第316話
ウィステリア傭兵団に戻ってから数日後の夜。
アルディスは天幕を出て小高い丘の上に腰を下ろし、黒天に穴を穿つ月を見上げていた。
傍らには寄り添うようにロナが黄金色の身体を横たえる。
夜番というわけではない。
ただぼんやりと物思いにふけるアルディスの意識を現実に引き戻したのは背後から近付いてくるひとりの人物だった。
「やっと戻ってきやがったか」
声の主に敵意はない。
ずかずかとアルディスに近付くと、しゃがみ込んで乱暴に肩に手を回してくる。
「サークか」
「おう。俺がエリオンに見えるってんなら、しばらく見ないうちに視力が残念なことになったんだろうな」
「サークとエリオンの違いがわからないほどボケちゃいない」
「そりゃそうだろうよ、っと」
そのまま腰を地に下ろしてサークがあぐらをかく。
「偵察任務だったって?」
「ああ、ちょいとな。俺はエリオンみたいにお上品な交渉とか嫌だからよ。そんじゃあってことで偵察とか伝令とか単独で動くことが最近多いんだよ。今回もちょっとばかし遠方までひとりで行ってたんだが、しばらく出かけてた間にまさかアルディスが戻ってきてるとは思わなかったよ。連絡ひとつよこさないもんだからてっきりどこかで野垂れ死んでるかと思ったけど、まあ無事にこうして戻ってきたんだから良しとしようか」
ひとりで立て板に水の如くしゃべっていたサークがふと口を閉じる。
「…………ルーのこと、エリオンから聞いた」
しばしの沈黙を挟んで発せられたサークの声は小さい。
「そう、か……」
「ルーはもう見送ったのか?」
サークの問いかけにアルディスが頷く。
「リクシアの近くにある丘へ埋葬した」
「あそこか……。そうだな。あの丘ならルーもゆっくり眠れるだろ。あいつ、朝焼けの綺麗な場所が好きだったからな」
「ああ……」
しばしの沈黙。
「あー、その……アルディス……」
沈黙に耐えかねたかのようなサークが何かを言いたそうに口を開く。
だがハッキリと何かを言うわけでもなく、その度に視線をさまよわせて情けない表情を浮かべるばかり。
「なんだ?」
「あ、いや……うん」
アルディスが訊ねてもハッキリとしない。
そのとき、大人しく横たわっていたロナがピクリと耳を動かして背後へ首を向ける。
同時にアルディスとサークも近付いてくる人の気配を察知して振り向いた。
「……どうした、キョウ?」
そこにいたのはウィステリア傭兵団最年少の正式団員である少年だった。
「あ、れ……?」
呼びかけられた少年はまるで今気が付いたとばかりに目を瞬かせる。
「今日は夜番じゃないだろう」
「え……、あ、うん」
数瞬遅れてようやく反応するその様に、アルディスは苦笑しながら問いかけた。
「寝ぼけてるのか?」
「いや、そういうわけじゃ……。あれ? なんでだろ……?」
自分自身も理解できていないといった様子で困惑を見せるキョウ。
「明日は訓練日だろ? 寝とかないとキツいぞ」
「そ、そうだよね。うん、じゃあ僕もう寝るね」
サークからも忠告めいた言葉を受けて素直に方向転換をするとキョウは天幕の方へと歩いて行った。
その後ろ姿を見つめながら、アルディスは胸の中に重く沈み込むものを感じる。
本人が望み、団長であるグレイスが認めた一人前の傭兵といってもまだまだ子供だ。
本来ならまだまだ守られて当然の歳なのだ。
大人でも心を病むことがある傭兵の世界で精神的なダメージをまったく感じずにいられるとは思えなかった。
「……俺が巻き込んだようなものか」
「本人が選んだ道だ。そういう考えはキョウの意志を軽く見るのと同じだぞ」
ボソリとつぶやいたアルディスの言葉にサークが反論する。
確かにそうだろう。
かつてのアルディスも自分自身の意志でこの傭兵団に入ることを決めた。
『次の仕事があるから今すぐにという訳にはいかんが、どこかの町へ寄るついでに送ってやるくらいなら考えてやってもいい』
そう言ってアルディスたちに選択肢を与えてくれたグレイスがレイナやキョウに無理強いをしたとは到底思えなかった。
