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千剣の魔術師と呼ばれた剣士  作者: 高光晶
第十九章 服ふもの抗ふもの(まつろうものあらがうもの) ※過去編 閲覧注意
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第310話

【注意!】残酷な描写、性的虐待の描写、ショッキングな表現があります。耐性の無い方は読み飛ばしてください。






 日の差し込まない暗がりの中、アルディスの灯す魔術の光で照らされた牢内に囚われた想い人の姿。


「あ――――」


 だがアルディスの口から喜びの声は聞こえない。


 刻が止まったかのような一瞬の時間。

 眼に映る光景を心が拒絶する。

 しかし理性はそれが紛れもない現実だと逃避させてはくれなかった。


 牢の奥に吊された人のような影。

 それがこの中に唯一存在する命だった。


「ルー……なのか?」


 アルディスがよろめくように一歩を踏み出す。

 二歩、三歩と進むにつれて少しずつ鮮明になっていくその姿に顔が歪んだ。


 一方が牢の壁に埋まった鎖は天井付近から曲線を描きながら人影につながり、その身体へ呪縛のように絡みつく。


 戦場で――いや、荒らされた町で何度も嗅いだことのある匂いが牢の中に充満している。

 抜け殻のようになるまで蹂躙された女たちにまとわりついていた、戦いの後に漂うことの多かった馴染みのある匂いだ。


 人影は身体を隠す衣類を何ひとつまとっていない。

 胸元の膨らみと緩やかな曲線美は虜囚が女性であることを明確に主張し、同時に痛々しい傷と痣の痕が彼女のこれまで受けた苦しみを表していた。


 右肩から首をつたって左肩へとつながる金属の枷と上腹部をぐるりと囲む枷、それぞれを合計六本の鎖が支え、その人物をちょうど立ち上がったほどの高さに浮かせている。

 何ひとつ肌を守るものをまとっていないため、枷に沿って表皮は黒く変色し光を鈍く反射させていた。


 手枷足枷はない。

 いや、枷をつけるための()()()()()()()


 両腕は上腕までしか見当たらず、両足は膝から下が失われている。

 胴体部に直接枷がつけられているのはそもそも四肢がすべて切り落とされているからだ。

 その断面は相当古いらしく、切断されてから経過した時間がひと月やふた月ではないことを示していた。


 よたよたとアルディスが近付いていく。

 近付くにつれその髪色が、その容貌が明らかになり、さらにアルディスへ絶望をもたらしていく。


「…………ルー」


 四年の月日があろうとも、忘れることなど決してありえない。

 小さくツンと尖った鼻先、やや長めのまつげ、からかわれるとすぐに赤くなっていたあの耳、微笑みかけるときに柔らかく弧を描く薄い唇。

 かつてアルディスに向かって微笑みかけていたあの顔が、今目の前にあった。


「ルー……」


 アルディスの視界が涙で揺れる。


 一歩進めた足下で乾いた音がした。

 アルディスの足が踏み砕いたのは小さな人骨。

 その傍らにある頭蓋骨の大きさから赤子の骸であることを理解する。


 頭蓋骨は三つ。

 いずれも生まれたばかりの赤子だったのだろう。

 周囲にまとわりつく淫靡なオスの匂いがここで日常的に行われている蛮行を物語っていた。


 アルディスの顔がさらに歪む。


 ルーシェルに手の届く距離まで近付くと、その黒い瞳に向けて呼びかける。


「ルー?」


 だが答えはなかった。


 そのまぶたは閉じていない。

 瞳の中にアルディスは自分の姿を見つけるが、しかしルーシェルは何も見ていなかった。

 目の前にいるアルディスの存在にも反応することなく、ただ焦点の合っていない視線をどこか遠くへ向けているようにしか見えない。


 ただ目を開いているだけ。

 その瞳が映し出すものは何ひとつとしてなかった。


 アルディスは恐る恐るルーシェルの首元を触る。

 指に温かさと確かな脈動を感じた。


「生きて……る」


 それは決して歓喜の声ではない。


 涙があふれた。

 わずかな嬉しさを悔しさと悲しみが覆い尽くす。


 半開きになったルーシェルの口はすべての歯を失っていた。

 ひび割れた唇からはただ呼気だけが静かに吐き出される。


「なんだよ……これ」


 ロナの怒りが静かにこだまする。


「ひどい、ひどいよこんなの……」


 最初にロナを見つけたのはルーシェルだった。

 傭兵団に連れ帰り、小さなロナが成体になるまで面倒を見ていたのもルーシェルである。


 付き合いの長さだけならアルディスが一番長いが、ロナにとってはルーシェルこそが最も身近にいた人間だったろう。

 だからこそルーシェルの無残な姿にやり場のない憤りを感じるのは当然だった。


「死んでないけど……、生きてもいないじゃないか!」


 死んでいないことは生きているということではない。

 問いかけにも答えず、その瞳には何も映さず。

 心を失い、ただ死んでいないというだけの状態は果たして生きていると言えるのだろうか?


