第313話
同じ頃、ローデリア王国の将軍ジェリアは辺境部にある自らの居城で部下たちからの報告を面倒くさそうに聞いていた。
「――ということで広域精神汚染技術の確立にはあと一歩というところです。しばらくはまだ試行錯誤が必要になるでしょう」
五十代半ばにさしかかったと見える研究者が手元の書類から顔を上げて締めくくった。
それを受けて、長机の左右に並んで座る他の部下たちがジェリアの代わりに話を進めていく。
「とはいえ実用化の目処は立っているということだな?」
「意外に早かったですな。数年はかかると思っていたのですが」
「なにせ水面の世界では時間の進み方が違いますから。この研究も着手からこちらでは四ヶ月ほどしか経っていませんが、向こうでは百年以上の月日が流れておりますので」
「なるほど、それもそうか」
「今はとある帝国の皇城を丸ごと実験対象区域に指定して経過を観察しているところです。大半の人間にはほとんど効果が確認できていませんが、一部大きく影響を受ける被検体もおりまして、なかなか面白い結果が得られております」
研究者がそう口にしたところで、それまで一向に興味を示す様子のなかったジェリアが口を開いた。
「ああ、あれは面白かったわね」
「ジェリア様?」
部下のひとりがどういうことかと表情で疑問をあらわにすると、研究者の男がジェリアの代わりに答える。
「実は閣下にも実験にご協力いただいたことがありまして……」
「お前はジェリア様に何をさせておるのだ……」
「いいのよ、結構楽しかったし」
呆れた様子の部下だったが、当のジェリアは気にするなと笑みを浮かべた。
「なんの実験だったのですか?」
ジェリアへの問いかけにまたも研究者が代わって答える。
「精神汚染されて自我が曖昧になった人物への精神同調実験です。被検体の深層意識に閣下の思考を流し込んでその行動にどう影響がでるか――ああ、もちろん閣下の方にはまったく危険がないことを事前に確認済みです。……被検体の方は知りませんがね」
「そういえばあの時の皇女、あれからどうなったの?」
「精神同調でかなり言動が閣下に近付いておりましたな。ただ脳への負荷が大きかったのか、あれから十年もたず――ああ、こちらの時間で言うと十日足らずですな。すぐに衰弱死してしまいました」
もったいない、もっとじっくり観察してみたかったと研究者の男は落胆を見せたあと、気を取り直して説明を続ける。
「もちろん被検体が死んでも広域精神汚染技術の検証にはなんの支障もありません。あくまでも実験対象は術を施した区域そのものですから。死んだ被検体の汚染は場に引き継がれますので、時間が経てば経つほど精神汚染される被検体の数も増えていくはずです」
「ふふふ……。楽しみねえ。次はいつになりそう?」
言葉通り楽しそうな表情でジェリアが訊ねた。
「時間と事象発生の関係性それ自体が研究対象にもなりますが、そうですね……こちらの時間では半年から一年程度でなんらかの成果が得られるのではないかと」
「あら、そんなにかかるの?」
「こちらから強く干渉すればもっと短縮できるでしょう。いかがですか、また水面の世界へ出向かれてみては? せっかく『女神』と崇められているのですから」
すでに水面の世界とこちらの世界を行き来する方法は確立されている。
大量の人間を行き来させるのは無理でも、少数の人間だけなら技術的に何の問題もない。
強い興味を持っていたジェリアも何度か水面の世界へ赴き、思うがままにその力をふるったことであちらでは神様扱いされていたが、とある理由から今はすっかり足が遠のいている。
「嫌よ。貴方みたいにすぐ歳を取っちゃうもの。まだおばあちゃんにはなりたくないわ。あんなにフサフサだった貴方の髪の毛、たったの二十日でツルツルになってるじゃない」
「それはまあ……二十年も経てばそうなります」
ジェリアが研究者の頭髪についてからかうと、当の本人はガクリと肩を落としてそうつぶやいた。
どうやら本人にとってはかなり痛い言葉だったらしい。
研究の都合上、男はしばしば水面の世界へ赴いている。
その分彼自身に流れる時間は通常の数百倍という密度になっていた。
研究の担当者になった時、まだ三十代だった彼の見た目はすでに五十代後半にしか見えない。
「私たちにとってはたったの二十日よ」
ジェリアが水面の世界へ行きたがらないのもこれが原因だった。
彼女にしてみれば水面の世界へ関わるということは老いを早めるということと同義である。