「まあ、子供を戦力に数えるなんてのは……。救いようのない話だって俺も思うが――」
そう自嘲したサークが表情を改める。
「なりふり構っちゃいられないんだからよ」
その意味するところはアルディスも理解していた。
「作戦の話は聞いてるんだろ?」
「ああ。だから俺が今ここにいる」
今アルディスがウィステリア傭兵団にいるのはその作戦に加わるためだ。
それ以外の理由はない。
「あの女に報いを受けさせる。それだけを目的に俺たちはずっと戦ってきた。ウィステリア傭兵団はもう今となっては普通の傭兵団じゃない。ただの復讐者集団と一緒さ。それがおかしいってことくらい俺だって、団長だって、全員わかってる。だけどあの女を叩きつぶした後じゃなきゃ俺たちは前に進めないんだ」
淡々と、だがくすぶり続ける憎悪の炎を感じさせながらサークが口にする言葉はアルディスの中に刻み込まれた誓いと何ら変わりない。
「今回またあの女に報いを受けさせなきゃならない理由ができた。だから自分たちの選んだ道が正しかったか間違ったかなんてのは、あの女をつぶした後に考える。そうだろ、アルディス」
「否定する余地がまったくないな」
今さら言葉にして確認するまでもない。
拳を握った互いの手首を軽く打ちつける。
目的を同じくする者にとってはそれだけで十分だった。
瞬く星空の下で沈み込んでいく闇の色が、やがて幾つものかがり火によって薄墨色へと変わる一点。
あまりにも頼りないその光源が暗闇の中へ巨大な建造物を浮かび上がらせる。
「準備は万端。状況はまずまず。上手く行き過ぎなくらいだな」
決して大きくもないグレイスの声が妙に響いて聞こえるのはそれだけ周囲が静寂に包まれているからだった。
神妙に頷く者、ニヤリと笑みを浮かべる者、粛として瞑目する者。
各々の反応を見せながらウィステリア傭兵団の面々はグレイスからの指示を待つ。
アルディスが傭兵団に帰還してから二ヶ月。
ただひたすらに、そしてこの日のために彼らは手はずを整えてきたのだ。
彼らが視線を向ける先にあるのは怨敵とも言える女将軍ジェリアの居城。
長い準備期間を経て、ようやくアルディスたちはジェリアの首へ手がかかるところまでたどり着いた。
「この人数で万端というのは同意しかねるが……」
アルディスのつぶやきにグレイスが苦笑いで反論する。
「まあそう言うなよ。いくら傭兵団の人数が元通りにまで増えたといっても新米や見習いどもを連れてくるわけにはいかんだろ」
グレイスを筆頭に、レクシィやジョアンなど五年前の苦渋を味わった古株たちはその全員がこの場にいる。
一方でそれ以降に入団した新しい団員たちの姿はここにない。
今回の作戦、参加するのは古くからの仲間たちと志願者のみである。
「仇討ちのために戦うのは俺たちだけで十分なんだよ。新顔どもに取っちゃあ、復讐も仇討ちも関係ない」
かねてからの作戦通り、ウィステリア傭兵団は人員を三つに分けている。
ひとつはもちろん女将軍ジェリアを誅伐するための部隊。
グレイスはもちろんのこと、ヴィクトルやサーク、エリオンなど団の主力である傭兵たち、さらにはルーシェルの仇を取りたいとレイナとキョウのふたりがこの部隊に入っていた。当然アルディスとロナもである。
もうひとつの部隊は反乱を起こす領主に協力するため、すでに領主軍と合流済み。
最後の部隊はローデリア王都からの本隊を足止めする部隊だ。
誅伐部隊が最も大きく、その次に反乱参加の部隊、最小の足止め部隊は実質的に嫌がらせを行うための存在であり数は二十名にも満たない。
「この時間になってもローデリアの本隊がやってこないということは、足止めが成功していると見て良さそうですね」
「ああ、反乱鎮圧の部隊が出て行ってからどれくらい経つ?」
ヴィクトルの言葉に同意した後、グレイスは攻撃のタイミングを計るために訊ねた。
「二時間――といったところでしょうか。良い頃合いだと思います」
ウィステリア傭兵団の策は見事にはまり、想定通り女将軍ジェリアの居城から鎮圧を目的として部隊が出撃していた。