「帰ろう……ルー」


 アルディスはそっとルーシェルを抱きしめる。


 触れた身体は温かい。

 それがアルディスには無性に悲しかった。


 ルーシェルから離れアルディスは剣を抜くと、彼女を拘束する忌々しい鎖に向けて振るう。

 しかし、あっさりと断ち切れるかに見えたその鎖は意外なほどの強度を見せる。

 再びアルディスは先ほどよりも剣速を増した斬撃で鎖を切ろうとするが、またも失敗する。


「そんな……」


 アルディスの顔に焦りが浮かんだ。


「ボクがやるよ」


 横からロナが代わりに進み出た。

 魔術を使った刃を生みだしてぶつけるが、それもアルディスの剣同様に鎖を断ち切ることは叶わなかった。


「ただの鎖じゃないのか……?」


「アル、鎖がダメなら壁を壊そう」


 ふたりは狙いを壁に変更する。

 鎖が切断できずとも、鎖が固定されている壁を崩すことができるのであれば少なくともルーシェルをこの場から連れ出すことはできる。

 鎖や枷を外すのはこの場を抜け出してからでも遅くはない。


 だが――。


「なんだよこの壁は!」


 アルディスが苛立ちと共に繰り出した一撃にも壁は依然としてその姿を保ち続ける。

 かろうじて小さな傷はついたが、どう考えても異常な硬さだ。


「あんまり時間はかけられないよ、アル」


「わかってる!」


 時間をかければ壁は崩せるだろう。

 鎖の方も断ち切る方法が見つかるかもしれない。


 だがアルディスは今敵の砦に侵入しているのだ。

 砦の人間がアルディスの侵入に気付いたら、何かの拍子に魔力探査を試みられたらそこまで。許された時間はそう長くなかった。


「待って、アル」


 再び壁を削ろうと剣を振り上げたアルディスをロナが制止した。


「まずいよ、砦の方の動きがおかしい。気付かれたかも」


「くそっ……」


 ロナの指摘にアルディスが魔力探査を試みる。

 すでに砦の敷地からはかなりの距離があるが、それでも全体ではなく一部分だけならばアルディスにも確認できた。


「こっちに向かってきてる。あの強そうな五人も一緒みたいだ。アル、このままじゃ――」


「だからってどうしろってんだよ! ルーを連れて出なきゃ来た意味がないだろ!」


「でもあの五人相手じゃ分が悪すぎるよ! 他にも敵はいっぱいいるのに!」


「そんなことはわかってる!」


 ひとりふたりを相手するならやりようはあるが、向かってくる強敵五人全員と同時に戦って勝てるとはアルディスも思っていない。

 だが四年もの間探し続けてやっとここまでたどり着いたのだ。

 そう簡単に諦めることなどできるわけもなかった。


「アル、聞いて」


 思考の袋小路へ迷い込みそうになるアルディスへロナが声を低くして静かに語りかける。


「ボクらふたりじゃあの五人を一度に相手するのは無謀だ。たとえ勝てたとしてもすぐに砦から増援がやってくる。でもルーを自由にするための時間はもう残ってない」


 わかりきったことをあえてロナが口にした。

 真剣なまなざしがアルディスにまっすぐ向けられる。


「ボクらは今すぐ選ばなきゃいけない。ルーをこのままにして今すぐ脱出するか――」


「そんなことできるわけないだろう!」


 憤慨したアルディスにロナは言い渡す。


「それとも……ルーを今ここで楽にしてあげるかを」


 アルディスの表情が固まった。

 ロナの言葉を受け止められず、無意識のうちに首が小さく左右に振れる。


「な、にを……ロナ、お前は言って……」


「連れ出すのが無理なら、せめてルーを楽にしてあげるべきだよ」


「ルーを……殺せと? …………お前は俺にルーを殺せと、そう言っているのか!」


 ようやくその意味をかみ砕いたアルディスは瞬時に激昂してロナにつかみかかった。


「ふざけるな!」


「ふざけてなんかないよ!」


 対するロナも負けじと声を張り上げる。


「どうして俺がルーを殺さなきゃいけない!」


「だったらこのままにしておくの!?」


 噛みつくようなロナの問いにアルディスは言葉を失う。


「ボクにだってここでルーがなにをされたのかくらいわかるよ」


 ロナの瞳に浮かぶのはアルディスと同じ憤怒の色。


 ルーシェルはロナにとっても家族同然の存在だったはずだ。

 尊厳を踏みにじられ、心を壊すほどのひどい仕打ちを受けて、光差し込むこともない地下牢で無残な姿のまま吊り下げられている家族の姿に平然としてなどいられないだろう。

 だがルーシェルへの想いが強すぎるアルディスに比べればまだ冷静さを保っていた。


「ルーをここに置いて行くってことは、それをこれからも続けさせるってことだよ? アルはそれでいいの? いいわけないよね?」