部下が勝手に年老いて死んでいくのは構わないが、自分が歳を取るのはどうにも我慢ができないのだろう。
水面の世界と行き来することが多いこの研究はすぐに代替わりしてしまうため、研究期間は四ヶ月にもかかわらず現在の担当者は早くも六代目であった。
いかにふたつの世界で流れる時間の速さが異なるか、よくわかる事例であろう。
「はい、じゃあ次」
この話はここまでとでも言うようにジェリアが次を促すと、末席に座る白衣の男が声を上げる。
「先日新たに成功した召喚により、今期の予定数は確保できております。今期は複数名を同時に召喚できたケースが多いため、蓄積魔力にはまだ多少余裕があります。なんでしたら追加の召喚も可能ですがいかがいたしましょうか?」
「今期は全部で何人?」
「七十三名です」
端的なジェリアの問いかけに白衣の男が答えると、彼女は首の向きを変えて別の部下へと問いかける。
「少ないかしら?」
「我々としては素体をもう五体ほどいただければありがたいです」
部下の回答を受けて、ジェリアは白衣の男へ指示を出した。
「じゃあ追加で二、三回召喚してみて。いつも通り子供は素体として研究部門へ、大人の方は使えそうな知識を持っている従順な者だけ登用すればいいわ」
「残りは処分でかまいませんか?」
「そうね――」
部下からの確認に同意しかけたジェリアは良いことを思いついたと言わんばかりに笑みを浮かべる。
「いえ、ちょうどいいわ。せっかくだから今月入隊した新兵たちの度胸付けに使いましょ」
「はっ」
それだけの言葉で白衣の男にはジェリアの意図が伝わる。
きっと大勢の新兵たちが貴重な体験を積むことだろう。
「他に何かあるかしら?」
机の上で頬杖を付きながらそう問いかけたジェリアへ、いかにも武人といった風貌の部下が口を開く。
「閣下。ご報告が」
「なあに?」
「南部国境のマクロゴール砦に侵入者がありました」
その報告にジェリアは首を傾げる。
「侵入者?」
「はい。被害は地下通路入口の警備を行っていた兵士三名のみですが、地下牢につないでおいた処理具が殺害され燃やされているのを砦の者が発見いたしました。おそらく救出のため潜入したものの、閣下直々に強化した鎖を断つことができず殺害という選択に至ったものと推測します」
「マクロゴール砦の処理具……、何色だったかしら?」
「黒髪です、閣下」
視線をあさっての方向にやっていたジェリアは部下の返答に思い出したような仕種を見せた。
「……ああ、あのまぬけなダルマね」
「まぬけ……とは?」
思わずといった感じで問いかけてきた別の部下に、ジェリアは失笑と共に言い放つ。
「だってそうじゃない。ペットを救い出すとかなんとか言って施設に侵入しておいて、そのペットの暴走に巻き込まれたあげく捕らえられるなんて、まぬけと言わずになんと言うの?」
「ああ、そういえばそんなのがおりましたなあ」
それを聞いて思い出したのだろう。
幾人かの部下が納得した表情を見せる。
「研究施設の方からどうしたらいいか伺いが来てたから直接会ってみたんだけど……、ぎゃあぎゃあとうるさかったから四肢を切り落としてマクロゴール砦に送ったのよ。手足がなくても十分役には立つでしょ?」
悪意のこもった笑みをたたえながら、ジェリアはあえて問いかけるような言葉を最後に持ってくる。
いやらしげな笑い声が室内に響いた後、報告者がその後の対応を続けて口にした。
「それで増援要請が来ておりましたので、魔力探査のできる小隊をひとつ送っておきました」
別の席に座る部下のひとりが眉をひそめながらその対応に疑問を呈す。
「その増援、必要か?」
「なにぶんあの砦には魔力探査のできる者が少なく、そのままでは捜索も難航するかと……」
「だからといって増援を送るほどでもあるまい。侵入というくらいだからどうせ少数だろうに」
「確かに情報屋からも砦に向かったのはおそらく男ひとりだけだと情報提供がありましたが……呼び戻しますか?」
複数の同僚から非難を浴びて報告者の男は不安そうな表情で問いかける。
「まあ送ったものは仕方ない。呼び戻すのも手間だろう。だがこれ以上追加の派遣は不要だ。それでよろしいでしょうか、閣下」
同席者の中でジェリアに次ぐ地位にある男が唯一の上官である彼女へと伺いを立てる。
「んー? ……いいんじゃない?」
だが当のジェリアは話の内容に興味を失ってしまったのか、自分の爪をいじりながら気のない返事をするだけだった。
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