ではない、ですよね? 血筋だけのお飾りとはいえ、対外的には一応国家元首の私が赴くのが一番話は早いでしょう。もちろん実際に話を詰める文官たちも数名連れて行くつもりですが」
ミネルヴァに続いてムーアが説明を補足する。
「幸いマリーダんところで護衛をしていたニコルという男が向こうで根回しをしてくれているらしくてな、カルヴスの外交部までは話が通っているらしい。あちらとしても今は少しでも味方が欲しいんだろう。この話に前向きらしい」
「ニコルが?」
「何者なんだろうな、あの男? カルヴスの中枢まで話を持っていけるなんて。よほどの力を持った商家の一族か……、案外貴族の三男とかだったりするのかもな」
いくら亡国の危機とはいえ、まだ体裁も整っていないぽっと出の新興国と同盟を結ぼうなどという話が前向きに進んでいるというのだ。
カルヴスにおいて相当な発言力がなければ到底無理な話だろう。
アルディスは深い緑色の髪と瞳を持つ護衛剣士の姿を思い浮かべる。
ムーアに負けず劣らずつかみどころのない感じの男だったが、ただの傭兵にしてはその見識も確かなものだった。
剣筋の方もアルディスのような実戦から身につけたものというよりは、しっかりとした指導者について習得したもののように見えた。
ニコルがどういった出自の人間かは知らないが、この際それがアルディスたちにとって益のあるものならばどうでも構わない。
もっとも、マリーダにとってはそういうわけにもいかない理由があるだろうが。
アルディスはわざとらしく大きなため息を吐くと、反対することを諦めて建設的な方へと思考を切り替える。
「わかった。俺の役目はミネルヴァの護衛とカルヴスに攻め寄せる敵の撃破ってことでいいか?」
「撃破しろとまでは言わんよ。ただ、帝国や君主国の軍がしばらく動けなくなる、あるいは動きたくなくなるような打撃を与えてくれると助かる。まあ、普通に考えれば馬鹿げた要求だと笑われるような話だが……アルディスならできるだろう?」
「……相手に俺みたいなのがいなければな」
「冗談よせよ。お前みたいなのがふたりも三人もいるわけないだろう」
苦笑するムーアとは対照的に浮かない表情を見せるアルディス。
その脳裏に先日遭遇したヴィクトルの姿が映り込む。
ヴィクトル同様、こちらの世界に他の仲間が来ている可能性はゼロではない。
そして彼らがアルディスと敵対する陣営にいないという可能性も同じく皆無ではないのだから。
「目立つわけにはいかないし、すまんが連れて行く人数はできるだけ少なくしてくれ。人選は任せる。とはいえアルディスひとりいれば護衛も援軍も事足りる気はするけどな」
「……交渉役の文官は何人連れて行くんだ?」
人数次第ではアルディス、ロナ、ネーレの三人で空を飛んで運ぶこともできる。
街道を進まないのであればそれだけ敵に遭遇する危険は減るし、ましてや空を飛んで移動するならば昼はどこかに身を潜めて夜の間に移動するという手段もとれるだろう。
「私を除いて四人です」
アルディスの問いにミネルヴァが答えた。
ミネルヴァを入れて五人か……、とアルディスは悩ましげな表情を浮かべる。
アルディスたちだけで抱えるには少し人数が多い。
子供や女性、あるいは小柄な体格の男性ならばともかく、平均的な成人男性であれば抱えて飛べるのはひとりまでだろう。
「全員騎乗できる者を選んでいます」
続けられたミネルヴァの言葉にアルディスは再度問いかける。
「騎乗? 馬車で移動するわけじゃないのか?」
「はい。いざという時は強行突破できるよう、各自騎乗して移動する予定です。ですから同行者の選定も極力騎乗技能を持った者でお願いします」
そういうことならとアルディスは頭の中で道中の算段をつける。
全員が騎乗できるなら、使節団の一行というよりはむしろ隠密作戦に従事する騎馬隊とでも考えた方が良いだろう。
敵の占領下にある町や街道を避け、可能な限りひとけの少ない場所を進めば不幸な邂逅も防げる。
獣や魔物との遭遇については実戦経験のある人員を選びさえすれば問題ないし、道中の食料については門扉持ちのアルディスにとって最初から問題にすらならない。
「わかった。明日までに人選をすませよう」
言いながらアルディスは幾人かの候補を思い浮かべ、誰を残して誰を連れて行くか検討しはじめた。