すぐに本隊が合流する予定だったため敵は問題なしと判断したのだろうが、味方の足止めによりその到着は予定よりも大きく遅れている。
今この瞬間に限れば城を守る兵の数はごくわずか。
しかもおそらく精鋭は鎮圧部隊へと回されているであろうことを考えれば、非常に手薄な状態であると言えた。
対するこちらは精鋭の傭兵ばかりが百を超えている。
数的に圧倒的な優勢とはいえないが、それでもこれだけの状況を作り出すことが今後できるかどうかはわからない。
五年近い時間をかけてグレイスやヴィクトルが策を張り巡らせてきた結果が今なのだ。
「いいかお前ら。狙うは敵の大将、あの女の首ひとつだ。敵は少ないだろうが、自動迎撃魔術が付与された防衛用の仕掛けは当然あるだろう」
神妙な顔のグレイスが周囲を見回しながら言葉を続ける。
「だが全部無視しろ。奇襲で敵が混乱している間が勝負だ。相手が冷静に状況を把握する前に仕留めろ。だが状況がどうあれ突入から三十分が経ったら各自撤収に移れ。それ以上留まるのは危険が増すだけだ」
仲間たちがそれぞれ頷いてそれに応える。
「いいな、無駄に死ぬなよ」
勝ったからといって何かを得られるわけでもない。
誰かが報酬を用意しているわけでもない。
ただ仲間の無念を晴らすだけという、傭兵に似つかわしくない理由で進んで死地へ赴こうとする人間が口にするセリフではなった。
しかしそれを耳にしている人間はそれを承知でこの場に立っているのだ。
矛盾したグレイスの言動を指摘しようという者はひとりもいないだろう。
「わかってるっての。俺たち傭兵は生き残ってなんぼ、っていうんだろ?」
「そういうグレイスこそあっけなく死んだりするなよ」
ジョアンとダーワット、長年グレイスと歩んできた古株たちが軽口を叩く。
「さあて、じゃあ行くか」
号令をかけようとしたグレイスにレクシィが横から問いかける。
「団長、いつものあれはやらないの?」
「……これから奇襲しようってのにあれはないだろ」
一瞬言葉を失った後、呆れ顔を見せるグレイス。
「小声でいいからやらねえか?」
「ひそひそ声でやって意味あるのかよ?」
「まあそう言うなよ。なんつうか、今となっちゃあれがないと戦いって感じがしねえんだよな」
「いいんじゃないですか? 五年の月日を費やして調えた仇討ちの舞台。私たちにとっては他のどの戦いよりも意味のある一戦なんですし」
数人が言いたいことを言う中、とうとうヴィクトルまでもが賛同したためグレイスはため息をつきながら折れる。
「しゃあねえな。お前ら絶対大声出すなよ。ここで奇襲がバレたら笑い話にもならねえ」
周囲の視線に促され、仕方ないといった表情でグレイスが剣を抜いて頭上に掲げる。
その周りを傭兵たちが囲み、全員が武器を抜いて同じように天へと向けた。
小さな月に切っ先を向けるとグレイスの口から朗々と言葉が紡ぎ出される。
「我らの剣は勝利のために」
「勝利のために」
半数の傭兵は口を噤み、残りの半数はグレイスに続く。
何度口にしたかわからないその言葉を発しながら、やはり自分はウィステリア傭兵団の一員なのだとアルディスは実感する。
「我らの心は仲間のために」
「仲間のために」
今度は全員が口を開いて唱和する。
散っていった仲間のための戦い。
踏みにじられたルーシェルのための戦い。
それを今改めて心に刻み込んで。
「いざゆかん、栄光を我らが旗のもとに」
「我らが旗のもとに」
普段であれば戦意高揚のため声の限りに張り上げる鬨の声。
しかし今は静かに、さざめくように。
剣を掲げ持った傭兵たちが口にするそれは、まるで月下で詩を詠むが如く静寂に乗って流れる。
とてもこれから殺し合いをしようという集団には見えなかった。
だがそれは錯覚でしかない。
「ここで終わらせる」
アルディスが思わず口にした小さなつぶやきが、刻を再び動かしはじめる。
グレイスが腕の向きを水平にして剣先で城を指し示す。
「突入」
その声と同時に百人以上の傭兵たちが無言のまま城に向かって駆け出した。