第311話
何百回、何千回と経験したはずの感触が今だけは妙にアルディスの心を揺り動かす。
震える手が剣を取り落とした。
乾いた音が牢に響く中、ルーシェルの首が揺れる。
傾いた頭部が胴体から離れ、ゆっくりと落ちていく途中でアルディスは身体ごと使って抱き止めた。
「うぅ……、ルー……」
だが今は心の痛みを受け止めることさえ許されない。
今のアルディスがすべきことは慟哭でも滂沱でもなく、ルーシェルを連れ帰ることだけだ。
アルディスはルーシェルの頭部を宝物のように抱え込むと、鎖につながれたままの身体へ魔術で炎を放つ。
たとえひとかけらでもルーシェルの身体をここに残しておきたくなかった。
強い炎に包まれたルーシェルの胴体はまたたく間にその色を濃くしていく。
「行こう、アル」
ロナの声に無言で頷くと、アルディスは片手でルーシェルを抱いたまま剣を拾う。
魔力探査をすれば敵の反応は先ほどよりもかなり近付いていた。
だがまだ捕捉されるほどの距離ではない。
「やっぱり反対方向だよね」
「……ああ」
アルディスには牢の並ぶこの地下通路の先にもうひとつの出入口があるという確信めいたものがあった。
結局この場所にはルーシェル以外に囚われた人間はひとりも見当たらない。
そして当のルーシェルは脱出どころか自我があるかどうかすら怪しい状態である。
にも関わらず砦の中にあった地下への入口に警備の人員が割かれていた。
あれはきっと虜囚の脱出や救出を防ぐためというよりも、地下通路からの侵入者にそなえるという意味合いがあったのではないだろうか。
ならば地下通路のもう一方がどこかへつながっている可能性は高いはずだ。
アルディスとロナが砦から離れる方向へ走っていると、それを追いかけるように砦の方から魔力反応が近付いてくる。
やがて遠くから途切れ途切れの怒声がわずかに響きながらアルディスのもとへと届いてきた。
「――い! やっ――侵入――だ!」
「――追え! 絶――逃が――!」
どうやらアルディスたちの存在に気が付いたようだった。
しかし互いの距離はすでに相当離れている。
今さら全力で逃げるアルディスたちに追いつけるわけもないだろう。
「アル、前方に魔力反応があるよ!」
「三人……だけど大した強さじゃない。突っ切る!」
「あいよ!」
アルディスの推測通り、この通路の終点は行き止まりではなかった。
新兵というほど弱くはないが、かといって手練れと呼ぶほどではない魔力反応が三人分、同じ場所に留まっている。
おそらく地下通路の出口を警備する兵士たちだろう。
強化された身体能力にものを言わせて加速すると、相手がこちらへ気付く前に距離を詰めた。
外の光が見える。
どうやらこちら側の出入口は自然の洞窟に似せた造りで偽装されているようだった。
歪な形に開いた出口の内側に三人の武装した男が立っている。
「ん? なんの音――」
近付くアルディスたちの発する音に気付いたひとりが振り向いた。
しかしその瞬間に首が身体から切り離される。
「だ、誰――!」
異変に気付いた残りのふたりも叫び声をあげることさえ許されない。
アルディスの剣が装備の隙間を縫って兵士の脇下から突き刺さり、もう一方の兵士はロナに喉元を食い破られていた。
血だらけで倒れた三人を打ち捨てたまま、アルディスとロナは再び駆ける。
後ろから迫る追っ手の存在に気が付いているからだ。
地下通路を出た先は深い森の中だった。
追っ手を撒くには絶好の環境である。
アルディスは迷いなく木々の合間へ飛び出し、後ろをふり向くことなく駆け抜けた。
「――――追――手分け――――!」
かすかに追っ手の声が届く。
今さら逃げに徹したアルディスたちを捕捉できるわけもない。
だが木々の合間を走り抜けながらも、ふとアルディスは引っかかるものを感じた。
怒鳴り散らしているであろう追っ手の声に、聞き覚えがあるような気がしたからだ。
森の中で追撃をかわしたアルディスたちは、追っ手から十分な距離をとると足を止める。
身の安全を確保するとやがて込み上げてくるのはとめどない感情。
自分の手に残された唯一の最愛をひしと抱きしめながらアルディスは膝を落とす。
「どう……して!」
後悔に後悔を重ね、今また新たな後悔を上塗りして自分でもその痛みをどう処理して良いかわからずに現実を呪う。