 その言葉にアルディスはわずかながらも冷静さを取り戻す。


「何年も、何年もずっと苦しんできたんだよ。今ここで楽にしてあげなきゃ、ルーはこれからも苦しみ続けるだけじゃないか。このままじゃ……可哀想だよ」


 ロナの声も最後は消え入りそうになっていた。


 今回アルディスたちがここまでたどり着けたのは、相手がまったく警戒していなかったからだ。

 しかしこうして知られてしまった以上、今後は間違いなく警備は強化されるだろう。


 場合によってはルーシェルの身柄が別の場所へ移送される可能性もある。

 次のチャンスが得られるかどうかはわからない。


 なによりようやく――四年もの月日を費やしてなんとかここまでたどり着いたのだ。

 ルーシェルを置いてこの場を立ち去ったとして、次も再び彼女のもとへたどり着けるとは限らなかった。


「ルー……」


 アルディスはすがるような思いでルーシェルに呼びかける。


 返事をして欲しい。

 何かひと言でもいい。

 しかしその口からはうめき声ひとつ聞こえてこない。


 自分を見て欲しい。

 ただ一瞬でもいいからその黒い瞳に自分を映して欲しい。

 だがその瞳はもはや何も捉えることなくいずこともしれない虚空に向けられている。


「もう……お前は………………。いないのか……?」


 答えが得られる訳もない問いかけはアルディス自身への問いかけでもあった。


「アル、敵が近づいて来てる。もう時間がないよ!」


 ロナが決断を促す。


 もう二度と彼女のもとへたどり着けなくなるかもしれない。

 いや、もしかしたらルーシェルを癒やす手段がどこかにあるかもしれない。

 だが不意打ちでもないのにあの魔力反応を持つ五人を相手に勝てるとは思えない。

 それでもルーシェルをもう苦しめたくない。

 許せない、彼女をこんな生き地獄に追いやった者の存在を。

 しかしここでアルディスが死ねば誰がルーシェルを救うというのか。




 ――――誰が仇を討つというのか。




 論理的な思考とはほど遠い、感情から飛び出す断片がないまぜとなってアルディスの脳裏を埋め尽くす。

 その断片は互いにぶつかり合い、まとまりもなくちぐはぐなままさらなる混乱をもたらした。


「ぐっ……!」


 うつむきながら拳を握りしめる。

 爪の食い込む痛みがまるで他人事の様に感じられた。


 まぶたを閉じて歯を食いしばる。

 奥歯が負荷に耐えかねて奇妙な音を立てていた。


 頭を抱えてうずくまりたい衝動を必死に抑え、現実から逃避したいという感情を無理やり押し込めた。


 だがそれでも結論を出さなければならない。

 今のアルディスには考える時間すら与えられていなかった。


「アル!」


 ロナが決断を促す。


 アルディスは物言わぬルーシェルの目を見つめた。

 決して交わることのない視線がアルディスの胸をさらに灼く。




 ――――――――。




 ほんのわずかの沈黙。

 同時に際限なくあふれ出る感情の欠片。

 

 アルディスはルーシェルの頬に手を添えて、想い人には届かないであろう言葉を絞り出す。


「ルー…………。一緒に帰ろう……」


 優しくその頬を撫でると、アルディスは小さく三歩後退って剣を両手に持つ。

 両腕ごと上半身を後ろへひねり、半身となったところでピタリと止めた。


 涙で視界がぼやけるのを必死でこらえ、自然と荒くなってしまう息を無理やり整える。


 これ以上ルーシェルを苦しめたくない。

 痛みを感じる間もなく一撃で決める。

 失敗は絶対に許されない。アルディス自身がそれを許せなかった。


 息を止める。


 その瞬間だけ、不思議と涙で揺れる視界が鮮明になった。

 アルディスの振るう剣が横一文字に空を裂き、そのままルーシェルの首へと向かう。

 振るわれた剣が肉を斬り、骨を断ち、そして反対側へと抜けていった。

2021/11/30 誤字修正 繰り出された → 繰り出した

※誤字報告ありがとうございます。


2025/06/07 誤字修正 ルーシュル → ルーシェル

※誤字報告ありがとうございます。

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― 新着の感想 ―
[一言] なんという絶望か。己の想い人を自らの手で殺すしか無いとか・・・ その上であのクソ将軍もダメで・・・。これはくるわ
[一言] ………… これ以上辛い展開がどうか来ないで欲しい……
[一言] な、なんて悲しい話なんだ… ルーがいないことは分かってたけど、まさかアルの手で殺すことになるなんて…
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