「どうしてこんな事に……!」
一度は止まった涙が再びとめどなく流れはじめる。
あらゆることを犠牲にしてただルーシェルを取り戻すことだけにすべてを注いできたこの四年。
彼女さえいればそれだけでとは言わない。
だが彼女がいなければ自分の生にどれだけの意味があるのか。
アルディスにとってルーシェルとはそういう存在だった。
それをよりによって自らの手で断ち切ってしまったのだ。
言葉にならない慟哭をまといつづけるアルディスに寄り添うのは長年一緒にいた黄金色の獣である。
「アル。ルーを綺麗にしてあげなよ。そのままじゃかわいそうだよ」
「………………ああ」
こぼれる涙で頬を濡らしたままアルディスは魔術で水を作り出し、自らの手を使ってルーシェルから丁寧に汚れを拭っていく。
かつてみずみずしく輝きを放っていた肌は青黒く変色し、風になびく度アルディスの目を引き寄せていた黒髪はボロボロになっている。
「うぅっ……」
ときおり嗚咽をもらしながらルーシェルを綺麗にしたアルディスはその長い髪を手に取る。
髪を束ねているのは二本のリボン。
かつてスミレ色だったそれらの一方はルーシェル自身が作った不格好なもの。
そしてもう一方はアルディスが贈ったものだった。
すべてを奪われたルーシェルに残されたのはたったそれだけ――。
アルディスは二本のリボンをほどくと、代わりに自分の身につけていたヘッドバンドを外してルーシェルの髪を束ねるのに使った。
綺麗に整ったルーシェルを氷結晶の中に閉じこめ、その時間を止めたところで夜を迎えた。
翌朝、開口一番にロナが問いかける。
「それで、これからどうするの? もちろんこのまま引き下がるわけないよね?」
「当たり前だ」
悲しみの去った後に残ったのは業火の如く燃え上がる怒り。
今のアルディスはきっと鬼にも悪魔にもなれるだろう。
「ボクね、昨日からずっと引っかかってることがあるんだ」
そんなアルディスにロナが思案顔で告げる。
「昨日ボクらを追ってきた人間の中に、聞き覚えのある声が混じってた気がするんだよね……」
「お前もか?」
「も、ってことはアルもそう思ったんだよね?」
「ああ」
ふたりしてそう感じたということはアルディスの気のせいではなかったということだ。
しかもアルディスとロナが共に知っている人物となれば自ずと対象は絞られる。
「だが、どこで……」
「ボク、あの声の心当たりがあるんだけど」
「なんだとっ!」
アルディスがロナへつかみかかろうかという勢いで迫る。
「誰だ? どこのどいつだ!?」
「……マーティって憶えてる?」
「マーティ……?」
アルディスは記憶の中でその名を探る。
確かにどこかで耳にしたことがある名だった。
「ボクがまだアルやルーと出会って間もない頃、傭兵団にちょっとだけいたやつだよ」
「あいつか!」
それを聞いてアルディスもようやく思い出すことができた。
壊滅した傭兵団の生き残りで、一時的にウィステリア傭兵団へ所属しながらも追放された五人組のリーダー格。
いざこざを起こし、ルーを襲おうとして追い出された魔術が使えない傭兵の名だった。
『大人しくしてりゃすぐ終わるっての! まあ三人分だからそれなりに時間はかかるかもしれねえがな!』
追っ手の中に混じっていた声と記憶の中にあるマーティの下劣な声が一致した。
アルディスの顔がさらに歪む。
「砦に強いのが五人いたでしょ? あれ、グレイスが追い出した五人なんじゃないかな?」
そう言われればとアルディスは納得した。
確かにあの五人は強かった。
魔術が使えないにもかかわらず、ウィステリア傭兵団の精鋭と肩をならべられるほどの実力を持っていたのだ。
「あ、の……くそ野郎が!」
アルディスの拳が地面へと叩きつけられる。
魔力による身体強化もされていない拳ではさほどの威力もないが、それでもアルディスの怒りをまともに受けた地面は指二本分ほど沈み込む。
「死んだ方がましだと言わせてやる……!」
「それには同意するけど、さすがに五人全員を同時に相手するのは無理だよ」
あくまでも冷静に彼我の戦力比を口にするロナへ、アルディスは間を置かず宣言する。
「ひとりずつ、じっくりと、地獄に、送ってやる」
「ま、そうなるよね」
その答えを予想していたのか、ロナも牙をむき出しにして獰猛な笑みを見せた。